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誕生!? 金沢県 【第五章】


 航空自衛隊小松基地に着いたハセガワは、基地司令の執務室に通された。防衛大臣に頼んだ通り、そこには小松市長もいた。ハセガワは挨拶もそこそこに、基地司令と小松市長にこう願い出た。
「これからここで起こることには、目をつぶって頂きたい」
 案の定、二人は当惑した表情を浮かべた。ハセガワはまず、小松市長のほうを向いて口を開いた。
「まず、小松市が金沢県に入ることを承諾して下さい。そして、それを本日午後八時に発表して欲しいのです」
 小松市長は眉をしかめた。地元での小松市の存在感は、金沢市に劣るものではない。それが金沢の軍門に下るような格好になるのだ、気に入らないという気持ちはハセガワにも理解できる。
「タダで、とは申しません。小松市は今年の秋に、市長選挙がありますよね。そのタイミングで、貴方には引退してもらいます。その後にある衆議院選挙で、貴方に候補者として立っていただけるなら、与党は貴方の当選を確約します」
 いかがでしょうか? ハセガワの問いかけに、小松市長の口元が緩む。
 現小松市長が、国政に打って出る機会をうかがっている。それを知ったハセガワは地元の有力議員に、時期候補の調整をしてもらうよう取り付けた。前田真利子にしても公共事業への資金提供など、小松市を堕とすために何かしらの手土産を用意してきているはず。市長が金沢県に入ることを断る理由は、もう何もない。
「あくまで、これからここで起こることには目をつぶる、というこちらの提案を承諾して下されば、の話ですが」
 噛んで含めるようにハセガワが言うと、判った、と小松市長は大きく頷いた。
「では、私には何があるのかね?」
 基地司令が、身を乗り出すようにハセガワに尋ねてきた。
「これから起こることで、司令は更迭されます。これからここで起こることに目をつぶって頂けるのであれば、輪島分屯地に異動になり、二年後に定年退職されたあとは、こちらでしかるべき天下り先を用意いたします」
「しかるべき天下り先、とは?」
「ある宮家の方が暮らす予定になっている施設の、管理責任者になってもらうつもりです。司令はこの地を気に入っておられると伺っております。余生はのんびりと、夫婦そろって能登半島で過ごされるのも悪くないかと」
 なるほど、と基地司令もまんざらでもなさそうだ。
「で、これからここで起こることとは何なのかね? 一応、私はこの基地の最高責任者だ。知っておくべき立場にあると思うのだが」
 司令が言う。小松市長も、同じことが気になって仕方がないという顔をしている。
「目をつぶって頂けるのであれば、お話ししますが。絶対に他言しないで下さい」
 ハセガワの言葉に基地司令は、隣りに座る小松市長に目配せする。小松市長が小さく頷き、君の指示に従おう、と基地司令も頷く。
「では、お話ししましょう」
 そう言いながら、ハセガワはソファーに座りなおした。
 
 午後一時。
 上官の指示通り、新井文彦が基地司令の執務室に入ると、そこには以前に会ったことのあるハセガワという男と、二人の隊員がいた。一人は文彦と同じ二十代後半に見えた。もう一人はあきらかに文彦より年上の、四十代半ばくらいか。小松基地に異動になって、まだ日の浅い文彦には、その二人の隊員がどの部隊の誰なのか、まったく判らなかった。
「わざわざ呼び出して、申し訳ありません」
 ハセガワが言った。基地司令は不在らしい。なのに執務室に呼び出されることを、文彦は不思議に思った。
 いったい何を言い渡されるのか。部隊長の指示でここに来たものの、文彦は理由を聞かされていない。他の二人の隊員も、不安げな顔をしている。もしかしたら、この二人も自分と同じで、小松基地に異動になって、まだいくらも経っていないのかもしれない。
「これから皆さんには、この日本国の存亡にかかわる、重大な任務を担ってもらいます」
 ソファーに座るよう促しながら、ハセガワが言う。他の二人と同様、文彦もこわごわとソファーにかけるが、どうも腰が落ち着かないのは、高価な調度品に慣れていないからだけではないのだろう。
 そもそも、文彦が自衛隊に入隊したのは、日本の平和と安全を守るため、などという立派な理想や信念があったからではなかった。
 文彦が、地元である岐阜県の大学に入学して間もなく、父が亡くなった。何か資格を持っているわけでもなく、自動車の運転免許くらいしか持っていなかった高卒の父親だったが、いくつかの職場を転々とした後、派遣社員として働いていたプラスチック製品を加工する仕事を続けるようになった。人付き合いが苦手な父親にとって、あまり人と関わることのない職場は、居心地が良かったらしい。しかし、派遣社員に関する法律が改正され、同じ職場に長くいられなくなった。別の職場に移った父親は、不慣れな仕事とストレスのため、仕事中に心臓発作で倒れ、そのまま帰らぬ人となった。まだ五十代、亡くなるには早い年齢だった。
 文彦には、小学生の妹がいた。夫を失ったショックを抱えたままの母が、一人で子供二人を養っていく精神的な負担は小さくない。それでも父の生命保険や遺族年金の受給、母親も派遣社員として働いていたこともあって、経済的な不安はなかった。子供二人には大学まで行かせてやりたい、自分が苦労した経験から、父はよく言っていた。
 そんな父が亡くなってから、文彦が妹の遊び相手になる機会が増えた。妹に寂しい思いをさせたくない、母の負担をなるべく減らしたい、そんな想いで文彦はその役割を買って出た。
 しかし、その数年後、外国の証券会社が経営破綻したのをきっかけに、世界中を不況が襲った。母は仕事を解雇され、再び就いた仕事は、以前ほどの経済的な安定をもたらしてはくれなくなった。このままでは、生活が行き詰るのは目に見えている。文彦は大学を辞め、就職する決心をする。が、父と同様、何か資格や免許を持っている訳でもない自分が、どれだけ安定した仕事につけるというのか。
 そんな時、目に留まったのが自衛官募集の求人だった。文彦が住んでいた岐阜県各務原市には、陸上自衛隊の基地がある。体力に自信がある訳ではなかったが、国家公務員という地位と安定した収入は、とても魅力的に映った。災害現場で救助活動をする様子をテレビで見てたこともあり、自衛隊に対するイメージも良かった。自衛官候補生の募集に、文彦は飛びつくように応募した。
 それが、つまずきの始まりだった。
 訓練は楽ではなかった。食事もとれないほど疲弊してしまうこともあった。ただ家族を守りたい、その一心で訓練についていった。そんな文彦だったから、特別に評価されることはなかったけれど、年一度の昇給があるし賞与もある。偉くなれなくても、安定した収入があればそれでいい。文彦はそう望んだが、それもずっと続くものではないと後から知った。
 終身雇用が原則の一般曹候補生とは違い、文彦が採用された自衛官候補生は、約二年の任期を満了したら退職となる。任期を継続することもできるが、いつまでも希望できる訳ではない。
 次の昇任試験に合格できなければ、継続任用は諦めろ。
 三任期目が終わる頃、文彦は上官から言われた。何度か受けた試験結果から、もう合格は無理だと暗に除隊を勧められた。更には、妹から悪い知らせが届いた。母が特殊詐欺にあい、預貯金を騙し取られたと。文彦は自衛隊の寮で暮らしていた。もし実家で一緒に暮らしていたら、そんな被害も回避できたかもしれない。そう思うと、悔やんでも悔やみきれなかった。
 精神的に参ってしまった母親は仕事を辞め、家に引きこもりがちになった。医者に診てもらったり、入院するにもお金がかかる。母が自殺してしまうのではないかと不安でならない、実家に帰って来て欲しい。電話でそう話す妹は、まだ高校生だった。年の離れた妹は、文彦にとってまるで娘のように可愛いかった。休日に外出許可をとって実家に帰ったりしたが、基地に戻る時には、残される妹の切実な表情にいつも後ろ髪を引かれた。
 今すぐ自衛隊を辞めて、再就職してみてはどうか?
 次の昇任試験に合格できなかったら、四任期目の満了で除隊しなければならない。そしたら特別退職手当が出るが、それまでの二年弱の間、状況が変わらない保証などどこにもない。だったら別の仕事を見付け、実家に戻るという選択肢も考えるべきではないか。もっとも、都合よく就職先が見付かる保証もどこにもないのだが。
 苦悩に満ちたまま受けた昇任試験は、不合格だった。母より先に、自分が自殺してしまいそうだった。何かを決意することもできず、先へ進む気力も湧かないまま、ダラダラと自衛隊員という立場に身を置きながら任期満了を持つ文彦に、なぜか上官が昇任試験を受けてみるよう促してきた。
 嫌味のつもりか……。
 そんな気持ちで受けた試験だったから、不合格は当然の結果だった。
 なのに数日後、文彦は昇進して、航空自衛隊小松基地への転属が決まった。その知らせを、上官や基地司令からではなく、ハセガワという男から聞いた。彼とはその時、初めて会った。
 母親と妹に関して、今後は一切の心配はいらない。その代わりに、小松基地に転属後は、身命を賭して日本のために職務に励んで欲しい。支度金を振り込んでおくと言われた翌日、文彦の銀行口座に百万円が振り込まれていた。文彦は狐につままれたような気分で、訳も判らないまま岐阜県各務原市の基地を後にした。
 そのハセガワと、小松基地で再会した。そしてハセガワが言う重大な任務の内容を聞かされ、文彦はまた、狐につままれたような気分になった。
 
「これから皆さんには、この日本国の存亡にかかわる、重大な任務を担ってもらいます」
 ハセガワは文彦を含めた三人に、事の詳細を説明した。そして、一人ひとりに小さな紙袋を渡した。ファストフード店でテイクアウトの商品を入れるような紙袋。でも、ハンバーガーなどよりも明らかに重い。皆、説明を聞いて中身は判っていた。
「決行時間である午後八時までは、三人とも自由に過ごしていただいて構いません。任務の内容については、絶対に他言しないで下さい。では、よろしくお願いします」
 そう言い残して、ハセガワは執務室を出て行った。
 文彦はどうしていいのか判らず、ソファーに座ったままボンヤリしていた。しばらくしてふと我に返り、他の二人の隊員のほうを見た。二人とも、さっきまでの文彦と変わらない顔をしていた。
「とりあえず、場所を変えませんか?」
 文彦は言ってみた。ここにいてもね、と二人は愛想笑いを浮かべ、腰を上げた。何となく文彦が先導するような格好で、食堂に来てしまった。夕飯にはまだ早いが、三人とも隅のテーブルにつき、黙ってしばらく俯いていた。
「あの、私、新井文彦と言います。先週まで岐阜基地にいたんですけど、急に小松基地に異動になりまして」
 これから三人、同じ任務を遂行することになるのだ。誰だか知らないままでいるのもバツが悪い。文彦は控えめに自己紹介を始めた。
「訳あって大学を辞めて、自衛官候補生として採用されて、ずっと任期制でやってきたんですけど、次の昇任試験に落ちたら除隊だって上官に言われて。受けた昇任試験には落ちたはずなんですけど、三曹に昇進したみたいで。何ていうか不思議な気分でここに来たんですよね。そしたら、まあ、こんなことになりまして……」
 家族の事情は話したくないけれど、それ以外のことを文彦は少しずつ話し出した。すると、二人の表情も少し明るくなってきた。
「俺も自衛官候補生でした。ここに来る前は、松島基地にいたんです。大原武士って言います。ちょっといろいろあって、こっちに異動するよう勧められたっていうか……」
 文彦と同じくらいの年齢の隊員が、話し始めた。
「松島って、宮城県の松島です。日本三景の、海に島がいくつもあるところで」
 文彦は頷いた。子供の頃、家族四人で旅行に行ったことがあった。湾内を遊覧船でまわったのを覚えている。もう昔の話だが。
「夏に灯篭流しと花火大会があって、すごく綺麗なんですよ」
 話下手らしい大原武士は、松島の名物について箇条書きのようにいくつか話した。もしハセガワに言われたことを忠実に実行した場合、ここにいる三人とも、もうそれを見ることが出来ないというのに。話し終えた大原武士は、愛想笑いを浮かべたまま俯いた。それを合図のように、もう一人の隊員が自己紹介を始めた。
「自分は、川村卓也といいます。大学を出て曹候補生として入隊して、もう二十年くらい経ちますが、全国の基地を渡り歩いてきて、以前は浜松基地にいました。どこに行っても人間関係が上手くいかなくて、それで酒に手を出してたらアルコール依存症だと診断されて、除隊も覚悟してたんです」
 言いにくいことを躊躇う様子もなく話したのは、開き直ったからだろうか。川村卓也の、自分に呆れたような口ぶりと表情から、文彦はそんなふうに感じた。
「カミさんにも離婚して欲しいって言われたんですけど、収入が無くなったら子供の養育費も払えないし。そしたら、小松基地に異動になったんですよ。お金の心配はいらないから、安心して任務に励めって言われて」
「俺も、除隊をになるかなぁ、と思っていたら小松基地に異動になったんです」
 川村卓也の話を聞いて、大原武士が口を開いた。
「まぁ、俺の場合、規律違反って言うか……訓練とか演習の様子を撮影して、動画サイトにアップしてたんです。かなり再生回数も上がってきてて、人気のアカウントになってたのにバレちゃって……。他にも、自衛隊の装備とかをネットオークションで売ったりして、結構な収入源になってたんですよ。バレちゃいましたけど……」
「それで、小松基地に異動になったんですか?」
 文彦の問いに、大原武士は苦笑しながら頷いた。
「罪を償って来いって言われて。俺のやったことは、確かにマズいですけど……。でも、死刑になるほどの事じゃないと思いません?」
 大原武士に言われ、文彦は曖昧な笑顔を返すだけだった。こんな奴と同じ扱いなのか、そう思うと文彦はやりきれない気持ちになった。大原武士からは何の切実さも感じられず、子供がいたずらして言い訳をするような稚拙さに、文彦は少し不愉快になった。川村卓也は俯いたままだった。
 それきり会話は途切れ、しばらく気まずい時間が流れた。
「あの、私、とりあえず一度、宿舎に戻ってきます。身の回りを整理しておきたいので」
 いつまでもこんな所にいたって仕方がない。文彦は立ち上がった。じゃあ、と他の二人も腰を上げる。
「午後八時前に、またここで」
 文彦はそう二人に告げ、一足先に食堂を出た。更衣室でハセガワから受け取った紙袋をバッグに突っ込み、それを持って寮に向かった。
 大原武士と川村卓也、さっき二人と話していて思った。自分が小松基地に異動になったのは、捨て駒になるためなのだと。何のために捨てられるのか、理由はまったく判らないし、捨てられた後はどういう扱いになるかも判らないけれど。
 文彦が寝起きしている寮の四人部屋には誰もいなかった。時計は午後二時を少し過ぎたところだった。皆、まだ課業の最中、文彦も本来ならそうだった。
 バッグを枕元に置き、文彦はベッドに寝転がった。ハセガワに言われたことに、まだ実感が沸かない。基地司令の執務室でのやり取りを何度も思い出し、ハセガワの言葉を頭の中で繰り返した。しばらくの間、そんな堂々巡りを続け、こんなことをしていても仕方がないと思えるほど冷静になった頃、文彦はバッグの中からハセガワから受け取った紙袋を取り出し、中身を出した。
 ハセガワの説明の通り、中身はメモ用紙に印刷された文言と、拳銃だった。
 メモ用紙には、こう書かれていた。
 
 我々は、前田真利子と、前田真利子が誕生させる金沢県に賛同する者である。
 古き良き日本の面影を残すこの地において、金沢を一つの県として誕生させる
 前田真利子の偉業を賛美し、その想いに共感する。
 彼女こそが、今のこの日本の腐った政治を含む社会体制を、健全で平等なものに
  変えてくれる救世主となるであろう。彼女が金沢県知事となった暁には、一県の
  長にとどまらず、一国の長として、この腐った日本を、生まれ変わらせてくれる
 と信じて疑わない。
  我々は今、すべての日本国民に問いたい。
  前田真利子と、彼女の想いに共感する我々と、この腐った日本を変えるべく戦う
  意志があるかと。
その意志を持つ多くの国民が立ち上がり、この地に集うことを確信し、その時が
今であることを明らかにするために、我々は自らの命を断つことで、それを狼煙
として示したい。
 前田真利子万歳
 金沢県万歳
 新生日本国万歳
 
 これを今日の午後八時、基地正面の建物の屋上で、大声で読み上げる。
 そして、読み上げた後、自分のこめかみに銃口をあて、引き金をひく。
 それがハセガワの指示だった。
 まるで、クーデターでも起こそうとしているような言い方だな、と文彦は思った。実際、日本の将来が安泰と思っている人は少ないだろう。今の世の中に不満を持っている人のほうが、ずっと多いに違いない。政治改革などと言われて久しいが、何かが変わったと思えるようなことは一つもない。もし現状を打破するだけの勢いのある人が出てきたら、誰もが期待せずにはいられないはずだ。
 しかし、だからと言って前田真利子のもとに集う者など、果たしているだろうか。そもそもクーデターなんて、今の日本で成功するとは思えない。そこまで覇気のある者が、今の日本に存在するのかどうかも疑わしい。
 三島由紀夫にでもなれと言うのか。
 メモ用紙を放り出して、文彦はベッドから起き上がった。二・二六事件という歴史的な出来事がふと頭に浮かんだ。本気でクーデターを起こすのであれば、それこそ自衛隊や警察が後ろ盾にならないと無理だろう。その後ろ盾を得ること自体が、無理ではあるけれど。
 文彦は携帯電話を手に取った。表示されている時刻を見ると、もうじき三時半になるところだった。もしハセガワの指示通りに行動すれば、五時間後に自分は死んでいることになる。そう考えてみても、文彦にはやはり何の実感も沸いてこなかった。
 この時間なら、授業も終わり放課後になっているはず。文彦が妹に電話すると、呼び出し音が続いた。かけ直そうかと思ったら、はい、と妹の声がした。
「急に電話して悪いな。どうしているか気になって」
 文彦が申し訳なさそうに言うと、ううん、と妹は抑えた声で短く答えた。
「今、バイト中だから。コンビニの。急用じゃなかったら、後からかけ直すけど」
「学校が終わってすぐにバイトか。大変だな」
「学校って……もう春休みに入っているから。春休み中は、ずっとバイト」
 言われてみれば、そうだった。基地の中で生活していると、世間の時節に疎くなる。文彦の中に、急に恥ずかしさが込み上げてくる。
「母さんの様子はどうだ?」
「お兄ちゃんが送金してくれたおかげで、今は落ち着いて生活しているよ。ありがと」
 自衛隊って給料が高いんだね、と言われ、文彦は口ごもってしまった。まさか、自分の命と引き換えに得られたお金だとは言えない。
「バイトの途中で、ごめんな」
 短いやりとりの後、文彦は電話を切った。妹も元気そうだったし、母の状態も良さそうで文彦は安心した。その生活を維持するためには、今夜、ハセガワからの指示を実行しなければならない。川村卓也の話から考えても、残された家族のための経済的な援助を、ハセガワはしてくれるのだろう。
 文彦は、窓から外を眺めた。三月も終わりに近付いている。まだ雪が降ることはあるだろうが、社会活動に影響が出るほど積もる心配はない。道端や田んぼにも、少しずつ若々しい緑色が顔を出し始めている。もし大学を卒業して、どこかの企業に就職していたとしたら、年度末で忙しい日々を送っていたのかもしれない、と文彦はありもしなかった自分の将来に想いを馳せた。
 柵をひとつ越えただけで、世界が変わってしまう。多くの人が属する社会と、自分がいる基地とを隔てる柵。たったそれだけのものなのに、容易に越えることが許されない。そんなものに自分はどれだけ縛り付けられてきたことか。確かに選んだのは自分だったか、もし父が事故で亡くならなければ、もし母が詐欺に遭わなければ、そんな恨みつらみにどれだけ奥歯をかみしめてきたことか。
 文彦は大声で叫びたかった。
 自分は、死ななければならないほど何をしたというのか? と。
 叫ぶに叫べないまま溜め息をつき、文彦はベッドのわきに座った。さっきまで見ていたメモ用紙が目に留まり、それを折り畳み紙袋に戻そうとした時、中に入っている拳銃に目が留まった。
 これがあれば、柵を越えられやしないだろうか? そんな考えが頭に浮かぶ。
 しかし、すぐに無理だと自ら否定した。警備員だって、武器くらいは携帯している。殺人を犯した犯罪者になる覚悟でもなければ、門を抜けることはできない。
 紙袋をバッグに放り込み、文彦がまたベッドに寝転がろうとすると、携帯電話に着信があるのに気付いた。妹からのメールだった。
 電話してくれて、ありがとう。たまには家に帰ってきて下さい。
 急に胸が膨らんだような感覚に襲われ、文彦は抑えきれず泣いてしまった。誰もいない寮の部屋なのに、布団に顔を押し付けて、声を漏らさないようにして泣いた。
 家に帰りたい、妹と母に会いたい。
 そんな切実な気持ちが、文彦の思考を早めていき、そして思い付いた。
 柵を越えられないのであれば、反対側はどうか? 
 小松基地は、滑走路をはさんで、旅客機が発着する小松空港と隣接している。そこは作業員以外は立ち入り禁止の区域だが、柵も塀もない。空港の警備も厳重だが、不審者として警備員に捕まることができれば、死ぬという結末だけは回避できる。逮捕されて警察署に連行されれば願ったり叶ったり、少なくとも身の安全だけは確保できるかもしれない。
 そうなれば母や妹は、今のような安定した生活は送ることが出来なくなるかもしれない。でも、何か違う選択肢を探すことはできるのではないか。つまずいて迷い込んだこの道を抜け出す方法を、見付けられるのではないか。
 とにかく、あんな二人と心中するなんて馬鹿げている。
 携帯電話に表示されている時刻は、まだ午後四時を回っていないが、じきに外は薄暗くなってくる。課業を終えた隊員が戻ってくる午後五時半ごろは、完全に日は落ちている。
 文彦は私服の上から、作業服を重ね着した。基地を抜け、空港側にたどり着く前に作業服を脱ぎ捨てれば、滑走路に侵入した不審者と思ってもらえる。そう期待した。念の為、拳銃も携帯しようと思ったが、基地から脱走した者だと思われないように、置いていくことにした。
 先輩自衛官たちが戻ってくる前に、文彦は部屋を出た。荷物は携帯電話と財布くらいでいい。日用品は置いていく。どうせ、もうここで使うことはないのだから。早足で階段をおり、文彦は寮を出た。
 夕食の時間は午後五時から。それにはまだ早いが、何にしても腹が減っていては満足に動けない。そう思って基地内のコンビニに向かおうとする文彦の耳に、どこからか叫び声が聞こえてきた。外はすでに薄暗くなってきてよく見えないが、誰かが警備員に捕まって事務所に連れていかれるようだった。基地に入り込もうとした不審者でもいたのだろう。だが、不審者を拘束しているのは、警備の担当隊員ではなかった。スーツを着た、自衛隊の人間というより、刑事かSPのような男たち。
 どっちにしろ自分には関係ない、そう思ってコンビニに向かおうとした文彦は、不審者のあげた声に足を止めた。
「ちきしょう」
 大原武士の声だった。振り向いてよく見ると、川村卓也もいた。川村卓也はもう観念して、おとなしく従っている。
「私は仕方なくついてきたんです。彼がやろうって言い出して」
「言い出したのはお前だろ! 他人のせいにしてんじゃねぇ!」
 川村卓也の言葉に、大原武士が噛み付く。大原武士は下衆なやつだと思ったが、川村卓也が人間関係が上手くいかなかったのも、何となく理由が判った気がした。二人が建物の中に連れ込まれ、ドアが閉められたとたん喧噪は消えた。
 あの二人に巻き込まれては、たまったものじゃない。文彦が足早にコンビニに向かおうとすると、不意に声をかけられた。驚いて振り向くと、スーツを着た男が一人、文彦のうしろに立っていた。
「あなたも、変な気は起こさないほうが身のためです。あなたなら任務を遂行してくれると信じていますので。よろしくお願いします」
 男はそう言って、文彦の上着のポケットに何かを入れた。拳銃だった。部屋に置いてきたものか、別のものかは判らなかったが、文彦は確信した。
 ハセガワの部下に見張られている。
 逃げられない。そう思ったとたん、文彦は体中の力が抜け、その場に倒れそうになった。なけなしの力を足に込めて踏ん張り、しばらくの間、文彦は頭が空転したように何も考えられず、その場に立ち尽くしていた。
 
 夕食をとった覚えもなく、どうやってここまで来たのかも思い出せず、文彦は午後八時に基地正面にある建物の屋上に向かっていた。ここには異動してきた際に、事務手続きのために一度来ただけだ。屋上なんて登ったこともない。
 課業の時間が過ぎた館内は、上の階にいくたびに人の気配がなくなっていく。文彦が先頭を歩き、大原武士と川村卓也がその後に続く。それを監視するように、スーツを着た男が二人、後をついてくる。
 断頭台への階段を登っているようだ、と文彦は思った。訓練の後で疲弊していても、これほど階段をあがる足が重いと感じたことはなかった。そのくせ、足が地についている気がしない。もう逃げられないと戦慄を覚えながら、なのに死へ向かうことに現実感がまったく沸いてこない。案外どうにかなるんじゃないか、とまだ心のどこかで思っている。階段を一段あがるごとに文彦の中で、恐怖と楽観が入れ替わる。
 屋上に出るドアの前で立ち止まり、文彦はゆっくりと振り返った。大原武士も川村卓也も、何も言わず、ただじっと文彦を見ていた。そのうしろにいる男二人も同じだった。
 小さく息を吐いて、文彦はドアノブの下にある鍵を回した。文彦の小さな期待に反して、鍵はカチッという軽い音とともに解除された。ノブを回すと、ドアは音を立てることもなく滑らかに開いた。冷え冷えとした踊り場に、さらに冷たい空気が流れ込んでくる。
 屋上に一歩出た文彦は、風の冷たさに身を固くした。建物の正面のほうに歩み始めた文彦のうしろから、寒いなぁ、と大原武士の声がする。これから死のうとする者が呑気な、と文彦は苛立ったが、文彦自身も目の前にある死というものに、まだ現実感が伴なっていなかった。納得できずにいた、といったほうが正確かもしれない。
 文彦はまたうしろを振り返った。やはり大原武士と川村卓也がいる。
 自分はお金に困っていた、それだけだ。
 それだけなのに、何故こんな連中と死ななければならない?
 文彦はもう一度振り返った。大原武士と川村卓也がいる。監視役の二人は、屋上に出るドアの影に潜んでいる。
 上着のポケットに手を入れ、文彦は拳銃に触れた。その感触を確かめる。
 これがあれば、この場を逃れることはできないだろうか。そう思いながら周りを見下ろすと、正門からパトカーと何台かの乗用車が入ってくるのが見えた。この建物の前に止まり、車から人が降りてくる。
 警察官がいるのは好都合だ。発砲して騒ぎを起こせば、この訳の判らない任務とやらもご破算になるかもしれない。とにかく、自分がここにいることを多くの人に知らせて、注目してもらうことが大事だ。
 文彦は、拳銃と一緒にポケットに入れてあったメモ用紙を取り出し、それを大声で読み上げた。読み上げながらあたりを見ると、こちらを見ている何人かが目に入った。
 よし、上手くいく。
「前田真利子万歳! 金沢県万歳! 新生日本国万歳!」
 最後にそう叫び、文彦は拳銃を、自分のこめかみに向けてではなく、空に向けて発砲した。乾いた破裂音があたりに響く。
 その瞬間、文彦は、意識が飛びそうなほどの強烈な痛みを頭に感じた。
 ほんの一瞬、そう感じて、文彦の意識は途切れてしまった。
 
「他の二人にも射殺許可が出ている。撃ってよし」
 ハセガワの言葉に、本当にいいんですか? という問いが返ってくる。
 小松基地から一キロ余り離れたところにある四階建ての公営住宅の屋上に、藤本吉行2等陸曹とともにハセガワはいた。藤本2等陸曹は腹ばいの狙撃姿勢のまま、ハセガワの反応を待っている。
「自衛隊の最高司令官、内閣総理大臣の命もある。撃ってよし」
 今度は、了解しました、という答えが返ってくる。間もなく銃声が二度響いた。
 あの三人のうち、新井文彦以外の二人は逃げ出すかもしれない、そう考えていたハセガワは、狙撃手を用意した。案の定、二人は逃走を企てたが、新井文彦までもが余計な画策を考えたのは残念なことだ。
 大事なのは、クーデターを計画していたという疑いを作り出すこと。小松市が金沢県に入ることを表明した直後、小松基地で事件が起こる。おあつらえむきじゃないか。事が終わった後、マスコミへの発表はどうとでもなる。そうして前田真利子を追い詰めれば、何かしらボロを出してくるに違いない。
「任務の完了を確認しました」
 耳に当てていた携帯電話に連絡が入ると、ハセガワは覗いていた双眼鏡をおろし藤本吉行2等陸曹に言った。
「任務は完了しました。撤収してもらって構いません」
 ハセガワは言い、携帯電話をポケットに入れた。藤本吉行2等陸曹は狙撃に使用したМ24を片付け始めるが、どこか釈然としない顔をしている。
「その銃の射程ギリギリの距離で命中させるとは、さすがですね。藤本2等陸曹は、射撃競技でも優秀な成績を収めていることで、滝ケ原駐屯地では有名ですから。普通科教導連隊の第3中隊は、射撃競技では毎年、優勝候補だと聞いています」
 いえ、それほどでも。藤本吉行2等陸曹は短く答えて、薄い愛想笑いを浮かべただけだった。評価も上々、任務にも忠実。うわさ通りの人物だとハセガワは思った。真面目なのは結構。だが、その真面目さが、どちらに向くかで結果は変わってくる。
 準備する時間がなく、急遽、狙撃手を手配した。防衛大臣と基地司令には承諾を得ているが、藤本2等陸曹が所属する中隊長には、事の次第を伝えていない。藤本2等陸曹が下手なことを上官に言わなければ済むのだが。
 真面目さは、時に波風を立てる原因にもなる。
 公営住宅の屋上からおり、待たせてあった車の後部座席に乗り込んだハセガワは、運転手に小松基地に向かうよう指示した。基地には入らず、正門前の駐車場に車を止めてくれと。
「また面倒な仕事か?」
 木村リョータに電話すると、不機嫌そうな声が返ってきた。そんな言い方をするな、とハセガワが窘める。
「消して欲しい人物がいる。滝ケ原駐屯地に所属する陸上自衛隊の隊員だ。今、小松市にいる。これから滝ケ原に戻るから、その途中に交通事故で死亡したことにして欲しい。詳しい情報は、改めて伝える。余計な手間をかけさせるが、臨時の手当は用意するから、よろしく頼む」
 ハセガワが内容をかいつまんで説明すると、不承不承と言いたげな調子で木村リョータは引き受けた。
「お前のことはアテにしている」
 ハセガワの言葉に、ふん、と木村リョータは鼻を鳴らして電話を切った。
 小松基地の正門の前で、ハセガワは部下から段取りどおりに事が進んでいることを伝えられた。防衛相の防衛監察本部の者を乗せた車や、警察の車両が、正面ゲートを出入りしている。自衛官が三人死んだばかりだ。駐車場に止められたハセガワの車に、目をくれる者などいない。
「藤本吉行2等陸曹が車で滝ケ原駐屯地まで戻る。後をつけて、位置を木村リョータに伝えてやれ」
 ハセガワに指示された部下が二人、別の車に乗り込んで、公営住宅のほうに向かう。それを見届けてから、ハセガワは金沢市内にある宿泊先のホテルに戻るよう運転手に指図した。
「午後九時から、官房長官が記者会見を開くことになっている。その前に、各マスコミにも情報が届くように手配してある。NHKのニュースで報道内容を確認したいのだが、それまでにホテルに着くかな?」
「まだ時間はあります。余裕で着きますよ」
 運転手の言葉を聞いたハセガワは、鷹揚にシートの背もたれに寄り掛かった。
 
 午後九時。日本中が騒然となった。
 民放のテレビ局は字幕で、NHKはニュース番組で、航空自衛隊小松基地で起こったことを伝えた。
 基地所属の自衛官三人がクーデターを計画して、賛同するものを募るために拳銃で自決した。その計画の首謀者が、金沢市長、前田真利子である疑いが強い。彼女を信奉し、彼女に扇動された者たちが、金沢県の誕生を機に、クーデターの計画を実行に移そうとしていたことが、彼らが自決する前にした演説から明らかになった。同様の内容が書かれたメモ用紙を、彼らが所持していた。
 彼らが事件を起こした中で、小松基地所属の自衛隊員、新井文彦3等空曹、川村卓也2等空曹、大原武士2等空士の三名が、自決した隊員との銃撃戦で死亡した。優秀な隊員を失ったことは痛恨の極み。ただただ冥福を祈り、ご遺族には哀悼の意を捧げたい。また、当基地にこのような不届き者がいたことに気付かずにいたのは、大変に遺憾であり、国民の皆様に無用な不安、ご心配をおかけしたことに心から謝罪したい。基地司令はそうコメントしている。
「官房長官の記者会見が始まります」
 女性アナウンサーの言葉で、映像が切り替わった。先ほどまでの報道内容とほぼ同じものを、官房長官は原稿に目を落としながら読み上げる。何度もつかえて読み直す様が、見ている者に緊迫感を抱かせる。
 事のあらましを読み終えた官房長官は、原稿から顔を上げ、声を強めてこう結んだ。
「金沢市長、前田真利子を、内乱罪の容疑で全国に指名手配します」
 
 ソファーにもたれながら、ホテルの部屋でテレビを見ていたハセガワは、その内容に満足していた。すべて予定通りだ。そして、これからも予定通りに事が進んでくれれば、借金まみれなうえに、それが改善する見込みもない今の日本の財政が、大きく好転する可能性が生まれる。
「ニュースを御覧になりましたか?」
 しばらくは終わりそうにないニュース特番を眺めながら、ハセガワが前田真利子の伯父、前田利久雄に電話すると、これはどういうことだ! と間髪置かずに怒声が飛んできた。
「見ての通りですよ。あなたの姪御さんがクーデターを画策していた。だから指名手配された、そういうことです」
「そんな筈はない。真利子はそんな事まで言ってなかった」
 ソファーから体を起こし、ハセガワは続けた。
「まぁ、落ち着いて下さい。確かに、彼女には内乱罪の容疑がかけられています。でも、それは何かの間違いかもしれない。だから、あなたに、彼女に連絡をつけて欲しいのですよ。大事なことを聞き出すために」
 ついさっきまで息の荒かった前田利久雄が、電話の向こうで黙りこむ。こちらの意図を察したようで、ハセガワが口を開くまでもなく、向こうから要点を言ってくれた。
「金沢の、財源のことか?」
「ええ、そうです。あなたの姪御さんがそれを日本政府に寄贈してくれれば、今の日本を変えられます。彼女がこの国を変えるのです。クーデターの首謀者どころか、救世主になるのですよ、あなたの姪御さんは」
「何が救世主だ!」
 再び怒声を吐いた前田利久雄だったが、ハセガワの提案に抗うすべを持たないからだろう、彼の口からはそれ以上の言葉が出てこない。
「すべては、あなたの尽力と、彼女の決断次第です」
 ハセガワが言い切ると、大きく息を吐く音が受話器越しに聞こえてきただけで、言葉は返ってこなかった。観念したか。ハセガワはほくそ笑んだ。
「よろしくお願いします」
 やはり言葉は返ってこず、そのまま電話は切れた。
 ハセガワはソファーから立ち上がり、窓の外を眺めた。
 目と鼻の先に、金沢城公園がある。その昔、初代加賀藩主・前田利家が居を構えたその城はライトアップされ、今もこうしてその姿を残している。
 その向こうに、現在のこの地を治める金沢市役所がある。その長である前田真利子が、自らの城に戻ることはもはや無い。もし彼女が、利家公のように名前を残せたとしても、それは悪人としてでしかない。
 どこからかサイレンが聞こえ、それが徐々に大きくなって、赤色灯をつけたパトカーが眼下を通り過ぎていく。午後十時を過ぎた街は、人通りも殆どない。幹線道路では検問が行われていることだろう。前田真利子は午後から小松市を訪れ、その後の足取りは判っていない。
 前田真利子が市長の椅子にい続けられたのは、ひた隠しにしてきた財源があったからだ。おかげで思い切った施策を打ち出せたし、実行できた。それを差し出せば内乱罪の容疑は取り消されるが、今まで通りの市政運営をしていくことは不可能になる。容疑者のまま身柄を拘束されれば、それで彼女の市長としての人生は終わる。日本という国に新しい県が誕生することもなく、元通りの状態に帰るだけだ。
 ハセガワは、結び目に指を入れネクタイを緩めた。
 今は前田利久雄に期待しよう。彼が前田真利子を説き伏せればそれで良し、こちらが望んだ結果にならなかったとしても、彼にはまだ働いてもらう。
 これで全てを終わらせてしまうのは、やはり面白くないから。
 
「金沢市長、前田真利子を、内乱罪の容疑で全国に指名手配します」
 秘書課の職員である村井長(なが)辰(たつ)がそれを聞いたのは、市長である前田真利子を乗せた公用車を運転している時だった。金沢県への参加に難色を示していた小松市が、一転して態度を変えた。理由は判らないが、小松市が金沢県に入ると表明してくれれば、残る加賀市も、孤立無援となり金沢県へ参加するしか道がなくなる。
 小松市の気が変わらないうちに内諾を取り付けておきたい。そういう前田市長のためにハンドルを握ったのだが、帰路の車中、ラジオのニュースで聞いた官房長官の言葉は、村井長辰にとっても寝耳に水だった。
「どういうこと!」
 後部座席にいる前田市長が叫ぶ。事実無根の容疑で指名手配されたことに気が動転しているのが、バックミラー越しにも見て取れた。
「一杯食わされた」
 村井長辰も、思わず舌打ちしてしまった。自分が動揺してしまっているところを見せてしまっては、市長の心理状態にまで影響しかねない。
「これから、どうしたら……」
「とにかく金沢には戻れません。市長のご自宅にもです」
 夜の北陸自動車道は車も少なく、時おり輸送の大型トラックがいるだけだ。村井長辰はアクセルを踏み込み、金沢西インターチェンジを素通りした。まもなく金沢東インターチェンジが見えてくるが、そこも素通りするつもりでいる。まだ落ち着きを取り戻せない様子の前田市長が、すがるような目でこちらを見ている。
「状況が判らないことには、どう対応したら良いのかも判りません。このまま走り続けます」
 村井長辰は、ラジオのボリュームを上げた。じきに金沢森本インターチェンジも通り過ぎる。このまま走り続けて金沢を過ぎ、トンネルを抜ければ富山県に入る。そこも自分たちにとって安息の地ではない。富山県を過ぎて、新潟県に入ったとしても。
「もう追いついてきたか」
 思わず呟いてしまった。後部座席にいる前田市長にも、サイドミラーに反射する赤いランプが見えているのだろう、次第に動揺が大きくなってくるのが表情から判る。
「石川県警の管轄は、小矢部インターチェンジまでのはずです。そこを過ぎるまで飛ばします」
 時おり現れる案内看板が、読み取れないほど早く車窓を流れていく。スピードメーターを見ている余裕などない、うしろから来るパトカーに追いつかれないためだけにアクセルを踏む。常軌を逸した速度で走っていることよりも、自分たちが追われていることに、村井長辰は恐怖を覚えていた。
 国、政府、そんな自分たちの力ではとても逆らうことのできない大きなものが、裏で糸を引いている。真実が通用しない、日本中どこにも逃げ場がない。話をしたところで、聞く耳など持っていない連中が追ってくる。
 金沢県を誕生させるため、前田市長とともに東奔西走してきた。やっとここまで来たと言うのに……。
 いざとなったら、市長だけでも。
「小矢部インターを過ぎれば……」
 村井長辰は呟いた、次の瞬間、小矢部インターチェンジからパトカーが二台、本車線に入ってきた。富山県警のパトカーだ。しかも、うしろからは追ってこないはずの石川県警のパトカーがまだ追ってくる。
「まずい、まずいな……」
 前を走る二台のパトカーが、速度を落としながら走行して本車線をふさぐ。走行車線を走るパトカーより、追い越し車線を走るパトカーが若干うしろよりを行く。路側帯からの追い抜きを誘っているのだろう。しかし、無理にでも路側帯から追い抜こうとすれば、パトカー二台が左により道路脇に押さえ込まれるのが目に見えている。
 止まったらお仕舞いだ。速度を落としながらも、車間距離を詰めたり、離れたりしながら、村井長辰はなんとかこの状況を脱する機会をうかがう。が、向こうにとっては勝手知ったる道。小矢部川サービスエリアの看板が見えたとたん、追い越し車線を走っていたパトカーが、通行帯の線を越えて幅寄せしてくる。走行車線を走っているパトカーはさらに速度を落とし、もう一台のパトカーの動きに合わせるように徐々に左に寄る。
 小矢部川サービスエリアに入れと言わんばかりの誘導。しかし、入ってしまえば最後、出ることはできない。入らなかったとしても、このままでは路側帯に追い込まれ停止せざるを得ない。
 いっそのこと、車をぶつけて無理矢理にでも前に出てしまおうか。そんな考えが村井長辰の頭をかすめるが、もし車がまともに走れない状態になってしまっては、逃げるに逃げられなくなってしまう。小矢部インターチェンジを過ぎてもついてくる石川県警のパトカーも、次第に追いついてきた。三対一では分が悪すぎる。
 行く手をはばむ二台のパトカーが減速して停止しようとする。村井長辰もそれに合わせてブレーキを踏む。スピードメーターの針が止まる。うしろから来たパトカーに後方をふさがれたら、もう身動きが取れなくなる。
 万事休す。
 村井長辰はバックミラーを見た。前田市長は、完全に怯え切っている。停止したパトカーから警官が降りてくる。高速警ら隊の制服が近付いてくる。村井長辰はまわりを見た。助手席の足元に傘があるのを見付け、それに手を伸ばした。
 こうなったら、悪あがきの一つでもしてやる!
 市長の傍らで仕事をしてきた。市長ほどではないものの、緊張する場面は今までに何度もあった。しかし、今の緊張はそれらとは種類が違う。興奮と言ったほうがいいかもしれない。
「かかってこい!」
 武者ぶるいが言葉を吐かせた。なのに、こちらに近付いてきた警官が、急に向こうに走り出す。
 ほんの一瞬、呆気に取られていた村井長辰の目の前に、雷でも落ちたような轟音が鳴り響いた。うしろから走ってきた石川県警のパトカーが、止まっていた二台のパトカーの間に突っ込んできた。しかも、勢いをつけ前進、後退を繰り返し、富山県警のパトカー二台に体当たりを繰り返している。
 何故こんなことを……? 自らの手で市長を捕らえ、手柄を上げたいから? いや、ここまでやったら、逆に自分が犯罪者として捕まるだろ。
 傘を握りしめたまま、ただ目の前にある予測の範疇をはるかに越えた出来事に、村井長辰は驚き、全身が硬直していた。しばらく呆然自失している間にも、パトカーは体当たりを続けている。大きな衝突音が響くたびに、飛び散ったライトのレンズや金属部品がアスファルトの上にまき散らされ、付いていた車のほうは無残な姿に変わっていく。乗っている警察官も身を縮めて、嵐がおさまるのをただ耐えているしかない。すべてのエアバッグが開いてしまっていることからも、衝撃の凄まじさが判る。
 異常な光景に、現実感を失いかけていた村井長辰が正気を取り戻したのは、狂気のパトカーがゆっくりとこちらに向かってきたからだ。あんな暴走車に突撃されたら、タダじゃ済まない。逃走するためにも、車が走行不能になってはいけない。そう思いながらも、あれだけぶつけても車というのは動くものなのだな、と村井長辰は変な感心もしていた。
 とにかく行く手をふさぐものはなくなった。今なら逃げられる。そう思う村井長辰だったが、恐怖で体が思うように動かない。そうこうしているうちに、金沢県警察と側面に書かれたパトカーが寄ってきた。運転席の警官が、窓を開けて何か言っている。暗くてはっきり見えないが、まだ若そうな顔に思える。よく聞き取れないので、村井長辰も少しだけ窓を開けた。相手は常軌を逸した奴だ、下手に逃げ出したら、何をされるか判ったものではない。警戒しながら向こうの様子をうかがう。
「前田市長の車だろ?」
村井長辰は、傘を握っている手に力を込めた。
「富山インターチェンジの辺りは警戒が厳重だから、通らないほうがいい。小矢部砺波ジャンクションから東海北陸自動車道に乗り換えて、岐阜県方面に向かえ。福光インターチェンジで高速をおりれば、俺たちの仲間が金沢まで連れていってくれるはずだ。そこまでは、俺も護衛についていってやるから」
 村井長辰には、彼が何を言っているのか判らなかった。行き先を案内してくれている……? 逃げろと言っているのか……逃がしてくれる? まったく理解が追いつかない。
「仲間って……?」
「いろんな奴らさ。金沢県の誕生を待ち望んでいる奴もいれば、今の世の中に不満を持っている奴、日本を変えたいと思っている奴。そんな奴らが、前田真利子の旗のもと、金沢市役所や金沢城に集まっているんだ。小松空港にもな。こうなったらクーデターでも何でも起こしてやるってさ。殿様の前田真利子がいなかったら、戦(いくさ)も始まらないだろ」
「戦って……そんなことをしたら、本当にクーデターを画策したみたいになってしまうじゃないか」
「本当も嘘もねぇよ。とにかく、警察に前田の大将を引き渡す訳にはいかないんだ。まぁ、大将っていうか、姫っていうか」
 その時、どこかからアラーム音のようなものが聞こえてきた。後部座席、前田市長のバッグの中から。携帯電話の着信音。
「市長、電話です」
 村井長辰が声をかけると、まだ正気を取り戻していなかった前田市長が我に返った。ぼんやりしていた目が、次第に焦点を結んでいく。バッグの中を慌てて探っている市長の姿が、バックミラーに映っている。それを見て、村井長辰は少し落ち着きを取り戻した。
「富山のおまわりが追ってこないうちに、早く行くぞ」
 窮地を救ってくれたはいいが、彼のパトカーはボロボロに傷付いている。外れたヘッドライトが配線だけでぶら下がっている姿が痛々しい。何か液体が垂れて、車体の下から流れ出ている。臭いからしてガソリンではないようだが、冷却水かオイルか、とにかくまともに走り続けられるのか判らない。
「そんな状態で、ちゃんと走れるのか?」
 村井長辰の声に、若い警察官は頭をかいた。
「悪いけど、ライトがダメになって前が暗くて見えないんだ。後からついていくから、先に行ってくれないか? ウインカーもつかないし、メーターも死んでるな」
「助けてもらって悪いが、もしそっちがついて来られないと判断したら置いていくから。それでいいか?」
 上等だぜ。若い警察官はそう言って、親指を立てて見せた。
 ずっと握りしめていた傘を助手席の足元に放り出し、村井長辰はハンドルを握った。
 クーデター。それが、どれだけ今の日本では不可能なことなのか、きっと彼は判っていない。しかし、こうなってしまっては、もう行けるところまで行くしかない。
 
「市長、電話です」
 村井秘書課長に言われ、前田真利子は我に返った。
 全国に指名手配された、それをラジオのニュースで聞いて、頭の中に閃光が走った。それが眩しすぎて、思考から言葉が奪われた。今どこにいるのかも判っていない、どうやってここまで来たのかも判らない。ただ、とんでもなく早い速度で景色が流れ、体を震わせるような衝撃が続き、自分ではどうにもならないことに身を任せて、気が付いたら今ここにいる。
 市長、電話です。その声に弾かれて、バッグの中を探った。探りながら、着信音が鳴っている、電話がかかってきている、ということに実感が戻ってきた。
 電話の相手は、伯父の前田利久雄だった。
「真利子、無事か?」
 はい、何とか。真利子はそう反射的に答えたが、全国に指名手配されている自分に電話をかけてきて、無事か? というのも変な話だと可笑しくなる。さっきまでとは違い、ずいぶん冷静になってきた、と真利子は思えるまでになっていた。
「追われる身の私に、何のご用でしょうか?」
 からかっているように聞こえるかもしれない。そう思われるなら、それでいい。落ち着きを取り戻してきたとは言っても、精神的に余裕がないことに変わりはない。それを悟られたくないがために、真利子は気を張った。
「ある人に頼めば、クーデターを計画したのは間違いで、真利子の指名手配を取り消すことができる。そのためには、まぁ……その人が欲しがっている情報を提供する必要があるんだ。そしたら真利子も、追われる身ではなくなるんだが……良い話だと思わないか?」
「なんだか、歯切れの悪い言い方ですわね」
 真利子が言うと、前田利久雄は口ごもった。いかがわしい相手との関係に、後ろめたさを感じている表れなのだろう。伯父は途切れ途切れに、筋が見えない話を伝えてくるが、そんなものを聞いていても埒が明かない。
 車は大きく弧を描き始めた。小矢部砺波ジャンクションで、北陸自動車道から東海北陸自動車道に乗り換え、進む方向を変えた。案内看板に書かれている地名に『岐阜』『五箇山』の文字が出てくる。
「言いたいことがあるのなら、はっきりおっしゃって頂いて構いませんよ」
 真利子は痺れを切らした。
「金沢県の誕生のために、ずいぶんと巨額のお金を使ってきたと聞いているんだが……。もしそうなら、その……財源は、どうしたんだ?」
 そんなことだろうと真利子は思っていた。去年の年末、東京で伯父と会った時も、同じような話が出た。日本政府ときたら、さんざんお金をせびっておいて、仕舞いには財布ごとよこせと言ってきたのだ。
「金沢が持っている打ち出の小槌を差し出せば、私の指名手配を取り消す。そういうことですね?」
 伯父は、しぶしぶといった体でそれを認めた。
 まだいつも通りに頭が回っているとは言い難い。こういう状態で、物事を正しく判断しようとしても無理である。それを判らず痛い目にあったことが、若い頃にはずいぶんあった。その反省があったからこそ、自分はいろんなものを得る機会に恵まれたし、市長になることもできた。それは間違いなく、前田真利子の心の中に羅針盤として根付いている。
 それが指し示すものは、今すぐに結論は出せない、ということ。
「考える時間はいただけないのかしら?」
「捕まったらどうなるか、判ったものじゃないぞ」
 もし捕まったとしても、相手が欲するものを差し出せば無罪放免になる可能性は充分ある。が、そうなったらもう市長の座にはいられなくなる。結局、捕まっても捕まらなくても同じ、ならば。
「伯父様、この件に関しては、返事を保留にしてよろしいでしょうか?」
「保留って……今の自分の立場を判って言っているのか、真利子」
 判っています。保留の旨、先方様によろしくお伝えください。そう言って真利子は電話を切った。
 伯父の呆れる顔が見えるようだ。子供の頃のお転婆ぶりを思い出しているかもしれない。あの頃、伯父はすでに宮内庁の職員だった。帰省した時には、兼六園や金沢城公園に一緒に出かけたこともあった。その度に、ご先祖様がこのお城を造ったんだ、兼六園を造ったんだ、と耳にタコができるほど聞かされた。あの誇らしそうに話す伯父は、いったいどこに行ってしまったのか。
 通話を終え、携帯電話の画面が切り替わると、別の着信履歴が真利子の目に留まった。
 佐々木修平からだった。
「修平さん」
 思わず真利子は呟き、修平にかけようとした。その時、後部座席のドアが開いた。
「大将、悪いがここからはタクシーに乗り換えてくれ」
 若い警察官が言った。真利子が乗っていた車は、福光インターチェンジを出たところだった。うしろに無残な姿のパトカーがとまっていた。よくここまで走ってこられたものだ、と感心している間もなく、隣りに止まっているタクシーに乗るよう急かされた。
「ちょっと電話を」
「だったら、タクシーに乗ってからにしてくれ」
 そう言って若い警察官は、真利子を抱えようとする。
「自分で乗れますから」
 慌てて答えながらタクシーのドアを開けようとする真利子を、そっちじゃない、こっちだ、と言いながら若い警察官はお姫様抱っこで持ち上げ、トランクに放り込んだ。
「大将、金沢に着くまでの間、我慢しててくれ」
 戸惑いのあまり言葉も出ない真利子に、若い警察官は言った。
「俺はな、ズル賢い奴ばかりが得をする世の中が気に入らなくて、それで警察官になったんだ。でも、何も変えられなかった、理不尽な世の中は、どうしようもなく変わりたがらなかった。そんな時、アンタが金沢県を誕生させるって言い出したんだ。俺はスゲー心が踊ったよ。クーデターが成功するなんて思っちゃいないさ。でも、今のこの腐った世の中に、はっきり反旗を翻したかったんだ。俺にも、その旗を持たせてくれよ」
 一方的に話をしてから、彼は、何か重たいものを真利子の手に握らせた。
「もしもの時は、これで自分の身を守ってくれ」
 拳銃だった。安全装置の解除のしかたを簡単に説明してから、彼はトランクの蓋に手をかけた。
「何とか逃げのびてくれよ」
 その一言を最後に、真利子の視界は暗闇に遮られた。
 
「秘書のアンタは、また高速に乗って名古屋方面に走ってもらいたい。市長が心配かもしれないが、辛抱してくれ。市長の代わりに、山さんとこの奥さんに影武者として乗ってもらう。市長より若いけど、市長より重たいから早く走れないかもな」
 うるさいわよ、と女性の声がするが、トランクに閉じ込められた真利子には何も判らない。何人かの笑い声が響いてくるだけだ。
「囮ってことか? 面白い」
「本気で逃げてくれよ。でないと、偽物だってバレちまうから」
「こうなったら、もう躊躇いはないさ。やるだけやってやる」
 村井課長の声だ。彼らの計画に乗るらしい。
「筒井のオヤジはどうだ?」
「居酒屋にいたから連れてきた。いい具合に出来上がってる。こんな酔っ払いを乗せてるタクシーに市長が隠れているなんて、奴らも思いやしないさ」
「俺も、タクシーのうしろをついていく」
「あの軽トラを使うといい。農協で借りたんだ。何かあったら盗まれたことにしておいてやるから好きにしろって、戸田のおやっさんからの伝言だ」
「ありがたい。戸田のおやっさんには頭が上がんないなぁ」
「あと、このヤッケを着ろ。警察官の制服じゃ目立ちすぎる」
 何人かの男性の声でやりとりが聞こえてきた後、パトカーが近付いてくる! と大声が上がった。
「みんな、頼むぞ!」
 その声に弾かれるように、車のドアが閉まる音がして、エンジン音が遠のいていく。
「オレは、イカレたパトカーで飛騨高山方面にドライブだ。山越えは……無理かもな。動かなくなったら、山の中に乗り捨てていく。それでいいか?」
「ああ、いろいろ手間かけてスマン」
 先に行くぞ、と前から声がした。次の瞬間、発進したタクシーのトランクの中で真利子は転がり、軽く頭をぶつけてしまった。しばらく走っては止まり、止まってはまた走り出す。下手に飛ばすと疑われてしまうからか、案外タクシーは普通に走っている。普通に走っているのに、トランクの中はこんなに不安定で乗り心地が悪いものなのかと、真利子は揺さぶられる頭の中で悲鳴を上げていた。止まるたびに体の力を抜き、走り出したらトランクの内側に手足をくっつけ踏ん張る。それを何度も繰り返す。
「ちょっとぉ、コンビニに寄ってくれんかぁ」
 時々、酔っ払いの声が聞こえてくる。壁一枚隔てた安アパートの隣室の声につい耳をそばだててしまうみたいだと真利子は可笑しくなったが、そう和んでばかりもいられない。
 福光インターチェンジから金沢方面に向かうのなら、国道304号線か県道27号線を行くはずだ。どっちを行くにしても、福光の市街地を抜ければ山間部の道路に入る。ただでも不安定なトランクの中で、体をあちこちぶつけているのだ。カーブが多い山道ならもっと揺すられ、拷問に近い状態になってしまう。そう思うと、真利子は気が遠くなった。
 何度目かの停止で体の力を抜いた拍子に、佐々木修平から着信があったことを真利子は思い出した。携帯電話は上着の内ポケットに入っている。とにかくタクシーが動き出す前に、一度は折り返し電話して、何とか連絡をつけておきたい。
「こんばんわ。南砺警察署の者です」
 外で声がした。しかも、すぐ近くから。検問かもしれない。とっさに真利子は、携帯電話の電源を切った。一瞬、緊張が走る。
「どちらまで行かれるんですか?」
「小矢部まで。三井アウトレットパークの近くの。東部小学校のあたりかな」
「そうですか」
 小さな沈黙が落ちた。重たい空気に、真利子の体は凍り付く。トランクの中を見せて下さい、と言われたら一貫の終わりだ。
 お願い、何事もなく過ぎて! 真利子は両手を握りしめて祈った。
「おまわりさん、ご苦労様です! わたくし筒井敏郎は、富山県立石動高校を昭和五十九年に、無事に卒業いたしました!」
 急に壁一枚の向こうから、酔っ払いの声が響いた。
「女房とは、小矢部市立石動中学校で出会いました! 成人式のあとに催された同窓会で再会して、その時に交際を申し込み、平成元年にめでたく結婚いたしました!」
 酔っ払いの戯言に混じって、東海北陸自動車道を岐阜県方面に逃走中、という声がかすかに聞こえた。暗闇の中に差し込んだ一筋の光……お願い!
「お仕事中、失礼しました。お気をつけて」
 どうも、という声がして、タクシーは走り出した。真利子は胸をなでおろした。村井課長が上手くやってくれたようだ。
「道の駅・福光で検問をやってる。囮が上手くやってくれているみたいだけど、気を抜くなよ」
 走行中のタクシーの中から声がした。福光インターチェンジで指示を出していた警察官の彼に連絡しているらしい。
「筒井のオヤジに助けられた。次に会った時には、好きなだけ飲ませてやれよ」
 笑い声がした。それがやんで、それからしばらく沈黙が続いた。そのうち規則正しい唸り声が響く。酔っ払いがイビキをかいて眠ってしまったようだ。真利子も少しだけ肩の力を抜いたが、それも山間部の道路に入るまでだった。
 体にかかる力の具合で、登り坂を走っていると真利子にも判った。右に左にと体は揺さぶられ、今度は反対側に力がかかる。下り坂になったらしい。しかも、山間部に入ったとたん、タクシーはスピードを上げた。この車を怪しむ人など山の中にはいないのだから。前後左右にかかる力の向きが変わるたびに、その変化に真利子は追いついていけない。頭や肩を何度もぶつけ、体を固くしながらそれに耐える。
 どれだけ経ったか、タクシーは大きく向きを変え、速度も落ちた。
「金沢森本インターチェンジ付近、パトカーが多いな。企業団地を抜けて、金沢大学のほうに行ってみる」
 タクシーは速度を上げた。また前後左右に体を揺すられる。さすがの真利子も、少し酔ってきた。金沢市内の地図は頭に入っている真利子だったが、それを広げて、現在地を確認する余裕もなくなっていた。何度か途切れはしたものの、相変わらず続くイビキが憎らしい。ハンカチで口を押さえる間もなく、真利子は嘔吐して咳込んだ。小松市から戻る前に軽く食事をとり、その後は飲み物以外は口に入れていない。それが幸いした。胃に何か残っていたら、さんざんな状態になっていたに違いない。
 次第にタクシーの速度が落ちてきた。カーブをゆっくり曲がっているのが判る。ようやく真利子の頭も、少しは回るようになってきた。さっきの話の内容から、国道304号線を通ってきたのだということは判った。県境を越えてから進路を変え、県道27号線に向かっていたことも。
 そろそろ金沢大学の辺りに着いた頃だろうか。そう思ったとたん、急ブレーキでタクシーは止まり、真利子の体は転がり派手にぶつかった。外から聞こえてくる衝突音で、なおさら痛さが増し顔を歪める。が、タクシーは止まったままで、外からの衝撃はない。
 何の衝突音だったのだろう? そう思っていると、今度は急発進でタクシーは動き出し、真利子は体の反対側をぶつけて顔を歪めた。
 結構なスビートを出している、その状態で運転手の声が聞こえてきた。
「もりの里のイオンに場所を変えてくれないか? 犀川の緑地公園までは無理だ。富山ナンバーのタクシーが、金沢市内をうろついていたら怪しまれる」
 イオンもりの里店で、別の車に乗せ換えられるのか?
「すまん、屋上駐車場で待ってる」
 それきり声は聞こえなくなり、タクシーは常識的な動きをするようになった。
 真利子は頭の中に地図を広げてみた。金沢大学からイオンもりの里店までは、そんなに離れていない。兼六園、金沢城公園、市役所も、その気になれば、手が届かない距離ではない。
 何度か方向を変えたタクシーは、そのうち坂を登り、止まった。さっきの話からすると、イオンもりの里店の屋上駐車場に着いたのだろう。耳を澄ますと、お買い得品の案内アナウンスが聞こえてくる。
「市長、大変だっただろう。すまんかったなぁ」
 ドアが開閉する音がして、間もなくトランクが開いた。蒸し暑かった狭い空間に、冷気が流れ込んでくる。真利子はゆっくりと体をくねらせて、トランクのふちに寄り上半身を起こした。汗だくの体が、急に冷やされていく。
「大丈夫かい?」
 ええ、と答えながら、真利子はまた体を横たえた。
 疲れた、疲れ果てていた。何故こんなことをしているのか、これから自分はどうしたらいいのか、思考という作業に取り掛かれないほど、真利子は疲弊していた。
「妙(みょう)立(りゅう)寺(じ)の、忍者寺の中庭の井戸には、途中に横穴が掘られていて、それが金沢城まで続いているって、昔、観光で言った時に聞いたんだ。もし本当なら、アンタをそこから金沢城まで届けられるんだけどね。でも忍者寺から金沢城までの間には犀川が流れているから、地下通路なんて実際にはないだろう、って案内の人が言ってたぁ」
 そんな話をして笑っているタクシーの運転手は、白髪と顔の皺が目立つ、お爺ちゃんと呼びたくなるような男性だった。
「あなたは、なぜ私を、ここまで連れてきたんですか?」
 疲れて、息も絶え絶えの状態ではあったが、真利子は尋ねずにはいられなかった。
「ワシのお袋は、野々市町の出身だったんだ。今は野々市市っていうんだっけね」
 彼は苦笑を浮かべてから、母親の話をし出した。
「親父は、実家が福光にあったんだけど、仕事の都合で金沢に転勤になってね。その時にお袋と出会って結婚したんだ。それから何年かして、福光に戻って暮らしてた。でも、金沢に比べたら、福光なんて何もない所だからさ。お袋はよくボヤいてたよ、自分は金沢出身だから、こんな田舎は性に合わないって。金沢じゃなくて野々市だろって言っても、自分は金沢出身だって言い張るんだ。ワシが子供の頃は、金沢の自慢話ばかり聞かされたよ。入院して亡くなるまで、ずっとそんな調子だった。そんなお袋が、なんだか不憫でね」
 彼はかぶっていた帽子を取り、残っている多くが白髪になった頭を撫でながら続けた。
「アンタが、金沢県を作るって言ってたのを聞いて、ちょっと嬉しくなってね。もし本当に金沢県ができたら、お袋は本当に金沢出身になるんだって思ってさ。竹田んとこの坊主に、アンタを金沢まで届けて欲しいって言われた時には、何を言い出すんだと思ったけどさ。話を聞いて、つい引き受けてしまったんだ。お袋が生きてる間に、親孝行みたいなことは何もしてやれなかったから」
 帽子をかぶり直した彼が、立てるかい? と訊いてくる。弱々しくであるが、はい、と真利子は答えトランクから降りた。コンクリートの屋上の床は、固くてとても頼もしく感じられた。
「ワシらにとっちゃ、金沢は都会で、憧れの街なんだ。竹田んとこの坊主だって、金沢の大学に進学して、そのまま警察官になったし。福光インターに来てた連中も、金沢に憧れてた……憧れというより、コンプレックスを持ってたんだな。自分の住んでる街にいろいろ不満を持ってて、それをぶつける所を見付けたから、ってのもあるかなぁ。誰だって、今の世の中には言いたいことはあるよ。ワシだって……」
 大きく背伸びをした彼は、両肩を何度かまわす仕草をした後、真利子のほうに向き直った。 
「金沢県はもう、ちょっと無理かもしれないけどさ。でも、いい夢を見せてもらったよ。アンタのおかげでさぁ」
 そう言って彼は笑った。
 いい夢を見せてもらったよ。そう、自分も夢を見ていたのだと真利子は思った。その夢に、多くの人を巻き込んだ。
「筒井のオヤジ、まだ寝てやがる。いい気なもんだな」
 後部座席を覗き込んで、彼は言った。
「あの、警察官の彼は?」
「ああ、竹田んとこの坊主ね。途中で討ち死にしたよ。と言っても、本当に死んじまった訳じゃないから安心してくれ」
 来た来た、と彼は手を振った。屋上駐車場の入り口から、白い軽ワゴンが一台近付いてくる。
「遅くなってゴメン。道路が封鎖されてる所があってさ」
 軽ワゴンを運転しているのは、スーツを来た中年男性だった。車の側面に、パソコン出張修理のPC救急車、と書かれている。この男性が仕事で使っている車らしい。
「封鎖って、どういうことだよ? 警察が道路を封鎖しているのか?」
「いや、それがさ、一般の人が警察と揉めてるんだ。金沢県の誕生を阻止させない、とか叫んでさ。それでパトカーの通行を邪魔するために、前田市長を支持する人たちが道路を封鎖してて」
 話していた彼が、真利子のほうを向いた。
「うわぁ、本物の前田真利子だ」
「だから言っただろ、市長を市役所まで届けてくれって」
「判ってるって。テレビでしか見たことない人がいたから、ちょっと驚いただけだよ。テレビで見てるのと、ちょっと違う気もするけど……。何だか、テレビで見るより、みすぼらしいような……」
 トランクに放り込まれてここまで来たのだ、仕方がないでしょ。真利子はそう言いたかったが、恥ずかしい姿であるという自覚があるせいで、何も言えずに恐縮するしかなかった。
「市長、ここからはコイツの車で送ってもらってくれ。うしろの座席で小さくなっていれば、外からは見えないから。トランクに乗せられているより、ずっと快適だし」
 トランクと聞いて、軽ワゴンの彼が驚いた。
「お前、市長をトランクに乗せてきたのか?」
「仕方なかったんだよ。さっさと行け。チンタラやってると、警察に捕まるぞ」
 タクシーの彼が、軽ワゴンの後部ドアを開けて、真利子に乗るよう促す。訳の判らないまま、真利子はPC救急車に乗り込んだ。隣りの座席には、工具箱が乗せてあった。フタの隙間から、はんだごての先が顔を覗かせている。足元には、デスクトップパソコンの本体が置かれていた。
「狭くて申し訳ないけど、しばらく我慢して下さい」
 いえ、と真利子が答える。閉店時間が近付いているショッピングセンターの屋上駐車場は、もう殆ど車がいなくなっていた。軽ワゴンはゆっくり旋回して出口へ向かう。
 ようやく真利子は人心地つくことができた。
 そして思い出した、佐々木修平から着信があったことを。真利子はあわてて上着のポケットに手を突っ込んだ。携帯電話を取り出し、画面を確認する。
「クソッ!」
 突然、運転している彼が声を上げた。屋上駐車場からスロープをおりて、地上に着いたところだった。目の前にパトカーがいた。ぶつかりそうになり、彼は慌ててハンドルを切りパトカーを避ける。助手席に乗っている警察官が目をむいているのが見えたかと思うと、次の瞬間、タクシーがパトカーの側面に突っ込んだ。タクシーはそのままパトカーを押し続け、何かを引きずる甲高い音を立てながら、二台は駐車場わきの用水路に落ちてしまった。
 用水路からタクシーのお尻だけが覗いている。取れたり、割れたりした部品が所々に落ちているのを見ているだけで、眉をひそめてしまう。漏れた液体の跡が血のようで、真利子は思わず目を背けてしまった。黒い線になっているのは、引きずられたパトカーのタイヤが残したものか。
「寝ていたオッチャンも、さすがに目が覚めただろうよ」
 運転している彼は笑っていたが、目だけは真剣だった。
「犀川沿いの住宅街を通って、市役所があるほうに向かう。心配すんな、あんなんで人が死んだりしないから」
 軽ワゴンは駐車場を飛び出した。
 運転席の背もたれに隠れるように、真利子は身を小さくした。囮になっている村井課長たちは、もう正体がバレてしまったかもしれない。だから警察も、金沢市内に警戒の目を向けたのではないか。市民が警察に抵抗し始めてしまった、それが仇になったとは、真利子は考えたくなかった。
 皆、何かしら想うところがあって行動を起こしたのだ。運転している彼だって。
 しばらく通りを走っていた軽ワゴンは、住宅街に入った。見通しの悪い路地を、スピードを落として進む。広い道路を横切った時、橋が見えた。すぐそこに犀川がある。まわりの景色が見慣れたものに変わっていく。
 修平さんに電話しなくちゃ。
 携帯電話を握っていた手が汗で湿っている。ずっと力を込めていたせいで指が痛い。液晶画面に薄く結露が出来ている。背中が冷や汗で濡れている。タクシーのトランクに乗っていた時とあまり変わらないような気がした。
「見付かったか!」
 運転していた彼が叫んだと同時に、軽ワゴンは急加速した。
「市役所はすぐそこだ。このまま突っ込んでやる!」
 フロンドガラスにおでこが触れそうなくらい前かがみになって、彼はハンドルにしがみついた。鼻息も荒く突進する。しかしパトカーが道をふさぎ、思うように市役所のほうに向かえない。
「ちきしょうがぁ!」
 乱暴な運転に、真利子は悲鳴を上げそうになるが、声を出す余裕もない。かわりに軽ワゴンのタイヤが、ハンドルを切るたびに悲鳴を上げている。急ブレーキで交差点を曲がり、もうどっちに向かっているのかも判らない。路地の交差点からパトカーが飛び出してくるたびに、急ハンドルでそれを避ける。
「どけやぁ!」
 軽ワゴンのタイヤが、ひときわ大きな悲鳴を上げた。と同時に、自分の体が不自然に傾いたのを真利子は感じた。顔を上げると、目の前に電信柱が迫っていた。
 シートベルトが体に食い込むほどの衝撃に、ぐえっ! と真利子は唸り声を上げた。自分の意志とは関係なく、喉の奥から飛び出してきた。割れたガラスの破片が、助手席に散ってくるのが見えた。
「すまん、市長……大丈夫か?」
 絞り出すような声が、運転席から聞こえてきた。
 身体的には問題はないのだろうが、精神的にはかなり参っていた。
 このままじっとしていたら、自分は逮捕されるのだろうか? 内乱罪の容疑者として指名手配されているのだ、逮捕されるに決まっている。もう逃げられない。
 後部座席のドアが開いた。警察官の手が、真利子が閉めているシートベルトをはずした。
 金沢に集まってくれた人たち、自分をここまで連れてきてくれた人たち、私がここで観念してお縄についたとして、皆は私を責めるだろうか? いい夢を見ていたのに、ここで終わりかと失望するだろうか?
「しっかりして。どこか痛いところはある?」
 警察官にしては幼い声だな、と思った。その不自然さに惹かれて、真利子は顔を上げた。
 そこにいたのは、小学生くらいの女の子だった。真利子が抱いていた不自然さが、不思議さに変わった。
「立てる? 歩ける?」
 大人が子供に心配をかける訳にもいかない。そんな意地のようなものが、真利子を立たせ、歩かせた。軽ワゴンを降りたとたん、ブロック塀とトラックの間に、パトカーが挟まれて潰れているのが目に入った。
「こっち。バッグを忘れないで」
 真利子の手を取って、女の子が先を行く。空いた手には、手提げかばんを持っている。まるで塾の帰りのような格好だ。真利子は女の子に連れらるまま、ビルとビルの間の通路を抜け、路地を横切り、また薄暗く狭いところに入った。その間にも、遠く近くパトカーのサイレンが聞こえてきて、真利子の心臓は高鳴った。
「お母さんがね、お父さんと離婚してから大変だったんだけど。前田市長が、子育て支援金の増額給付と、特別減税をしてくれたから、助かったって」
 女の子は歩きながら話し出した。小学生だとしても、高学年には見えない。増額給付、特別減税……およそ、この子が口にする言葉ではないなと真利子は思った。社会科の授業で習ったものではなく、母親が口にした言葉を聞いて覚えたのかもしれない。
「だから、前田市長を助けたいって。お母さんは仕事があるから、代わりに私が来たの」
 歩きにくい通路を出た。女の子は真利子の手を引いて、目の前に現われたホテルに入ろうとする。
「私、指名手配されてて、フロントの人に見られたら困るんだけど……」
 狼狽する真利子に、女の子は笑いながら言った。
「大丈夫、ここのフロントは恐竜だから」
 変なホテル、という名前を真利子は思い出した。地元に住む者が、地元のホテルに泊まることはない。だから一時は話題になって気にしていたものの、それきり忘れていた。確か香林坊にあったはず……ということは。
 ここは市役所のすぐ近くではないか。
「市役所は、もう警察が入れないようにしている。金沢城公園のまわりも、いっぱい人が捕まってた。テレビ局とかも来てたし、近寄らないほうがいいよ……って、テレビ局の人が言ってた。もし市長に会ったら伝えてくれって」
 女の子はフロントのカウンターにあるタッチパネルを操作して、チェックインを済ませた。人がいないとは言え、恐らくカメラでチェックしているに違いない。真利子はプロジェクションマッピングでロビーの床や柱に描かれる、加賀友禅を想わせる映像を眺めるふりをしながら俯いた。
「お母さんの名前で、一週間の宿泊を申し込んであるから」
 こっち、と女の子は歩き出す。言われるままに真利子は後をついていく。人の気配などまるでない館内は静かすぎて、真利子は落ち着くより緊張してしまった。小松市を出てからここに辿り着くまで、あまりにも突飛で、許容するには精神的な容量が追いつかないことばかりが起こっていた。少しでも気を抜くと、また何か突拍子もないことが起こるのではないかと、真利子は疑心暗鬼になっていた。
「はい、これ」
 ある部屋のドアを開錠し、女の子はルームカードを差し出した。やはり言われるまま真利子はそれを受け取り、女の子に導かれ室内に入る。
「あと、これも」
 女の子は、手提げかばんの中からビニール袋を取り出した。
「サンドイッチとおにぎり、飲み物も入ってる」
 真利子はまた、言われるままにそれを受け取った。精神的な疲労が、限界を越えていた。思考や意志なんてものは、今の真利子のどこにも持ち合わせていなかった。魂を失った抜け殻みたいな状態だと思いながら、そんな自分をどうすることもできずにいた。
 それでも、立ち去ろうとする女の子に、どうにか真利子がかけた言葉は、自分の意志でだった。
「あ、ありがとう……」
 女の子は振り向き、小さく手を振って部屋を出ていった。
 ドアが閉まり、一人になったとたん、真利子はに崩れ落ちるように床に座り込んだ。
 その拍子に、上着のポケットから携帯電話が落ちた。
 表示された液晶画面には、佐々木修平、とあった。

「金沢市長、前田真利子を、内乱罪の容疑で全国に指名手配します」
 自宅のリビングで、官房長官の記者会見をテレビで見た佐々木修平は、持っていた携帯電話を落としてしまった。それに気付かず、しばらくテレビ画面を凝視していた。何かが爆発したように眩しく光り出した頭の中から、すべての言葉が消え去ってしまった。思考というのは言葉を使って行うものなのだと、しばらく経ってから修平は思った。
 リビングのドアのところに、表情が固まった妻の惠利子が、口に手を当てたまま立ち尽くしていた。ついさっきまで、自分もこんな顔をしていたのかもしれないと修平は思った。
「とにかく、真利ちゃんに電話してみる」
 修平の言葉に、声もなく、表情を変えることもなく、惠利子は一度だけ頷いた。
 何もなかったとしても、修平は真利子に電話するつもりだった。東京に出向している職員から、ある情報を得た。それを真利子の耳に入れておきたかったから。急ぎの連絡ではなかったし、明日でも良かったのだけれど、真利子個人にも関わってくるかもしれない事柄だったので、なるべく早く知らせておきたかった。
「ダメだ。出ない」
 修平が何度かけても、真利子は電話に出ない。
 今まで金沢県への参加に否定的だった小松市が、急に態度を翻した。その気が変わらないうちに小松市長に会って話をつけておきたいと、真利子は出向いたはずだった。
 今どこにいるのか? まだ小松市にいるのか、それとも逃避行の最中か。
 探しに行きたい。その気持ちを、修平は押し殺した。どこにいるのか手がかりもないのに、ただ闇雲に探し回ったところで見付かる訳もない。かと言って、じっとしてもいられない。自分が共犯者として扱われるのは構わない、とにかく真利ちゃんのことが心配でいてもたってもいられない。
「座ったらどうだい」
 リビングのドアの前で立ったまま、テレビを見つめている惠利子に、修平が声をかける。やはり声もなく、表情も変えないまま、惠利子はゆっくりとソファーに腰かけた。
 自分が今、この家からいなくなったら……惠利子はどうなる? そう考えると、真利子を探しに行くなど修平にはとても出来なかった。
 NHKのニュースでは、はっきりしない新情報が時おり流れてくる。
 前田真利子容疑者が乗っていると思われる公用車が、北陸自動車道を富山県方面に向かっている。
 前田真利子容疑者が乗っていると思われる公用車を停止させた富山県警察のパトカーに、石川県警察のパトカーが追突した。
 前田真利子容疑者が乗っていると思われる公用車が、東海北陸自動車道を岐阜県方面に向かっている。
 前田真利子容疑者が乗っていると思われる公用車が、東海北陸自動車道・飛騨清見インターチェンジ付近で岐阜県警のパトカーと接触して停止。乗っていた前田真利子容疑者と、運転していた金沢市の職員を拘束した。
「前田真利子容疑者が乗っていたと思われる公用車に、前田真利子容疑者は乗っていなかったとのことです! 乗っていたのは別の人物だということです! 公用車に前田真利子容疑者は乗っていませんでした!」
 現場近くからの中継で、興奮気味のリポーターが叫ぶように繰り返した。
 呆然とテレビ画面を眺めては、携帯電話を操作する。身動きがとれずにいながら、何もせずにはいられず、そんな動作を繰り返すしかなかった修平の耳に、リポーターの声は刺さるように響いた。映像が上空のヘリコプターからのものに切り替わる。
 高速道路上で、何台ものパトカーに囲まれた公用車が、路側帯のコンクリート壁とパトカーに挟まれるような格好で止まっている。小松市からここまでの足取りを、推測も交えてリポーターが語る。近隣の地図が頭に入っている者なら誰でも想像できることを、小難しい言葉を使って、リポーターはもっともらしく言っている。騒然とした雰囲気も含めて、修平にとって無意味な情報が垂れ流されてくる。
 真利ちゃんは、今どこにいるのか?
 修平にとって重要なのは、それだけだった。県内で起こった火事や事件、明日の天気、どこかの自衛隊員の交通死亡事故など、どうでもよかった。
「石川県警察本部は、金沢市役所と金沢城公園、それに兼六園を立ち入り禁止にすると発表しました。小松空港も閉鎖するとのことです」
 テレビから流れているアナウンサーの声が、今まで流れていなかった内容を告げる。耳から入った新しい情報が、修平の脳を刺激した。
「金沢市役所や金沢城公園の周辺に、金沢県の誕生や前田真利子容疑者を支持すると思われる人たちが集まってきているもようです。前田真利子容疑者もここに来て、クーデターを指揮するのではないかという情報があります。すでに来ているという未確認の情報もあります」
 修平は体が熱くなるのを感じた。ソファーにかけて身動き一つしなかった妻の惠利子も、目つきが変わっている。
「新しい情報が入りました。県道27号線・金沢井波線の金沢大学付近で、不審車両に職務質問しようとした警察官が、別の方向から走ってきた軽トラックに跳ねられました。怪我は軽いということです。軽トラックはその場にいたパトカーに衝突。職務質問された不審車両はその場から逃走しました。逃走した車は、タクシーだったということです。警察では、前田真利子容疑者が逃走している件との関連を調べています」
 真利ちゃんが、金沢に戻ってこようとしている。迎えにいかなければ!
 修平は思わずソファーから立ち上がった。立ち上がった修平を、妻の惠利子が見上げている。
 真利ちゃんのもとへ駆け付けたい。けれどそれは、妻への裏切り行為になる。
 修平は、惠利子を見た。その表情からは、その視線からは、何の感情も読み取ることができなかった。惠利子自身、戸惑っているのだ。愛する姉に対して、自分はどんな気持ちでいればいいのか、何をしてあげられるのか。答えが出せないでいる。
 それは修平も同じだった。
「警察官が職務質問しようとしたと思われるタクシーが、ショッピングセンターの駐車場で暴走、パトカーに追突して二台とも用水路に転落したとのことです。現場は金沢大学に近い、イオンもりの里店の駐車場で、その場から走り去った別の車に前田真利子容疑者が乗っているものとみて、警察は行方を追っています」
 まるで申し合わせたかのように、修平と惠利子は、同時にテレビのほうに顔を向けた。本当に市役所に、金沢城公園に、真利ちゃんは向かっている。もうすぐ近くまで来ている。
 一通りの内容をアナウンサーが告げた後、最初に口を開いたのは、妻の惠利子のほうだった。
「迎えに行ってあげて」
 修平は惠利子のほうを見た。惠利子はテレビを見つめたままだった。
「あなたの車じゃ都合が悪いかもしれない。だから、私の車を使って」
「本当に、いいのか?」
 修平は恐る恐る尋ねた。惠利子はテレビのほうを向いたまま、何も言わず、頷きもしなかった。
 やはり迷っているのだ。妹と妻、その両方の立場の間で。
 修平も迷っていた、真利子への想いと、妻への愛情との間で。
 妻への愛情……。
「絶対に帰ってくるから。この家に帰ってくるから。君の夫として」
 修平の言葉に、うん、と惠利子は小さく頷いた。
 自分と妻とは、前田真利子という存在で繋がっている。修平はずっとそう思っていた。
惠利子もそう思っていたはずだ。そうして同じ屋根の下で暮らしてきた。理由はどうであれ、ずいぶん長い月日が経ったものだ。振り返れば、尽きない思い出話で笑い合っていられそうなほどの時間が流れていた。
 惠利子が乗るために購入したこのコンパクトカーだって、選んで決めたのは二人でだった。明るい色が似合うと言ったのは、修平だった。じゃあ赤にしようかな、と決めたのは惠利子だった。
 気付かずにいた想いに浸りそうになっていた修平を、現実に呼び戻したのは、携帯電話の着信音だった。液晶画面に、真利ちゃん、と表示されていた。
 
 こんなふうに修平と抱き合ったのは、いつ以来だろう。二人だけの部屋で、二人だけの時間を過ごしながら、前田真利子は思っていた。修平さんが妹の夫になったのは、自分がいくつの時だったか。あれからずっと、修平さんは妹とともに暮らしてきた。女性を抱くのも慣れたものだろう。それに引き換え、私ときたら仕事を言い訳に、独り身を通してきた。ぎこちなく愛撫されながら、喜びを感じながら、恥ずかしさにも身悶えしてしまう。
 嬉しかった。それが真利子の正直な気持ちだった。
 彼と一緒に暮らしている妹の惠利子を、羨ましいと思った。
 良い夢をみさせてもらった。でも、自分の夢に修平を、多くの人を巻き込んで裏切ってしまうのは、不本意でしかなかった。修平に抱かれながら、真利子はここまで辿り着く道程を思い出していた。遠くで鳴っているパトカーのサイレンが、嫌でもそれを思い出させた。
 これは、自分が望んだ金沢県じゃない。
 寝息をたてる修平を残して、真利子は一人ベッドから出た。金沢県の誕生を間近に控え、緊張で眠れない日もあった。睡眠導入剤を持ち歩いていたのは幸いだった。それを入れた飲み物を、修平は疑いもせず飲んでくれた。
 まだ午前五時前だったが、真利子は構わず電話した。
「伯父様、おはようございます。朝早くに申し訳ありません」
 寝ているかと思ったが、待たされることなく相手は出た。
「真利子、決心はついたか?」
 前田利久雄の問いかけに、はい、と真利子は答えた。
「それで、伯父様にお願いがあってお電話いたしました」
「お願い……?」
「今回のことは、私一人が仕出かしたことです。責めは、私一人が負います。そういうふうに取り計らって頂きたいのです。先方にも、そのようにお伝えして、了承して頂けるよう、伯父様にお力添えしてもらいたいのです」
「そうは言っても、先方の都合もあることだから、何とも……」
 はっきりした答えは返ってこないだろう、と真利子ははじめから予想していた。だから、修平から知らされたことを伯父に告げた。修平からの情報がなかったら、こんな申し出は出来なかった。
「先代天皇のお孫さんが療養される施設を、政府に所望しているとお伺いしました。伯父様の願い通り、それは珠洲市に建設されます。伯父様もその方のお傍にお仕えすることになるでしょう」
「何を言い出すんだ……」
 急な話の変わりように、伯父が狼狽しているのが判った。真利子は構わず続けた。
「現在、珠洲市に建設されている入国者収容所は、四月から予定が変更となり、皇族が滞在するための施設に改築されます。施設を建設するための用地買収から、そこで働く職員の宿舎の建設費まで、かかった費用のすべてを賄ったのが、金沢市です」
 電話の向こうから、短い呻き声のようなものが聞こえた。今回の騒動において、自分も無関係な人間ではないのだと理解してくれれば、伯父は、無理なお願いを受け入れざるをえない。
「どうか、よろしくお願いします」
 丁寧に、そして強く、真利子は言って電話を切った。
 ホテルの部屋を出る前に、真利子は再び携帯電話を手にした。
 修平さんを頼みます。
 妹の惠利子に、そう伝えるために。
 
 金沢の市街地からほど近い丘陵地帯にある、大乗寺丘陵公園。近所に住む高校生、長岡由衣は、そこを毎朝のジョギングコースの一つにしていた。
 家を出てしばらく歩き、山側環状線をゆっくりと走る。公園口にたどり着くころには、いつもほどよく体が温まっている。公園のエントランスの階段を一気に駆けあがると、コンクリートやアスファルトが作る街から、花や木、芝生が広がる緑の世界に切り替わる。
 学校は春休みに入り、部活動も休みになった。長岡由衣が所属する陸上部は、毎年たいした成績を残せていない。めぼしい大会にエントリーはするものの、地区予選で敗退するのが当たり前になっていた。そうなると、部員たちもあまり積極的に活動しようとはしなくなる。楽しい思い出を作って卒業していきたい、それが皆の目的になっている。
 そんな中、自分は、自分だけは結果を残したい、と長岡由衣は密かに思っていた。そのために毎朝、一人で走っている。陸上競技は自分一人の力で勝ち上がっていける。もしチームでの競技だったら、ここまで努力しなかったかもしれない、と長岡由衣は時々思うことがあった。四月からは三年生、高校生最後の年。悔いだけは残したくない。
 芝生の中の遊歩道を走り、丘陵の頂上近くまで来て一息入れる。まだ五時半過ぎ、夏ならとっくに日が出ている時間だが、三月の終わり頃だとあたりは薄暗い。
 昨夜は騒々しくて、よく眠れなかった。金沢市の市長が指名手配されたとかで、パトカーのサイレンもあちこちから聞こえていた。今も、どこかからサイレンが聞こえてきている。市街地のほうでは赤いライトが点滅しながら移動しているのが見える。
 こんな時間なら誰もいないし、野田山墓地のほうまで行ってみようかな。長岡由衣は再び走り出した。
 公園の表側、山側環状道路とは反対側に、広大な墓園がある。近くに住む人たちがボランティアで管理していると聞いたことがあるが、この時間ではさすがに誰もいない。何の気兼ねもなく走ることができる。長岡由衣の足は軽かったが、墓園の奥まで来たところで、気持ちが沈んでしまい足が止まってしまった。加賀藩主前田家墓所、と書かれた案内看板が目に入り、日本史の期末テストの結果が悪かったのを思い出したからだ。
 長岡由衣は、大学への進学を希望している。将来は医療関係の仕事に就きたいと思っているから、理数系の教科には力を注いでいる。おかげで、文系の教科はからっきし成績が伸びない。
 行き止まりの先にある駐車場まで歩き、長岡由衣は深呼吸した。ここからも市街地が眺められるのか。いつもと同じ街を、いつもと違う所から見ている、それだけで新鮮味があって、憂うつな気分も少しは紛れていく。と同時に、長岡由衣は気になりだしていた。
 駐車場の隅にとまっている、赤い小型車が。
 こんな時間に、こんな所に……観光ではないだろうな。ボランティアや管理事務所の人にしたって、時間が早すぎないか。まさか遭難者の車、なんてことはない? とりとめのない考えが、頭に浮かんでは消えていく。
 パーン! と乾いた破裂音がして、長岡由衣は飛び上がりそうになった。とたん、木にとまっていた鳥たちが一斉に飛び立ち、その羽音と木の葉が揺れる音が、頭上から降りかかってきた。恐怖のあまり、長岡由衣は思わず頭を抱えてしゃがみ込んでしまった。
 そのまま、しばらくじっとしていると、また静けさが戻ってきた。そっとあたりを窺いながら、ゆっくりと顔を上げる。次第に明るくなってきた空が、長岡由衣に落ち着きを与えてくれた。それが徐々に好奇心に変わっていき、その比率が恐怖よりも大きくなっていく。
 加賀藩主前田家墓所、と書かれた案内看板が立っている細い道に、長岡由衣は足を踏み入れた。二歩、三歩と恐る恐る進んでいく。途中で横に伸びる道がある。その細い道の途中に、何かが見えた。
 棒でも落ちていないかな。長岡由衣はあたりを見回したが、それらしいものは見当たらない。こんな時だけ、管理に抜かりのない作業者が恨めしくなる。
 私だって陸上部員だ。いざとなったら逃げ足で勝負してやる。そんな威勢のいいことを思った長岡由衣だったが、足で地面をこするように少しずつにじり寄っていくのが精一杯だった。
 一メートル進むのに、何分かかっているんだろう。怖いのなら、さっさと帰ればいいのに。なんだか一人相撲を取っているようだな、と長岡由衣は自分が滑稽に思えてきた。ここまでして、あれが風で飛んできたゴミだったら間抜けでしかない。
 しかし、それはゴミではなかった。
「……人?」
 近付いてみると、人が倒れていた。頭から血を流して。手には拳銃が握られていた。
 市長……?
 長岡由衣はジャージのポケットに手を突っ込んだ。慌てて携帯電話を取り出そうとして、足元に落としてしまった。それを拾おうとするが、手が震えてうまく掴めない。
 一一〇番に電話したが、思うように声が出なかった。無我夢中で言葉を発し、気が付いたらパトカーの中でぼんやりしていた。警察官に話を訊かれたが、何を答えたのか覚えていない。何が起こったのか判らないまま、第一発見者として、マイクやカメラを持った人たちに囲まれた。その中から引っ張り出してくれたのは、父だった。父の車に乗せられ家に帰った。
 それからしばらくの間、長岡由衣のまわりにはマスコミが群がり騒々しかった。小学生の弟は面白がっていたが、勉強に身が入らない環境に辟易した。それも春休みが終わり、新学期が始まる頃には収まっていた。
 今年に入ってから、金沢県が誕生するとかで賑やかだった。そのお祭り騒ぎが終わったのだと、長岡由衣は解釈した。まわりの人も、石川県内も、日本中がそんなふうに受け取っているように長岡由衣には見えた。
 すべてが今まで通りに戻った、それだけだった。
 金沢は、今まで通り金沢だった。

 ↓(エピローグにつづく)


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