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ゆたかすぎる想像力は、社会的人間には不自由か。

「書籍代だけはケチるな」と、両親にそう言われて育った。
図書カードは自由にいくらでも貰えたし、今でも欲しい本があれば言えば買って貰える。本当に、なんて素晴らしい親を持ったのだろうと思う。


おかげで育った想像力は、私の脳のキャパシティーをひどくひどく拡大させた。今やルフィーのお腹のように無限大まで伸びる。

例えば、私は目を瞑ると出会える。

未だすれ違ってもいない、冬なのにトレンチコートを着て凍えながら六本木交差点を歩く男性の鞄の傷みとか、見たこともない、東神奈川の駅ででっかいスーツケースに腰掛けてラインで彼女と喧嘩している若い男のタバコの煙とか。

そういう"誰か”は、私の強すぎる想像力を持ってして"彼ら"になる。そうすると、私は放っておくわけにはいかない。生みの親として、彼らをもっと生かさなくてはいけない。朝食時にはガストの目玉焼き定食をつつかせなくてはいけないし、疲れて立っている満員電車の中では、目の前の座っている人が次の駅で立ち座席が空くことを念じさせなくてはいけない。

つまり、私は書かざるを得ないのである。


これは果たして幸せなことなのか。実は凄く不自由なことであるのではないか。
目の前の現実以外のものが脳の大半を占めて思考力を奪うし、日常の仕事もあるのに「書きたい」衝動と焦りが常に隣に座っている。


ゆたかすぎる想像力は、社会的人間には不自由か。


その答えは今の私には分からない。
けれど、この小娘がいつかれっきとした大人になった日、こんな想像力に心から感謝できるようでありたいと思う。

それは多分、図書カードを無限にくれた親の思いであるし、そして私が私らしく生きる唯一の道であると思う。



想像力。

こんな素敵なプレゼントはない。



一般社会で少し疲弊してきた24歳の私は、堂々とはそんな風には言えない気分になってきているけれど、でも、いつか生まれる私の子供には、同じように潤沢すぎるくらいの想像力を与えたいと願ってもいる。



ああ、久しぶりにきた小樽の街並み。

私には、そこにないはずの沢山のストーリーが見える。

実在しない、でもそこで確かに笑っている、名前をまだ付けてあげられていない人の、時代も季節も決められてあげていない「ある時」が、運河沿いに沢山たくさん転がっている。


なんて楽しいんだろう。


ゆたかな想像力は、紛れも無い幸福だ。

有給を取って落ち着いたこんな日は、そんな風に思えるのに。



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