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クラユカバと廃墟ノスタルジーアニメの系譜論考

クラユカバを観た。感想を論文のようにまとめる。
本作は「廃墟ノスタルジーもの」の系譜として位置付けられると思う。
「廃墟ノスタルジーアニメ」とは筆者の勝手な分類である。その名の通りメインのテーマ性が懐古の作品だ。
以下にその例と感想を書き連ねる。

雨を告げる漂流団地

表現がそのままテーマになっているのでわかりやすい。
過去の生活の記憶を残したまま、廃墟になった建物への懐旧の念を、廃墟そのものが擬人化して天国へ行くという直接的な表現で見せている。
演出が非常に上手いが、ストーリーは微妙。主人公が小学生なので、懐古主義的なテーマと合っていないように感じる。
遊園地に思い出のある女の子と廃墟遊園地の擬人化とのサブプロットがノイズになってる。

ぼくらのよあけ

これも団地の取り壊しを題材にした廃墟ノスタルジーもの。平成初期の人が思い描いたような、ガジェット感のある未来観。
この作品は小学生が主人公だが、親世代がストーリーに介入してくる。ジュブナイルものの冒険に親が出てきて台無しにするという悪手を使っている理由は、作者の視点が親目線にあるからだろう。子供には無意味な昔の話で後半が裂かれる。
100%水でできたロケットをパージするシーンは謎だった。

すずめの戸締り

新海誠の廃墟もの。
後ろ髪を惹かれる過去へ、敬意をこめたお礼と共に戸締りをして回るという。これも分かりやすく懐旧と、過去に対する思いがテーマ。
だがテーマと表現がブレているように感じる。「人々が忘れた時に後ろ戸が開く」という設定と、未だに傷の癒えていない東日本大震災を同列で扱うのは不適切ではないだろうか。
過去への懐旧と、震災への思いは分けて描くべきだと思う。
本作は震災への言及の比率が多いが、本質は廃墟ノスタルジーものの突然変異体

アリスとテレスのまぼろし工場

岡田麿里の廃墟もの。アリスもテレスもアリストテレスも関係なかった。哲学的な雰囲気は語られていたが、本作はむしろ実存主義的。
これは他作品とは違い、親世代が主人公であり、それが懐古の中に取り残されている構造になっている。作者の視点は謎の女の子(五美)の方にあって、そのノスタルジーの中から帰ってくる。
そのままいちゃいけない、消えていくべき世界として描きつつも、消えずに残る。脚本構造としてそれはどうかと思うが、作者的には消えずに残って欲しいのだろう。
最後に大きくなって帰ってきて戸締りするようなラストシーンはいらなかった。そもそもあの絵は誰が描いたんだ?分離した別世界のはずでは?親との再会シーンが必要では?とツッコミどころ満載だが、廃墟ノスタルジーの系譜として見れば作者の思いは理解できる。

なぜ今廃墟ノスタルジーなのか

筆者は引っ越しが多く定住していなかったので、愛着のある建物が朽ちていく事への哀愁の念は薄い。
だが近年連続して同じテーマが描かれている事には何かがあるのだろう。
老朽化が来て修繕されない建物の取り壊し時期が来ている事も関係していそうだ。
帰還した人工衛星「はやぶさ」に関係した作品が何本もあったが、はやぶさが一人称で「ただいま」と独白するようなシーンが多かった覚えがある。
あの作品群も恐らく、あの世代にのみ響き、あの年代にだけ共有できる感動ポイントがあるのだろう。

クラユカバ感想

ストーリーそのものはエンタメとしては全然出来は良くないが、演出が良く、アートとしての完成度は高い。
この作品は単体として観た場合には特に感想が湧かないが、廃墟ノスタルジーの系譜として観ると特筆すべき点がある。
作品世界そのものがノスタルジックな舞台設定にも関わらず、「ノスタルジーに飲まれる事」への注意喚起がテーマなのだ。
パンフレットを読むと、本作の監督は幼少を東京で過ごし、父親に昔の街の話を聞かされて育ったらしい。この体験談は丸ごと本作の主人公(荘太郎)に通じている。
荘太郎の父が居なくなった理由は作品内では説明されていない。(恐らく深入りしすぎたクラガリに飲まれたのだろう)犯人グループの正体も、実態のない概念のようなものとして出てきて、しかも倒されずに終わる。これはエンタメとして観た場合には評価を下げる要因になるだろう。
他にもヒロインの過去などの設定が説明がされない理由は、パンフレットによると、もっと面白い設定を考えつくかもしれないのであえて語らないらしい。好きな終わり方の例としてクレヨンしんちゃんの映画を例にあげていた。
確かに劇場版クレヨンしんちゃんと本作は共通点がある。
『オトナ帝国の逆襲』の敵は、子供には理解できない大人だけの共感をつく目的を持っていた。さらに『オトナ帝国の逆襲』のテーマ性は、ノスタルジーものの先駆けとも言える。ひろしは後ろ髪を惹かれつつも涙を堪え前に進む決断をし、ノスタルジーに浸らず前に進む事で、責任ある大人像を提示している。
だがクレヨンしんちゃんの名作はすでに昔のものになっている。
作品そのものが懐旧を誘うものであり、それが構造的に独特な雰囲気を抱くようになっているであろう。(マカオとジョマがトレンド入りしていたのもこのためか?)つまり『オトナ帝国の逆襲』はノスタルジーを否定しつつも、その作品自体がノスタルジーをおびてるのだ。
そして今作『クラユカバ』は、その「構造そのもの」が持つ空気までを描こうとしたのではないだろうか。
大正ロマンなスチームパンクの世界観の中で、そのさらに下層のクラガリ(歴史や過去)を覗こうとしている。
これはどの時代の人間が観ても古びず、同じ空気を閉じ込めておくような表現として、廃墟ノスタルジーの新たな境地なのではないだろうか。


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