パレスチナ問題100年史の時代区分をしてみる

 イスラエル=ハマス戦争はまだまだ続いており、ガザ地区の犠牲者は3万人に到達しようとしている。今回は100年続くパレスチナ紛争の時代区分を整理してみたいと思う。どの時代も置かれている状況が異なるし、複雑極まりないが、ユダヤ人とアラブ人が殺し合っているという一点では共通している。

第一期:英国統治時代(1918〜1949)

 パレスチナ紛争の起源は第一次世界大戦後のオスマン帝国の解体に遡る。帝国の解体後、現在のイスラエルとパレスチナのある地域はイギリスが統治することになった。当時の名称はイギリス委任統治領パレスチナだ。

 1920年代のパレスチナには既にシオニズム運動に感化されて移住してきたユダヤ人が入植し始めていた。イスラエルの建国の父となる人々は大体がこの集団の出身である。ベングリオンからネタニヤフまで、イスラエルの歴代首相は彼らの子孫が多い。1920年代初頭から既にアラブ人とユダヤ人の間の暴動は始まっていたようだ。

 パレスチナ紛争が表面化し始めたのは1929年の嘆きの壁事件だろう。エルサレムの聖地にユダヤ人が勝手にベンチを置いたことにより、ユダヤ人とアラブ人の間に暴動が起こり、100人以上が殺害された。この辺りからユダヤ人とアラブ人の関係がおかしくなってくる。

 1930年代に入り、ナチスドイツが欧州で台頭してくると、入植者の数は激増した。ユダヤ人入植者はアラブ人と仲良くするつもりはなく、自分たちの国を作ろうという意欲で満たされていた。アラブ人から見るとユダヤ人入植者は受け入れ不可能の存在だ。両者の間には常に緊張が走るようになる。1936年にはアラブ人が大暴動を起こし、1万人がイギリス当局によって殺害された。イギリスはアラブ人に配慮してユダヤ人入植者の数を制限しようとするが、ホロコーストの到来でますます多くのユダヤ人がパレスチナに殺到するようになった。

 ユダヤ人とアラブ人には圧倒的な力の差があった。ユダヤ人入植者は東欧の貧しい国の出身の人間が多かったが、それでもアラブ人に比べれば遥かに経済力が強かった。識字率も文化資本もユダヤ人の方が遥かに上だ。ユダヤ人入植者は金の力で土地を買い占め、アラブ人の農民を追い出した。他の大陸から来た侵略者に土地を奪われていると感じたアラブ人はますます怒りを蓄積させていった。実際、イスラエルは北米・南米・豪州・南アに次ぐ世界最後の白人入植植民地とも言えるだろう。1930年代の時点で既に両者の関係は一触即発となっており、ユダヤ人側も武装組織を作り始めていた。1940年代になるとユダヤ人・アラブ人・英国は相互に殺し合いを始め、収集不能の事態になっていた。

 この期間の主な紛争
1929年 嘆きの壁事件
1936年 パレスチナ大反乱
1946年 パレスチナ内戦

第二期:建国時代(1948〜1967)

 ユダヤ人とアラブ人の間の憎悪は既に臨界点を超えており、パレスチナはテロと暴動の横行する内戦状態になっていた。イギリスは面倒を見きれないと国連に問題を丸投げ、紛争を終わらせるにはパレスチナをユダヤ人国家とアラブ人国家に分割する他無いとパレスチナ分割決議が行われる。

 ユダヤ人は分割決議を歓迎する者が多かったが、アラブ人は拒否した。自分たちが先に住んでいたという先住者意識があったからだろう。何はともあれアラブ側は最後のチャンスを拒否し、ついにユダヤ人とアラブ人の全面戦争が始まった。双方の間で凄惨な虐殺事件が横行し、イギリスは逃げることしかできなかった。ついにアラブ連合軍が介入し、第一次中東戦争となる。圧倒的大軍に対してユダヤ人は必死に戦い、何とか勝利を得る。イスラエルの建国である。イスラエルの領内にいたアラブ人の多くは逃げ出し、パレスチナ難民となった。彼らの言う大破局、アル=ナクバである。

 最終的にパレスチナはイスラエル・ヨルダン・エジプトの三カ国によって分割される形になる。イスラエルの正当な領土とされるグリーンラインの内側はイスラエル領となり、西岸はヨルダンが、ガザはエジプトがそれぞれ自国領とした。

建国時代のイスラエルの領土
この時の国境線はグリーンラインと呼ばれ、イスラエルの正当な領土とされている
 西岸はヨルダン領、ガザはエジプト領である

 第二期において重要なのは、パレスチナ問題とはイコール難民問題ということだ。パレスチナのアラブ人はヨルダンやエジプトに避難し、イスラエルとなった先祖の土地を奪還しようと奮闘していた。この時点でパレスチナ国家は存在しなかった。この辺りがパレスチナ紛争の複雑なところである。 

 1950年代を通してイスラエルは絶えずアラブ諸国から侵入してくるパレスチナゲリラを戦う必要があった。エジプトとの間のスエズ戦争よりも遥かに深刻度は高かった。この時代のイスラエルは南北に細長い形をしており、地政学的な脆弱度が高かった。当時のイスラエルはいつ滅びるかも分からない危なっかしい国として認識されており、国民は楽観的ではいられなかった。

 この期間の主な紛争
1948年 イスラエル独立戦争
1956年 スエズ動乱

第三期:冷戦時代(1967〜1993)

 1960年代に入るとパレスチナ紛争は東西冷戦に組み込まれてくる。それが一気に顕在化したのが1967年の第三次中東戦争だ。当時はベトナム戦争の影響で東西の緊張が高まっており、アラブ諸国は次々とソ連と友好関係を結び始めていた。ソ連の偽情報がきっかけで、アラブ側との間に緊張関係が高まり、地政学的な脆弱性を抱えるイスラエルは先制攻撃を掛けた。蓋をあけるとイスラエルは圧倒的な勝利を収め、領土を4倍に拡大することができた。イスラエルの現在の支配地域はこの時代に確立されたものである。

 これまでイスラエルは弱者という性質が強かったが、この戦争以降は強者とみなされることが多くなる。イスラエルが強くなりすぎたため、イギリスとフランスはイスラエルと距離を置くようになる。代わってイスラエルと親密になったのはアメリカだ。イスラエルは中東地域でアメリカが冷戦を戦う上で頼もしいパートナーに思えたからだ。両国の「特別な関係」はこの時に始まった。

1967年にイスラエルが新たに征服した領土

 1967年にイスラエルが征服した領土は4つだ。エジプトから奪ったガザ地区とシナイ半島、ヨルダンから奪った西岸地区、シリアから奪ったゴラン高原である。この4つは占領地とされ、イスラエルの領土として国際的には認められていない。イスラエルは征服地の返還と引き換えに和平協定を結ぶことを打診するが、アラブ諸国は「イスラエルと交渉せず」で返した。国際社会もイスラエルの膨張に待ったをかけ、1967年以前の国境に戻るように再三再四求めてきた。

 エジプトとイスラエルはスエズ運河で国境を接することになった。頭にきたエジプトは消耗戦争と呼ばれる戦争を仕掛け、イスラエルと散発的な軍事衝突を繰り返すことになる。消耗戦争の規模は非常に大きく、イスラエルの歴史の中で三番目に戦死者が多い。

 1973年、エジプトはイスラエルに第4次中東戦争を仕掛けた。イスラエルが反撃してエジプト軍は敗走するが、初戦でイスラエル軍に与えた政治的インパクトは大きかった。エジプトは戦後まもなくイスラエルと和平条約を結び、シナイ半島をイスラエルはエジプトに返還した。なお、同様にゴラン高原の引き換えにシリアと和平条約を結ぶ計画もあったようだが、こちらは頓挫している。

 ここで問題となり始めたのはガザと西岸である。イスラエルは占領地に大量のアラブ人を抱えることになった。イスラエルは旧委任統治領パレスチナの一部だった両地域を返還するつもりはなかったようだ。実は西岸地区のアラブ人を持て余し、ヨルダンとの秘密交渉で一部の返還を打診したことがあるのだが、ヨルダンにとっても西岸のアラブ人は邪魔な存在であり、拒否されている。イスラム諸国が批判する「イスラエルの占領」は1948年の建国時代ではなく、1967年の第三次中東戦争から発生した現象だ。国際社会はイスラエルの生存権を認めているが、同時に建国時代のグリーンラインの境界に戻るようにも求めている。ガザと西岸はどこの国でもない宙に浮いた存在になってしまった。

 エジプトと平和条約を結んでも、イスラエルの戦争は終わらない。今度はパレスチナ難民の暴動が原因でレバノンで内戦が勃発し、イスラエルは長期に渡る戦争を戦うことになった。1982年にシリアとの間で第一次レバノン戦争が勃発、その後イスラエルはレバノン南部を占領することになる。この占領に反対して作られた組織がヒズボラだ。1980年代を通してイスラエルはヒズボラとの戦いに手を焼くことになる。

 また、1987年に開始したのが第一次インティファーダだ。これまで西岸とガザのアラブ人は大人しくしていたのだが、第一次インティファーダを期にイスラエルとの闘争に身を捧げる人が多くなった。同時にこの紛争はイスラエルの対峙する敵がアラブ諸国から占領地のアラブ人へと変わった契機になった。「アラブ・イスラエル戦争」から「イスラエル・パレスチナ紛争」への移り変わりだ。西岸とガザのアラブ人が自分のことを「パレスチナ人」と考え始めたのもこの時期である。パレスチナ国家はイスラエルによる西岸とガザの支配が始まってから占領に対する反感によって生まれたのだ。実はこの国が生まれたのはイスラエルよりも新しいのである。

 この期間の主な紛争
1967年 6日間戦争
1967年 消耗戦争
1972年 ミュンヘン五輪事件
1973年 ヨム・キプル戦争
1982年 第一次レバノン戦争
1987年 第一次インティファーダ

第四期:オスロ時代(1993〜2023)

 東西冷戦が集結し、世界中で平和ムードが高まっていたのが1990年頃である。カンボジアでは歴史的な和平が結ばれ、南アフリカのアパルトヘイトも廃止された。パレスチナ紛争も解決されるに違いないと多くの人が考えていたことだろう。パレスチナは後ろ盾となるソ連が崩壊し、イラクは湾岸戦争で孤立していた。アラファトは渋々和平交渉に応じることになった。

 アラファト議長はラビン首相と握手し、パレスチナ自治区の設立が決定された。パレスチナ自治区は西岸とガザを合わせた領域からなる、新しい国である。これまで宙に浮いた存在だったパレスチナはついに国民国家への道を歩みだしたかのように思えた。

 結論から言うと、オスロ合意は失敗した。重要ないくつかの争点が全く解決されなかったのが原因だろう。聖地エルサレムの帰属や難民の帰還に関する議論は棚上げだ。特に問題となったのはユダヤ入植地である。イスラエルは西岸に勝手にユダヤ人を入植させており、パレスチナ国家の独立が困難にんる状況を作り上げていた。イスラエルも入植地を手放すつもりはなく、本当にパレスチナ国家を作る気があるのかと疑わざるを得ない状況だった。

 自治が認められたパレスチナ国家も酷い有様だった。パレスチナ自治区は自治政府が完全に統治を行うA地区、自治政府は行政のみを行い治安維持はイスラエル軍が行うB地区、イスラエル軍による完全な統治下にあるC地区に分けられた。西岸地区の6割はC地区であり、多数の入植地が作られている。パレスチナ自治区は実質的に飛び地状に一部地域の行政をやっているだけに過ぎなかった。

パレスチナ自治区の実情は島のように領土が分断されるものだった
自分の国がこんな形態だったら普通の人は怒るだろう

 こんな状態なので、パレスチナ人のオスロ合意への熱意はあっという間に冷めた。イスラエル側でも極右勢力を中心にオスロ合意へ反対する人が多く、ラビン首相は暗殺されてしまった。シャロンやネタニヤフといった右派政権はオスロ合意に対して何ら価値を認めず、堂々と領土の侵食を進めている。こうした態度はパレスチナ紛争の性質が次第に変質していたことを表している。建国時代のイスラエルは弱者だったが、オスロ時代のイスラエルは強者だった。イスラエルは強者としての驕りから、やりたい放題である。

 パレスチナ人は和平に失望し、再び闘争の道を選んだ。2000年に始まる第二次インティファーダである。この暴動は多数の死者を出した。イスラエル側の死者も1000人と非常に多い。また、パレスチナ自治区で自治政府への失望から、イスラム主義組織ハマスの支持率が急上昇していった。ハマスは第二次インティファーダで自爆テロを繰り返し、支持を得ていった。これを受けてイスラエル側も和平を望まなくなり、パレスチナ紛争の解決は失敗したと目されるようになる。

 2005年にイスラエルはガザ地区の入植地から撤退し、両者の関係は改善されるかに思えたが、2006年にハマスが選挙に勝利すると、イスラエルは態度を硬化させる。2007年にはハマスがクーデターを行い、ガザ地区を完全に支配することになる。ここにパレスチナ自治区はガザと西岸に分裂することになった。イスラエルはこれ以降、ガザを完全に封鎖する。ガザと西岸の行き来は不可能となった。

 これ以降、イスラエルは散発的にガザへ攻撃を加えてきた。2008年と2014年のハマスとの戦争はガザ側に2000人もの死者を出した。西岸地区の自治政府とは関係が良好だったが、イスラエルに従属する自治政府は人気がなかった。こうした状況はモラルハザードを引き起こす。自治政府の役人にはやる気もプライドもないし、祖国を売り渡して敵に媚びる人間は金目的の怪しげな人間が多いだろう。自治政府の腐敗は急速に進み、ほとんど機能しなくなった。自治政府はイスラエル軍の下請けとして行政の雑務をやる機関へと成り果てている。

 トランプ政権の時代になると、もはやイスラエルはオスロ合意を尊重するフリすらしなくなった。アメリカはイスラエルの首都はエルサレムだと認め、ゴラン高原の併合も認めた。アラブ諸国はイランへの対抗からイスラエルに接近し始めた。パレスチナ人に対する約束は堂々と破られ、パレスチナは危機意識が高まっていた。イスラエルは西岸の併合すらほのめかすようになった。入植地の拡大はとどまるところを知らず、西岸地区の5人に1人はユダヤ人入植者という状態になっている。

 どうにも、オスロ合意で決まったはずの二国家解決案は頓挫してしまったようだ。イスラエルはパレスチナ国家を認めるつもりは毛頭なく、ガザを封鎖し、西岸を占領している。イスラエルの行為に国際社会は見て見ぬふりだ。トランプ政権下で出された合意案は酷いものだった。本来パレスチナ国家であるはずの西岸地区の30%はイスラエルが併合し、入植地も全て温存される。西岸は周囲をすべてイスラエルに包囲されており、航空管制も難民の移住もイスラエルの許可が必要だ。エルサレムは当然イスラエルのものである。

トランプ和平案で提示されたパレスチナ国家
国土が無数の入植地で穴開き状態であり、西岸は3つに分断されている
こんな形の国家は前代未聞である

 イスラエルはハマスをテロ組織として非難し、和平合意の相手にはならないと主張する。たしかにそうかも知れないが、イスラエルは自治政府があるはずの西岸も認める気は無さそうだ。そもそもイスラエルの右派政権の中にはハマスとあまり変わらない思想の人間も多い。ハマスの躍進とイスラエルの右傾化は鏡合わせの現象ではないかという見方もできる。イスラエルは国家安全保障上の理由から西岸を手放すつもりはないし、宗教的にも重要だと考える保守派が多い。イスラエルの理想は西岸を自国領土に組み込み。アラブ諸国と国交を結び、西岸地区の住人はどこかに消えてくれることだろう。ガザは放置である。

 2020年代に入ると、再びパレスチナで敵意が燃え盛ってくる。もはやイスラエルとの共存は不可能であり、黙っていれば迫害されるだけだとパレスチナ人が考え始めたからだろう。国民としての権利を認められず、ただ占領統治下に置かれる様子はアパルトヘイトを彷彿とさせるようになっていた。イスラエルはユダヤ人国家としての理念を守るため、パレスチナ人を国民として迎え入れることはない。これは世界の他の民族紛争と大きく違う点である。

 それに、パレスチナの出生率は高く、人口はどんどん増えていた。パレスチナ自治区の人口はオスロ合意の時の二倍を超えていた。イスラエルの封鎖と占領の下では経済発展など不可能なので、失業者だらけだ。これでは一触即発の状態だ。2020年代にはいってパレスチナ人の暴動は増加し、双方に死者が急増した。破局はすぐそこまで迫っていた。

 この期間の主な紛争
2000年 第二次インティファーダ
2006年 第二次レバノン戦争
2008年 ガザ攻撃
2014年 ガザ攻撃

第五期:新時代(2023〜)

 西岸とガザが暫定的な占領区域からパレスチナ自治区となったのがオスロ時代だった。オスロ合意は2000年代には既に死んでいたが、一応は建前上存続はしていた。2023年10月7日の攻撃以降はもはやオスロ合意によって作られた体制は存在しないと考えてよいだろう。この日以降、パレスチナ紛争は新たな段階へと向かうと考えられる。

 2023年10月7日に行われた「アルアクサの洪水作戦」はパレスチナ紛争の中でも最大規模で、ホロコースト以来最も多くのユダヤ人が殺された日となった。1200人もの人々がハマスによって殺害されたが、これは911テロに次いで史上二番目に大きいテロ事件だろう。

 これに対する反撃は例を見ないレベルで激しいものだった。これまでの紛争でイスラエル軍に殺されたパレスチナ人の人数は2万人ほどだ。2023年のガザ戦争で殺されたパレスチナ人は既に3万人に近づいているし、これからも更に増えるだろう。これまでに殺されたパレスチナ人よりも多くの血がわずか100日で流されているのだ。今回の戦争はパレスチナの歴史上最大の戦争ということができる。おそらくアル=ナクバよりも凄惨だ。これほどの規模の殺戮が行われれば、パレスチナ紛争の性質は再び変質するものと考えられる。

 戦後のガザの統治は予想がつかない。イスラエル軍による占領、自治政府による腐敗した統治、ハマスの復活、どのケースでも明るい未来は見えてこない。一つだけ言えるのはオスロ合意が完全に死んだということだ。二国家解決案をイスラエルは受け入れる気は無さそうだし、仮に受け入れたとしても自治政府には無理だろう。ハマスの統治はイスラエルもアメリカもエジプトも認め難い。もしかしたら膨大な犠牲を出した上で現状維持が続くという可能性もある。

 この期間の主な紛争
2023年 イスラエル・ハマス戦争

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