北海学園Ⅰ部新聞会

北海学園大学の公認メディアサークル『Ⅰ部新聞会』です。学生の皆様に役立つ情報や、学園生…

北海学園Ⅰ部新聞会

北海学園大学の公認メディアサークル『Ⅰ部新聞会』です。学生の皆様に役立つ情報や、学園生がどの様なことに取り組んでいるかを取材し、報じていきます。

最近の記事

参加者に聞く!

この記事は再々刊第1号に掲載出来なかった第55回全道ロシア語弁論大会参加者へのインタビュー記事です。  我々は弁論大会聴講中に興味深い参加者に出会った。その方はAクラス第3位の岡山県から出場した会社員の角南順哉さんだ。角南さんは北海道の詩人である文一郎と日露関係について述べたのだが、途中河邨が作詞し、札幌市営地下鉄の接近メロディーにもなっている(取材当時)「虹と雪のバラード」をロシア語で熱唱し、会場からは拍手が起こった。その自作の歌詞を見せてもらった。  なぜこの題材にし

    • 確認しよう、ワークルール

      本学の川村雅則(経済学科教授)ゼミナールが毎年作成している「北海学園大学学生アルバイト白書」2023年版の連載が、北海道労働情報NAVIのホームページにて公開されている。本学学生を対象に行った調査で得た回答を基にしたこの白書では、本学学生の多くがワークルールを知らぬままに働き始めている現状を明らかにしたうえで、詳細な結果の分析とワークルールの大切さについて論じられている。 制度や職場の現状が知られていない 北海学園大学学生アルバイト白書2023によると「学生アルバイト

      • ~学生新聞に見る北海学園七十年史~(14)私たちの時代(前編) 2018年4月~2020年2月

         2018年4月。3号館[1]の西向きの階段を昇りきり、42番教室に後方の扉を堂々と開け放ち入ると、当然のように講義は始まっていた。時刻は9時13分。大学の教室には時計が無いらしいので仕方なく持参した安っぽい腕時計を見やる。俯きながら教室右方の通路を通り空席を探す。後ろから5~10列目のあたりに空席を見つけ、3人席の真ん中に座る男子学生にことわりを入れてから座る。本当は窓際の2人席に陣取って左隣の席にリュックを置きたかったのだが、それは遅刻者[2]には許されない贅沢だった。

        • ~学生新聞に見る北海学園七十年史~(12)全体性の喪失と“ミクロ化”の新世紀へ 1997~2017

          ●さらば教養部  これまでこのシリーズを読み進めてきた賢明なる読者の中に「教養部」というワードについて頭に疑問符を浮かべた人も多いのではないだろうか。  教養部というのはおよそ四半世紀前まで日本中の大学にあった制度で、大学2年次まで(必要な単位などを取得出来なければそれ以降も)どの学部の学生であっても同じように、今日では「一般教育科目」に分類されるような科目しか受講出来ないものであった。  今や国立大学でこれを残置しているのは東大のみで、本学でも1998年に廃止された。この教

          ~学生新聞に見る北海学園大学70年史~来たる「昭和67年」のために/「サブ」の時代 1987~1992~1997

          ※サムネイルの画像は本学新聞にあった若かりし日の大泉さんである  1994年10月、ついに現代の北海学園の最大のシンボルとなる地下鉄東豊線学園前駅、そしてそれに付随する大学6号館が完成[4]した。この前年には人文学部も設置され、本学における「現代」(もしくはコロナ禍まで続く「平成」)の幕が開けた。 ●人文学部の誕生と女子学生数の増加、そして地下鉄  「平成」の本学(と呼ばれることも少なくなった)は道民かつ国公立大学に落ちた人ばかりが通っているという根本的性質はそのままに

          ~学生新聞に見る北海学園大学70年史~来たる「昭和67年」のために/「サブ」の時代 1987~1992~1997

          6月23日から東北学院大学との定期戦~悲願の初優勝なるか~

          本学は東北学院大学と様々なスポーツ競技で戦う「定期戦」を1955年からおこなっており、今年2023年の大会が第69回となる。  1952年に設立され、当時北海道唯一の私立大学であった本学は、教授・学生共に大学の知名度を高めることに尽力していた。その中でスポーツ交流の話が出て、すでに存在していた北海道大学と小樽商科大学の総合定期戦のようなものを企画する案が出た。    対戦相手は帯広畜産大学や室蘭工業大学など道内の札幌から離れている大学が挙げられたが、その中で「どうせなら東北地

          6月23日から東北学院大学との定期戦~悲願の初優勝なるか~

          ~学生新聞に見る北海学園七十年史(後編)~(10)〈創立百周年〉と「北の早稲田」の栄光 1986~1994

           自らの生きる21世紀と長い「平成」と動乱の令和の世を憂い、金と人が愚奔していた「80年代」を愛する私の感情を吐露するならば、本学学生新聞が「面白かった」時期はこの頃だけである、とさえ思っている。  そこそこの高偏差値とどこか知性の漂う自虐、そして飛び交うネタの数々に、エッセンスとしての社会派記事――。新聞会初代会長は「再刊以来レベルダウンした[1]」と言ったそうだが、私はむしろ再刊後の約20年間が学生新聞の「全盛期」であったと信じてやまない。  過ぎ去りし時代を惜しみな

          ~学生新聞に見る北海学園七十年史(後編)~(10)〈創立百周年〉と「北の早稲田」の栄光 1986~1994

          ~学園新聞に見る北海学園七十年史(後編)~(9)復活 1977~1986 

          ●「学園黒書」をもう一度  長い「学園紛争」は終結し、「シラケ」の時代がやって来た。 しばしばこのように語られるこの時代に北海学園大学新聞会は〈再刊〉第1号を発刊した。その記念すべき第一面の見出しは『対東北学院大学定期戦 近年にない壮挙をあげる』というもので、民青系学生の関与が強かった時代の紙面では大きく扱われることの少なかった定期戦についての記事はやがて旧刊に比べて視線が学内へ向きがちな『再刊』のメインコンテンツとなり、2019年まで続く“伝統”の連敗の「善戦」ぶりを書き

          ~学園新聞に見る北海学園七十年史(後編)~(9)復活 1977~1986 

          学生新聞に見る北海学園七十年史~(九)”大学紛争“の時代④ 明暗/”歴史の終わり“のはじまり(第一部 最終回)~

          ●明暗/とある助教授の死  1970年4月14日火曜日の道新夕刊は、この日の午前9時頃に発生した事件を写真付きで取り上げた。それは北海学園大学経済学部の助教授が札幌市平岸の自宅で妻との無理心中を図り、妻は逃れたという内容のものであった。この享年39歳の財政学担当の助教授は名を宮下幸太郎といった。道新記事によれば「宮下さんは学生部委員を委嘱された直後から『学生部委員を押しつけられて困っている』と悩みを訴え、十日ほど前から強度のノイローゼ症状を呈していた。学生とハラを割って話し

          学生新聞に見る北海学園七十年史~(九)”大学紛争“の時代④ 明暗/”歴史の終わり“のはじまり(第一部 最終回)~

          学生新聞に見る北海学園七十年史(8)~“大学紛争”の時代③ 「民主化闘争」の終焉と「森本二十年構想」~

             世間では東京五輪のレガシーがどうこうという話題が一時期盛んであったが、五輪は時に都市や自然に傷跡を残すことがある。札幌五輪では恵庭岳の自然破壊などがそれにあたり、現在でもその痕跡は視認可能だという。  その一方で半世紀以上の月日を経てなお残る五輪の傷跡を活用し、見事札幌市に「逆襲」してのけたのが本学だ。森本前理事長は自著[1]の中で、拡幅された平岸街道のために売却された校地の代替となる市有地の買収を札幌市から勧められるたびに豊平校地もしくは清田校地に隣接する土地以外

          学生新聞に見る北海学園七十年史(8)~“大学紛争”の時代③ 「民主化闘争」の終焉と「森本二十年構想」~

          学生新聞に見る北海学園七十年史(七)“大学紛争”の時代② 赤い青と学ラン、そして空白(後編)1967~1970

           1967年に理事会が「図書館・体育館の設立」「経営の赤字解消」「人件費の増加」を理由に35000円の学費値上げを発表。以後学費闘争が展開されることとなる。  この年の11月の自治会委員長選挙は「学費値上げ絶対阻止」を掲げた友田晶の勝利によって幕を閉じた。学費闘争はいよいよ激化する。  翌68年2月7日には全学投票によって「スト権」が確立。この時の学生新聞に掲載された新聞会・文化協議会・厚生委員会連名の決議文の影響もあってか、以後学生たちによって試験ボイコットや工学部入試

          学生新聞に見る北海学園七十年史(七)“大学紛争”の時代② 赤い青と学ラン、そして空白(後編)1967~1970

          学生新聞に見る北海学園七十年史〜(六)“大学紛争”の時代① 赤い青と学ラン、そして空白(前編)1960~1966〜

          1 “政治の季節”と時代背景  1965年に戦後日本はようやく「成年」に達した。新聞会その他本学左派学生は昭和40年代の多くの時間を学内民主化闘争に費やすことになった。この時期には戦後の第1次ベビーブームで誕生した団塊の世代(狭義には1947~49年生)が(その世代のうちの半数未満とはいえ)多く大学に入学し、全国的に大学の“マスプロ化”という現象が発生した。大学の講義はこれまでのような少人数を相手とする“人間的”な授業から大教室でのマイクを通じて何十年も使い古した講義ノート

          学生新聞に見る北海学園七十年史〜(六)“大学紛争”の時代① 赤い青と学ラン、そして空白(前編)1960~1966〜

          学生新聞にみる北海学園七十年史〜(五)目指せ道民の「総合大学」一九六四〜

          「最近中央の大学が数年後には本道へ進出してくるといわれ、各大学の動きもみられ始めた。日大系の旭川女子短大が今春設立され、東海大学附属高校も今春募集し数年後には東海大学が設立されるものと思われる。(中略)このように時期的にみると本学も総合大学への足掛りとしてこれら東京の資本攻勢に対抗する基礎固めをしておきたいという考えの上にたち、現状では満足できる用意ができないまま法学部開設をしたものと思われる。」 (『“法学部、今春より開設” 総合大学完成めざす』学生新聞第64号 1964

          学生新聞にみる北海学園七十年史〜(五)目指せ道民の「総合大学」一九六四〜

          サイクリング部 徳永健斗の退任

          11月27日限りでサイクリング部主将徳永健斗は退任することとなった。後任は特定の人物を指定せず、部署制を実施して2年生6名をそれぞれ主将と同等の地位に付けるという類を見ない形となっている。  徳永主将はこれまでに部の大幅な改革を行ってきた。1つは新入部員の獲得である。例年は10名程度の新入部員を今年度は35名に増やすことや数年間女子部員がいなかったサイクリング部に女子部員を入部させるなど多くの人にサイクリング部の活動を知ってもらえるように尽力していた。 また、以前までは

          サイクリング部 徳永健斗の退任

          学生新聞に見る北海学園史~(四)〈民主〉と〈愛校〉 一九五七~

           創設期より一九六四年頃まで、本学は「三部長四課長制」と通称される寡頭制によって運営されていた。三部長とは学生部長(一九五七年設置)・教務部長(一九五二年~一九六四年)・就職部長(一九五九年設置)のことであり、三部長と学長によって構成される「学務委員会」が全てのことを決めていたという。  またこの頃の北海学園は理事長が大学学長を兼任していたとはいえ、大学側の権限は弱く、図書館長どころか「お二階さん」を脱した後に設置された開発研究所の所長まで上原学長が兼任していた。どうやらそ

          学生新聞に見る北海学園史~(四)〈民主〉と〈愛校〉 一九五七~

          学生新聞に見る北海学園七十年史~(三)開発の秋一九五七~

          「当時の理助長(※佐藤吉蔵)は、大学を作ることには非常に積極的だったのですけれど、大学というものがわからないので私どもは非常に苦労したんです。先生方は頭の中に知恵があるはずだから本はいらない。研究室も図書館もいらない、カバンを置くところだけでいいという考えでした。先生が七人のときも十年後に三十人になったときも同額の図書費で、たしか六十万でしたよ。」 (『〈座談会〉経済学部創設の頃をふりかえって』学報第9号 1973年5月1日付より) 「私学においてリーダー役を担う人は、理

          学生新聞に見る北海学園七十年史~(三)開発の秋一九五七~