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戦後79年 創価大学が掲げる「平和」と大学生の「私」

執筆期間 2024年8月13日~28日

こんにちは。8月も中盤、暑いですね。8月は、日本にとっては非常に重要な時期だと思います。広島・長崎の原爆投下、終戦記念日など「戦争と平和」について、私は毎年考えます。戦争ということで、少し重たく感じてしまう方もいると思います。その際は読まなくて結構です。よろしくお願いします。

※創価大学と創価学会は関係はありますが、組織上は独立しています。宗教に関する書き込みなどはしないでください。


(1)Z世代と戦争、「私」

「戦争」。一言で聞くととても意味が広く感じますね。記憶に新しいものはガザとイスラエルの戦争、ロシアとウクライナの戦争などがあると思います。未だ解決には至らず、胸が痛いです。日本はどうかというと、これらの戦争の「影響」を受けていると思います。毎日ニュースで負傷者の映像を目にしたり、物価高騰のトピックは無視できません。

日本もかつては戦争をしていました。私自身、日本人の大学生として「過去の日本」をどう見ていくか。日本の歴史を振り返ってみると、当時の日本は、真珠湾攻撃に始まり、満州事変・二中戦争、ミッドウェー海戦などを経験してきました。アジア諸国の保護という名目で、「大東亜共栄圏」建設を掲げ、強制的な植民地化を進めました。日本は被害者でもあり、加害者でもあると思います。

なぜ今回、「戦争と平和」の話をしているのか?
一番の理由は、私の「家族」が第二次世界大戦当時の、戦争経験者だったからです。

ちょうど2年前の7月、私が高校2年だった時、曾祖母が106歳で亡くなりました。最後の最後まで元気な方でして、とてもやさしい「ひいばあちゃん」でした。病気を患うこともなく、最後は「老衰」で逝ってしまいました。

私は、小学5年のころ、その曾祖母(ひいばおばあちゃん)に、彼女の戦争体験についての話を聞いたことがあります。ひいおばあちゃんには子供は二人(祖父と大叔母)いて、今現在も元気に暮らしております。彼女の旦那さんにあたる私の曽祖父(ひいじいちゃん)は、結果から言うと、戦死しました。ひいじいちゃんはもともとは大工さんで、優しい旦那さんだったといいます。1944年の12月、ひいじいちゃんのもとに召集令状、通称「赤紙」が届きました。ひいじいちゃんは中国の全州(現在の全県というところだそうです)に派遣されました。任務の詳細は知らされていませんが、44年の12月に出征したのち、、2か月後の1945年2月に現地でカタール性肺炎にかかり、戦地にあった野戦病院で亡くなりました。まだ若く20代半ばでした。
私の曾祖母も戦時下ではとても貧しい生活をしていました。道端に生えている雑草をゆでて食べたり、キャベツの端っこの硬い芯まで食べたりしたそうです。ひいおじいさんの出征前には、近所の旅館で、出征を祝って壮行会が開かれたそうで、そこで食べたカレーライスがそのころの贅沢な食事だったと言っていました。

ひいおばあさんが言っていたことの中で特に印象的なものがありました。
「(ひいおじいさんは)帰ってくると思ってた。日本は戦争に負けてよかった」この言葉の裏側に込められた思いは今もわかりません。しかし最後の最後まで旦那の帰りを待っていたのだと思います。
そして最後ひいおばあさんは言いました。
「戦争はもう二度と繰り返してはならない」

現地で亡くなったひいおじいさんはどんな思いで戦争に行ったのか。今では会えない、私にとってはとても心に残ります。

(2)創価大学と「平和」

①創立者池田先生と平和


創価大学の建学の精神の一つに、
「人類の平和を守るフォートレス(要塞)たれ」という言葉があります。

創立者池田先生自身も、幼少期~青年時代に戦争を経験しました。兄弟を兵隊にとられ、悲しいことに戦死されたそうです。池田先生の母親が悲しそうにしている表情を見て、自身も戦争への憎しみと深い悲しみを抱えたそうです。
池田先生は哲学者・外交家として、世界の名だたる識者と交流しました。特に中国の周恩来総理との会談は有名です。

当時世界は資本主義諸国と社会主義諸国で冷戦をしていました。孤立していた中国と、日本は第2次世界大戦後の国交を回復すべきである、池田先生はそう考え、「日中国交正常化提言」を発表。この提言は日本のみならず、中国でも大きな注目を呼びました。このとき大きな関心を寄せたのが、当時の中国の総理だった周恩来。1974年に池田先生と周恩来との会談が実現し、日中友好の基礎が築かれました。その後の「日中国交正常化」にも大きく貢献しました。
創立者池田先生は、中国を訪問した際、ある少女に声をかけられたそうです。
―「おじさんはなんで中国に来たのですか?」

先生は戸惑うことなく答えました。
―「あなたに会いに来ました」

創立者池田先生の外交に対する思いの根底にあるものは、人間だということです。常に民衆とともに平和への道を歩んでいく、そう考えていたのです。

池田先生は、当時のソ連共産党総書記だったゴルバチョフとも会談しました。ソ連を訪問した際も、識者との交流だけでなく、実際にくらす一般の人々とも交流していたそうです。

このように池田先生の平和思想には常に「人間」そして「民衆」がいました。

②創大生

さて、創立者である池田先生の思想の根本には、目の前の「人間」・「民衆」がいました。

4月に入学して、苦労の半面、喜びや嬉しさもありました。その中で、友人をたくさん作ることができ、同じ仲間たちとのつながりが、短時間で強くなったと思います。なぜそんなに強くなれたか、自分なりに考えました。

創価大学の学生は、同期だけでなく、先輩・男女問わず、おたがいのつながりがとても強いと思います。それを代表的なものは「対話」です。

対話って聞くと、「なんか偉い人たちがやってる「会議」なんじゃないの?」って感じるかもしれません。私も最初は何をするのかよくわからなかったです。

先日、所属する部活の友人に創価大学の「対話」とは何か、聞いてみました。
答えは「本心を語り合うこと。自分の悩みや将来について語り合うこと」と答えてくれました。確かに対話するときは、いつも深い話まですることが多い気がします。休みの日は何をしてるとか、将来の夢とか、悩みとか、話題はとても幅広く、相手も親身になって聞いてくれます。

この「やさしさ」や「熱意」こそ、創価大学の「平和」への思いであると思います。目の前の一人を大事にすること、その思いは創大生全員の義務であると思っています。

③創価大学での「平和」について学ぶこと
おまけではありますが、日常生活のみならず、大学の授業でも、創価大学では「平和」を考える授業があります。世界市民教育科目というグループに所属しており、全学生が履修することができます。

「平和と人権」「平和学」「人間の安全保障」など
詳細はHPを参照してください。

(3)今後

私の信頼するある先輩に「創価大学が掲げる平和」について聞いてみました。

平和というものを築くためには、人間の内面的な平和、心の次元から不安を取り除き、精神を安定させること、それが真の安全保障につながると思う。また平和というものは、どこかの時点で完成されるものではない。人間の生命に具わっている善性と魔性との闘いは永遠に終わらないから、人間の魔性との人類の不断の闘いによって目指されるべき目標なんじゃないかなと思う。

またその先輩は創立者池田先生の言葉を引用してくれました。

人間が生の喜びを噛み締め、歓喜に包まれ、幸せを満喫して生きてこそ、平和なのだ。(中略)平和のためには、人の心の中に人の心の中に”平和のとりで”を築かねばならない。
『新・人間革命第30巻』

平和を築くためにも、人間一人一人の「心」が大事である、創価大学の学生に求められていることだと思います。

私自身としても今後多くの人たちと対話し、つながりを深めながら、目の前の一人を大事にし、身近なところから「平和」について学んでいきたいです。

人類が経験してきた「戦争」の歴史は深く、未だ明らかにされていない事実も多くあります。日本の戦争の歴史も、さらに詳しく調査されるべきです。

まだ私は1年生ですし、大学生活はまだまだこれからです。今回の執筆でも悩むところはたくさんありました。今後の大学生活の中でも多くの気づきや出会いがあるでしょうし、そのなかで「平和」について考える機会は増えると思います。今回をスタートにして、今後もアップデートしていきたいなと思っています。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

あなたにとっての「平和」とは何ですか?

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