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読書感想文:深夜特急3

深夜特急3 インド•ネパール編を読んだ。

この巻では、筆者の沢木さんが病気になったり、
バックパッカーの闇の部分を描いていたりと、
より人間味溢れる巻になっている。

インドは、カオスなイメージがあったのだけれど、
この巻を読んでやはりカオスだな、と思った。

例えば、公園の花壇に、ドブネズミの大群がいて、
それに向かってピーナッツを投げると、
地面に空いている穴という穴から、
ドブネズミが何千と出てきて、
そのピーナッツを奪い合い、
また穴に戻って行くという場所あり、

それを面白がる人たちがいて、
ピーナッツ売りは、通りゆく人にピーナッツを売ってお金を稼いでいたり。

ガンジス川の側に、死体を焼く場所があって、
そこで焼いた死体を川に流すと、
鳥が死体をついばみに来るのだが、
同じ川で聖なる儀式をしている人がいたり。

またインド人は、カースト制が厳しく、
素朴そうな少年でさえも、
自分よりも身分が下の人には、横柄な態度をとる。

また、生き抜くためにズルさというか、
ふてぶてしさというか、
どちらが得をするかのかけのようなものも多く、

値引き交渉では、
お互いの駆け引きが熾烈であったり、

加害者側が大きな態度をとって、
弱そうな人を餌食にしたりする様子も、
陰で行われるのではなく、
堂々と行われているようだった。

無料で案内してやると言いながら、最後は決まって何かせびりとろうとするインド人がいて、

その男は卑怯なことをして、沢木さんと喧嘩しておきながら、翌日また何でもない顔をして沢木さんの元に現れる厚顔ぶりで、その男は毎日ホテルにやって来たらしい。

沢木さんも彼を面白がってたまに誘いに乗ってやるところがすごいなと思うのだが、最後はやっぱり、何かをせびりとろうとして、沢木さんに断られ、怒って帰り、また翌朝やってくる。

その様子を沢木さんは、「厚顔とだけ言ったのでは片付かないインド人独特のものがある」と記載している。

それがインドという国なんだ、と言わんばかりに。

沢木さんは、インドで起こる数々の珍事件に対して、すごく冷静に観察していた。
そして、日本ではお目にかかれない数々の物事に対して面白がってもいた。

深夜特急1、2を読んだ時も思ったけれど、
沢木さんは、ひどい目にあって相手と言い合いになっても、最後はその人を受け入れ、仲良くなってしまったり、

値引き交渉にも果敢に挑み、
損するだけのよそ者ではなく、
あたかもその国の一員かのように相手の懐に飛び込んでゆく勇気は、すごいなあと感心してしまう。

たまに、感情的に怒っている描写を見るけれど、
それもどこかサッパリとしていて、
道理にもかなっているように思えた。

例えば沢木さんが怒るのは、
強者が弱者に対して理不尽なことをしているのに、
弱者が言いなりになってしまうような時、

沢木さんは、強者に対してではなく、
言いなりになってしまう弱者に対して怒りを覚える。

自分を弱者に置き換えて、もどかしく悔しいのかもしれないし、沢木さんは卑屈なことが嫌いな人なのかもしれない。

でも、そういう時、沢木さんは、強者に対してピシャッと言いたいこと言って、引き下がらせるので、
やっぱりカッコいいなあ、と思った。

そのようなカオスなインドを沢木さんは、このように書いている。

カルカッタにはすべてがあった。
悲惨なものもあれば、卑小なものもあった。
だがそれらのすべてが私にはなつかしく、あえて言えば心地よいものだった。

深夜特急3 p71

沢木さんが、インドのブッタガヤという場所で出会った日本人此経さんという方も興味深い方だった。
この此経さんと沢木さんは、巻末で対談までされている。

此経さんは、インド人の少年(アショカという)と共同生活をして勉強を教えていたが、少年が体調を悪くし、故郷へ帰ってしまったため、ブッタガヤの日本寺で居候していたらしい。

此経さんは、そのインド人の少年との共同生活を、武器を使わない戦争のようなものだったかもしれないと仰っていたようだ。

互いに育ってきた環境が大きく違うもの同士が同じ屋根の下、自炊しながら一緒に暮らす。
互いにストレスがないわけがない。

少年が体調を崩したのも、そういう緊張の結果かもしれないと、此経さんは言っていたようだ。

此経さんについて、沢木さんはこのように記載している。

此経さんは、俺が教えてやるのだといった尊大さのまるでない、情熱的でいて、しかも謙虚な人だった。アショカは物をくれる人だけが友達だという考えを持っている。だが、それはやはり間違っているということをどうにかしてわからせてあげたい。此経さんの唯一の望みはそのようなものだった。

深夜特急 p97

その此経さんと、農大生と一緒に沢木さんは、アシュラムという施設に行った時の描写も心に残った。

アシュラムは、アウト•カーストの子供たちを引き取り、農業技術を教え、村における指導的な役割を担える存在にしようということが目的の施設らしいのだが、実際は、貧しい家の口減らし的な要素もあるようだった。

アシュラムでは、夜が明けると起き、日が暮れると寝るという太陽と共にあるリズムの生活で、

4時に起きて、お祈りし、午前中の仕事、午後の仕事、夕方2時間ほど遊ぶ時間があって、就寝というものだったらしい。

朝夕2回のお祈りの声はとても美しかったらしい。

その祈りの声を聴いていると、この世にいるのかどうか不思議に思えるほどで、その声を聞くためだけでもここにいたいと思ったそうだ。

使う言葉にも、国によって特徴があるようで、
沢木さんがそのアシュラムで出会ったイギリス人女性が、英語やフランス語、中国語や日本語にもあって、ヒンドゥー語にない3つ言葉は何だか分かるかと質問してきたことがあったという。

答えは、
「ありがとう、すみません、どうぞ」
の3つだそうで、

本来は存在するのだが、
カースト制により、使われなくなってほとんど死語になってしまったそうだ。

上位のカーストに属するものは、下位のカーストに属するものに対してすみませんなどとは言えないらしい。

また、このインドの旅の描写の中で、私の心に残ったものの1つに、ヒッピー達の描写がある。

ヒッピーたちが放っている饐えた臭いとは、長く旅をしていることからくる無責任さから生じます。彼はただ通過するだけの人です。今日この国にいても明日にはもう隣の国に入ってしまうのです。どの国にも、人々にも責任を負わないで日を送ることができてしまいます。しかし、もちろんそれは旅の恥は掻き捨てといった類いの無責任さとは違います。その無責任さの裏側には深い虚無の穴が空いているのです。深い虚無。それは、場合によっては自分自身の命をすら無関心にさせてしまうほどの虚無です。

深夜特急  p152

体験した人にしか分からない感覚なんだろうな、と思いました。

また、沢木さんは疲労困憊してくると、人の親切が上手く受けとれなくなる、と言っている。

人に対しても自分に対しても無関心になって、どうでもいいじゃないか、たとえ死んでもかまわないじゃないか、と思うようになってしまうと。

そういうものは単純な肉体的疲労で、疲労が癒されれば、また前を向いていこうという気持ちが湧いてくると。

沢木さんは、巻末の此経さんとの対談でこう述べている。

三島由紀夫が、肉体を鍛えていれば太宰治も自殺しなかったかもしれないというようなことを言いましたが、僕も、とりあえず、こう言い切ってしまいたいと思う。怠惰とか倦怠の八十から九十パーセントは、肉体的に健康で疲労が取り除ければ消えちゃうんじゃないか、ってね。飢えた子に食糧を与えれば、三ヶ月で腹がへっこむのと同じで。

深夜特急 p236

疲労を癒す。人間なんて案外単純生き物なのかもしれない。問題の根本はシンプルなのかもしれない。

此経さんのこの言葉も深い、

僕の場合、あちこち動いていないから、ぎりぎりの、自分を一番つきつめたところで、つまらない日常生活に支えられているな、と思った。
そう考えたんじゃなく、環境から、それがわかった。マガダ大学生からの辞令を三年間も待ち続けて、いいかげん身にしみて、どうでもいいと思った時、自分の周りの1つ1つのものが愛おしくなってきて、いろんなものが平等に僕におしかけるようになってね。同じ所にずっといてわかったのは、すべてはどうでもいい、ということですね。
それまではつまらないプライドを持っていた。
好き嫌いとか、ね。たとえば仕事でも、これは好きだからやる、嫌いだからやらないというような。すべてがどうでもいいことなんだ、とわかってから、好き嫌いがなくなって、子供と暮らすことでも、なんでもやれる、というふうになったね。出会ったものに一生懸命になってやっていけるようになった。

深夜特急 p236~p237

私もどこで、どんな仕事をしていても、結局同じかもしれないと思うようことは良くある。

どこへ行っても、嫌な人いるし、嫌なことはある。

でも、「嫌」だけではなく、そこに救いがあったり、良いこともあったり、人との関わりがあって、支えられて生きている。

お二人とも、インドという日本とは大きく違う国で、違う角度から物事を見て、体験してみて、
様々な気づきがあって「生きる」ということの根本について思うところが色々あったのかなあ、と思った。

沢木さんが病に倒れている所で終わった3巻、
ハラハラしながら次巻も読み進めたい。

画像はお借りしました。

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