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何を誇りに思えばいいのか

【 自己紹介 】

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このブログでは、2019年7月にうつ病を発症し、それをきっかけに同年12月からブログを始めて、それ以降、700日以上毎日ブログ更新してきた、しがないサラリーマン弁護士である僕が、日々考えていることを綴っています。

毎日ご覧くださってありがとうございます。本当に励みになっています。

【 今日のトピック:誇り 】

最近よく、「誇り」について書いています。

「ただ、生きていりゃそれでいい」という風に、ここ2年ほどは考えていましたが、どうも、「生きていりゃそれでいい」ということでもなさそうなので、「誇り」が最近のテーマとなっています。

またまた、橘玲さんのブログを読んでいたんですが、そしたら今日は、「マイクロクレジット」について知りました。

マイクロクレジットとは、貧困に苦しむ人たちに、お金を給付するのではなく、貸し付けるということなですが、貸し付け方に特徴があって、5人にまとめて貸すんです。

5人に連帯責任を負わせることで、コミュニティを生み出し、同じ責任を負った者同士が、一生懸命働いて、お金を返すわけです。

お金をあげるのではなく、貸すなんて、貧困ビジネスだ!と思われそうですが、↑のブログにも書いてあるとおり、人は、施しを受けても、尊厳を踏みつぶされるだけなんです。

つまり、返済不要のお金を渡すということは、自分で自分の生活費を稼ぐ意欲を失わせ、生活費を国に依存させて、その結果、受け取った人の誇りを奪うことになります。

まあ、僕は、施しを受けても「尊厳を踏みつぶされた」とか「プライドを傷つけられた」とは思いません。実際に、うつ病で休職していた期間は、まさに、「施し」を受けていましたが、尊厳を踏み潰されたとは思いませんでした。

ただ、それはきっと、無意識のうちに、「まだ働ける」と僕が思っていたからなのかもしれません。

もし、「おれには、自分で働いて生活費を稼ぐことはできない」という考えに直面したら、僕は、プライドをずたずたに切り裂かれてしまうのかもしれません。

そもそも、僕は、これまで「誇り」を抱いたことがあったのだろうか、なんてことも考えました。

誇りを抱いたことがないのかな、とも思いましたが、ちんけなプライドはあったと思います。だって、「悔しい」という思いは何度もしてきたからです。

「悔しい」という感情は、「できるはずなのにできない」に直面して湧いてきます。したがって、「できるはずだ」という思い=プライドが、僕にもあったのは間違いなさそうです。

・勉強ができるはずなのにできない

・仕事ができるはずなのにできない

こんな時に悔しさを感じてきましたが、それは、僕にもプライド(誇り)があったからのようです。

しかし、最近は、こんな悔しさを味わうのも減りました。悔しさが湧き上がる前に、「できない自分」を認めることができるようになったからです。

自分にできないことがあるのは当たり前と思えるようになったので、できない自分に直面するのも当たり前で、そして、できない自分に出会ったら、そこから秒速で改善するようにしています。

だから、(ちんけな)プライドを前提とする悔しい気持ちは、まだまだ僕もちんけなので、ちょくちょくありますが、減ってきました。

ただ、こんなちんけなプライドが「生きる意味」と言えるほどの誇りかというと、それは違います。

人生の誇りって、きっと、自分の命を投げ出せる対象なんだと思います。

こう考えたら、一定数の人たちが、命を投げ出してまで働くのがわかった気がします。

今の日本では、社会人以降の人生のうち、かなりの割合を仕事に費やすことが当たり前になっています。

それだけの時間を費やしてしまっているのなら、仕事以外に「生きる意味」を見出すのは、めちゃくちゃ難しいです。そうなると、仕事を誇りにするしかありません。

そうやって、仕事を誇りにするのはとても素晴らしいことだと思います。仕事が生きる意味となってしまうと、仕事にしがみつかなきゃいけなくなりますが、それもまた人生です。

しかし、僕は、うつ病によって、しがみつきに挫折してしまいました。

その結果、仕事を誇りにはできないと心に刻みつけられてしまいまいした。

だから、僕は、仕事は誇りになりません。そして、仕事せずにいた期間に、とても有意義な時間を過ごせたと思っているので、仕事で報酬を得ることも誇りになりません。

だから、僕は、生活保護費をもらっても、プライドをキズつけられることはありません。というか、自分で生活費を稼がないで暮らした期間に自分を見つめ直し、生まれて初めて、生きる意味について考え始めたと思っていて、仕事で生活費を稼がずに済む時間には、とても価値があると考えています。

こういう思想ですから、生活費を稼がないで生きることは、僕のプライドを全く傷つけません。

生活費をもらわないことを自分で否定してしまうと、うつ病の苦しみに耐えながら、いろいろと考えたあの期間、すなわち、僕にとってとても大切な期間を、自分で否定してしまうことになります。

それだけはできません。だから、僕は、心の底から「生活費を自分で稼がなくたっていい」と思っています。

ただ、生活保護を受給してしまうと、いつなんどき、公務員が自宅にやってくるかわかりません。

そこに、「自由」を感じられず、この意味でプライドを傷つけられそうです。

僕が働かずに生きていた時にもらっていたお金は、あくまで傷病手当金で、これは、毎月の給料から天引されている保険料の対価です。

だから、何の見返りもなくお金を受け取っているのではなく、建前としては、自分で毎月保険を掛けていて、その掛け金の対価として保険金を受け取った、という話です。

そのため、直接の原資は税金でしたが、公務員が自宅に押しかけてくることはありませんでした。

でも、生活保護は、そうはいきません。何の見返りもなくお金をもらっているのが生活保護です。

生活費全額を国家に頼っているわけですから、公務員の家庭訪問には応じる法的な義務があります。

これじゃあ、自由を味わえません。非常に苦しいです。

僕は、生活費を国からもらっていることにはプライドを傷つけられませんが、公務員がいつ押しかけてくるかわからない状態には、大きく傷つくと思います。

それは、回避したいです。

いろいろ書いてきましたが、もしかしたら、僕は、自分の領域(なわばり、テリトリー)を国家に侵されることなく暮らせていることにこそ、誇りを抱くべきなのかもしれません。

僕は、自分のなわばりを、完全に支配できています。

もちろん、労働の対価として給料を受け取り、その給料を生活費に充てているので、仕事に時間を割く必要はありますが、仕事以外の時間は、自分の時間となわばり(テリトリー)を、自分で自由に決められます。

だから、僕は、他人が自分のテリトリーに入ってくることを拒絶できるのです。

この状態をありがたく思ったことはありませんでしたが、今後は、これを誇りに思えるようになりたいです。

僕は、お金にも、国家にも、誇りが持てません。家族を養っていることに誇りが持てたら嬉しいですが、その経験がないので、誇りを持てるかどうかわかりません。

ただ、自分の時間と場所(なわばり、テリトリー)を、自分で完全に支配できることって、当たり前じゃないんです。

僕は、この自由を守りたいです。自分の時間となわばりを、これからも死ぬまで守り続けたい。ここが侵されてしまうと、生きる意味を失ってしまいます(誇りを失ってしまいます)。

大きな家も、立派な家具も、ぜいたく品も不要ですが、自分の領域を守れることは絶対に必要です。

そうなると、結論として、国家から経済的に独立している状態を目指そうということです。

「経済的な独立」というと、貯蓄額にばかり着目しがちですが、円建ての貯蓄は暴落の危険性があるので(というか、無限に借金はできないので、破綻する時期はわからずとも、いつか破綻するのは間違いない)、貯蓄よりも、なるべく長く働けるスキルと、年老いて働けなくなっても、国家に頼らず生きていけるような方法を考えていこうと思います。

(最低限もらえる年金はもらいたいですけど笑)

それではまた明日!・・・↓

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