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誕生!? 金沢県 【第三章】


 二月二十三日、今年の天皇誕生日は天気も良く、行楽にはもってこいの祝日になった。皇居での一般参賀と受験シーズンが重なって、人がいない所を見付けるのが無理なほど、東京都内はごった返している。
 首都高速一号線も、車が数珠つなぎでゆっくり流れていた。渋滞していてもまったく動かないよりはマシだろう、と多くのドライバーは急く気持ちを静めていたが、それは裏を返せばストレスを感じるには充分な状況だということでもある。
 だから、ジャンクションから割り込んできた官房長官を乗せた黒塗りの車列は、ハンドルを握る一般ドライバーを更にイラつかせた。先頭を走る高級車から身を乗り出したSPが、赤い誘導灯を振って、連なる一般車両を停止させる。空いた車線に、黒塗りの車列が当然のように入ってきて、二車線を区切る白線をまたぎながら行ってしまった。
 その様子を目にしたドライバーの誰もが、不満や怒りを抱いていた。しかし、国家権力に抗うすべを誰一人として持っていなかった。
 
「例の難民船、どうやらこちらに向かっているようです」
 内閣府本府庁舎にいるハセガワは、車中の官房長官に伝えた。
「まさか日本までは来ないだろうな」
「どこかの国が、船の操舵手に金を渡して追い払ったようです。遠くに行ってくれと。恐らく、マレーシアかシンガポールあたりでしょう。どの国も、難民を受け入れる余裕なんて無いですから。フィリピンや台湾も、何か手を打ってくることが考えられます」
 官房長官が、ふぅー、と深く長く息を吐くのが、電話越しにハセガワの耳にも届いてくる。頭を悩ませている時に出る官房長官のいつもの癖。年度末が近付いているうえに、金沢県のこともある。これ以上、頭痛の種を増やさないでくれ。そんな心中を、ハセガワも察していた。
 その不機嫌な表情に、同乗しているSPたちも深く長く息を吐いていることだろう、心の中だけで。それを想うと、ハセガワは苦笑いが浮かんでしまう。
「こちらで人を手配して、難民船に乗り込ませます。日本には近付けさせないようにしますので」
 ハセガワは言った。ああ、よろしく頼む。そんな言葉が返ってくると思っていたが、その予想ははずれた。
「ちょっと待ってくれ」
 官房長官はそう言い、しばらく間を置いてからハセガワに質問してきた。
「もし難民船が日本に到着するとしたら、あと何日かかる?」
「漁船に毛の生えたようなボロ船に、難民が鈴なりですから。三週間くらいはかかると思いますが」
「三週間か」
 まさか難民を日本が受け入れるとでもいうのか? ハセガワが質問の意図をはかりかねていると、悪いが後からかけ直す、と言って官房長官は電話を切った。
 思った通りに話が運ばなかったことに小さな不満を抱きながら、ハセガワは携帯電話を上着の内ポケットにしまった。
 待たされている間に聞こえてきた、電話の向こうの会話が気になった。
 金沢がどうの、と……。
 難民船を金沢に押し付ける?
 それに何の意味があるのかハセガワには理解できなかったが、もしそうなったら、余計な仕事が増えるのは間違いないだろう。頭痛の種を増やしたくないのは同じなのに、とハセガワは官房長官の真似をするように、深く長く息を吐いた。
 
 佐々木修平の携帯電話に着信があった。見ると、前田真利子、と表示されている。午前十時を少し過ぎたころだった。
 修平をはじめとする、金沢県の設立に直接かかわっている部署の責任者は、前田真利子市長の直属の部下と言える立場にある。必要な時には、市長と直接連絡を取り合うことになるが、通常は勤務時間内に、市長から直接連絡が来ることはまずない。まわりに聞かれては都合が悪い話をする場合もあるからだ。
「本庁舎まで来てもらえないかしら?」
 電話に出た修平に、真利子はそれだけを伝えた。具体的な内容は、市長の執務室で直接伝えるという。連絡事項や事前に決めた予定の変更、相談事なら、勤務時間が終わってからでも出来る。なのに、すぐに来て欲しいという口ぶりに、修平は小さな不安を抱いた。
 金沢県の誕生には、石川県内のすべての市と町の参画が必要だ。金沢市より東側の自治体は、すべて金沢県に入る内諾を取りつけている。西側もあと一押しというところまで来ているが、もうあまり時間がない。天皇誕生日で祝日だった昨日も、市長自らが市役所に来ていたのは、その一押しのためでもあった。市民病院の総務二課にも、金沢県の誕生を待ちきれない職員が、何人か出勤してきていた。ご苦労なことだな、自分も他人のことは言えないけれど。そう思いながら、修平は市役所に向かった。
 美術館との共用になっている地下駐車場に車を止め、市役所に向かおうとした修平は、不意に声をかけられた。
「あれ、佐々木さんじゃないですか。お疲れ様です」
 振り向くと、ブルゾン姿の男性が立っていた。修平は、最近の記憶の中から、上松俊介という名前を見つけ出した。北陸金沢テレビの記者。修平の警戒レベルが一気に高まるが、それを顔に出してはいけない。
「上松さんでしたよね。今日も取材ですか? ご苦労様です」
 修平が愛想よく話かけると、上松俊介も愛想よく話しかけてくる。キツネとタヌキの化かし合い、負けるわけにはいかない。修平は気を張った。
「市民病院に勤務のあなたが市役所にお見えになるなんて、何かあったんですか?」
「いえね、財政課に呼び出しを食らったんですよ。病院の経営改革が進んでいないって。それで市役所に来たんです、怒られるためにね」
 そりゃあ災難ですね、と上松俊介は笑っているが、腹の中は違うはずだ。
「財務課の課長を待たせて、もっと怒られてはたまりませんから。私はこれで」
 立ち去る修平に、金沢県のことで美味しいネタがあったら知らせて下さいよ、と上松俊介は食い下がってくる。
「私みたいな下っ端は、金沢県のことになんか関わってないですから」
 修平は、そう言い返すのを忘れなかった。
 市長への取材の中で、上松俊介が自分の名前を出してきたことを、修平は秘書課の村井課長から聞かされていた。真利子にはすぐに詫びの電話を入れたが、今日は改めて頭を下げねばならない。自分と真利子の関係についての情報が、かつての学友からだけならまだしも、自分の弟からも出たらしいと聞いて、修平ははらわたが煮えくり返る思いだった。
「本当に申し訳ない。俺の認識が甘かった」
 ソファーをすすめられても、修平はとても座る気になれなかった。
「さっき、上松記者に会ったわ。最近、よく取材を受けるけど、今回も特に何もなかったわ。試しに、あなたは金沢県の誕生に賛成ですか? って尋ねてみたの。そしたら何も答えずに、困った顔をしていただけだった。大丈夫よ、彼が私たちの足を引っ張るようなことはないと思う」
 真利子に言われ、修平はようやくソファーに腰を下ろした。市長の執務室のソファーが、こんなに柔らかく落ち着かないものだっただろうか、と思いながら。
「官房長官から連絡があったの。建設国債を購入して欲しいって」
「建設国債? 何か造るつもりなのかな」
「日本海側にも、入国者収容所を建設したいらしいわ。国際線が乗り入れている空港が、日本海側にもあるでしょ。この辺だと小松空港もそうだし、船で不法入国することも考えられるから。それで金沢からあまり離れていない所に建設できないか、官房長官から直々に打診があったのよ。建設場所の手配もしてくれると助かるって」
「入国者収容所に関しては、あまりいい噂は耳にしないな。処遇に問題があって、収容された外国人が死亡したとか。まぁ、実際はどうだか判らないけど」
 修平が言うと、真利子は苦笑いを浮かべた。
「でも、政府には貸しを作ることにはなるから、金沢県には良い材料になると思うの。どうかしら?」
 修平は、出納帳の数字を思い浮かべた。
「建設国債って、いくらくらい?」
「六十億円ほど」
 額が大きすぎると修平は思った。真利子もそう思っているはずだ。政府は別の目的にも使うつもりなのではないか。それとも、吹っ掛けた分を自分の懐にでも入れるつもりなのか。
「金沢市が費用も発注もすべてを請け負う、という形にしたほうが、きっと安く済むだろうな」
 それはそうなんだけど、と言いながら真利子が修平の向かいに座り直す。
 金沢市でもっとも上の立場にありながら、ふんぞり返ることもなく、揃えた足を斜めに折って、浅くちょこんとソファーに座る姿は、修平が彼女に対して躊躇うことなく愛情を表現していた頃と変わっていない。年齢を意識するようになって久しい修平には、今の真利子の容姿は、昔のままに見えて不思議に思えることがある。
「白山市が金沢県に入るのも、もう時間の問題だと思う。野々市市と川北町も、良い返事をもらっているわ。残るのは、美濃市、小松市、加賀市の三市。もし建設国債の購入を前向きに考えてくれるのなら、官房長官からもその三市に、金沢県に入るよう口添えしてくれるって言ってるの」
 身を乗りだすように語りかけてくる真利子の姿から、修平は視線を逸らした。真利子がすでに承諾するつもりでいるのは、言われなくても判る。
「建設場所はもう決まっているのかい?」
「珠洲(すず)市(し)が手を上げてくれたわ。補助金を出してくれるなら構わないって」
 珠洲市は、能登半島の先端にある。かつて原子力発電所の建設の話が持ち上がったものの、反対運動でそれは進まず、二〇〇三年に電力会社が、計画を凍結すると市に申し入れた。四月一日に金沢県が誕生するとしたら、もう一か月ほどしか時間がない。もしあの時のような反対運動が起こって話が進まなくなってしまったら、と修平は眉をしかめた。
 珠洲市には、子供のころから何度も行ったことがあるし、仕事でも足を運んだことがある。国道沿いに『原発で豊かな街を』と書かれた看板が立っていたかと思えば、今度は『原発反対』という看板が見えてくる。触れると危険なものを抱え込んでいるような、そんな印象を修平はずっと持っていた。
「六十億か。それくらいの余裕は充分あるよ。それより、口添えしてくれるってのは本当なのかい?」
「確約はもらってないけれど、購入の意思を伝える時に確認するつもり」
 そうか、とだけ答えて修平は考えた。
 真利子の言う通り、白山市、野々市市、川北町は、金沢県に入ると思っていて間違いない。白山市が態度をはっきりさせれば、隣接する美濃市も足並みを揃えるだろう。
 問題は小松市だ。小松空港は北陸の物流の拠点でもある。知名度では金沢市に劣るが、建設機械や家電メーカー、その関連企業が工場を構えていて、経済的な影響力は大きい。下手に突いてヘソを曲げられては面倒なことになるが、もし小松市が堕ちれば、残る加賀市も、地理的に金沢県に入らざるを得なくなる。
 それ以上に機嫌を伺わなければならないのは、日本政府だ。
 いくら、条件が整えば金沢県構想の推進を阻害しないと言われても、国がその気になれば、いくらでもちゃぶ台をひっくり返すことができる。実際、金沢県を誕生させる手順は、総務大臣の都合で大きく変えることになった。
 金沢市と金沢以北の自治体が、石川県から独立した金沢県として誕生し、その後、石川県内に残る自治体を金沢県に編入させるかたちで石川県を消滅させる、というのが本来の金沢県構想だった。だから石川県には話を通さず、政府や関係省庁に直接掛け合ってきた。それを路線変更するとなると、いや路線変更しなくても、石川県知事は面目が立たないはず。にもかかわらず、遅ればせながら現知事にお伺いを立てると、何故かこちらに都合の良い返答をくれたのが不思議でならない。
 何か企てでもあるのだろうか……?
 あったとしても、もう賽は投げらたのだ。今さら後戻りは出来ない。
 六十億円で、彼女の夢が叶うのなら。
「判ったよ。真利ちゃんの好きにしたらいい。俺はただ、真利ちゃんを支えるだけだから」
 修平の言葉に、真利子は花が開くように笑顔を浮かべた。あの頃は、この笑顔を見たくて彼女のことばかり考えていた。凛とした中にも茶目っ気が見え隠れしている、その姿に惹かれていた自分も、案外、昔と変わらないのかもしれない。そんなことを考えて、妻に対する後ろめたさを覚えながら、修平は市役所を後にした。
 
 ミャンマーからの難民船が日本に向かっている。
 テレビのニュースがそれを報じたのは、暦が三月にかわってすぐだった。真利子と修平は、それを知って初めて官房長官の思惑を悟った。それから間を置かずに、官房長官から連絡があった。入国者収容所の完成には間に合わないから、代替の施設を用意して欲しい。
 珠洲市蛸(たこ)島(じま)町(まち)にある鉢ヶ崎総合公園に、プレハブ造りの仮施設を建設することになった。能登半島の先のほうにある富山湾側の海に面したここには、野球場やテニスコート、大型遊具施設のほか、温泉や、近くには海水浴場もある。広く整った場所を確保するには、うってつけの場所である。
 難民船が能登半島に近付くにつれ、珠洲市内を大型トラックや建設重機が行き来するようになった。住民の中には不安な顔で往来を眺める者もいるが、目に見えた反対運動は起こっていない。それは市の職員による各町内会への根回しがあったからでもあったが、建設車両に交じってパトカーが行き来するようになったからでもあった。
 難民を受け入れる仮施設の格好がつくようになると、次第に建設車両が行きかう姿が減り、代わって警察車両を目にする機会が増えていった。相変わらず落ち着きを取り戻せないでいる街は、台風でも近付いているかのように、急(せ)いた雰囲気をそこらじゅうに漂わせていた。
 
 珠洲警察署蛸島駐在所の所長、高山雅治がミニパトでの警らから戻ると、所内の時計はもう正午近かった。
「おかえりなさい。お昼の用意できてますよ」
「悪いけど、先に報告書を書いてしまうから」
 女房に詫びの意思を示してから、高山は窓際のスチールデスクに向かい、ノートパソコンの電源を入れ、ぎこちない手付きでマウスを操作しはじめた。書類の作成にパソコンを使うようになって何年も経つのに、未だに高山はパソコンを触ることにどこか腰が引けてしまう。まだ五十四歳だろ、サラリーマンだったら普通にパソコンを使ってる年齢だよ。息子に言われた時には、頭を掻くしかなかった。
 OSが立ち上がり、ソフトを起動する。小さな覚悟を決めキーボードを叩き始めようとした時、駐在所の前にパトカーが止まった。ミニパトではない、クラウンの制服パトカー。若い警察官が二人降りてきて、お疲れ様です、と駐在所に入ってきた。
「難民船の到着に伴い、難民が珠洲市内に滞在する間、蛸島地区の警らにあたることになりました。珠洲警察署、地域課の西川(にしかわ)蓮(れん)巡査長です」
「同じく珠洲警察署、地域課の山崎(やまざき)亜(あ)斗(と)夢(む)巡査です」
 この辺りは不慣れなものですので、よろしくお願いします。若い警察官二人が並んで敬礼する。高山も立ち上がり、二人に答礼する。
 レンとアトム。まるで、女の子とマンガの登場人物のような名前だな、などと息子に言おうものなら、それじゃ時代に取り残されちゃうよ、と笑われてしまうのだろう。二人いる孫の、上の男の子は朝陽(あさひ)、四月から小学校に入学する下の女の子は律(りつ)だった。最初に聞いた時は、性別を間違えているのではと思ったものだが、何度も呼んでいるうちに高山自身、気にしなくなっていた。
 珠洲警察署の副署長、小杉真司から二人が来ると連絡はもらっていた。午後から小杉真司が訪れることも。
「蛸島駐在所、所長の高山雅治警部補です。もしお昼がまだだったら、ここで食べていったらどうかな。この辺には不慣れらしいから、判らないことがあれば説明してあげられると思うのだが」
 高山が言うと、西川巡査長が右手を小さく振りながら、お気遣いなく、と薄い笑顔を浮かべた。
「俺ら、珠洲署で食べますんで。それに、難民がいる間だけの担当ですから。コンビニの場所くらいは判っていますし」
 俺ら? 高山は思わず目を吊り上げてしまったが、二人はそれには気付かないまま、では失礼します、と敬礼して駐在所を出ていった。
 敬礼する時は、もう少し肘を高く。そんなことを言いそうになって、結局、言わないまま二人を見送った。駐在所の前をふさぐほどの大きさのパトカーに乗った二人は、シートベルトを締めながら何か言葉を交わし笑い合っている。
 そのクラウンは税金で購入したもので、お前らみたいな若造がチャラチャラ乗り回すためのものじゃないんだぞ。そんな態度で運転していて、事故でも起こしたら警察官として世間に顔向けできなくなる、判っているのか。そんなことを思って、心のどこかでそれを願っている自分が悔しい。
「あなた、ご飯が冷めちゃいますよ」
 女房の声に、高山はパソコンをそのままにして、あぁ、と奥に入っていった。報告書の作成は、昼飯を食べてからでいい。今やったところで、ロクに作業が進む気がしなかった。
 午後二時、高山が街頭監視に出ようとすると、電話が鳴った。小杉真司からだった。
「ご無沙汰してます、高山さん」
 副署長、お疲れ様です。高山の言葉に、二人の時は固いことは抜きにしませんか、と小杉真司は笑った。
「これから駐在所に挨拶に伺いたいと思っているんですよ。しばらく在所しておられますかね?」
 珠洲警察署からここまで、たいして時間はかからない。ええ、構いませんよ。高山がそう答えてからいくらも経たないうちに、シルバーのクラウンが駐在所の前をふさいだ。小杉真司が小さく右手をあげて降りてきた。
「まぁ、固いのは抜きにしましょうよ」
 副署長に敬礼した高山に、小杉真司はやはりそう言った。目上の者に言われては従わざるを得ない。彼がこんな調子の人間だということを、高山はずっと前から知っていた。悪気がないことも判っている。
「母さん、お客さんにお茶を出してくれ」
 奥に声をかけると、はーい、と鈍い返事が返ってきた。小杉真司が来ることを女房に言ってなかったことに、高山は今になって気付いた。後で文句を言われるかもしれないと思いながら、石油ストーブの火力を強くした。
「あらあら、どちら様かと思えば」
「珠洲警察署の小杉真司です。高山警部補にはお世話になっております」
 女房がペコペコと頭を下げる姿を、高山はどこか快く思っていなかった。例え相手が自分より地位が上でも、例え相手が自分より年上でも。珠洲警察署の副署長になってから、何かと高山のもとを訪れてくれている同期であっても。
「難民船がこちらに向かっているのは、高山さんも知ってますよね?」
「知ってます。蛸島漁港に着岸して、鉢ヶ崎総合公園の仮施設まで移送すると聞いてますが」
「ええ。私がその警備責任者を任されましてね。しばらくの間は、この辺りを回ることになりますんで。何かあったら、ひとつよろしくお願いします」
 小杉真司は軽く会釈して、机の上に置かれた湯飲みを口に運んだ。
「私にも出来ることがあれば、おっしゃって下さい」
 高山が言うと、いえいえ、と小杉真司は小さく手を振った。昼頃に訪れたあの若い警察官を思い出して、高山はつい眉間に皺を寄せてしまったが、向かい合っているのは上役だと自分に言い聞かせる。
「高山さんは、いつも通りの業務をこなしてくれれば、それでいいですから。難民の移送と仮施設の警備は、我々が専任で行いますので」
 そうですか、と口からこぼれるように高山は言った。
「のどかで良い建物ですよね、木造の建物って。住民も入りやすいでしょう」
 駐在所の中を見回して、小杉真司が言った。
「この辺りは事件もあまりないですし。この間まで、建設関係の車が多かったせいで、輪島や志賀は事故が増えたらしいですよ。ここも飯田町あたりじゃ、建設関係者が酔っぱらって喧嘩してたり、手間が増えてましてね。自分もこういう所で、のんびり仕事をしたくなることがありますよ」
 おべんちゃらだと高山は判っていた。そんなに駐在所勤務がしたいなら、今すぐ替わってやってもいい。ここに配属になって何年も経つが、異動の気配などまるでない。騒々しい金沢市内からここに移り住んで、自然が多くて和やかだと女房は喜んでいるが、警察官の中で駐在所勤務を望んでいる者など、高山は聞いたことがなかった。
 駐在所の前を、小学生の集団が通り過ぎていく。もうそんな時間かと高山が時計を見ると、午後三時を過ぎていた。見慣れない車が止まっているからか、不思議そうにこちらを眺めながらランドセルを背負った子供たちが通り過ぎていく。そうかと思えば、運転席に座って小杉真司の用が済むのを待っている警官に、ふざけて敬礼をしていく子供もいる。
 何年も駐在所に勤務していると、どこの家の子が何年生か判るようになる。同じ学年でも、それぞれ違う特徴があり、違う方向を向いているのも見えてくる。勉強が出来る子、運動が得意な子、どこの子が何の大会で優勝したなんて話が、噂で耳に入って来る。学年とは関係なく、まわりからチヤホヤされる優等生はいるし、真偽が定かではないレッテルを貼られ疎まれる子もいる。
 高山雅治と小杉真司は、警察学校で同期だった。しかし、高卒の高山よりも、大卒の小杉真司のほうが、入校した時点では四歳年上だった。しかし、警察官としての知識や技術を学んでいくうえで年齢は関係ない。そう思っていたはずの高山だったが、初任科教養も、初任補修も、大卒のほうが高卒より期間が短く、高山は小杉真司に対して、次第に引け目を感じるようになった。実際に警察官として働き始めてからも、昇任試験の受験資格は、大卒のほうが早く取得できた。それでも勉強すれば、試験に合格すれば、高卒の自分だって昇進できる。大卒の連中とも肩を並べることができる。そう信じていた。
 警察官である自分を、高山は誇りに思っていた。他人のために、社会のために、そう思って職務にあたってはいたが、何らかの形で自分の存在を認めて欲しいという願望はあった。それを叶えてくれるのが昇任試験だった。学生時代の高山は、部活動では注目される生徒ではあったものの、勉強は得意とは言えなかった。なのに、昇任試験への努力を欠かさなかったのは、目的がはっきりしていたからだ。劣等感がこんなにも原動力になるのだと感心すらした。
 だからと言って、順風満帆に昇任試験に合格できた訳ではない。三十歳を目の前にして、高山はようやく巡査部長に昇任した。交番勤務で主任を任されるようになり、手本となるべく自分を律した。まわりの指導も手を抜かなかった。勤務態度で自身の評価を下げることはないと思っていた。
 なのに、高山はつまずいた。面倒を見ていた巡査の一人が不祥事を起こした。よりによって交通課の主任を務めている時に、部下の巡査が飲酒運転で逮捕された。それが原因だという確かな根拠はないけれど、それ以降の昇任試験は不合格が続いた。
 四十歳を過ぎてもそんな状態が続くと、さすがに気力が持たなくなる。異動先で、警察学校を卒業して最初に配属された署で世話になった上司と再会した。相変わらず後輩扱いしてくれる彼につい甘えて、自分の現状を愚痴ってしまった。彼の恩情というか、同情で警部補に推薦してもらったが、結局、警部に昇任されることはなく、生まれ故郷である珠洲市の蛸島駐在所に配属になった。田舎の駐在所の勤務を望む者などいるはずもない、気が付けば五十歳を過ぎていた。
「長居をしてしまって。仕事の邪魔だったでしょう。すみませんでした」
 小杉真司が頭を下げながら立ち上がる。つられるように高山も腰を上げたが、敬礼も何もせず、知り合いを見送るような態度しか取らなかった。奥さん、お邪魔しました。そんな一言を奥にかけるのも忘れずに、小杉真司は駐在所を出ていく。
「おいおい、オモチャじゃないんだぞ」
 退屈だったのか、待たされていた運転席の警官が、ルーフの回転灯を出したり、引っ込めたりして、小学生高学年の男児たちを喜ばせていた。それを小杉真司にとがめられ、すみません、とシートに座りなおす。半年ほど前に、県警本部に配備されていた車両が新しくなり、それまで使っていたお古が珠洲警察署に回ってきたと聞いた。覆面パトカーなんて、この辺りで見かけることなどまずない。男の子たちは、カッコイイ、と言いながら去っていく。ワゴンRのパトカーを見ても、そんなことを言われた覚えはないというのに。
 小杉真司を乗せたクラウンが、仮施設のある鉢ヶ崎総合公園のほうに向かって走り出し、見えなくなった。そのまましばらく海を眺めていた高山の前を、一台のパトカーが横切っていく。お昼前に駐在所に来た二人だ。助手席の巡査長が、おざなりな敬礼を向けてくる。
 仕事だから。そう自分に言い聞かせて、高山は右手を動かした。
 不意に、パトカーの側面に書かれている文字が目に入った。
 金沢県警察。
 気が早いのではと思いながらも、もう三月に入っている。ここが金沢県珠洲市になるまで、あと一か月もない。自分が乗っているミニパトには、まだ石川県警察と書かれたままだ。表記を変更する旨の通達は受けているのに、ウチのミニパトにはいつ順番が回ってくるのだろう。
 自分と小杉真司の違いは何なのか、自分は何がいけなかったのか。なぜ二人の立場はこんなに違ってしまったのか。
 もし新人の巡査が不祥事を起こさなければ……。
 ここに異動になってから、高山は幾度となくそんなことを思っては歯がゆくなった。
 次第に薄暗くなっていく海辺の街に、濡れた手で頬を撫でるような冷たく硬い風が吹く。くしゃみが出そうになるのを堪えながら、高山は駐在所に入ってドアを閉めた。
 
 それから数日後、難民船が蛸島漁港に着岸した。海上保安庁の船に付き添われて、難民船が防波堤の内側にゆっくりと入って来る。漁港に近い住民は、物見遊山で家の二階の窓から身を乗り出すようにして眺めている。その様子を高山はテレビで見ていた。年寄りばかりだな。天気は良いがまだ三月だぞ、風邪でもひいたらどうするんだ。そんな説教じみたことを思いながら。
 乗っていた難民は、約半数が亡くなっており、残りがマイクロバスに乗せられて、難民を収容するための仮施設に移送された。午前のワイドショーはどこもその話題で持ち切りだった。NHKも生放送の特番を流していた。すぐそこで起こっていることなのに、見知った顔が時おり映っているのに、テレビを通して見ていると、まるで他所の土地で起こっている出来事に思えてならない。難民を乗せたマイクロバスのドアが閉まり、ゆっくり動き出したところで高山はテレビを消した。
 駐在所から目と鼻の先にある交差点を、パトカーに先導されたマイクロバスが通過していく。その後ろにいるパトカーを追いかけるように、放送局のロゴが描かれた車が走っていく。その様子を見ないように、高山は苦手なパソコンと格闘していた。
 自分には関係ない、今やるべき仕事は書類の作成だ。野次馬の相手も、県警本部から応援にきている連中がやってくれる。集中しようと思っている高山の頭に、テレビに映っていた『金沢県警察』とかかれたパトカーが浮かぶが、湯飲みに手を伸ばし、それを一気に空にして邪念を追い払う。女房が入れてくれたお茶は、すっかり冷たくなっていた。
 いつも見かけない顔が、最近は多くなってねぇ。難民船の関係かしら。コンビニでパートの仕事をしている女房が言っていた。夫が警察官だと、何年かごとの異動で引っ越さなきゃならないから、そのたびに仕事を見付けるのに苦労するのに、ここで暮らすようになって気が付いたら、私がパートさんのまとめ役みたいになってるの。こんなこと、今までなかったわ。
 ずっとここに住むことになっても、私は構わないわよ。
 女房の素直な気持ちは、言葉となって高山の胸に突き刺さってくる。未来に希望が持てない、誰も手を差し伸べてくれない。自分が、着の身着のまま船に乗った難民たちのように思えた。もし目の前に船があったら、たとえ木造のボロ船だったとしても、飛び乗ってしまいそうな衝動が高山の心を揺らした。彼らだって、好きで本国を出てきた訳でもあるまい。内戦や弾圧から逃れるには、そうするしかなかったのだ。
 騒ぎが一段落した夕方、高山はミニパトで警らに出た。能登半島の先端に向かって海沿いの道を行く。奥能登絶景海道は、眺めもいいから観光で訪れる者も多いが、そのぶん不届き者も目に付く。難民が移送された鉢ヶ崎総合公園あたりは、まだ警察車両やマスコミ関係者が多いが、そこを抜けると人も車もまばらになってくる。センターラインが描かれていた片側一車線の道路が、そのうち対向車を気にしながら進まなければならない道幅になってくる。民家の影から子供でも飛び出して来たら……。そう思って、高山はアクセルを緩めた。
 公民館の横から海のほうへ右折して、砂利道を進む。この奥の海沿いにキャンプ場がある。小ぢんまりしているが、海岸に面したキャンプサイトは緑が手入れされていて、外国の庭園のような美しさがある。砂浜に下りれば、波けしブロックが整然と沖に突き出るように並べられ、小さな子供連れでも安心して海水浴を楽しむことができる。派手さはないが、マナーを心得た通好みのキャンプ場である。だから手続きを踏んで利用する者は問題を起こすことはない。
 でも、遊び半分でやってきて、海岸に花火やゴミを放置したり、深夜に騒いだりする者が時にはいて、苦情が入ることがある。それは夏だけではない、人のいない冬にも起こる。そして、それらは近隣の大学の学生であることが多い。大学はとっくに春休みに入っている。難民のことで周辺が騒がしいから、今はあまり人も寄り付かないけれど、野次馬が地元住民に迷惑をかけるなんて話は、田舎町の駐在所にもたびたび飛び込んでくる。
 管理事務所に顔を出して、異常がないことを高山は確認した。難民船の騒ぎがどうなったのか訊かれたので、彼らが仮施設に移送され、パトロールも強化されることを伝えた。
「夏だったら野次馬でごったがえしてたかもしれませんから。オフシーズンの時期で助かりましたね」
「テレビ見ましたよ。おまわりさんも大変でしょう」
 管理人夫婦に労うように言われ、高山は恐縮した。難民が上陸する都合で騒々しくなってはいるが、自分とは直接関係がないし、基本的に通常の業務内容と変わらない。移送の段取りは小杉真司から聞いてはいても、その中に自分が担う仕事はない。それを言ってしまってもいいはずなのに、高山は曖昧な応対をしただけで、予約の状況を訊き返した。
「まだ寒いですからね。しばらく予約は入ってないですよ。今日これから、ちょっと知り合いの娘さんが見えることになってるだけで」
「こんな時間に?」
「ええ、この辺に用事で来るから息抜きにって。利用客というより、ただの来客ですね」
 管理人夫婦の知り合いの娘なら、不届き者ということはないだろう。高山は少し気になったが、詳しく尋ねることはしなかった。
 管理人夫婦に礼を言って、高山は事務所を出た。あたりはすっかり暗くなっていた。海沿いに吹く風を遮るものはなく、高山は思わず身震いした。この地の三月がまだ春ではないということを、身を持って実感する。
 向こうから砂利を踏む音が聞こえてきた。駐車場に車がゆっくりと入って来る。黒のクラウン。反射的に警察車両かと思ったが、見た目の印象が違う。どちらかと言うとハイヤーに近いが、ナンバーは緑ではなく白だ。
 駐車場に止まったクラウンの後部座席のドアが開き、誰か降りてきた。体格から女性らしいと判る。事務所に近付いてくると、窓からの明かりで顔が見えた。
 前田真利子……? 金沢市の市長が、何故こんな所に?
 そう思った瞬間、さっき管理人夫婦が言ったことを高山は思い出した。
 この辺に用事で来るから息抜きにって。
 収容した難民の対応に当たるため、法務省や関係する機関の職員が来る。それとともに、仮施設ではなく本来の収容施設の建設にかかわることで、前田市長も珠洲市を訪れると小杉真司が言っていた。自分は無関係だと判ったとたん、耳半分でしか話を聞いておらず、高山は忘れてしまっていた。
「パトロール、ご苦労様です」
 相手が警察官だからと言って臆することなく、自分が市長だからと言って横柄になることもなく、前田真利子は会釈した。その泰然自若とした姿に、高山のほうが怯んでしまいそうになった。
 前田真利子は事務所に入り、管理人夫婦と言葉を交わしている。お久しぶりです、ゆっくりしていってよ、そんなやりとりが聞こえてくる。
 公用車の運転席から、白髪交じりの男性が降りてきて、スーツのしわを整えながら高山に近付いてきた。
「駐在所の方ですか?」
「珠洲警察署、蛸島駐在所の所長、高山雅治警部補です」
 男性は、ご苦労様です、と頭を下げた。
「市長がこちらを訪ねたことは、他言しないで頂きたいのですが、お願いできますでしょうか?」
 はぁ、という言葉が高山の口から出てしまった。突然の出来事に、理解がついていってくれない。自分は秘書課の職員だと、男性は素性を明かした。
「昨今の金沢をとりまく状況と、市長の多忙ぶりをお察し下さい。こういう形ででも気分転換をする機会を作らないと、精神的にも身体的にも疲労が蓄積するばかりですので」
 話し方が穏やかなせいだろう、理解が追い付かない高山の頭でも、彼の言葉をそのまま受け取れば、目の前の出来事もすんなりと受け入れられる気がした。
「子供の頃、毎年ここに来てたんですよ。夏にね」
 事務所から出てきた前田真利子が、誰に聞かせるでもなくそう言いながら、波辺のほうへ歩いていく。聞かせると言っても、高山くらいしか相手がいない。秘書課の彼は、市長の昔話など、いつぞ聞く機会もあっただろう。
「見附島から昇る朝日は綺麗だったわ。地元に住む人にとっては、この風景も日常の眺めだから、あまり印象深くはないんでしょうけれど。禄剛崎の灯台は、駐車場から灯台までの道が急で、歩いて登るのも一苦労だったの。なのに、そんな急な斜面に畑があって、子供だった自分よりも足腰が弱いはずのお年寄りが、当たり前のように畑仕事をしててね。それを見て、凄い! って思ったわ。変な話でしょ」
 笑いながら思い出話をする彼女につられるように、高山も浜辺のほうに歩き出す。
「私は今でも、時々ここに来るんです。さすがにキャンプはしませんよ。海を眺めに来るんです。富山湾の海岸沿いを眺めにね」
 肩より少し下まで延びた市長の髪が、風に揺れている。風邪でもひいたらと心配になるような華奢な体を、グレーのスーツに包んで立っているこの人のどこに、金沢県を誕生させようとする原動力があるのか、高山には皆目見当がつかなかった。
「この眺めも、昔とは少しずつ変わってきた。夜だと明かりで変化が判りやすいわ。あそこに橋があるの、判るかしら? 明かりが並んでいるところが新湊大橋よ。手前の明るいのは、海王丸パークね」
 前田真利子が指さすほうに目を凝らす。日常の中で、視力の衰えをはっきり意識するようになった高山にも、彼女が示すものが判った。
「新湊大橋なんて、私が子供の頃はなかったわ。時代は変わっていく、街も変わっていく、でもそれは誰か一人の意思ではなく、多くの人の想いが集まった結果だと私は思ってる。いくら市長といったって、私一人の力では、出来ることなんてたかが知れている。それを自覚するために、思い上がらないように、この景色を眺めに来ているの」
 変かしら? 振り返った前田真利子の目が、一歩うしろにいた高山のほうを向いた。
 彼女は笑顔だった。でも、目の奥に光るのは、強く頑なものに見えた。
 答えあぐねて俯いてしまった高山には構わず、前田真利子は話を続けた。
「私は、今の金沢のあり様にずっと不満を持っているわ。金沢という言葉で得たものを、金沢という知名度で得たものを、石川県は当然のように持っていってしまう。金沢は金沢のものよ。金沢の人達のものであるべきなのに、現状に抗う術はない。だったら逆に、金沢を県として誕生させてしまえばいいと思ったの。最初は私一人の願望だったけれど、共感してくれる人は他にもいた。その人たちの想いが、ようやく実を結ぼうとしている」
 まだ見ぬ未来が見えている、そんな目をして前田真利子は語った。まだ春を感じるには遠く、それでも彼女の言葉は熱を帯びていた。
 前田真利子が言いたいことは、高山にも理解できる。同じ石川県でありながら、『能登地方』と『金沢』とでは世間の扱いが違っていることを、五十余年の間、折に触れ感じてきた。
 その一方で、高山の心の底には、深く沈んだまま動かない冷え冷えとしたものがあった。金沢というブランドに乗っかろうとしている、金沢の知名度のおこぼれに与ろうとしている、それが金沢県に入る自治体の本音なのではないか。住所に『金沢』の文字が入っただけで、本当に得るものがあるのかどうか。
 高山の実家は、一般的なサラリーマン家庭だった。父は下請けの工場で金属部品の加工をしていた。長引く不況に、会社は大手メーカーの傘下に入ることを決めた。製品の単価を下げるよう求められ、無理なら社長を替えると言われた。設計規格外の部品でコストダウンするが、それがあだとなった。リコールの対象になり責任を取らされ、高山の父は詰め腹を切らされた。実直な仕事ぶりから周囲の信頼を得てきたサラリーマンの最後が、トカゲの尻尾切では浮かばれない。社長は泣きながら土下座して父に頼んだらしいが、そんなもの何の足しにもなりはしなかった。父の苦労は、そのまま家族の苦労として高山にも降りかかった。
 公務員になったらどうだ。何かにつけて父にそう言われたが、住みよい街づくり、地域の活性化、などと耳当たりの良いことばかり言って、結局は何も変わらない田舎町に住み続けたせいか、高山は役場の人間に不信感を持っていた。そのくせ現実的な選択肢として、『公務員』という職種は頭のどこかに常にあった。
 丈夫な体を授かったのが幸いした。高校では柔道部に入部した。顧問の勧めで警察官になった。生まれ育った田舎町を捨てるつもりで金沢に出た。弱者を助ける仕事、正義を全うする仕事、そう思っていたのに、父と同じ道をたどってしまった気がしてならない。
 蛸島駐在所に異動してきた時、昔馴染みの爺さんたちが迎えてくれたのは救いだった。若い頃は、何かと説教臭く疎ましいだけの存在だった彼らが、自分がここにいることを認めて受け入れてくれる。華やかな街に憧れここを離れたのに、皮肉なことだと高山は思いながら、勝手知ったる町に腰をおろすことで安心を得たのも確かだった。
 だが、それだけで自分の今までの人生を肯定できるだろうか。例えこの土地が自分を受け入れてくれたとしても、自らの人生を受け入れることができるだろうか。何を心の支えにして、残りの人生を歩んでいけばいいのだろうか。
「市長、そろそろ」
 秘書課の彼が声をかける。はい、と答えて前田真利子は振り返った。
「多くの人たちに賛同してもらって、その期待を裏切ることなく応えていきたいと思っています。その結果として、次期の知事も任せてもらえるよう、努力して参りますので、よろしくお願いしますね」
 前田真利子に頭を下げられ、高山は面食らった。市長なら多くの人を引っ張っていくような力強さを誇示すべきなのではないか。警察官としてつまずき、駐在所に置き去りにされた自分のような者に、なぜ市長である彼女が頭下げる?
「また、いつでも来て下さいよ」
 事務所に顔を出した前田真利子を、管理人夫婦が見送る。高山も小さく会釈してミニパトに乗り込んだ。
 前田真利子を乗せた公用車が、左折して砂利道からアスファルトの道路に出る。その後ろを、ミニパトに乗った高山は右折した。バックミラーに映るテールライトを気にしながら、広いバイパスの手前で右折して、海沿いの道に入る。
 浜辺と山にはさまれた狭い平地に、民家がまばらに並んでいる。夕飯時に明かりがついている住宅に混じって、暗いままの家がある。周囲の廃れようから空き家だとすぐに判る。
 ここには過疎を止めようとする者も、新しく何かを生み出そうとする者もいない。それだけの気力も体力も備わっている者は、自らの足でこの地を去って行く。残っているのは、それが失せてしまった年寄りか、何もかもを諦めた者。そうしてゆっくりと廃れていくこの土地を、市役所の最上階にいる者たちはただ見守ることしかしない。
 立場上、役場の人間ともそれなりに上手く付き合ってきたつもりだが、高山の公務員に対する不信感は、今も消え去ってはいない。どれだけ優しい声で、耳当たりの良い事を聞かされても、それはこれからも消えずに存在し続ける。
 金沢市長、前田真利子に対しても。
 自分は公務員である前に警察官だと、心の中で唱えながら高山雅治は生きている。
 
 パトロールを終え駐在所に戻り、報告書を作成しようとしていると、携帯電話に着信があった。輪島警察署・南志見(な じ み)駐在所の上原裕司だった。
「高山さん、明日の土曜って暇ですか? もし予定がないんだったら、休みだし一緒に飲みに行きませんか?」
 上原裕司は高校の柔道部の後輩で、高山より二つ年下だ。高校を卒業して、高山を追うように警察官を志した。当時こそ先輩、後輩という意識はあったが、お互い年を取るうちに二歳の年の差は薄れ、今では友達同士のような関係になっている。
「女房が、高校の友達と泊りがけで温泉に行くんですよ。いつだったか同窓会があって、友達と再会して意気投合したとかで。それで家に俺一人だから、たまには羽を伸ばそうかと思って」
 上原裕司が言い、高山は笑った。
「ああ、いいよ。何ならウチで飲むか?」
「いや、それじゃ奥さんに悪いですから」
 それもそうだ。誰かに気兼ねしながら飲むより、二人のほうがいい。上原裕司よりも高山がそう思った。
 次の日の夕方、高山は珠洲市内の寿司屋に向かった。幹線道路から路地を入ったところにあるこの店に、高山は何度か行ったことがあった。立地も店構えも商売には向いているとは言い難いが、だから珠洲警察署の職員と顔を合わせることもない。
 上原裕司に会うのは久しぶりだったので、気が急いて早く来てしまった。先に来て、ビールを頼み、のんびり寿司をつまんでいると、上原裕司が来た頃には、高山の口はすっかり軽くなっていた。
「この辺りも騒々しくなりましたよね。難民船のせいですかね」
 会う人、会う人、その話題が口に上る。今日も暑いですね、寒くなりましたね、そんな季節によって決まり切った挨拶をするように。
「まぁ、俺たちは関係ないさ。難民を乗せたマイクロバスが目の前を通ったって、高山警部補には何のお鉢も回っちゃ来ないんだから」
 見飽きた街を抜け出し、少しだけなら羽目を外しても問題ないだろう。少しだけ、少しだけ、そう思っているうちに勢いがついた。いつもの晩酌より多めの酒が、滑走を促すにはもってこいの潤滑油として働いた。
「小杉の野郎、俺を気遣ってるふりして、本当はバカにしてんじゃないのかよぉ」
「警部補で終わってたまるかってぇの。何が副署長だよ。田舎じゃなきゃ警部で副署長なんてなれねぇっつーの」
「今の若い連中はなっちゃいない。敬礼ひとつ満足にできやしないくせに。いい気になってんじゃねぇぞ」
 誘ってくれた上原裕司に申し訳ない、と心の隅のほうで呟く声がする。が、崩れ始めた理性を元に戻そうとしても、アルコールが濁流となって足元をすくい、容易にせき止めることができない。
「俺なんて、もうどうでもいい存在なんだよ。なぁ、そうだろ……」
 瞼が重い。高山のつぶった瞼の裏側に、上原裕司の苦笑いが浮かぶ。判っているのに、もう目を開けるのも億劫で仕方がない。
「確かに、駐在所勤務って地味な仕事ですけど、それでも、まぁ、誰かがやらなきゃ困る訳ですし」
 力が抜けて頭もろくに回らなくなっている。理解する能力を失った高山の意識の中を、上原裕司の言葉がただ流れていく。
「どんな仕事も、誰かがやらなきゃいけないし、誰もやらないと困る人が出てくる。社会が成り立たなくなる。そう思って自分は仕事をしてるって。この間、自販機の補充にきていた若いのが言ってたんですよ。若いって言っても、もう中年くらいだったんですけどね。俺よりは若く見えたな。言われた時にはカチンと来たんだけど、その通りかもしれないなと納得しましたよ」
 上原裕司がそんな話をしているのを、高山は夢の中で聞いていた。いや、本当に上原裕司が話していたのかすらはっきりしない。
 気が付いた時には、家の布団で寝ていた。日はとっくに高くなっていた。飲みに行ったことすら夢だったのかもしれないと女房に尋ね、昨夜、酔いつぶれた自分を上原裕司がタクシーで家まで運んでくれたことを知った。女房にどやされ、高山は頭をかきながら上原裕司に電話で詫びた。もし、まだ先輩後輩の関係だったら、合わせる顔もなくなっていただろうなぁ、と自分が情けなくなった。
 駐在所の椅子に腰かけ、高山はやり残した書類の作成を始めた。何気なく顔を上げると、黒のクラウンが通り過ぎていくのが目に入った。
 前田真利子かと思ったが、後部座席にはスーツを着た男性が二人乗っているだけだった。歳は離れているように見えるが、どちらも役所の人間だろう。そう思うと不快なものが湧いてくるのが常だった高山だが、今日は不思議と気が楽だった。
 その分、上原裕司に迷惑をかけたことを思うと、高山はただただ恥じ入るばかりだった。
 
 ハセガワと木村リョータを乗せた黒のクラウンは、珠洲市を抜け能登空港に向かっていた。二十九歳の誕生日を、日本海の荒波の上で迎えることになるとは、さすがの木村リョータも思ってもみなかった。
「難民船の誘導、ご苦労だった。報酬は口座に振り込んである」
 ハセガワの言葉に、隣に座っている木村リョータは生返事を返すだけだった。
「大変だっただろ。しばらく休暇を取るといい」
 どれだけ大変だったか知りもしないくせに……。木村リョータは口には出さず、胸の中だけでそう吐き捨てた。
 シンガポールに住む木村リョータにハセガワから依頼が来るのは、いつも突然だ。こちらの都合などお構いなしで、バカにしているのかと思ってしまうほど簡潔なうえに、その内容はいつも無理難題ときている。
 難民船を日本まで誘導してくれ。
 リョータがまず向かったのは、中古車販売店だった。いつも乗っているポルシェでは荷物が積めない。だから中古のライトバンを購入した。使い捨てのつもりで安い車を選んだ。ちゃんと動けば何でもよかった。
 次に向かったのがショッピングモール。そこで水や食料を大量に買いこんだ。それをライトバンに積み、港へ向かう。暇そうな漁師を見付けて、自分と荷物を難民船まで運んでくれと頼む。だしぬけな頼みでも、札束を握らせれば断る者はいない。
 ハセガワは無茶なことばかりを頼んでくる代わりに、報酬ははずんでくれる。でなきゃ、金にものを言わせるごり押しの方法をとることは出来ない。こんな時、自分もハセガワと同じなのだとリョータは嫌になる。ただし、漁師のような市井の人間みたいに、頼み事を安請け合いしたものの、望んだ結果を出せなくても金を返せばそれで済む、という無責任なことはできない。木村リョータは、日本政府に抱えられた工作員なのだから。
 戦火と迫害を逃れて、着の身着のまま乗船した連中が相手なら、水と食料を与えてやればそれだけで有り難がられる。彼らには、他人を不審がる余裕さえなかった。難民を助けるNGOだと言っておけば皆それを信じたし、行き先を日本に向けるのは簡単だった。ただし、いつ沈没するか判らないボロ船に、難民たちと一緒に何日も揺られていなければならないうえに、遮るもののない海上で海風にさらされ続けるのは、拷問に等しかった。
 難民たちは、みな無口で動かない。必要なのは体力を温存しておくこと。どこかの港に着くまで、じっと耐えているしか生きる術はないと彼らは判っている。それでも、いつの間にか死んでいる者はいた。もの言わず、ただ静かに死んでいた。こんな仕事をしている自分も、きっと誰にも知られずに息絶えるのだろう。常々そう思っているリョータにとって、彼らの死は他人事ではなく、小さな恐怖を覚えた。
 難民に紛れて能登半島にある港に上陸し、仮施設の中でリョータはハセガワと会った。道路を挟んだ向かいにあるホテルにこっそりと連れていかれ、温かい食事と風呂、新しい衣服と心地よく眠れるベッドを与えられた。難民がどんな扱いを受けているのか判らなくても、彼らとは別格の扱いを受けていることは判った。
「休暇って言われてもなぁ。日本は久しぶりだから、どこでどう暇をつぶしていいのか」
 二人を乗せた車は、珠洲市から能登町に入ったところで、山間部にある道路に向かった。道路案内の看板に、能登空港という文字が見えた。
「空港に向かうのか?」
「いや、金沢に向かう。金沢市内にホテルを取ってある。とりあえず、そこにチェックインして休暇を楽しんでくれ」
 そうは言われてもなぁ、とリョータはため息をつく。ホテルで時間を潰すだけが休暇ってのも、味気ないだろう。
「アンタは東京に戻るのか?」
「いや、小松市に向かう。こちらもいろいろ用事があるんだ」
 抑揚のない調子でハセガワが答えた。コイツはいつも、こんな喋り方をする。何を考えているのか今ひとつ掴めない。
「車を用意してくれないか。足がなきゃ、休暇を楽しむこともできないから」
「お前が乗ってるのと同じポルシェでいいか? だったら、明日までに都合をつけてやることはできるが」
 ああ、頼む。それだけ言って、リョータは車窓を流れる景色に目を移した。
 山間部のように草木が生い茂っていたかと思うと、開けたところから海が見える。変化していく風景ではあったが、どこか島国っぽい雰囲気が、閉塞感を抱かせる。後部座席にいるより、自分が運転したほうが退屈せずに済みそうなものだ。そんなことを考えながら木村リョータは目を閉じ、しばらく眠っていた。
 
 ↓(第四章につづく)


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