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鍵束を君に ~学校エッセイ19~

ある男子生徒が高校3年生の2月末に、「先生、俺、A大の経済(学部)とB大の心理(学部)に受かったんですけど、どっちがいいと思いますか? 親は、自分で決めなさい、って」。彼は心理学に興味があると言っていた。しかしその先それを専門にして食べていく、というまでの明確なビジョンは持っていなかった。いわゆる偏差値はA大学の方が上で、就職にも少し有利だろう。私は、「うーん。すっごく心理がやりたいんならBだけど、そこまでじゃないならAにすれば? と思うけど。私はね(この最後の数文字が重要)」。彼はA大学の経済学部に進んだ。

その後、コロナのだいぶ前に、そのクラスの10人ほどで集まった。彼は、「あの時先生がああ言ってくれて感謝です。今楽しいし、いい彼女も大学でできたし」。彼にとって彼女との出会いも重要だったようだし、それは確かに重要だ。違う道に進んだら違う出会い、違う恋愛があったのだろうけれど、自分にはこの人しかいなかった、と思うのが恋愛だ。

学校によるが、私が長く勤務した高校では、1年生は全員同じカリキュラムで学び、2年生からは希望進路によってコースが分かれる。どのコースを選んで学び、高校卒業後どう動くかは、「いずれどういう仕事、生き方がしたいか」にかかってくる。教員になりたかった私が教員免許の取れる大学・学部の中から受験校を選んだように。「この職業に就くにはどうしたらいいですか」。この世にはたっくさん仕事がある。その質問にどう答えていいか分からない時もかなりある。そのたびに調べるけれど調べる深さには限界があり、現場を知っている訳でもなく、本当に適切なアドバイスができていたかどうかは分からない。また、とても立派で必要な仕事でその生徒に合っているのに、待遇・環境(給与や福利厚生、働きやすさなど)が良くなくて、必ずしも勧められない、というのか、現実を知った上でその道に行きなね、と言わなくてはならない場合もある(この仕事に就くと何となく寿退職するのが通例の場合もある、とか、自分や家族を養うのに充分なお金をいただくのが困難、とか、心身の負担が大きい、とか)。青年の茫洋たる前途。眼前にはドアが一定数ある。無限にはない。またそれ(ら)は「どこでもドア」でもない。その道に行くための適性や能力が足りない(宇宙飛行士になりたいのに理系のセンスがないとか)、必要な条件を満たしていない(身長や視力が足りないとか)などのことがあるからだ。医師と弁護士、両方の資格を持っているという能力の高い人もいるが、彼らにもできない仕事はあるだろう。生まれ持ったものが豊かな人、また努力を重ねてきた人ほど、眼の前に多くのドアが見えるのであろうけれど、果たしてどのドアの前に立つのか? 周りは、助言はできる(中には、強制的に若者の進路を決めてしまう大人もいるが)。でも鍵穴に鍵を入れるのは自分。ノブが回ってドアを押せるかどうか、ドアが開いてその先にある道をちゃんと歩んでいけるかどうかは、本人次第、運もある。迷い道寄り道回り道、思わぬ物事をあれこれやるのもまたアリ。そういえば、「先生、給料、いくらですか」と、射るような目で私を見て質問した女子生徒もいた。「年収〇〇円くらいですか」。「いいとこ突いてるかなぁ」。私はヘラヘラと逃げた。彼女が職業選択においてその条件をとても大事にしているということは理解していたし、正しいとも思っていたが、流石に数字は言えない。その出所は、彼女の家庭の財布だ。

以前ある作家さんが、日本社会に在る全ての仕事の内容を説明しようと努め、その仕事に就くためにはどうしたらいいかを、子どもにも分かるようにまとめた本を創った。画家さんの優しい絵を随所に入れて。偉業だ。私もそれを買い熱心に読み、学級文庫に置いた。「Hなことが好きな人へ」「何もしたくない人へ」という章もあったと記憶している。

子ども、若者にいろんな鍵を提示する。彼ら彼女らがたくさんの鍵を手にできるようにと育てる。それが大人の使命だ。嗚呼、子どももしんどいけど大人もしんどい。

ずっしりした鍵束を授けられた生徒。その選択は重い。

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