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誕生!? 金沢県 【第二章】


 石川県と岐阜県との境にそびえる白山。そこを水源とする手取川が、山間部から平野へ流れ出るあたりに、鶴来(つるぎ)町(まち)はあった。2005年に近隣の市や町、村と合併して、現在は白山市内にその町名の名残を留めている。
 二月に入って、すっかり正月気分が抜けた街が、今度はバレンタインでいくらか華やかさを取り戻している。午後六時過ぎ、薄闇と冷気があたりを覆う中、前田真利子は、かつて鶴来町にあった公立病院近くのアパートの一室に向かっていた。
 インターホンを押すと、すぐにドアが開いた。今日は仕事が休みだと、部屋の主から聞いて訪ねることにしたのだ。
「もうすぐ金沢県知事になるアンタが、こんな所にいるとは誰も思わないでしょうねぇ」
 1LDKの部屋に、真利子の中学時代のクラスメイト、井上美幸は一人で住んでいる。
看護師である彼女にとって通勤に都合の良いこの部屋を、真利子は以前にも何度か訪れたことがあった。そのたびに、金沢市の市長がこんな所にいるなんて誰も思わないでしょうねぇ、とからかわれ、真利子は困った笑いを浮かべるしかなかった。
「市長が平日に休み、ってことは無いわよね?」
「ちょっと用事でこの辺に来たから。はい、コレ」
 ここに来る途中、真利子はコンビニで缶ビールとつまみになりそうな物を買ってきた。最近、テレビに出る機会が増えた真利子だったから、店内で声をかけられるかと身構えていたが、意外にもまわりからの反応は無かった。井上美幸ではないが、こんな所に金沢市の市長が一人でいるなんて、誰も思っていないのだろう。
 タクシーで帰るつもりで、公用車は空のまま帰した。運転していた秘書課の職員が心配そうな顔をしていたのを見て申し訳ない気持ちになったが、たぶんタクシーの中でも自分の身分はバレないだろうと思うと、真利子は気が楽になった。
「疲れた顔してるよ。ウチら、もういい歳なんだから自分を労わってあげないとさ」
「今日一日、いろんな人と会っててね。体は疲れてないんだけど、精神的にはかなり参ってるわ」
「で、ウチに逃げ込んできたと?」
 井上美幸にすすめられて、真利子はリビングのソファに寝転がった。こんなだらしない格好、一人でいる時と井上美幸の部屋以外では絶対にしない。
 白山市が金沢県に入るよう、真利子は今まで、市長を相手に話し合いをもってきた。それを佐々木修平に言われたように、市内の議員や有力者を個別に説き伏せるやり方に変えた。いくら市長と顔を合わせても話が進む様子は一向に見えないし、現在の白山市の成り立ちから考えても、そうして切り崩していくしかない。ただし議員や有力者である本人ではなく、周囲の人、奥さんや後援会の婦人部の代表などから、金沢県に入ることのメリットを話し納得してもらっていった。
金沢県へ入ることにゴネている本人たちは、頭の固い高齢男性がほとんどだ。直接かけあったところで、門前払いされるのが関の山。だったら周りから攻めていくしかない。手間と時間がかかり根気のいる作業ではあるが、家庭の財布の紐を握る女性たちだから、財政的な支援という手土産には魅力を感じたはずだ。
「じゃあ、これで乾杯といきますか」
 受け取った缶ビールを冷蔵庫に入れ、入っていた缶ビールを井上美幸は二本取り出す。真利子もソファから起き上がり、部屋の隅のテーブルで向かい合って、二人は缶をあけ乾杯した。
 井上美幸と親しかった訳ではない真利子だが、進学した大学が二人とも東京だったことがきっかけで、彼女との付き合いが始まった。もっとも、お互いに別々の高校に進学したから、成人式で顔を合わせるまで、その後の進路は知らなかったのだけれど。気後れすることなく地元の方言で話すことができる相手は、日常生活の中で接している友人たちとは違う、どこか後ろ暗くも安らげる存在だった。
 郷里で暮らすようになってからも、その関係は変わっていない。けれど今に至る途中には、井上美幸との関係が途絶えたこともあった。彼女が大学を卒業する間際、彼女の両親が離婚した。傍から見ても気苦労が絶えない様子がうかがえた彼女に、何もしてあげられることもなく、その後ろめたさから真利子は彼女と距離を置いていた。そうでなかったとしても、お互いに就職したばかりで気持ちに余裕がなかった頃だ。どのみち疎遠になっていたに違いない。大学は卒業したものの、地元に戻ってきて母と娘の二人の暮らしは、経済的にはあまり楽ではなかったようで、昔のクラスメイトとのたまの気晴らしの飲み会にも、誘うのが憚られた。
 井上美幸と再会したのは、それから何年か経った後、彼女の母が亡くなった時だった。知人から聞き、真利子も通夜に出た。母一人、娘一人の暮らしだったから、さぞ悲しんでいるだろうと思っていたら、案外、以前と変わらない彼女がいた。母娘二人の生活で彼女は悟った、女性が生活していくには手に職をつける必要があると。一度は就職した地元企業を思い切って退職し、自分の貯金をはたいて看護師の専門学校に通ったのだと、その時に初めて聞いた。通夜だと言うのに、変に昔話に花が咲いた。もし都合がついていたなら、きっと翌日の葬儀にも出ていただろうと、真利子は今でも思う。
 これで心置きなく病院の近くに住めると、葬儀からいくらも経たないうちに現在の住まいに引っ越した。真利子が知らないところで、考え、決断し、行動したことは彼女にとって正解だったようで、今では内科の看護部長を務めるまでになっている。
「そう言えば、美幸の実家があったところ、マンションが建ってたわ」
 真利子が言うと、井上美幸はピーナッツを口に運びながら鼻で笑った。
「前に建ってたドラッグストアは潰れちゃったし、その前にあったパチンコ屋も閉店したのよね。あの場所、なんかに呪われてるんじゃないかしら。マンションも、そのうち無くなるかもね」
 嘲笑するような顔で、井上美幸は言った。誰も住まなくなった実家を手放して得たお金で、彼女は立派なお墓を建てた。これなら両親も怒らないでしょ、と言っていたあの時も、彼女は何かを嘲笑するような表情をしていた。
「去年の年末、また東京に旅行に行ったんだってねぇ」
 チーズかまぼこの袋を開け、井上美幸は中から取り出した一本で真利子のほうを指した。
「アタシも連れてってよ。東京に行って、パーッと羽根を伸ばしたいわ」
「仕事で行ったのよ、旅費だって公費なんだから、好き勝手に遊び回れる訳じゃないの」
 真利子はむくれて見せたが、自分の夢を叶えることを仕事と言ってしまっていいのか、胸がうずいた。真利子が不在の間、留守を与ってくれている副市長、彼が我がままに付き合ってくれて本当に助かっている。
郷土史に詳しい副市長は、真利子を指してこう言う。
 かぶき者、と。
 常識はずれな振る舞いをしていたかぶき者、前田利家。その血を受け継ぐ現代のかぶき者、前田真利子の企みに、副市長は嬉々として加わってくれた。真利子が金沢県知事として市長を退く時には、彼にその座を譲るつもりでいる。
「あの頃は楽しかったよねぇ。東京ってビルが立ち並んでいるイメージなんだけどさぁ、意外に公園が多くて、よく歩いたよねぇ。こっちに戻ってきてからは車に乗ることばっかりでさぁ。東京にいた時のほうが、体を動かしてたかもね」
 井上美幸の言葉に、真利子は苦笑した。確かにその通りだと頷いた。
 金沢に戻ってきてからの彼女の生活に、華やかさが乏しかったのは察しが付く。井上美幸と話していると、何となく大学時代を過ごした東京への郷愁が増す。本来なら、郷愁を覚える先は逆なのだけれど。
 東京への出張の際、皇居外苑のほかに、もう一か所、いつも真利子が訪れる場所がある。それは、東京大学・本郷キャンパスにある赤門。これは一八二七年に加賀藩十三代藩主・前田斉(なり)泰(やす)が、江戸幕府十一代将軍・徳川家斉(いえなり)の娘・溶(やす)姫(ひめ)を正室に迎えた折に建立されたものだ。
 東京大学に進学した真利子は、学生寮で同じ新入生の女子生徒の何人かと知り合った。それぞれ地方から出てきた者ばかりだったが、出身地を聞くと、どの辺りなのか真利子はすぐに思い浮かんだ。なのに、真利子が石川県出身だと言うと、皆、石川県ってどこ? と申し訳なさそうな顔で尋ねてきた。そのくせ金沢だというと、兼六園とか、加賀百万石とか、誰もがすぐに理解する。日本史にちょっと詳しい者なら、前田利家の名前を出すし、自分が利家の子孫だと話すと、驚かれることもあった。
 その一方で、金沢県なら知っているという者がいて、真利子は笑うに笑えなかった。
「だって、全国ニュースの最後の天気予報で、日本地図に金沢って出てるじゃん。あれって、金沢県のことじゃないの?」
 東京で過ごした四年間で、『石川県』の知名度の低さと『金沢』の認知度の高さを、真利子は否が応でも実感した。
 明治四年の廃藩置県まで、金沢は前田家が治めていた。その後、金沢県が誕生したのも真利子は知っている。のちに石川県になった改名の由来が、当時県庁が石川郡にあったからだということも。その石川郡はもう存在しない。今の県庁があるのは金沢市。
 自らが生まれ育ち、慣れ親しんできた金沢だけれど、その潜在能力を充分に発揮するためには、『石川県金沢市』ではなく『金沢県』であるべきだ。そして、金沢を名乗るからこそ、そこに入るものには金沢色に染まってもらう。加賀百万石の礎を築いた前田利家の子孫である自分が、それをこの手で成したい。日々のキャンパスライフの中で赤門を目にするたび、そんな想いが真利子の中で強くなっていった。真利子の夢を形作っていった。
「私はしばらく忙しいから、旅行は無理ね。誰か一緒に行ってくれる人いないの? 恋人とか」
 真利子に言われて、あはは、と井上美幸は声を出して笑うと、持っていた缶ビールを一息に空にした。
「アタシは、もう男はいいわ。もうじき五十だし、こんなオバサンと色恋を楽しんでくれる男なんて、もういないでしょ」
 両親が離婚するのを見てしまうとねぇ、結婚しようなんて思わなくなっちゃって。いつだったか、ずっと一人で暮らしている理由について、井上美幸がそう言っていたのを真利子は覚えている。井上美幸の両親がなぜ離婚したのか、真利子は知らない。しかし、次第に夫婦仲が悪くなっていく中で、娘の前でも、相手への憎悪感、嫌悪感をあらわにすることがあったのだろうと、彼女の話しぶりから察せられた。
「アンタこそ、どうなのよ?」
「私は、市長という職にこの身を捧げようと思っているから……」
 井上美幸はプッとふき出し、それ本気で言ってんの? と笑った。
 女一人で生きている。そういう意味では同じなのだけれど、そこに至る道程について言えば、自分と彼女とでは大きく違う。
 法律のうえでは社会的に男女が平等に扱われるようになったが、女性が自分の力だけで生きていくのは、実際には楽ではない。井上美幸は若いうちにそれを悟り、方向性を転換する決断をしたことで、自分なりの人生を手に入れた。真利子はと言うと、自分の夢のために結婚を諦めた。
 金沢県を誕生させる。それを最初に話した相手は、佐々木修平だった。彼なら理解してくれる、いや、理解できなくても受け入れてくれる。そして、彼なら一緒にこの志を成し遂げてくれる、そう信じていた。新しい県を誕生させるなんて聞いたことがない、それは難しいことなのではないか、そう言われるのは予想の範疇だった。君が総理大臣にでもなって、その立場を利用して石川県を金沢県に改名させるほうが現実的かもしれない、それでも可能性はとても小さいけれど、と言われたことも。
 それでも彼と二人、暗中模索の末になんとか道筋をつけることができた。時には無茶なこともした、胸を張って言えるようなことばかりではなかった。だが、ようやくここまで来られた。もし佐々木修平がいなかったら、いつか膝をついていたかもしれないし、歩き出すことすらできなかったかもしれない。
 金沢県の誕生に関すること以外においても、彼がどれだけ心の支えになっていたか、真利子は重々承知している。
 だからこそ、佐々木修平とともに歩む人生を諦めた。
 この夢を叶え維持していくことと、彼と夫婦という関係を維持していくこと、その二つは自分にとって、あまりに大きく重く、それを両立する自信を真利子はついに持てなかった。もし両立できたとしても、それが彼を自分に縛り付けるようなものになってしまいそうで怖かった。
 自分も彼の優しさ、愛情に息苦しさを感じてしまいそうだった。市長でもあり、女でもあり、それ以外の自分でいることを許されなくなったらと思うと、真利子はふと逃げ出したくなる。
 井上美幸は、そんな鬱屈とした真利子を解放してくれる。
 佐々木修平を信頼しているし、頼りにもしている。しかし、そういう関係とは違う、何者でもない自分でいられる場所が、関係性が、自身を保つために必要なのだ。
「美幸は、金沢県ってどう思う?」
 どうってねぇ、と呟いて井上美幸は缶ビールを一口飲んだ。
「アタシは、石川県だろうが金沢県だろうが、どっちでもいいよ」
 そう、と答えて真利子も缶ビールを一口飲んだ。
 彼女らしい答えだと思った。彼女以外にも、石川県だろうが金沢県だろうが、どっちでもいいと思っている人はいるはず。金沢県の誕生は、いわば自分の我がままだ。それを判っていながら、肯定的な答えを期待していた。そんな内面がつい顔に出てしまったのだろう、井上美幸は真利子の肩をポンポンと叩きながら言った。
「アンタは金沢県を作ろうとして、それはもうじき完成しようとしているんだから、ちゃんと最後まで仕事を完了しないとダメだぞ」
 なんか偉そう。真利子のその一言で、二人して笑った。井上美幸に、自分の夢、というか野望について話したことはない。もし話していたら、彼女はもっとずっと気を遣ってしまう。それは嫌だと真利子は思った。冗談半分で茶化し合う、それが彼女との関係における最適なあり方なのだ。
 日々の生活の中で抱く愚痴や不満、たいした内容もない話をして、会話が途切れると、つけたままのテレビを眺める。バラエティ番組の出演者の一言や、途中で流れるCМをきっかけにまた会話が始まり、それが途切れるとテレビを眺めながら缶ビールを傾け、テーブルの上に並んだものを口に運ぶ。そんな調子で、気が付くと二時間以上が経っていた。午後八時から始まったお笑い番組が終わったところで、真利子は腰を上げた。
「私、そろそろ帰るわ」
「駅まで車で送ってあげようか?」
「缶ビールを片手に言わないでよ」
 相変わらず真面目チャンねぇ、と井上美幸に言われ、真利子は呆れながら笑顔を返した。
「まだ人通りもあるし、駅まで近いから」
「時の人、金沢市長・前田真利子に、人目を忍んで逢瀬を楽しむ相手がいるなんて、マスコミに知られたらスキャンダルになっちゃうしね」
「ならないわよ。今日はありがと」
 じゃあ、おやすみ。そう言って部屋を出ていく真利子に、ばっはは~い、と井上美幸は軽率な声を送り、真利子は軽く右手を上げて答えた。
 このくらいの方が安らげる。だから今日ここに来た。井上美幸は、私を金沢市長として扱わない。例え彼女が金沢市民だったとしても。金沢県が誕生しても、きっと彼女は私を県知事として扱わない、彼女が金沢県民になったとしても。中学時代のクラスメイト、大学時代に東京で暮らした者同士、今と同じそんな二人でいることを願っているし、彼女にもそう願っていて欲しい。鶴来駅に向かいながら、真利子はそんなことを思っていた。
「もしもし、前田です。ご苦労様です」
 駅に着きタクシーに乗る前に、真利子は秘書課の職員に電話した。これから自宅に帰る旨を伝えると、安堵した声とともに明日の予定について尋ねられた。
「明日の午後なんですが、テレビ局の取材が入っているのをお忘れじゃないですよね? 北陸金沢テレビの」
 ついさっき、井上美幸にスキャンダル云々とからかわれた時に思い出していた。おかげで酔いが覚めてしまい、思考が市長のものに戻ってしまったが、そうでなかったら、ほろ酔いのまま連絡もせず自宅に戻り、明日の朝に顔を合わせるまで、秘書課の職員をやきもきさせていただろう。
「ええ、大丈夫よ。上手く受け答えするから心配しないで」
 もうすぐ金沢県が誕生する。ここに至るまで、世間には知られたくない国とのやりとりが、金銭的なことも含めてあった。下手にその辺をつつかれると都合が悪いが、ようやくここまで来たのだ、下手は踏むまいと真利子は自らを鼓舞した。
 電話を切り、タクシーに乗り込む。行き先を告げ、到着するまで、運転手は後ろに前田真利子を乗せていると気付いたふうはなかった。こんな時間にこんな所で、金沢市長を乗せるなんて思ってもみないだろうから。
 
「三十六歳の誕生日、おめでとう。お祝いに飲みに行こう」
 明日の金沢市長への取材の準備をしていた上松俊介に、報道局長が声をかけてきた。
「俺の誕生日、先月だったんですけど」
「まぁ、いいじゃないか。今日は時間があるんだろ?」
 明日の取材の準備があるんで、と上松俊介は相手にしないでおこうとするが、明日のその取材について話があるんだ、と局長は肩をつかんでくる。その握力に断り切れず、局長が贔屓にしている焼き鳥屋にお供させられることになった。北陸金沢テレビ社屋から歩いてすぐのところに店はあった。
「で、話って何ですか?」
 席についてからずっと訝しんでいる上松俊介に、まずは乾杯といこうや、と言いながら局長はコップにビールを注いだ。気が進まないまま形だけの乾杯を済ませて、上松俊介は店内を一瞥した。どのテーブルも、自分たちと同じサラリーマンばかりだ。スーツ姿に交じって、制服や作業着を着た者もいる。サラリーマンというより、労働者と言ったほうが正確かもしれない。皆、どこか浮かれていて楽しげだ。
 金沢県が誕生するのに合わせて、いろんな表記が変わる。その特需に街が沸いているのを、上松俊介はいつも取材で感じている。店内のあちらこちらで笑顔が咲いているのも、そのせいかもしれない。浮かない顔をしているのは自分くらいだと思いながら、上松俊介はビールを一口飲んだ。
「で、話って何ですか?」
 そう言うのは店に入ってから二度目なのに、ここの焼き鳥は美味いぞ、と局長は話をはぐらかす。お前も食え食え、と勧めてくる局長をにらみ返すと、ビールのグラスに口をつけた後、ようやく局長が切り出した。
「明日の市長の取材、何を訊くつもりなんだ?」
 ちょっと踏み込んだ話をしてみようと思っています。上松俊介が言うやいなや、局長の言葉が返ってきた。
「やめとけ」
 あからさまに不満げな表情を浮かべた上松俊介を見て、局長は眉をひそめた。
「金沢市が何か言ってきたんですか? 前田市長が?」
「まぁ、落ち着けって」
 落ち着いてなどいられない。もし市長からの圧力があるのなら、それはマスコミに対する挑戦と言っていい。
 金沢県が誕生すると知った時、日本中が驚いた。上松俊介もその一人だった。自分が生きてきた中で、新しい県が出来るなんて聞いたこともなかったのだから。でも気が付けば、誰もがそれを当たり前のように受け入れている。それはたぶん、石川県よりも金沢という地名の方が知名度が高いからだと、この地に生まれ育った上松俊介にも察しがついた。
 しかし、あまりにその流れが自然で、かえって違和感を覚えてしまう。そもそも、政府や関係省庁の反応がおとなしすぎる。ずいぶん前から何かしら働きかけをしてきたのだろうと思って調べてみると、とにかくお金の流れに不自然さが否めない。しかも、それは金沢市の予算ではとうてい賄い切れる金額ではなかった。金沢市が近隣の自治体と共同で運営しているファンドだって、そこまで多額の利益を得ているとは考えにくい。前田利家の隠し財宝を掘り当てた、なんてこともなかろう。
 前田真利子市長は、金沢県の誕生以外にも、何かとんでもないことを考えているのではないか、とすら上松俊介は勘ぐってしまう。
「前田市長に取材するのはいい。でも、あまり踏み込んだ話はするな」
「何故です? 前にも言ったでしょ、金沢市のお金の使い方が不自然だって」
 上松俊介は噛み付いたが、局長は素知らぬ顔で背伸びをして、椅子の背もたれにふんぞり返るだけだ。
「なぁ、上松。まわりを見てみろ。みんな楽しそうじゃないか。金沢県が誕生するってんで賑わってんだよ。新しい需要が生まれる、仕事が舞い込む、金回りが良くなる。誰も不満に思ってないんだ。判るよな? それでいいじゃないか」
 はぁ、としか上松俊介は答えられなかったが、すぐに話の焦点をずらされたことに気付いた。が、口を開こうとした上松俊介よりも先に、局長が口を開いた。
「お前、どこの出身だったっけ?」
 宝達志水町ですけど、と上松俊介は苛立った顔で答えた。
「宝達志水町か。ホーダツシミズチョー、その町名を言って、どれだけの人が判ってくれる? 四月になって金沢県が誕生すれば、胸を張って、金沢出身だって言えるんだぜ。いい話だと思わないか?」
「そういうことじゃなくてですね、局長」
「ウチの会社の株主の中に、金沢市がいるんだ。現在、8%の株式を所有しているが、他の株主から買い付けを行っているらしい。すぐに10%は超えるだろう。そうなったら、株主にはどんな権利を行使できると思う? 解散請求権だよ。たぶん10%じゃ済まないだろうけどな。お前みたいなのがいるから」
 次第に局長の言い方が厳しくなってくる。子供もまだ小学生だろ、失業したら困るよな、と情に訴えかけようとまでしてくる。
 だが、権力に屈する訳にはいかない。上松俊介は言い返した。
「そんなこと言ってたら、報道や取材の自由が侵されますよ。それでいいんですか」
「報道機関である前に、北陸金沢テレビ株式会社は一企業なんだ。潰れたら自由もへったくれもない。よそを見て見ろ。みんな金沢県の誕生に好意的だし、それで良い数字をあげている。お前も少しは見習ったらどうだ。だいたい、今さら金沢県誕生のアラ探しなんて、誰も望んじゃいないだろ」
 ビールでのどを潤して、局長はさらに続けた。
「それどころか、金沢県が誕生したら、梅雨入り、梅雨明けの宣言を、金沢地方気象台が出すことにしようって話まであるんだ。新潟は北陸じゃないってのに、新潟の気象台が出してるものだから、なんか感覚的にズレてるって以前から言われるだろ。もし金沢の気象台が出すことになれば、北陸に住んでる人みんなが喜ぶってもんだ。なぁ?」
 上松俊介は憤然としたまま、コップのビールを空にした。腑に落ちない話を聞かされて、とてもじゃないが腹に食い物を入れる気にはなれない。無理して入れた日には、怒りの爆発とともに吐き出してしまいそうだ。
「今までお前がヘマをやらかした時には、俺が尻拭いをしてきてやったじゃないか。その俺が頼んでんだ。ここの勘定も、俺が全部払う。それで納得してくれ。頼む」
 膝に両手をついて局長が頭を下げた。確かに局長がいなかったら、記者としての今の自分はなかったと上松俊介も思う。
 しかし、記者として歩んできた自分なりの意地というものもある。
「とにかく、明日の取材の準備があるんで、俺もう帰らせてもらいますわ」
 上松俊介は席を立った。
 後ろから溜め息が聞こえてくる。それだけで局長の呆れ顔が想像できるのだから、付き合いの長さは上松俊介も判っている。世話になったことだって忘れた訳じゃない。
 でも、ここで譲ってしまっては、何のために自分が記者をやっているのか判らなくなってしまう。さすがに局長を一人残して帰るのは気が引けるが、明日の取材は予定通り行う。そう決心を固めて、上松俊介は店を出た。
 
 会社に戻り、上松俊介は明日の準備を済ませた。時計を見ると、まだ午後九時前。コップ一杯のビールだけとは言え、飲んでしまったら車で帰るわけにはいかない。たまには電車で帰ってみるかと、上松俊介は駅に向かって歩き出した。
 地方に住んでいる者にとって、車は生活必需品の一つだ。都市部ほど公共交通機関が発達していないせいで、どうしても車に頼りがちな生活になる。おかげでローカル線はどこも赤字だし、不採算の路線は廃止したいというのが鉄道会社の本音だろう。しかし、学生や高齢者の足として必要なことを考えると、地元自治体が公的資金で維持せざるを得ないのが現状だ。
 電車は空いていた。通勤や通学の時間帯と、夕方の帰宅の時間帯、その二つは混んでいても、それ以外は人影もまばらだ。踏切で電車が通り過ぎるのを見ていると、誰も乗っていないのではないか、と思ってしまうこともままある。
 乗客が殆どいないこの電車も、数年前に第三セクターに移行して継続運営している。それは延命治療のようなものでしかない。実際には、運営を続ければ続けるほど赤字は膨らんで、それを補填する公的資金の支出額も増えていくのだから、いっそのこと公共交通機関は行政サービスの一つという位置付けにしてしまえばいいのでは、と上松俊介は思ってしまうことがある。そういう形で財政的にうまくやっていけるのは、恐らく金沢市くらいだろうが。
 ここ何年かの金沢市は、お金の流れだけでなく、人事に関しても不自然なところがある。それまで行政に直接かかわる部署にいた者が、行政とはまったく関係のない外部団体や、教育施設、医療機関に異動しているのだ。それは、能力的に劣る職員が日の当たらない部署に異動になるのとは違う。ある程度の規模があるプロジェクトの責任者を務めていた者や、それなりの役職にあった実務能力のある者までもが、地味なセクションに異動になっている。何か重大なミスをして左遷された、という話も耳にしない。取材という名目でそれとなく本人たちに訊いてみても、のらり、くらり、とはぐらかされ、はっきりしたことを誰も答えてくれない。
 その中の一人、佐々木修平に上松俊介は目を付けていた。彼も市の行政に直接かかわる仕事をしてきた人物だ。もともとは市の職員だった前田市長とは採用年度が同じで、市長の妹と結婚している。現在は市民病院に勤務している。
 彼に異動について尋ねてみたところ、市民病院の経営状態が芳しくないから、お前ちょっと行って来いって言われてね、と苦笑いされてしまった。もっともらしい理由ではあるが、それまで行政の中枢に関わるような仕事をしていた者に、お前ちょっと言って来い、なんていったい誰が言えるというのか。比喩だとは思うが。
「何だかんだ言って、体よく雑用を押し付けられていますよ。まぁ、それで人件費が削減できるんなら、役に立ってるって言えるんでしょうけどね」
 本庁舎にいた頃の彼は、財務課や人事課、企画調整課などの課長を務めていたこともある。いわば出世コースにいた。そんな彼が、市民病院の雑用をしているなんて聞かされて、誰が納得できるというのか。
 そもそも、彼の奥さんは市長の妹だ。もし彼が雑用を押し付けられてヘラヘラしているだけの、そんなうだつの上がらない男だったら、妹の結婚に、市長は全力で反対していたに違いない。
 まったく、合点がいかない。
 佐々木修平には、修次という弟がいる。自販機に飲料を補充する仕事をしながら、実家ではなくアパートで一人暮らしをしている。金沢県が誕生するにあたり、前田真利子市長をはじめ、金沢県の誕生に尽力した人たちを取材している、という趣旨で話を聞かせて欲しいと、弟の佐々木修次に頼んでみたところ、案外あっさり承諾してくれた。
 前田真利子について、彼は信頼できる人だと言っていた。何年か前に外国の証券会社が経営破綻し、その影響で不況になった時、市長の判断で住民税を減税し、さらに給付金を支給した。それはバラ撒きのような大雑把なものではなく、所得に応じて金額を割り出すやり方で、自分のような安月給の者にまで気を配ってくれていた。彼女は住民のことをちゃんと考えている。金沢県が出来るのであれば、ぜひ彼女に県知事になって欲しい。
 佐々木修次の言葉は、熱を帯びていた。まるで前田真利子信者のようだ、と上松俊介は思ったものだ。
 兄の佐々木修平については、高校生の頃から前田真利子には憧れていたし、親しくしていたようだと話していた。生徒会の仕事を一緒にするようになってから、兄は彼女に憧れるようになって、ついには金沢県をつくるための仕事にまで携わるようになった。ただ、自分は兄がどんな仕事をしているのか、具体的な内容は知らない。けれど、前田市長への憧れが兄を大きくしていったのだと思う。そんな兄に憧れている自分も、兄ほどたいそうな事はできなくても、兄の足を引っ張るような弟ではいたくない。自分なりに人生を生きていきたい。そんなことを言っていた。
 正直なところ、上松俊介は、弟の佐々木修次を勘違いしていた。兄にコンプレックスを持っているから、実家から離れ一人気ままに暮らしている、そんな印象を抱いていた。しかし、実際に会って話を聞いてみると、案外、しっかり世の中を見ているように思えた。兄の佐々木修平とはずいぶん違う人生を、弟の修次が歩んでいる。それは間違いないが、ちゃんと地に足をつけて生きていることに変わりはない。
 残念ながら、金沢県の誕生に、兄の佐々木修平がどう関わっているのかまでは、本当に弟は知らないらしい。金沢の不自然なお金の流れについても、糸口はつかめそうになかった。
 とは言え、前田真利子と佐々木修平が、ずいぶん以前から親しい間柄だったことは確かだ。二人の高校時代の知り合いからも、そんな話を耳にしていた。
 考え事をしながら電車に揺られていた上松俊介だったが、見慣れた住宅街が近付いてきて、腰を上げた。一番前の出口で切符と料金を支払い、薄暗く寒々としたホームに降りる。
 子供の頃はどこの駅でも、切符を買い、改札を抜けて電車に乗るのが当たり前だった。駅員が切符切りのハサミをカチカチ鳴らしていたのが懐かしい。
 それが今では、路線の殆どが無人駅になっている。見送りのための入場券なんて、過去のものでしかなくなっていることに改めて気付く。鉄道会社にしてみれば、経費を削減するための当然の手段なのかもしれないが、久しぶりに電車に乗った上松俊介にとっては、どこか味気なさが残るだけだった。
 
「金沢県が誕生して最初の二年は、私が知事を務めます。準備はしっかり行っていきますが、どこでどんな問題が発生するか判りませんから、とりあえず二年間は猶予をいただくという形をとらせてもらいます。その後は従来どおり、選挙で知事を選出します。県民の皆さんに選んでいただけるよう、最初の二年間できちんと実績をあげていくつもりでいます」
 市長の執務室で、テーブルを挟んで向き合った前田真利子はよどみなく答えた。それを上松俊介は頷きながら聞く。
「諸事情により、現石川県知事への連絡が遅れてしまい、多くのご迷惑をおかけしたことは、申し訳なく思っています。にも関わらず、こちらの要望をお受けいただけることになり、大変感謝いたしております。金沢県が誕生してからも、現石川県知事には知事相談役として、お力添えを頂くことになっています。若輩者のわたくしではありますが、ご指導、ご鞭撻を賜り、それを謙虚に受け止めて精進していく所存です」
 昨夜、家に着いてからも上松俊介は考えていたが、資金や人事の不自然さを明らかにする有効な手段は思い付かなかった。とりあえず通常の取材を行っていく中で、今まで表に出てこなかった情報を引き出す機会をうかがうしかなかった。
「自治体は、住民あってのものです。住民一人ひとりがより幸福を感じられる毎日を送るためには、生活水準の底上げが重要です。それは単純に収入が増えたということだけではなく、住民の皆さんが満足できる人生を歩むことができるかどうか、ということです。言い換えれば、自分が望んだ人生を選択を出来るかどうか、ということになります。例えば、結婚や出産で離職する女性は、現在でも少なくありません。もし仕事を選んだために、結婚を諦めなければならないのであれば、それはとても残念なことです。結婚のために仕事を諦めるのも同じです。でも、託児所やベビーシッター、調理済み食材の宅配、そういうサービスを利用することで、違う選択肢も生まれてくると思うんです。もちろん、そのためには料金を支払う必要がありますが、収入が増えた分、それをどう使うかということが人生の選択肢を増やしていくことにつながる、ということを、まず住民の皆さんに理解していただきたいのです」
 そのうえで、地域経済の活性化や、新業種の創出、従来の業種の拡充にも力を注いでいきたい。前田真利子の話はもっともだ、と聞いている上松俊介も認めてしまう。が、とどのつまり、そういう政策を進めていくにも資金が必要になる。地域経済を活性化するための呼び水のようなものだが、それは放っておいても湧いてきてはくれない。
「ここ数年で金沢市は、国が発行する赤字国債などをかなり購入しているようですが、その財源はどこから得ているのでしょうか?」
 軽く突いてみるつもりで、上松俊介は尋ねてみた。
「金沢市は、近隣の自治体と共同でファンドを運営しています。そこから得られた利益を、購入資金に充てています。国債の購入も、一種の投資です。長い目で見れば、投資額を上回るものを得ることができる。複数の自治体で資金を出し合えば、元本も大きくなりますから、それだけ得るものも大きくなる。金沢県が誕生すれば、現在のファンドの運営を、県内すべての自治体と共同で行う予定になっています。そうすれば、さらに大きな利益を生み出すことができるでしょう。そして、それを住民の皆さんのために役立てることをお約束します」
 笑顔も言葉も、崩れそうなところは微塵も見当たらない。いっそ、一緒にいる秘書課の課長でも突いてみたほうが、ボロを出してくれるかもしれないとすら思ってしまう。
 恐らく、金沢市は独自の資金源を持っている。それを知られないために、共同ファンドを隠れ蓑にしていると上松俊介は考えている。金沢市が見えないところで独自に増資し、利益を水増しして配当しているのではないか。もしそうだとしたら、金沢市がより大きな負担を抱えこむ理由は思い付く。ファンドに参加している自治体を手なずけ、金沢県の誕生をスムーズに行うためだ。
 前田市長の言っていることは、どこまでも筋が通っている。人事に関する不自然さを問いただしたとしても、きっと隙のない答えが返ってくることは、上松俊介にも充分に予想がついた。
「ちょっと話はそれるのですが……」
 上松俊介は体を起こし、ソファーに座りなおした。
「佐々木修平という職員をご存じですよね?」
 その言葉に、市長の笑顔に変化が表れた、ような気がした。上松俊介はそう感じた。
「ええ、存じています。同期で入庁した職員だと記憶していますが」
 昨日の、苦り切った局長の顔が浮かんだが、上松俊介は構わず続けた。
「学生時代は、佐々木修平氏とずいぶん親しかったようで」
「プライベートな質問は控えていただきます!」
 あからさまに怒気をはらんだ声が返ってきて、上松俊介は怯んだ。同席していた秘書課長が、身を乗り出さんばかりに睨みつけてくるのを、前田真利子が宥める。
「確かに、彼とは親しい関係にありました」
 静かに口を開いた前田真利子に、市長! と秘書課長が食って掛かる。その肩にそっと置いた前田真利子の手が、まぁいいじゃない、と言っているようだった。
「中学校と高校は、彼と同じところに通っていました。高校生の頃は、彼と親しい間柄だったこともあります。でも卒業してから、私は東京の大学に進学し、彼と再びあったのは、市の職員として採用されてからなんです」
 納得いかない表情を浮かべたままの秘書課長の肩には、まだ前田真利子の手が置かれている。市長から目配せされ、秘書課長は仕方がないという表情を見せた。
 肩に置かれた手は元の位置に戻り、前田真利子は上松俊介に向かって話し始めた。
「私は、彼に好意を持っていたこともありました。でも、私は市長になることを選びました。市長としての職務を優先し、そして今後は金沢県の県知事として、県民のために努めることを決意しました」
 いったん話を止め、前田真利子は小さな深呼吸をしてから、それまでとは違う芯が通った、射るような鋭さで話し出した。
「私は、諦めたんです。妹に彼を譲りました。私の場合、一般の人とは立場が違います。でも、私のように何かを選ぶために、別の何かを諦めなければならない人というのは、少なくないと思っています。特に女性には。だから、そんな人たちの気持ちが私には理解できるし、そんな気持ちで自分の大事な人生を送って欲しくない。その為にも、自分が金沢県の知事として立ち、その職に努めたいと思っているんです」
 
 結局、金沢県の誕生にからむ多額の資金の出所は判らないまま、上松俊介は帰宅した。
 前田真利子という人物は、あまり感情を表に出さない印象を、上松俊介はずっと持っていた。だから、思わず後ずさってしまいそうになる押しの強い口調に戸惑ってしまい、それ以上、何かを尋ねることはできなかった。一方で、あれは都合の悪いことを訊かれないための演出だったのではないか、という疑いも湧いてくる。
 家に帰る途中、ずっと狐につままれたような気持ちでいた上松俊介だったが、家に着いて家族の顔を見たとたん、急に前田市長の言葉が心に重くのしかかってきた。
「お父さん、今日は遅くなるんじゃなかったの?」
 妻と二人の子供が夕飯をとっている姿を、上松俊介は久しぶりに見た。
 十二年前に結婚して、妻と二人で公営住宅に入居した。今は、十歳の娘と七歳の息子の四人で住んでいる。
 ニュース番組の特集コーナーのために、昼間に取材した内容をまとめようと思っていたが、どうも気が乗らず、パソコンを打つ手も止まりがちになる。急ぎの仕事でもないし、明日にでも片付ければいいと、今日はさっさと帰ってきた。
「お父さんも食べるでしょ?」
 妻に問われ、ああ頼む、と言いながらテーブルにつく。おかえり、と二人の子供は言いながら、まるで知らないオジサンでも見るような目をしている。普段は取材だ何だと言って、子供たちが寝た頃に帰宅するのだから、それも致し方ない。子供たちを前にすると、自分がいかにダメな父親か思い知らされる。
 チン、という電子レンジの音がして、ラップのかかったおかずを妻が取り出す。知らないオジサンと一緒だと落ち着かないのか、子供たちはさっさと食事を済ませ、テレビと向き合い始めた。
「こんな時間に帰ってくるなんて珍しいじゃない。明日は雪かしら」
「よしてくれよ」
 肩身の狭い思いをしながら、上松俊介は妻が用意してくれた夕飯に手を付けた。
 公営住宅だから家賃は安く済んではいるが、子供に手がかからなくなってから、妻も働きに出た。おかげで経済的に余裕が生まれたものの、子供が保育園に入るまで妻は苦労したことだろう。今だって、子供が小学校から帰ってくるまでには、パートの仕事を切り上げなければならず、フルタイムの仕事はできない。
 結婚する前は地元のケーブルテレビ局でリポーターをしていた妻は、結婚を機に退職した。マスコミ関係の仕事を選んだのだから、それなりに志を持って働いていたことは、結婚する前から判っていた。そういう意味では、今のホームセンターの店員の仕事は生活のためにやっているのであって、彼女にとっては不本意なのかもしれない。結婚のために、家族のために、何かを諦めさせてしまったのかと思うと、自分だけ好きな仕事を続けていることに、上松俊介は引け目を感じずにはいられない。
「早くお風呂に入っちゃいなさーい」
 妻の号令に、子供たちがテレビの前から駆け出す。
「洗濯機を回したいから、お父さんも早く入ってね」
 妻の言葉に、上松俊介も食事のペースを上げた。
 自分が望んだ人生を選択できるようになれば、人生の選択肢が増えるようになれば、前田真利子が言っていた、そんな世の中が本当に訪れるのであれば……。
 金沢県というものが誕生したほうが、自分にとっても、家族にとっても、望むべきことなのではないだろうか。金沢県が運用した資金で得られた利益が、住民のために役立てられるのであれば、多少の不自然さには目をつぶってしまってもいいのではないか。
 そんな想いが、上松俊介の心をゆっくりと包んでいく。
 手早く夕飯を済ませ、子供たちがいたテレビの前に座り込んだが、いくらも経たないうちに子供たちが風呂からあがり、上松俊介の番が回ってきた。
「なぁ、食材の宅配サービスを頼んでみたらどうだ?」
 洗い物をする妻に言ってみた。ん? と言って顔を上げた妻は、わざわざいいわよ、と一言答えただけだった。
 
 佐々木修次は、輪島市にある道の駅・千枚田ポケットパークに向かっていた。国道249号線を北上して、能登半島を左回りでトラックを走らせる。海沿いの道路を走るのは、眺めも良くて気分がいい。
 能登半島は、その面積の殆どが山と言えるほど平地がない。そのため稲作を行うには、斜面に小さな水田をいくつも作って棚田にするしかない。千枚田という名称も、まるで階段のように細長い田んぼがいくつも並ぶ様から来ているとも、狭い田が転じて千枚田になったとも言われている。農耕機械が使えず、農作業をする人には効率的ではないのだろうが、おかげで生まれた独特の景観は、見ている者を牧歌的な気分にさせてくれる。特に、海に沈む夕日に照らされた千枚田の眺めは、現実感を失ってしまいそうなくらい空想的で、この地がもっとも美しく映える瞬間だと佐々木修次は思っている。そんな風景を目にするにつけ、これが仕事で来ているのでなければ、と佐々木修次はいつも溜め息をついてしまう。
 自販機のジュースの補充は、重い荷物を積み下ろししなければならず、キツくて辞めていく人も少なくないが、自分には向いていると佐々木修次は思っている。若い人が音を上げて辞めていく職場だから、四十代半ばの自分ですら年長者から可愛がってもらえるし、何より、兄の佐々木修平と比べる者がいない。
 平日の午後は、道の駅も空いている。観光客向けの大型バスはおらず、あまり広くない駐車場には、乗用車が何台か止まっているだけだ。混んでいると、飲料を積んでいるトラックを止める場所にも気をつかう。場合によっては、ジュース類を運ぶ距離も長くなってしまうし、雪が積もるとなおさら面倒が増える。春が近付くにつれその心配も減っていくが、冬用タイヤを交換するのはまだ一か月以上先である。
 今日は、レストハウスの横にある自販機の近くに止められた。トラックを降りた佐々木修次は、人目をはばかりながら大きく背伸びをした。この仕事が性分に合っていると思ってはいるが、ずっと運転席に座っているのは窮屈で仕方がない。
 自販機を開け、専用の機械を接続して売り上げのデータを解析して、お金を回収する。その後に、減った缶ジュースやペットボトル飲料を補充していく。この時季は、まだ温かい飲み物がよく売れる。
 少ない観光客は、高齢者と思われる風貌ばかりだ。平日の昼日中じゃあ、そんなものだろう。
 二台が並ぶ自販機の一台の補充を済ませ、隣の自販機に取り掛かろうとした時、駐車場に軽自動車のパトカーが入って来るのが見えた。車を止め、降りてきた制服警官がレストハウスに入っていく。近くの駐在所の警察官だった。この辺りの補充に回っている時、何度か見かけたことがある。
 しばらくして、レストハウスから出てきた警察官が財布を取り出しながら、補充を終えたばかりの自販機に近付く。階級章で巡査部長であることが判る。
 客がいる隣で作業をするのは、なんだか購入を急かすようで佐々木修次は嫌だった。そんな場面に出くわすたびに、補充のための飲料を時間をかけて代車に乗せながら、客が去って行くのを待った。
 ペットボトルのお茶を買った巡査部長は、それを一口飲んで小さく息を吐いた。まわりの高齢者ほどではないにしても、近いうちにその仲間入りをしそうなほど、彼は老けて見えた。隠すつもりもないらしい白髪が、そんな印象を強くしていた。開き直りか、諦めか、どちらにしても苦労を露わにすることを厭わなくなった姿に、佐々木修次は何も思わないではいられなかった。
 もう一口、二口、巡査部長はのどを潤してから、駐車場に止めてあるミニパトに向かってゆっくり歩き出した。
「ご苦労さん」
 代車を押す佐々木修次とすれ違う時、巡査部長は言った。たぶん何気なく言っただけなのだろう。たいした意味はない、そう思いながら、つい佐々木修次も口を開いてしまった。
「誰かがやらなきゃいけない仕事なんだから、誰もやらなくなったら、世の中が回りませんよ。意味のない仕事なんて、一つも無いんだから」
 それは、自分自身にいつも言い聞かせていることだった。
 突然のことだったからか、見ず知らずの者に諭されるようなことを言われたからか、巡査部長は呆気にとられた顔をしている。余計なことを言ってしまった、と佐々木修次は小さな後悔を抱いた。
 経験を積んだ者だから、地域住民とより深くかかわる駐在所勤務になったと言えるのかもしれないが、定年退職の年齢に近付いたこれからは、実績と呼べるような仕事とは巡り合うこともないとも取れる。そんな彼を不憫だと思った。そして、そう思った自分の傲慢さに気付いた。お節介、という言葉が佐々木修次の頭に浮かんだ。やはり、余計なことを言ってしまったのだ。
「何でもないです。すみません」
 そう言って立ち去ろうとする佐々木修次に、彼は言った。
「お互い、頑張ろうや」
 振り向くと、巡査部長がミニパトに乗り込もうとしているところだった。
 青空が広がっていても、二月の日差しはまだ温かさに乏しい。海も、青というより灰色に近い。
 駐車場を出ていくミニパトに、一瞬だけ反射した陽光が、佐々木修次の心を照らした。
 もし、あの巡査部長が上司だったなら、自分は今でも警察官でいたかもしれない。
 代車を押す手をとめ、佐々木修平は大きく背伸びした。
 前を向いて歩いていこう。昔は昔、今は今なんだから。そう自分に言い聞かせ、佐々木修次は、代車を押す手にふたたび力を込めた。
 佐々木修次が、兄である佐々木修平に憧れるようになったのは、修平が前田真利子と親しくなり、それがきっかけで向上心を持つようになってからだ。それまでの兄は、勉強もスポーツもそこそこ出来たが、何か秀でたものがあった訳でもない。ほどほどにこなせる、それだけが取り柄のような人だった。
 収入は安定しているけれど無味無臭なイメージしか湧かない公務員というものは、そんな兄には適任と言えるかもしれないが、やっかみ半分で揶揄したくなるその職業は、案外高いハードルを越えないと採用されないのだと、大人になっていく過程で修次は理解していった。と同時に、自分の出来の悪さでは、そのハードルを越えるのは無理であることも理解できるようになっていった。そのくせ、兄に対する憧れは簡単には消えてくれない。自分が市役所の窓口で住民の対応をしている姿など、修次にはまったく想像できないというのに。
 そこで修次は考えた。消防士や警察官なら、同じ公務員として胸を張って兄と並んでいられるのではないか。募集人数の多さで、警察官になることを決めた。
 中学、高校ではサッカー部に入っていた。たいした成績は残せなかったが、運動部にいたおかげで体力は人並み以上にある。学力は人並み以下だったが、二流大学の法学部をなんとか卒業して、警察官採用試験にも合格した。警察学校も無事に卒業できた。
 なのに、最初に配属された署の上司、巡査部長とそりが合わなかった。彼が自分の出世を気にする性格なのが見ていて判った。大卒で入ってきた新人巡査を、どこか目の敵にしているところがあった。その巡査部長が高卒で、大卒の同期に差をつけられているという噂を耳にした。職務に忠実な先輩ではあったが、無意味に部下に厳しいとしか思えないことがしばしばあった。
 やっと警察官になれた。両親はもちろん、憧れていた兄までも手放しで褒めてくれた。うだつの上がらない弟という劣等感を、これで解消できると思った。
 なのに、窮屈で仕方がなかった。きっとあの巡査部長の下で働いていた者はみな、同じ気持ちだったのだ。ある巡査が、羽目を外すほど酒を飲んで、飲酒運転で事故を起こした。それがきっかけで巡査部長の部下への態度はますます厳しくなり、精神的に疲弊してしまった修次は、結局、警察官をやめた。
 目標のために、佐々木修次は努力した。その結果がこれでは、もう何にも意欲が持てなくなってしまった。両親は落胆した。家に居づらくなって、修次は安いアパートに引っ越した。お金がなければ生活できないから、日雇いの土木作業の仕事をした。行ったり行かなかったりで収入は不安定だったが、何となく暮らしていくだけなら、それでどうにかなった。
 将来など描けなくなり、自暴自棄になっていた。実家の飲食店を手伝って、将来的に店を継ぐという選択肢もあったが、もしそうしたら、自分が惨めになるのは判っていた。比較と劣等感、そんなものに振り回されるだけなのかと思うと、修次はまともな仕事に就くことを躊躇ってしまった。
 警察官になろうと思ったのは、自分が兄と比較されることからくるしがらみだった。結局、自分もあの巡査部長と同じなのかもしれない。そう考えて、修次は自分が嫌になった。
 兄の修平は、時々連絡をくれた。自分と比較された弟を気にかけているのが修次にも判った。結果的に挫折することになったが、兄への憧れが自分を柔道に進ませ、身体的には丈夫になった。それを活かして定職に就こう。兄に心配をかけたくない一心で、定職に就こうと心を決めた。
 自販機の補充の求人が目に留まり、応募した。新しい職場は知らない人ばかりだから、自分を誰かと比べたりしない。市役所に勤める兄から見れば、たいした仕事じゃないかもしれないが、外回りで体を動かしていると、余計なことを考えずに済んだ。何より、他人に感謝されるのが、修次にはなにより嬉しかった。
 自販機の補充は、街中ばかりじゃない。郊外や山間部にも行かなければならない。どんな場所であれ、誰かが補充しなければ売り切れて買えなくなる。お店のオバチャンに、ありがとう、と言ってもらえる。作業服を着た知らないオジサンに、お菓子をもらったこともあった。その人達だって、いなかったら誰かが困るはずだ。みんな誰かのためになっている、そう思いたい。自分だって。
 仕事に慣れた頃、兄に連絡した。定職についたことで兄も両親も安心させたかった。挫折感を完全に払拭できたとは言えないし、たまに飲みに行って羽目を外すこともある。が、自分が働いて得た収入で好きに飲んでいる、それが修次にとって小さな誇りになった。
 金沢市が金沢県として独立すると聞いて、修次は驚いた。兄は前田真利子と凄いことをたくらんでいたのだと、心が騒いだ。もっとも、自分にとっては他人事だし、どこまでも蚊帳の外の話でしかない。
 だから、テレビ局の記者が話を聞かせて欲しいと連絡してきた時、修次はあまりに意外でやっぱり驚いてしまったが、嬉しくもあった。憧れていた兄について、他人事だと思っていた金沢県のことで話をきかれるなんて、思ってもみなかった。浮かれ気味で話してしまったから、記者には兄の自慢話にしか聞こえなかったかもしれないが、それでも構わない。
 その話を本田恵にしたら、案の定、笑われた。何にせよ、彼女の笑顔を見られるのは、修次にとって嬉しいことに変わりはない。
 本田恵のことは、いつか兄に紹介しようと修次はずっと思っている。疎遠になって久しい両親にも、いつか……。
 
 弁当の配達から戻った本田恵は、ワンボックスバンを営業所の駐車場にとめた。カーステレオのディスプレイに表示されている時刻は、十一時半を少し過ぎたところだった。いつも配達にまわる時、本田恵は地元ラジオ局のワイド番組を聞きながら運転している。月曜から金曜まで、同じ時間に同じCМが流れ、同じコーナーが始まるから、時計を見なくてもだいたいの時間は判る。なのに、正午までには戻らなければならないという意識が頭のどこかにあるせいで、つい時計を気にしながら運転してしまう。
 回収してきた弁当容器を車から降ろしていると、他の配達員たちも戻ってきた。
「本田さーん、これも乗せてってよ」
 社名とロゴが描かれた軽トラックから、戻ってきたばかりの配達員が声をかけてくる。まだ四十代半ばの彼女は、スキンケアやメイクにはあまり気をつかっていないらしく、歳より老けて見えてしまう。下の息子が成人するまで、自分のことには構ってられない。夫が早死にしてから女手一つで子供二人を育ててきた彼女が、何度かそう口にしているのを本田恵は聞いたことがあった。
 彼女の苦労を思うと、日々の仕事の中で自分が抱く小さな不満なんて、取るに足らないものなのかもしれない。そう自分を宥めて、本田恵は今日もまわりの人に振り回されながら生きている。
 事業者向けに弁当を製造、配達しているこの営業所は、三十人ほどの従業員の殆どが女性だ。四十代、五十代が多い。だから数少ない三十代の本田恵は、若い人と頼りにされがちだが、今年の十一月で四十歳になる本人としては、まだ若いという気持ちはもうどこにも持ってない。小じわが目立たない肌に、なんて通販番組で紹介されているコスメの謳い文句につい惹かれてしまう自分を、諦めとともに受け入れている。
 時計が正午をまわり、午前の仕事を終えた従業員が、休憩室で昼食をとり始める。近所から通っているパートの事務員が、昼食をとりに家に戻っていく。よろしくお願いします、と出ていく彼女の背中に、ごゆっくりー、と声をかけてから、本田恵は事務所の自分の席に少し乱暴に座った。背もたれに寄り掛かると、金属がこすれる耳障りな音をたてて椅子は抗議してくる。構わず本田恵が大きく背伸びをすると、今度は首を絞められたニワトリの断末魔のような甲高い音がした。午後一時に事務員が戻ってくるまで、事務所には自分一人しかいない。誰の目を気にする必要があるというのか。あくびをしながら心の中でそうぼやいて、本田恵は大きく息を吐き、椅子に座りなおした。
 今週中には、来月分の献立を作成して提出しておく必要がある。材料の仕入れが予定通りにできないと、献立を変えなければならなくなり、栄養バランスが偏ってしまうことにもなりかねない。管理栄養士の資格を持つ自分だから与えられた業務だと、本田恵も判っているつもりなのに、ついルーチンワークとしてこなしてしまいそうになる。
 もともと、昼休みの間の留守番は、所長がやっていた。それが本田恵の役割に替わったのは、佐々木修次が来るようになってからだ。
「つまんなそうな顔してるなぁ」
 営業所の前にある自販機に補充に来ていた佐々木修次に、ある日、本田恵は言われた。藪から棒に言われて腹が立ったが、その通りだった。買ったばかりのペットボトルのお茶を投げつけてやりたいという衝動にかられたが、もし本当にやってしまったら、あふれ出した本心で、自分自身が崩壊してしまいそうで思いとどまった。生活のためだからと言い聞かせ、今まで保ち続けてきた自分自身が。
 宅配弁当の営業所ではたらく以前の本田恵は、公立病院で管理栄養士をしていた。患者の食事の献立を考えるだけでなく、病院の食堂のメニューを考えたり、おすすめメニューにコメントをつけたりして、職員だけでなく患者からも評判になった。
 にもかかわらず、結婚を機にその仕事を辞めた。
 正確には、結婚が破談になって、居づらくなって辞めたのだ。
 何かの拍子にそれを思い出し、そのたびに本田恵は、心が軋むほどの嫌悪感を元婚約者に抱かずにはいられなくなる。それは、人生の大きな節目である結婚を台無しにされたから、裏切られたから、ということだけではない。もしあの男がいなかったら、きっと自分はまだ病院で働いていたはず。そこには、確かに自分がした仕事に対する手応えがあった。より良い結果を出そうという気持ちにしてくれる、まわりの反応があった。
 その全てを、あの男のせいで失った。
 弁当の配達先から来る声は、どこも同じだ。もっと値段を安くして欲しい。もっと量を多くして欲しい。そんなものばかり。さらには同業他社との競争力をつけるために、会社自身が効率化とコストダウンを求め、調理も手作りから機械化へ、施設も集約され、管理栄養士として入社したはずの本田恵の受け持つ業務も、盛り付けから配送まで、人手が足りない時には、営業所の業務の殆どを担うようになっていった。
 本田恵が管理栄養士を志したのは、母親が料理好きだった影響だ。母が作った料理を食べると、心まで満たされた。美味しい料理が笑顔を作る、気持ちを和やかにする、そう信じていた。でも今の自分の有り様は、望んでいたものとは違う。
 自分が考えた献立が、どんな結果につながっているのか判らない。食べる人の顔が見えない。気が付けば、業務を業務としてこなしているだけの毎日に追われ、持ち続けていたはずの夢や理想を思い出す暇すら失くし、人生までも投げやりに扱ってしまいそうになっている。
「だったら、俺が弁当を食べに来るからさ。月曜から金曜まで、毎日来るよ」
 佐々木修次にそう言われた時、この人はバカなのか、と本田恵は思ってしまった。それは婚約者に騙された経験のせいでもあったし、自分自身に嫌気がさしていることの表れでもあった。彼が来ようが、来なかろうが、どっちでもよかった。その日その日に片付けなければならない業務のことで、本田恵の頭は一杯だった。
 なのに、佐々木修次は来た。月曜から金曜まで毎日来て、自販機の隣のベンチで弁当を食べていった。外で食べさせるのが気の毒になって、彼が休憩室を使えるよう所長に頼んだ。そのうち、まわりが気を利かせて本田恵の休憩時間をずらしてくれた。
「俺、アパートで一人暮らしだから、ロクなもの食べてないんだ。だから毎日、こんな美味しい弁当が食べられて、それだけで嬉しいよ」
 正直なところ、あまり褒められている気はしなかったが、自分が考えたメニューを笑顔で食べてもらえるのは、やはり嬉しい。以前の職場で感じていた気持ちを、また思い出すことができるなんて、本田恵は思ってもみなかった。
 今の職場では、あまり自分のことを話さないようにしていた。苦い過去を知られるのが嫌だった。投げやりな気持ちで生きているようでも、自分より年上の従業員みたいに、自分の状況に開き直れるほど、本田恵は図太くはなれずにいた。
 佐々木修次はよく兄の話をしていた。そして、自分の挫折の話をした。警察官になったものの、上司に恵まれず辞めてしまったこと。兄が市役所の職員で、金沢県の誕生に尽力していること。兄貴に比べればたいした人間じゃない自分でも、きっと誰かの役に立っていると思いながら働いていること。
「アンタだって、きっと誰かの役に立っているはずだよ。世の中に、必要のない仕事なんてないって俺は思ってる。アンタの考えた弁当のメニューを楽しみにしながら、今日も頑張ろうと思ってる人は絶対にいるって。少なくとも、俺はその一人だから」
 この人はバカなのか、お人好しなのか。そうは思いながら、その言葉を信じたいと本田恵は思うようになっていった。だから話してしまった、自分が病院を辞めてここで働くようになった経緯を。
「その、結婚相手の彼がさ、結婚するつもりだった彼が、なんだか羽振りが良くなってね。特別ボーナスが出たからって、ベンツを買ったのよ。彼、営業の仕事をしてるって言ってたんだけど……振り込め詐欺で逮捕されちゃって……。式の日取りとかも決まってたのに……」
「上手くダマして、お金を振り込ませたから、特別ボーナスが出たってことかな」
「まぁ、そんなとこらしいわ。それで、もう職場にも結婚するって言ってあったから、なんだが居づらくなって……」
 それで辞めちゃった。本田恵がそう言ったきり、会話は途切れてしまった。
「俺、警察官を辞めちゃっただろ」
 しばらくして、佐々木修次が話し出した。
「だから、運転する時は気を付けているんだ。違反で捕まって、相手が知ってる警察官だったらバツが悪いからさ」
「知ってる人だったら、見逃してくれるんじゃないの?」
「世の中、そこまで甘くないよ」
 佐々木修次は、残っていた弁当をかき込むように口に放り込み、それを流し込むようにペットボトルのお茶を空にした。ごちそうさん、と手を合わせてから佐々木修次は立ち上がった。
「だからさ、アンタも健康には気を付けろよ。病気になって病院に運ばれて、知ってる人に会ったらバツが悪いからさ」
 湧き出すような可笑しさが、本田恵の中で生まれた。抑えきれなくなって声を出して笑ってしまった。自分がこんなに笑えるなんて、この営業所で働くようになって初めてだと、本田恵は意外にすら思った。
「病気になりたい奴なんていないから、元気になれるメニューを考えてくれよ」
 そう言ってくれた佐々木修次が、今日も自販機の補充にやってきた。
 時計が午後一時をさす。戻ってきた事務員と入れ替わりで、本田恵は二人分の弁当を持って、休憩室に向かった。

  ↓(第三章につづく)


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