見出し画像

誕生!? 金沢県 【プロローグ】

 皇居外苑を眺めていると、真利子はいつも金沢を思い出す。
 高い建物に囲また市街地にありながら、空が開けていて窮屈さを感じることもなく、緑も多く広々しているのに、どこか厳かな雰囲気を湛えている。それが兼六園の印象と重なるのは、歴史的な建築物の存在もあるのかもしれない。
 出張で東京に来るたびに、金沢市長・前田真利子はそう思う。
 市長としての用事を済ませた後は、霞が関の喧噪を祓い清めるように皇居外苑を歩き、東京商工会議所ビルにある喫茶店でコーヒーを飲む。今日もそうだった。師走の忙しなさの中、あちこちに挨拶して回り、頭を下げた。四十八歳の顔に愛想を目一杯浮かべて。今回は特に力を込めた。その反動で、皇居外苑に足を踏み入れたとたん、顔から力が抜け、コーヒーを飲むにつけ溜め息が漏れた。そのたびに、向かいに座っている秘書課の村井課長が苦笑いを浮かべる。六十に近い彼に、もうすぐ悲願が叶いますから、と諭すように言われ、真利子は肩をすくめた。
 そう、今が踏ん張り時なんだから。真利子も自分自身に言い聞かせる。
 冬は気持ちが良いほど快晴な東京だけれど、金沢のある日本海側は今日も空がぐずついている。天気予報では雪マークが出ていた。この時期だけは、皇居外苑よりも兼六園が勝っていると、真利子はそう信じて疑わない。何故なら、雪吊りを行うからだ。
 雪吊りは、金沢の風物詩であり一種の芸術と言っていい。高い柱の先端から放射状に伸びた縄が作り出す風景は、湿気を含んだ北陸特有の重たい雪から、樹木の枝が折れるのを防ぐためのもの。それは、ライトアップされることで味わいが増す日本庭園を、さらに幻想的な世界にまで変えてしまう。雪がない時はもちろん、白い綿帽子を携えた兼六園はまるでファンタジーの世界。雪を、冷たく厄介なものとしか思えなくなってしまった大人でも、高揚感が湧いてくる子供の頃を思い出させる、そんな力を冬の兼六園は秘めている。
 コーヒーがカップの半分ほどまで減ったところで、真利子はバッグの中から携帯電話を取り出した。
「もしもし、前田です」
「お疲れ様です、市長」
 電話の相手、佐々木修平から労いの言葉が返ってくる。
「こちらの用事は終わりました。これから金沢に戻ります」
「判りました。お気をつけて」
 短いやり取りだけで電話を切った。
 携帯電話をバッグにしまい、真利子はウインドウの外に目を向ける。ちょうど伯父の前田利久雄が、横断歩道を渡ってくるところだった。小さく手を挙げた真利子に気付くと、前田利久雄も軽く手を挙げた。向かいに座っていた村井秘書課長が、何も言わずに別のテーブルに移動する。店に入ってレジで注文したコーヒーを受け取った利久雄が、お待たせして申し訳ないね、と言いながら真利子の向かいに腰かけた。
 宮内庁の職員をしている前田利久雄にとって、ここは待ち合わせてに都合が良い場所ではあるが、こうして真利子が伯父と顔を合わせることは、今まで一度もなかった。出張で東京に来たからというだけでは会う理由にもらならないし、中央省庁に身を置く伯父は、地方に居座るだけの真利子や真利子の父を、どこか侮蔑している印象が否めなかったから、真利子も自然と伯父とは距離を置くようになった。
 それが何日か前、父を経由して真利子に連絡を寄越してきた。今度、東京に来ることがあったら、食事でもどうかと。
「そっちはどうだい? 真利雄たちは元気かい?」
 真利子の父、前田真利雄は数年前に退職してから、市民農園で農地を借り、夫婦で野菜を作ってのんびり暮らしている。
「今の時期は、ビニールハウスでほうれん草や小松菜を栽培しているらしいですよ。風邪でもひいたら大変だから、家でおとなしくしていて欲しいんですけどね」
 そう言って真利子が笑うと、真利雄は昔から熱しやすく冷めやすいタイプだったから、と伯父も笑った。
 真利子の父、前田利久雄は、もともと財務省北陸財務局に勤めていた。退職後は、地元の信用金庫に再就職した。政治にはあまり関心がないようで、真利子が市議会議員に立候補すると言った時も、市長選に出ると言った時も、好きにしたらいい、と笑っていただけだった。とは言え、父の経歴だけでなく、地元の資産家の家系にある母の存在も、選挙結果に影響を与えていたことは、真利子自身も理解している。
「それはそうと……」
 他愛ない話を二言、三言した後で、前田利久雄が躊躇いがちに口を開いた。
「ここ何年か、国や政府にずいぶん財政的な援助をしているようだが……特に最近は」
 その話か、と真利子は腑に落ちた。伯父がわざわざ自分に会いたがるなんて、何かあると思っていた。
 この件の窓口になっている総務大臣から、ようやく糸口を掴んだ。いつまでも金づるとして甘んじていても埒が明かない。年度末までに、現在石川県が存在する範囲のすべての市と町の了承を得られれば、前田真利子がいう金沢県構想の推進を阻害しない。総務大臣にそう言わせたことが、伯父の耳にもすでに入っているのだろう。でなければ、わざわざ伯父がコーヒーショップに姪の顔を見に来るはずもない。
 午後の早い時間だったから、喫茶店は空いていた。昼食を取るには最適なのだろうが、伯父の意図を図りかねていた真利子は、気が張っていて何も食べる気にならなかった。なのに、カウンターの向こうから漂ってくる香ばしさが、今は真利子の食欲をそそってくる。
「金沢市の収支は問題ないのかい?」
「伯父様」
 利久雄の問いに、真利子はまったく動じることなく、逆に訊き返した。
「皇室のどなたかの療養のための施設を確保するため、政府に予算をつけてくれるよう頼んでおられるようですね。他人の心配よりも、まずご自分のことをお考えになったほうが良いのではないですか?」
 利久雄は眉をしかめた。お転婆だったあの姪が、今では嫌味を言うようにまでなった、そう言いたげな顔だった。
「伯父様」
 真利子は、向かいに座る伯父を見つめなおした。
「来年度から、金沢市は『金沢県』として独立します。年が明けたら、それを発表する予定にしています。ある程度の移行期間を設けておけば、新年度までにスムーズに金沢県を誕生させることができますから」
 よどみなく真利子は言った。
「あまり無茶なことはしない方がいい。もし真利子の身に何かあったら、真利雄たちも心配するだろうし。もう少し様子を見てからにしたら……」
 市長、飛行機の時間がありますので。利久雄の言葉を遮るように、村井秘書課長が近付いてきて告げる。伯父の忠告を否定するように、真利子は村井秘書課長のほうに頷いて見せた。そのくせ、しばらく会わない間に白髪が増えた伯父の姿に父母の重ね、確かにこれから両親には心配をかけてしまうのだろうな、と真利子は少し気がとがめた。
 
 姪にこんな反応をされるのは、前田利久雄も予想していた。真利子と村井課長がタクシーで去っていく。溜め息をついてコーヒーを一口飲んだところで、利久雄の向かいにスーツ姿の男が座った。ハセガワだった。
「どうでした? 金沢の資金の出所は判りそうですか?」
 ハセガワの問いに、利久雄はゆっくり首を横に振った。利久雄と同様、ハセガワもそれを予想していたのだろう。特に表情も変えず、そうですか、と答えただけだった。
「ただ、金沢県のことは、年が明けたら発表すると言っていた。新年度が始まると同時に、金沢県を誕生させると」
「いよいよか。金沢が動き出せば、何か見えてくるかもしれない」
 そう言って、ハセガワは小さくほくそ笑んだ。
「たいした成果もないのに、こんなことを言うのは気が引けるのだが……」
 ハセガワの様子を窺いながら、利久雄が口を開いた。
「先代天皇の末の孫娘の件、どうなんでしょう?」
「ああ、療養施設の件ね。何とかしますよ。何とかね」
 何度か財務省に当たってみたものの、良い答えが返ってきた試しがないこの件に、あっさりそう答えたハセカワの言葉を、利久雄はどこまで信用していいのかはかりかねていた。しかし、病弱な先代天皇の孫娘を、宮内庁の誰もが持て余している。それは本人も判っているはず。早く落ち着き先を与えて、いたたまれなさから解放してやりたい。
「もし何か判ったら、私に知らせて下さい。よろしくお願いします」
 ハセガワは頭を下げながら、低く響く声でそう言った。頼まれている利久雄のほうが、不思議と気圧されてしまう。
 ハセガワが店を出ていくと同時に、目の前に前に黒いセダンが止まり、ハセガワを乗せて走り去っていった。利久雄は溜め息をつき、残っていたコーヒーを一口飲んだ。冷めたコーヒーは甘さだけが舌に絡みつき、香ばしさなどもうどこにも無くなっていた。
 
 与党の党本部にいた官房長官のもとに、安全保障・危機管理室の室長から連絡が入った。
「報告したいことが二つあります」
 電話の向こうから、ハセガワの声がした。彼からの報告は、毎度、頭を悩ませるものばかりだった。立場上それは仕方のないことだと判っているが、官房長官の口からはつい溜め息が漏れる。
「何だ、手短に頼む」
「一つは、ミャンマーから難民船が出向しました。内戦を逃れた難民を乗せているようです。日本に来ることはないと思いますが、念のため、誰かを乗り込ませてフィリピンかシンガポールにでも上陸させるようにします」
 ああ、そうしてくれ。官房長官は短く答えた後、もう一つは何だ? と急かした。
 アジア諸国との貿易交渉がインドネシアで行われている。それが思うように進んでいないと外務省の職員から連絡をもらったばかりだった。条約交渉への参加そのものに反対する与党内の声をなんとか抑え込んで、政治家として引退間近の外務大臣に花を持たせる機会をつくってやったのだ。下手な結果を残しては党内にしこりを残すことになる。
 苛立ちを表に出さないように、官房長官はハセガワに訊き返した。
「年明けに、金沢が動きます」
 ほぉ、遂にか。そう答えて、官房長官は思案した。
 金沢を県として独立させる、その見返りとして、金沢は財政的に政府を世話をしてくれた。地方交付税の交付を受けず、国が発行する赤字国債の一定額を毎年購入し、それ以外にも国の財政難を支えることと引き換えに、政府は金沢県の独立を認める方向で話を進めてきた。おかげで日本の懐具合は、いくらかはマシになった。そして思った、金沢は打ち出の小槌でも持っているのか? と。
 来年か、と官房長官は大きく息を吐いた。
 この件は、総務大臣に預けてある。彼が何を言ったのかは知らないが、認める訳にはいかない。もし認めたら、他にも県として独立したいと名乗りを上げる自治体は出てくるだろう。名古屋や神戸、札幌あたりが様子を窺っている。金沢に続けとばかりに狼煙をあげられては、国内自治が立ち行かなくなる。
 だが、金沢の資金源は魅力的だし、喉から手が出るほど欲しい。今年に入ってから、金沢市長・前田真利子は、かなりの金額を提供して、各省庁や政府に強くかけあうようになった。なるべく時期を遅らせて、出せるだけ資金を出させようとしてきたが、それも通用しなくなってきていると総務大臣からも伝わってきていた。
「もう時間がない。なんとかして金沢の資金源を探れ。それさえ判れば、金沢県などいくらでも理由をつけて潰せる」
 官房長官は、改めてハセガワに指示を出した。
 もし金沢県構想が世間に発表されたら、もっとも驚くのは現石川県知事だろう。前田真利子が石川県の頭越しに事を進めようとしたことが、県知事の怒りを買うのは構わない。しかし、政府や関係省庁が彼女と接点を持っていたことが知られたら、知事の顔をつぶすことになるし、国と石川県との関係にもしこりが残る。
 政府は、金沢県構想を結果的に認めない。それは伝えておく必要がある。前田真利子が何を言おうが、何をしようが、最終的に現石川県知事には、来年度からも職務を続けでもらう。それを総務大臣から直々に、石川県知事に説明しておいてもらわなければ。
 
 一月一十五日(火)。
 金沢市長・前田真利子は、新年度から石川県を『金沢県』に改めると宣言した。
 日本中が驚いた。どこの放送局も、トップニュースとして報じた。全国紙は号外を出した。事前に知っていたはずの日本政府が、何の反応も示さなかったのはを不思議に思いながら、不自然なことだとは多くの国民は思っていなかった。それは、『金沢』という地名に『県』がつくことが、自然に思えたからに他ならない。
 その反応を、真利子は欲しかった。
 現在、石川県内には市と町が十九ある。そのうち、金沢市以北の能登半島にある十三の市や町が、既に金沢県に入ることが決まっている。残りの六つの市と町にも、以前からずっと金沢県の構想について協力を頼んできた。金沢、という一種のブランドが手に入ると前向きに捉える長もある一方で、我が道を行くと頑なに拒む長もいる。
 金沢県が誕生するという発表は、真利子にとって一つの賭けだった。多くの国民の反応があれば、県内すべての自治体が、石川県そのものが、金沢県構想に参加せざるを得ない流れが生まれる、そう真利子は目論んでいた。
 そして、真利子とともに金沢県の誕生に尽力してきた佐々木修平も、そうなることを願っていた。

 ↓(第一章につづく)

  ↓   

  ↓

  ↓

  ↓

  ↓


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?