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牧草の匂い、父の背中。教師になった私。

【再掲:1年前の父の日に書いたエッセイ】

酪農を継ぐ、なんて一瞬たりとも考えたことがなかった。

実家は酪農業だった。
祖父が未開の地で始めた酪農を父は24歳で継いだ。
私が生まれた頃には、もう遺影の中にいた祖父は、ガンで急死したらしい。
父は、酪農を自分が継ぐとは思ってなかったと、
一緒に酒を飲み交わすことができるようになった頃、教えてくれた。

記憶が確かではないが、私が始めて”酪農の手伝い”をしたのは小学校に入ってからだ。

朝、自分の背丈よりも大きな竹ぼうきを使って、牛が散らかすえさを掃く。
夜、哺乳バケツに絞りたての牛乳を入れ、人肌にお湯で湯煎してから仔牛にあげる。

他にもたくさんの“酪農の手伝い”があった。
朝は学校に行く前に。
夜は学校から帰ってきてからちょっとだけテレビを見た後、夕食前に。

休みの日は朝、夜だけでなく、昼にも仕事があり、そのつど「子ども用のつなぎ」を来て、牛舎へ行く。

酪農に休みはない。
乳牛は毎日搾乳をしないと、乳房炎という病気になってしまう。
糞尿だってすごい。
だから、毎日毎日寝わらを取り換え、汚れた寝わらはベルトコンベアで外に運び、堆肥としてダンプで牧草地に運ばなくてはいけない。

牛の糞尿の匂いと、サイレージと呼ばれる発酵させた牛のえさの匂い。

体が大きくなるにつれ、徐々に”酪農の手伝い”が“仕事”になってくる。
それまで気にならなかった匂いが気になり始めた頃から、
私は酪農が嫌いになったのかもしれない。

でも、酪農で私が好きだったものが1つだけあった。
1年に1度、新しい牧草を刈る時の乾燥した草の匂いだ。

6月。
晴れた日は牧草地で”一番牧草”と呼ばれる牛の大事なえさを刈る。

私が小学生の時は「コンパクト牧草」といって
刈った草を四角く固めたものを
2トントラックに牧草地で何段も何段も積み、
牛舎の隣の倉庫まで運んで下ろす。

近所の酪農家さんと協力し、
本当に本当にたくさんの「コンパクト牧草」を
積んで運んで下ろして、積んで運んで下ろして・・・。

ちょうど暑くも寒くもない、初夏の暖かな日差しの中、
外で風に吹かれながら牧草の青い匂いを感じる。

今でも、1年のうちのたった2週間くらいのこの時期は、
あの匂いとともに記憶がよみがえる。
今がちょうど、その時期なんだ。

父は、昨年春に酪農をたたんだ。
実家に行って、あの匂いを感じることは、もうない。

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今、思うこと。
酪農をしていたとき、父は”1年”をどう感じていたのだろうか?

私が見ていた父の背中は、1年毎日同じだった。
暑い夏も寒い冬も、毎朝5時に起き、牛に向き合う。
夜は8時近くまで働き、束の間の家族の時間を過ごして、体を休める。
365日、毎日同じことの繰り返し。

私が幼い頃から歳を重ねても、いつもその背中は変わらなかった。

偉大だった。
絶対に越せないと思った。
今でも思っている。

父は70を越えた。
それでもなお、私はあの時の背中の面影を感じるのだ。

ただ1度だけ、本当に一瞬だけ、
父の背中が
違って見えたことがあった。

いつだったかは覚えていない。
でも、その時見せた父の背中は鮮明に思い出すことができる。

酪農が嫌いになっていた私は、
教師になりたいと幼心に思うようになっていた。

深い意味があったわけではないと思う。
田舎の小学校で身近な職業、
そして、酪農でない仕事といえば、学校の先生か郵便配達の人ぐらいだった。

私は小学校を卒業する頃には、学校の先生になりたいと父母には話していたんだろう。
私の進路について父も母も何も言うことはなかった。

「お前は好きなことをすればいい」
そう言いつつもどこかで「嫡男」だから酪農を継いでくれる。
父はそう思っていたはずだ。

中学校を卒業し、普通科の高校に進学し、
下宿のため親元を離れたときも応援してくれた。

高校を卒業し、さらに親元から遠くの教育大学に進学し
一人暮らしを始めた時も応援してくれた。

やがて、大学を卒業し、教員採用試験を2カ所受けた。
親元から本当に遠く離れた横浜市には合格した。
だが、本当に合格したかった地元は落ちた。

合格発表後、
気持ちの整理をつけ、
実家の居間で、

「俺、横浜で学校の先生をするわ。」

と父に告げた。

父は「わかった。」といって、
ほんの一瞬、私が見たことがない
複雑な表情をした。

進学するにつれて遠くに、
実家から遠くに、
酪農から遠くに離れていく息子が
とうとう本当に遠くの地で夢を叶えて教師になる。

息子が酪農を継がず、
自分とは違う道を歩むことを
父はこの時も心から応援してくれていた、と思っていた。

でも、その時の父の背中は
一瞬だけ、本当に一瞬だけ泣いていた。

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教師になった私は、がむしゃらに働いた。

「子どものため」
朝早くから夜遅くまで働いた。
今、思うと無茶な働き方だった。

慣れない土地、初めての社会経験。
いきなり「先生」と呼ばれる生活。

それでも、何とか何とか踏ん張ることができたのは、
「僕は退路を断ってここに来たんだ」という思いだった。

母に言われた言葉がある。
「酪農は甘くない。」
「学校の先生がダメだったから酪農を継ぐなんて考えるな。」

母は父が酪農を始めて2年後、見合いで嫁いできた。
それまで、酪農の「ら」も知らなかったという。
仕事に対する、酪農に対する母の言葉は、
教師になってから毎日毎日悪戦苦闘していた私を
奮い立たせる重たい言葉だった。


父は・・・。
父は、「働く覚悟」を背中で教えてくれた。

毎日同じことの繰り返し。
そのことが何よりも大切だということ。

子どものこと、保護者のこと、同僚のこと。
難しいことはいっぱいあった。
小さい頃からなりたかった教師を「辞めたい」。
そう思ったことは何度もある。

特別なことをする必要はない。
辛いときこそ、同じことをていねいにていねいに。

父の背中を見て感じ、
糞尿の匂い、草の匂いとともに思い出す
私の嫌いだった酪農は
いつの間にか、私の人生にとっての礎になっていた。

今は、酪農に感謝の気持ちでいっぱいだ。

父は酪農を辞めた後、
毎日、朝のウォーキングと夕方のランニングをし、
母と一緒にキャンピングカーで今を謳歌中。

父さん、44年間、お疲れさま。
いつまでも、背中を追い続けます。


【最後まで読んでいただきありがとうございました】






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