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誕生!? 金沢県 【第四章】


 金沢のホテルに一泊した木村リョータは、翌日の朝、ホテルのラウンジで車のキーをハセガワから受け取った。これで少しは退屈せずに済む。
「日本は、車は左側通行だ。忘れるな」
「判ってる、心配しなくていい。事故を起こすようなヘマはしない」
「どこに行くつもりなんだ?」
 名古屋だよ。リョータの答えに、ハセガワは薄い笑いを浮かべた。
「あまり目立つことはするな。それはお前の義務でもあるんだから」
 ハセガワに言われて不貞腐れたリョータは、判ってる、とだけ答えて話を変えた。
「ここはチェックアウトしていいんだよな? 次の仕事が決まるまで、好きに遊び回っていても?」
「いや、このホテルにはしばらく部屋をとっておく。近いうちに、金沢で次の仕事を頼むことになる」
「どんな仕事なんだ?」
 リョータが尋ねても、そのうち知らせる、とハセガワは答えただけだった。本当にいけ好かない奴だとリョータは思うが、それなりに人生を謳歌できるのもコイツのおかげなのだから、無碍にもできない。
 まるで自分はハセガワの飼い犬のようだと、リョータは思うことがある。そして、それはその通りなのだ。それなりの自由を得ながら生きていくために、あの日、ハセガワが首輪をつけることをリョータは受け入れた。
 
 木村リョータは、日本人の父と中国人の母の間に生まれた。母は技能実習生として中国から来日して、名古屋市内の工場で働いていた。そこで父と出会った。結婚してリョータが生まれた。その後おとずれた不況で会社は倒産、それをきっかけに父は酒浸りになり、母は離婚して女手一つでリョータを育てた。中国人の母ではあったが、日常会話くらいの日本語は話せた。しかし、中国人ということがネックだったらしい、ただでも少ない求人に応募しても採用されることはなかった。
 母はホステスの仕事を得たが、それは望んで選んだものではない。雇ってくれるところが他になかったから。生活していくためには選り好みしてはいられなかった。
 小学校、中学校で、リョータは肩身の狭い思いをしてきた。日本人と中国人の間にできた子供。母親が水商売をしている。陰口や揶揄されたことも少なくなかった。そんな状態では勉強はもちろん、何かに打ち込むことなど出来ようはずはない。なんとか入学した高校は、偏差値の低い荒れた学校だった。毎日通ってはいたが、授業が終わるとアルバイトして過ごした。生活のためにお金が必要だったのもあるし、学校での居心地の悪さを解消するには働くのが一番だった。大人にまじって仕事をしている時のほうが、自分を隠さずにいられた。
 リョータが働いていたのは、中国人が経営する中華料理店だった。在日の中国人が多く住んでいる町だったおかげで、人づてに紹介してもらった。店長も日本に来たころは苦労したと言っていた。店内では日本語が共通語だったから、客とのやり取りは日本語を使ったが、店長との会話は中国語だった。そのほうが言葉がスラスラ出てきて、学校では殆ど喋らないリョータは自分が別人にでもなったような気がした。
 母の影響で身に付いてしまった中国語。まわりから嘲笑されるのを恐れて、リョータはずっと出さないように心がけて生きてきた。その言葉が自分を解放してくれるなんて、予想もできなかったことだった。
 母もここで雇ってもらえないだろうか? ある日、そんな願望がリョータの胸に浮かんだ。でも、人の好さそうな店長に可愛がってもらっているうえに、そこまで世話になるのも気が引けた。そんな遠慮がちな部分を、日本人の父から受け継いでしまったことに嫌気がさした。
 染み付いた日本人気質を捨て去りたくて、将来は外国で暮らせないものかと思ったりもした。こんな狭い島国で一生を終えるのかと思うと、絶望的な気分にすらなった
 中国に帰ってみたらと、リョータは母に提案したことがあったが、母はあやふやな日本語で答えるだけだった。スナックで知り合った客の男性の存在が、母の心を日本につないでいたのだった。何度も提案するリョータが煩わしくなって、母が本音を漏らした。その男性から母が生活費をもらっていたことも。
 それを聞いた時から、日本という国は、リョータにとって本当に忌まわしいだけの存在になってしまった。それ以来、母と顔を合わせることを避けるようになったリョータは、バイト先の中華料理店に夜遅くまで残って働くようになり、あまり家に帰らなくなった。とは言え、自分をここまで育ててくれたのは母だった。高校を卒業したら外国で職と住まいを得たいという気持ちと、母の存在との板挟みになり、リョータは自分の将来が描けないまま日々を過ごしていた。
 そんな状況が一変したのは、リョータが高校三年生の時だった。
 中国にいる母の父親、リョータにとっては祖父の具合が良くないという連絡があり、リョータは母と二人、中国に帰省することになった。が、空港へ向かう途中、交通事故に遭い、リョータの母は亡くなり、リョータも大怪我を負った。母を亡くした失意の中、まわりの助けもあって高校は卒業できたものの、その後の生活の目途など立つはずもない。
 そんな時、バイト先の中華料理店の店長に言われた。
「世界を股にかける仕事をしてみないか?」
 タイミングが良すぎる……。振り返るたびに、リョータはそう思ってしまう。
 アルバイト代だけでは生活していけない。かと言って、自分のような半端者を雇ってくれるところなどないのは、母を見ていて嫌というほど判っていた。店長を信用していたリョータだったから、その言葉に甘えることにした。
 そして、ハセガワという男に出会った。日本政府の指示で動く工作員になった。東南アジアを中心に、指示があれば世界中のどこへでも赴いた。報酬は良かったから、裕福とは言わないまでも、それなりの贅沢なら許されるほどになった。
 その代わり、忌々しい日本という国のために、骨を折らなければならなくなった。任されるのは汚れ仕事ばかり。法を犯したこともある。人を手に掛けたこともある。だから、いざとなったら責任を負わされ消されるかもしれない。それを判っていても、リョータはこの仕事を続けていた。辞めたら即、犯罪者になる。一度でも首を突っ込んだら抜け出せない、手を染めてからそう気付いた。
 
「小松市の用事というのは、もう済んだのか?」
「いや、今日も小松まで行かなきゃならんのだが、すぐに片が付くだろう」
 ハセガワの言葉に、ふうん、とだけリョータは答えた。訊いてはみたが、興味がある訳じゃない。
 それよりも気になっていたのは、日本が難民を受け入れたことだ。日本の難民認定は厳しいと聞く。なのに何故、自ら難民船を引き受けたのか、リョータはずっと疑問に思っていた。
「それは、一種のカードだったんだよ」
 ラウンジのまわりの客を気にしながら、ハセガワは声を落として答えた。口の中だけで笑い声をたてる時のハセガワ独特の表情が、リョータの神経を逆撫でする。
「ちょうど東南アジア諸国の外相が集まって、貿易に関する交渉をしていたんだ。お前も知っての通り、どこの国も難民を受け入れる余裕なんて無いからね。国連高等弁務官事務所からも、各国に要請が来ていたのだが、どの国も渋っているだけで。結局、日本が引き受けることにした。その代わりに、貿易交渉は日本にとって有利なかたちで決着した。そういうことだ」
「じゃあ、日本は難民を認定して、受け入れるってことか」
「そんな訳ないだろ。我が国だって、難民に食と居場所を与えるだけの余裕なんて無いんだ。だから、本国に送還されることになる。それだけだ」
 結局、難民たちは日本政府に都合良く利用されただけなのか。もしかしたら、利用するつもりで難民船を用意したというのは考えすぎだろうか。
 工作員になって何年も経つ。こんなものだと判っている。なのに、いつもリョータはどこかやるせない気持ちになる。
「使えるものは何でも使う。それが政治だし、外交というものだ。とにかく、難民船の問題はもう片付いた。お前は休暇を楽しめばいい」
 ハセガワは運ばれて来たコーヒーを飲み干し、では私はこれで、とテーブルを離れようとして、リョータのほうを振り返った。
「昨日も言ったが、目立つことはするなよ。日本の警察は甘くない。捕まっても金を渡せば見逃してもらえる、なんてやり方は通用しない」
 判ってる、とリョータは吐き捨てるように言った。手の内が読めないうえに、口うるさくて嫌になる。きっとコイツは、どこまでも他人を信用していないのだろうとリョータは思った。
「それと、ポルシェは返さなくていい。お前のものだ。外務大臣からのボーナスだと思っておいてくれ。また国外に行くことになったら、その時は私が預かっておく。それが嫌なら、好きに処分しても構わない」
 もしお前が望めば、日本国内の仕事にかえてやってもいい。住まいもこちらで手配してやる。いつかハセガワに言われたことがあったが、再び日本で暮らす気なんてリョータには一切なかった。日本のために働かされたうえに、日本のために高い税金を納めるなんて、たまったものじゃない。税金の安いシンガポールに居住しているのも、そのためだ。
 もっとも、海外にいたとしても、奴らの監視下に自分がいることに変わりはない。下手を踏めば、どんな処分を受けるか判らない。
 工作員としてハセガワの指示で動くようになってから、リョータは何度か警察ともめたことがあった。まだ日本国内で仕事をしていた頃だった。それは自分が調子に乗って社会性を逸脱したからというのもあったし、業務上やむをえず違法な行為に及んだからというのもあった。。
 どちらにしても、どこかから役人が来て、経緯が判らないままリョータは無罪放免になった。彼らの動きはあまりに迅速で、まるで自分が見張られているのではないか、とリョータは疑いを持っていた。彼らの存在を不気味にすら思った。
 お前が私に銃口を向ける時、お前を狙っている銃の引き金が引かれる。自分の立場をわきまえず羽目を外すようなら、その時もだ。いつかハセガワに言われた言葉はブラフではない、リョータはそう思っている。
 国外で仕事をするようになってから、リョータは中国のある病院の医師に金を握らせ、自分の身体を検査したことがあった。体内に小さな電子機器のようなものが埋め込まれている可能性がある。検査を頼んだ医師に言われた。それが発信機なのか何なのか、詳しいことは判らない。手術でもして取り出したなら判るのだろうが、恐らくハセガワにバレるだろう。少なくとも、自分がどこにいるのか、ハセガワや彼が属する部署は把握しているに違いない。
 バイト先の中華料理店の店長が、ハセガワとつながっているのではないか?
 幾度となく考えて、答えが出るはずもなく、気持ちの落としどころが見いだせずにいた疑問。でも今は、店長がハセガワとつながっているとリョータは確信していた。自分の境遇について、店長に不満や愚痴を漏らしたことは数え切れない。リョータの人となりを店長は判っていたはずだ。
 母を失った事故だって、案外、仕組まれたものかもしれない。その治療の際に、体内に何か埋め込まれた。そんなことが本当にあったとしても、まったく不思議だとは思わない。
 真実はどうであれ、リョータが奴らにとって都合の良い人材であったことは確かだ。事実、リョータの働きによって、日本は、日本人は、何かしらの恩恵を受けているのだから。
 ホテルの地下駐車場にとめられているポルシェは、すぐに見付かった。いつもどおりに乗り込もうとしたが、リョータが開けたのは助手席側のドアだった。右ハンドルか。ハンドルの位置までは、ハセガワに注文をつけてなかったことをリョータは後悔した。
 走行距離から見て、新車で購入したと思って間違いない。発信機や盗聴器がつけられている可能性もあるし、行動が筒抜けなのかもと考えると面白くはないが、バレて困ることをするつもりもない。リョータはゆっくりと車を発進させた。
 金沢東インターチェンジから北陸自動車道にのり、富山方面に進む。小矢部ジャンクションから東海北陸自動車道にのりかえ南に向かえば、名古屋まで三時間ほどで着く。
 目的地は、かつて自分がアルバイトをしていた中華料理店。今の仕事に就くきっかけになった店。途中、何度かパトカーを見かけたが、咎を受けることはなかった。ハセガワに責められることを考えると、必要に応じて猫をかぶっているほうが、リョータとしては心情的に受け入れやすかった。
 高速道路をおりて一般道をしばらく走ると、昔と変わらない場所に、目指す中華料理店はあった。あの頃より古ぼけて見える看板に、この地を離れて久しいことをリョータは実感した。店構えこそ変わらないけれど、まわりの道路は新しくなり、木造の建物が減ったぶん、コンクリートのビルが増えていた。
 店長に対して憎悪感を持っていたこともあった。母と二人、もし中国で暮らしていたらと、得られなかった未来に勝手な幸福を重ねていたこともあった。でも、久しぶりに店の前に立ったリョータの心は、意外にも凪いでいた。ハセガワはいけ好かない奴だが、現在の生活自体は、この街に母子で暮らしていた頃よりもずっと楽だ。あの頃の自分が見たら、贅沢だと言うだろう。
「リョータか? 何年ぶりだろうねぇ」
 店長は、仰々しくリョータを迎えいれてくれた。さぁさぁ、ここに座っておくれ、と店の一番奥に招き入れ、懐かしがっている表情を浮かべ続けている。
「日本に来る用事があったから、ちょっと寄ったんだ」
 元気そうだね、と店長が笑いかけてくる。店長はシワが増えたせいか、笑顔の奥になにを隠しているのか判りにくくなっていた。今の自分になら、何か見えるものがあるかもしれない。リョータは小さな期待を抱いていたが、それは自惚れだったらしい。
「せっかく来てくれたんだ。お代はいらないから、好きなものを食べていきなさい」
 店長の言葉に甘え、チャーシュー炒飯と黒豚餃子を頼んだ。あの頃、好きでよく頼んでいたメニュー。それを聞いても、店長の顔色が変わることはなかった。変わったけれど、読み取れなかっただけかもしれない。どっちにしろ店長は、リョータが切り出さない限り、昔のことを話したりしないだろう。リョータに対して、後ろめたい感情を持っているかどうかも。ハセガワの名前を出したら、少しは心中が見えてくるのかもしれないが、そこまでするつもりは、今のリョータにはもう無かった。
 店内を見回すと、相変わらず繁盛しているようだった。何年経っても日本を好きになれないが、この店の雰囲気は嫌いじゃない。
 若いアルバイト店員が何人か、せわしなく店内を行き来している。自分と同じ理由でこの店で働き始め、もしかしたら自分と同じ将来を歩むことになるのかもしれない。そんなことを思ったリョータだったが、自分自身で自分の生き方を選ぶのなら、他人が口出するいわれはない。
「お待たせしたね。さぁ、遠慮せず食べて」
 目の前のテーブルに注文した品々が並び、リョータは箸をつけた。昔と変わらない味に心が和む。この街に住んでいた時のことを思い出したいとは思わないが、すべてが嫌な思い出という訳でもない。
「繁盛しているね。店の看板を新しくしたら、もっと繁盛するんじゃないの」
 リョータの言葉に、店長は笑いながら向かいの席に座った。
「店は賑やかでも、なかなか儲かってないのね。食材の仕入れ価格が上がっても、値段を上げると日本人のお客さが離れていっちゃう。仕方なく安い食材に切り替えたら、味が落ちたって中国人のお客さんに言われちゃう」
 店長の話に、リョータは苦笑した。中国人が本音を言うのは、この店の雰囲気が、中国人にとって居心地が良いせいだろう。
「そうそう、お客さんから聞いた話なんだけど……」
 リョータのほうに顔を近付けた店長が、小声で話し出した。
「名古屋市が、名古屋県として愛知県から独立するって噂があるんだけど、リョータは何か知らない?」
 知らないな、とリョータは首を横に振りながら、日本に着いてからこっち、何度となく耳にしていた言葉を思い出した。
 金沢県が誕生する。
 次の仕事は金沢になる、とハセガワは言っていた。何か関係があるのだろうか。
「日本には、いつまでいるの?」
「さぁ。仕事の指示があるまで判らないな」
「日本を離れる前に、またウチの店に来てね。お代はいいから」
 それからしばらく店長と世間話をした後、ごちそうになった礼を言って、リョータは店を出た。
 行きたいところがある訳でもない。したいことがある訳でもない。リョータはポルシェを乗り回し、気が向いたら目についた店に入り、食事を取った。疲れたら飛び込みで宿を頼み、そんな調子であちこちを回った。道路が整備されているわりに、車が多くて思うように飛ばせないところが日本らしい。外国暮らしに慣れると、やはり窮屈な印象は否めない。
 金沢に戻るきっかけは、ハセガワからの電話だった。
「人を一人、消して欲しい」
 放浪生活にも飽きてきたところだ。日本を離れる前の、ちょっとした刺激になるかもしれない。そんなふうにリョータは考えながら、金沢に向かってハンドルを切った。
 
 春分の日、世間は祝日で休みだが、自販機に休みはない。
 本田恵が働いている営業所は、配達先のほとんどが企業や店舗なので、土日と祝日は休みだ。いつもは彼女とともに昼食をとっている佐々木修次も、こんな時はコンビニの弁当で済ませている。公園の駐車場にトラックをとめ、ケータイアプリでラジオを聞きながら弁当を食べる。ここのところ毎日、珠洲市の難民のことがニュースで取り上げられている。
 地元ラジオ局が、午後一時の時報を告げた。修次は空になった弁当の容器とペットボトルをビニール袋に放り込み、トラックを発進させた。もし仕事が休みだったら本田恵と逢えたのに……。そんな気持ちが運転を雑にさせるが、もしパトカーに絡まれたらと思うと、自然と襟を正してしまう。
 違反で捕まって、相手が知ってる警察官だったらバツが悪いからさ。そう本田恵に言ったのを思い出す。
「ウチの会社、企業向けの弁当の配達だけじゃなくて、一般の家庭向けに調理済み食材の配達も始めることになったの」
 先週、一緒に昼食をとっている時に本田恵が言っていた。
「カット済みの野菜とか、すぐに家で調理だけすれば食べられるように加工して、それを配達するの。忙しいお母さんとかに需要があるんだって。スーパーに買い物に行って重たい荷物を持って帰らなくていいし、献立に悩まなくて済むから人気になってるらしいよ」
 本田恵の話を聞いて、修次の頭に前田真利子の顔が浮かんだ。どこかのテレビのインタビューで、そういうのを利用すれば、人生の選択肢が増えるとか。そんなことを言っていた。
「それで私、管理栄養士の資格を持ってるから、もしかしたら、そっちの部署に異動になるかもしれない」
「じゃあ、ここの営業所からいなくなるかもしれないってことなのか?」
「まだ判んないけどね」
 いつも当たり前のように顔を合わせている本田恵が、自分の日常がいなくなる。そう考えてしまうと、修次はつい箸が止まってしまった。
「どうしたの? 今日のお弁当、美味しくない?」
 なんでもない、美味しいよ。修次はあわてて笑顔を作ったが、心中は穏やかではなかった。そして気付いた、自分がどれだけ本田恵を求めているかを。
 目の前の信号が、黄色から赤に変わった。修次はゆっくりとブレーキを踏む。まわりの車より少し遅れて、トラックはのろのろと止まった。行きかう人が横断歩道を埋めている。春に向かう季節の中、祝日の皆はどこか弾んで見える。そんな様子が、修次の心を逆撫でしていく。ハンドルを握る手に、無駄に力が入る。
 不意に、目の前を黒いクラウンが横切って行った。警察官を辞めてずいぶん経つのに、無意識にナンバーを目で追ってしまう癖が今でも抜けない。だから判った、それが市長の公用車だと。乗っているのは前田真利子。兄の嫁の姉。
 兄の結婚式で、修次は前田真利子と直接会ったことがある。あの時はまだ警察官だった。立派な弟さんですね、そう言われて照れたことを思い出す。式が終わってから、ロビーで少し立ち話をした。
 私、修平さんに好きだと言われたことがあるの。でも、私には志があってね。だからずっと男性からの好意をお断りしてきた。でも修平さんは私にとって、ずっと大切な存在だった。彼が私に憧れていたことが、私にとっても支えになった。頼りになる人でいてくれた。あなたは修平さんに憧れているんでしょ? それはきっと間違っていない。あなたも修平さんみたいに、大きな仕事を担う人になれる。自分にとっての大きな仕事が何なのか、それが見付かる日が、いつかあなたにも来るわよ。
 実家を出て一人暮らしを始めてから、兄以外の家族、親族とは距離を置いている。前田真利子も、それは誰かから聞いて知っているはずだ。そんな今の自分に、彼女はあまり良い印象を持っていないのだろうと、修次はずっと思っている。
 信号が赤から青に変わり、まわりの車が動きだす。その流れに遅れないように、修次はアクセルを踏む右足に力を込めた。前を走る車から離れないように、シフトアップして加速する。
 きっと誰かの役に立っているはず。世の中に必要のない仕事なんてない。本田恵に偉そうなことを言っておいて、自分がこんな弱気でどうする。
 自分のため、彼女のため、二人の将来のために。
 修次は、自らを奮い起こした。
 
「兄貴、急に電話してゴメン。金沢県のことで忙しいかなと思ったんだけど」
 兄である佐々木修平の様子を窺うように、修次は遠慮がちに話し出した。一人暮らしのアパートの部屋で、隣近所に聞こえないように気を遣いながら話すものだから、なおさら声が小さくなる。
 夜七時すぎ。普段の兄なら家に帰って夕飯を済ませている時間だが、金沢県が誕生する四月までもう間がない今は、もしかしたら残業中かもしれない。こんな時に電話なんかしてくるな。そう怒られる不安に怯えながらも、修次は連絡せずにはいられなかった。
「久しぶりだな。最近どうしてる? 仕事は順調か?」
「ああ、うん。兄貴こそ大変な時期なんじゃないの?」
「まぁな。でも、あとひと踏ん張りだからさ」
 兄に紹介したい人がいる。兄の機嫌を損ねて、その人の印象まで悪くなってはマズいが、機嫌は悪くないようだ。兄の都合を尋ねながら、会うための場所と時間を決めたいのだけれど。修次はおずおずと訊いてみた。
「今週末、会えないかな? 忙しいなら別の日でもいいんだけど」
「お前から誘ってくるなんて、珍しいこともあるもんだ。お前のおごりなら、メシでも酒でも付き合ってやるぞ」
 そう言って兄は笑った。機嫌が悪いどころか、まるで上機嫌だ。金沢県の誕生というゴールが見えてきたからか。とにかく、今なら誘っても差し支えないと修次は判断した。
「会わせたい人がいるんだ」
 その一言を口にしただけで、携帯電話を握りしめる修次の手が小刻みに震えた。緊張で、全身を震わせるほど心臓が高鳴り、息が浅く激しくなる。心も身体も、自分ではどうしようもないほど勝手に昂ぶって、完全に制御不能になってしまっている。本田恵にプロポーズした時でさえ、ここまで我を忘れそうになることはなかった。
 自分の中だけに秘めていたものを他人に示す。いったいどんな反応が返ってくるか。受け入れてくれるだろうか、それとも否定されるだろうか。肯定的な反応を期待して、それが叶わなかったらと考えると怖くなる。
「日曜日なら時間を取ることができるんだが」
 兄に言われ、修次は時間と場所を告げた。日曜日の夕方五時、金沢駅前の焼き肉店で。
 案外あっさりと兄の承諾を得られ、修次はようやく少し落ち着きを取り戻した。都合をつけてくれたことに礼を言い、電話を切った。喉がカラカラに乾いてしまい、思い切り水を飲んで咳込んでしまったが、嬉しさのほうが勝ってつい笑いがこぼれる。
 兄に本田恵を紹介する。考えただけで、修次は興奮が収まらなかった。

 今後のことを考えると、弟の修次には消えてもらうべきだろう。
 佐々木修平は、自分と前田真利子との関係が、弟の口からテレビ局の記者に伝わったことを不快に思っていた。会わせたい人がいると言っていたが、それがマスコミ関係の人間という可能性もある。金でも握らされて、取材の機会を作って欲しいと頼まれたのだとしたら、不愉快極まりない。
 金沢県を誕生させるという計画は、自分と前田真利子との関係の中で本格的に動き出した。それを知る者は二人以外に存在しないが、二人の人間関係そのものを知る者は少なくない。もちろん弟の修次も。兄としての立場から少しは目を掛けてやっていたのに、余計な情報を漏らしてしまうとは……。
 マスコミ関係の人間の中でも、特に北陸金沢テレビの記者、上松俊介は要注意人物だ。金沢県の誕生が目前に迫っている時に、都合の悪い情報を嗅ぎつけられては困る。念の為、上松俊介の身辺を調査するよう指示は出している。最近は弟に接触している様子はないようだが、用心に越したことはない。彼が消えてくれるのが最良ではあるが、それはさすがに不自然だ。
 修平は覚悟を決めていた。前田真利子の志、金沢県の誕生、それに差し障りのある者は、何人たりとも排除する。それが、たとえ実の弟であっても。
「それ、本気で言っているんですか?」
 弟を消す。その話を伝えると、総務二課の中西俊彦はそう訊き返してきた。
 彼らしい、と修平は微笑んでしまった。以前、彼は建設課にいた。生真面目な勤務実績を買い、修平は彼を引き抜いた。彼は見込んだ通りの仕事ぶりを見せてくれた。これまで就いてきた部署においては。
 今後は、より重要な役割を担ってもらいたい。その素養や気概があるかどうか、彼を試すいい機会だと修平は考えていた。
「本気も本気。ただ、実際に手を下すの君じゃない、別の人物だ。君の役目は、結果を確認すること。見届けてくれれば、それでいい」
 相手の性格に配慮して、あまり深刻にならないよう軽い調子で修平は言ってみたが、中西俊彦はその思惑どおりには受け取ってくれなかった。
「でも、あの……室長の弟さん、ですよね? 弟さんを、消す……と」
「そう難しく考えなくていいからさ。今度の、金沢県のことで政府機関のある人物と知り合ったんだ。その部下に、そういう仕事が得意な人がいてね。その人が請け負ってくれるってことになってるから。あくまで君は、ことの成り行きを確認すればいいだけだ」
 はぁ、と不承不承と言いたげな反応しか返ってこなかったが、彼の実績から考えて、任された業務は完遂するだろう。修平は、週末に弟と会う予定になっていることや、この件を担当する職員との待ち合わせの段取りなどを説明した。聞いている最中も、中西俊彦は、眉間に皺を寄せたまま、気乗りがしないと言わんばかりの表情を崩さなかった。
 
 土曜日の午後四時、中西俊彦は待ち合わせ場所である野(の)々(の)市(いち)市のショッピングセンターの屋上駐車場にいた。外は薄暗くなってきたうえに雪がちらついているが、店内に下りるエレベーターホールは暖房がきいているので寒くはない。
 中西俊彦は朝からずっと落ち着かなかった。待ち合わせの時間よりもかなり早く来てしまったのに、着いてみると尚さら落ち着かなくなってくる。それを紛らわせるために、自販機で缶コーヒーを買って飲もうとしたが、もしかしたら室長の弟が補充していったのかもしれないと思うと、飲む気も失せて、コートのポケットに入れたままになっていた。
 前田市長と同様、佐々木室長も金沢県の誕生にずいぶんこだわっている。だからと言って、実の弟まで手に掛けるなんて、正気の沙汰とは思えない。
 佐々木室長と前田市長は、若い頃からの知り合いで、親しい仲だったという噂があるが、室長の奥さんは市長の妹だ、昔の関係が今も続いているなんてことは無いだろう。それでも、実の弟よりも、過去に特別な関係にあった女性の都合を優先するなんて、いったい佐々木室長は何を考えているのか。
 ポケットに入れたままの缶コーヒーを持て余し、開けることもなく自販機の隣りにあるダストボックスに放り込む。自動ドアのそばまで中西俊彦が戻ってくると、ちょうど目の前にシルバーのカローラが止まった。運転席から降りてきたのは、三十歳前後の男性だった。こちらに向かって歩いてきて、自動ドアが開くなり中西俊彦に話しかけてきた。
「アンタが金沢の関係者か?」
 中西俊彦が頷く。人を手にかけるような人物だから、てっきり年季の入った厳つい顔付きの人が来るのかと思っていたから、案外どこにでもいそうな風体だった。
 相手の男は、木村と名乗った。
「遅れてスマン。雪道の運転に慣れてなくてな」
 木村はそう言いながら、薄く笑いを浮かべていた。中西俊彦が左手に持っているものに、彼の視線が向いているのが判る。北陸の地域限定スナック菓子、ビーバー。屋上駐車場に来る前に、一階の食品売り場で購入した。待ち合わせの目印にするために。佐々木室長も悪ふざけが過ぎる、中西俊彦は怒るのを通り越して呆れた。あの人は、これから何が起こるか本当に理解しているのだろうか。
「それが噂のビーバーか」
「噂ってほどでもないけど……」
「スーツ姿にお菓子の袋を持ってる奴なんて、そうそういないからな。見てすぐに判ったぞ」
 欲しければやるよ。せせら笑っている木村に中西俊彦が差し出す。じゃあ遠慮なく、と木村はそれを受け取り、車のドアを開けダッシュボードの上に無造作に放った。運転席に座った木村が、車に乗るよう中西俊彦を促す。
 乗っている人も意外だったが、シルバーのカローラも意外だった。政府の関係者の部下と聞いていたから、もっと高そうな車に乗ってくるのかと中西俊彦は思っていた。
「この車はレンタカーだ。俺のじゃない」
 キョロキョロと落ち着かない様子から察したのか、木村は説明してくれた。
「自分の車じゃ目立つんでな」
 中西俊彦が納得した顔をすると、木村は車を発進させた。
「奴のアパートに向かう。そこから相手を尾行して、始末する」
「どうやるんだ?」
「準備はしてある。すべて俺に任せておけ」
 ショッピングセンターの駐車場を出て、国道8号線を南に向かう。立体交差をおりて国道157号線を東へ向かう。車は高橋川を渡り、赤信号で止まった。
「ここは金沢じゃないのか?」
 木村が尋ねてきた。ハンドルを握る手の人差し指だけを伸ばして、交差点の脇にある『金沢市』という看板を指さしている。
「ああ、今までいたところは野々市市だ。川を渡って、ここからが金沢市」
「昨日ちょっと来たんだが、金沢工業大学ってあったぞ。あそこは金沢じゃないのか?」
「あそこは野々市市で。まぁ、なんていうか、名前に金沢ってつけていると判りやすいっていうか……。だから金沢工業大学って……名前、らしい……」
 他所から来た人にこういう質問をされることは、ままある。そのたびに、紛らわしい名前をつけるなと叫びたくなる気持ちを、心の中だけで爆発させ消火しなければならない。それは案外、気力が必要な作業なのに、ふうーん、と木村は素っ気ない返事をしただけで車を発進させ、中西俊彦は居心地の悪さを感じただけになってしまった。
 早く用が済んで欲しい。何事もなく……とはいかないのだろうけれど。
 いくつかの交差点を曲がった後、木村は犀川沿いの道路わきに車を止めた。
「この辺にアパートが多いのも、大学があるからか?」
「まぁ、そんなとこだ」
 弟の住所は、佐々木室長から聞いていた。向こうに見えるアパートがそうだ。当然、木村も知っているからここに来たのだ。
 木村はダッシュボードに置いてあったビーバーの袋を開けた。ほどよく柔らかくて、歯ごたえが調度いい具合に無いな。そんなことを言いながら、木村はビーバーを口に運んでいる。車内にスナック菓子特有の餅米を揚げたにおいが拡がって、中西俊彦は小さく咳払いをした。
「奴さんの車に、ちょっと細工しておいたんだ」
「細工って、どんな?」
「それは、後のお楽しみさ」
 食べかけのビーバーの袋を適当に丸めて、木村が小物入れの中に突っ込む。パッケージに描かれたビーバーの顔がこちらを向いているのを見て、中西俊彦は目を逸らした。
「出てきたな」
 その声に弾かれるように、中西俊彦はアパートのほうを見た。佐々木室長から渡された写真と同じ顔が、アパートの階段を下りてくる。駐車場にとめてあったブルーの日産マーチに乗り込んだ。焼き肉店での待ち合わせ時間は、午後五時。今から向かえば充分に間に合うのだけれど、順調にことが進めば、彼は目的地に到着しない。
「俺たちも行くぞ」
 弟の車がアパートの駐車場から出てきた。その後を追うように、木村は車を走らせる。
 車は路地をぬけ、広い道路に出た。小雪がちらつく中、飲食店や小売店が並んでいる通りを進んでいく。休日の夕方、渋滞するほどではないが通行量はやや多い。
「ブレーキをちょっとイジっておいたんだが、たぶん、それだけじゃ奴は死なないだろうな」
 木村が呟くように言った。制限速度である五十キロ前後で、車はゆるい右カーブに差し掛かる。前方を走る車が次々にブレーキランプを灯し、車列が減速していく。カーブの先に赤信号が見える。中西俊彦が乗る車も、スピードを落とし停止しようとしている。
 なのに、前を走っているマーチだけは、ブレーキランプを灯しながらも全く減速しない。このままでは前に止まっている車に追突する。運転者もそう思ったからだろう、車は急に方向を変え、車道と歩道の間にある緑地に突っ込んだ。しかし、それでも車は止まらず、生垣を踏み潰すように走って電柱に追突した。
「昨日、奴の車を見てみたんだがな。旧型のわりに外観は傷んだところがあまりなかった。タイヤも変に減っている様子もない。雑に扱われていたり、乱暴な運転をしているふうではなかった。そういう相手を事故に見せかけて消すには、ブレーキに細工をしただけじゃ無理だ。ちゃんとした準備が必要になる」
 かなり派手な音を立ててマーチは止まった。ボディーについた傷や割れたライトが痛々しい。距離があったうえに車内にいた中西俊彦の耳にも、何か震えるようなものが届いて身を固くしてしまったが、車が止まったことには安堵していた。乗っている人も無事らしい。
 佐々木室長の弟を消す、その計画は失敗した。それを見届けた。
 そう思っていた中西俊彦に、木村が言った。
「面白くなるのは、これからだぜ」
 木村は上着のポケットから発信機のようなものを取り出した。
 そしてボタンを押した、瞬間、無残な姿になって止まっているマーチが、爆発した。
「金沢県誕生の前祝いだ、最高だろ!」
 マーチの車内が一瞬オレンジ色に変わったかと思うと、炎とともに窓ガラスが四方八方に飛び散った。車の下からも炎が上がった。あんな車の中から脱出する手品を、中西俊彦はテレビで見たことがあった。しかし、あの中にいるのは手品師じゃない。脱出するための種も仕掛けもない。
 中西俊彦は言葉を失ってしまった。思考が止まり、空白が脳裏を埋める。どこかから悲鳴や叫び声が、そして隣の運転席からは高笑いが聞こえてくる。
 前方の信号が青に変わった。止まっていた車列が動き出す。目の前でとんでもない出来事が起こっているのに、誰もどうすることもできず、信号機に従って、どの車もその場を離れていく。中西俊彦が乗るシルバーのカローラも、炎上するマーチを避けるように通り過ぎる。
「車を止めてくれ」
 中西俊彦は言った。運転する木村の肩をゆすりなが懇願し、止まるやいなや車を飛び出し、道路脇のフェンスにしがみついて、吐いた。近くの飲食店から流れてくる臭いが不快で、さらに吐いた。昼食をとってからずいぶん経つ。胃の中のものが消化されていたせいで、何も出てこなかったが、吐き気が収まるまでしばらく唸り声をあげ続けた。
 この後、報告がてら佐々木室長と焼き肉店で会うことになっているが、とてもそんな所に行く気分にはなれない。
「だったら、お前の分も、俺が食っておいてやるよ」
 木村に事情を説明して、一人で焼肉店に行ってもらうことにした。じゃあな、と去って行く木村は、ずいぶん上機嫌に見えた。こういう仕事が得意な人、中西俊彦は佐々木室長の言葉を思い出した。
 辺りはすっかり暗くなっていた。小雪もずっとちらついている。頬にあたる空気の冷たさに、中西俊彦は落ち着きを取り戻してきた。目に付いた自販機でミネラルウォーターを買おうとして、また吐き気に襲われ、それを堪えながら近くのコンビニに入り、ミネラルウォーターを買った。急いで店を出て、ゆっくりと胃の中に流し込む。
 店員が不審そうな顔でこちらを見ているのに気付いた。サイレンが近付いてくるのが聞こえる。野次馬らしい人たちとすれ違いながら、中西俊彦はどこに向かうともなく歩き出した。
 自分は、何故こんな仕事をしているのだろう……?
 中西俊彦が金沢市の職員になったのは、金沢が好きだったから、ではなかった。
 
 富山県の東部、海から山まで広い平地があり、その殆どが田んぼで埋められている町に中西俊彦は生まれた。国道沿いには民家や商業施設が点在しているが、そこを離れるととたんに寂しくなる。そんな土地だから、就職口も限られていた。それは将来までもが限られるという意味に等しい。
 町は企業団地を作り、大手メーカーの工場を誘致した。町に住む者にとって、いつしか名の知られた企業の工場に就職するのが成功の証しになった。田舎の狭い社会、同じ会社で働いていても、学歴の差が、立場の差として表れることも珍しくなかった。同級生だった幼馴染が上司と部下だったり、学生時代に先輩後輩だった者の上下関係が変わることもあった。そうして生まれる嘲りと嫉妬、そんな町に中西俊彦は自分の将来を見いだせないでいた。
 中西俊彦がまだ中学生だった頃のある日、父が近所の居酒屋に出かけ、なかなか帰ってこないことがあった。もう夜も遅いからと母に言われ、中西俊彦は父を迎えに行った。酔っ払いの下品な笑い声、他人に対する妬み、そんなものが小さな居酒屋の店内に渦巻いていて、その中に父はいた。
 家に帰りつくまでの間、中西俊彦はずっと嫌悪感に震えていた。酔っ払いを、父を、この町を、心の底から嫌った。高校を卒業したら、絶対に県外の大学に進学して、そこで就職する。この町には決して戻らない。家も何も、すべて弟に譲っていい。高校に入学する前から、中西俊彦はそう心に決めた。
 金沢には、高校の遠足で初めて訪れた。北陸の中では大都市のひとつなのに、忙しなさよりも落ち着きを感じた。街は華やかでありながら、歴史的な趣もある。その佇まいに惹かれた。何よりあの町のような淀んだ田舎臭さがない、その気持ちが中西俊彦を金沢大学に進学させ、金沢市の職員になることを選ばせた。その間、帰省したのは数えるほどしかなかった。
 妻を、生まれ故郷に連れて行ったことは一度もない。両親と弟に彼女を紹介したのも、結婚式を挙げたのも、金沢市内のホテルでだった。あんな町に大切な人を連れていくのは、汚されるようで忌避した。彼女も金沢出身ではなかったが、この街を気に入っている。
 そうしてこの地に根を下ろしたものの、大事なのは、未来に希望が持てない田舎町から抜け出すことであった。ここが金沢県であろうが、石川県であろうが、中西俊彦にとってどうでもよかった。
 市役所の職員になったのも、安定した生活をしたかったからだ。だが、建設課の仕事を通して、街を作ることに面白みを感じるようになった。もっと大きな仕事をしてみたい、手ごたえのある仕事をしてみたい。職場の飲み会で、酔って軽くなった口から、秘めていた気持ちがこぼれ出てしまった。だったらと、佐々木修平室長を紹介された。
 佐々木室長の指示で、いくつかの外郭団体にある総務部門を転々とした。そこは市の汚れ仕事をするところだと噂で聞いたことがあった。言わば必要悪。実際に異動して、それを実感した。まわりの自治体や県、国との駆け引き、腹の探り合い、諜報活動。こういう仕事を通して、酸いも甘いも噛み分ける。そうして行政の中枢を担う立場になっていく。そんなふうに中西俊彦は理解していた。
 しかし、誰かを手にかけたことは一度もない。
「パパ、おかえりぃ」
 中西俊彦は自宅に辿り着いていた。四月に小学校に入学する息子が、玄関まで出迎えてくれる。その顔を見て、急に現実感が戻ってきた。あの爆発現場から自宅までの道のりを、中西俊彦はまったく覚えていない。とにかく空腹なのと足がクタクタなせいで、玄関で靴を脱ぐやいなや座り込んでしまった。コートのポケットに入っていたミネラルウォーターのペットボトルが落ちて、廊下を転がった。
「おかえりなさい。休日出勤、お疲れ様」
 妻が、夕飯のにおいと一緒にキッチンから顔を出す。もう吐き気はなかったが、まだ食事をとる気分にはなれなかった。
「ただいま。先にお風呂に入っていいかな」
「なんだか疲れてるみたい。大丈夫?」
「ああ。夕飯、先に食べてていいよ」
 不安そうな顔をする妻と息子から逃れるように、中西俊彦は着替え、風呂場に向かった。
 まだ新築の香りが残る我が家。息子が生まれ、小学校に上がるまでには家を建てたかった。結婚して入居したアパートは、遊びたい盛りの子供には窮屈すぎる。まわりに気を遣いながら暮らす生活の中で、意識しないうちにストレスが積もっていく。一人暮らしなら、それを発散する方法も見付けることができるだろうが、所帯を持つとそうもいかない。
 中西俊彦にとって、家族を維持していくために我が家は必要だった。当然、そのための対価も必要になる。ローンを払い続けるためには、収入を閉ざすような選択はできない。
「パパ」
 風呂場のドアを閉めようとした中西俊彦に、息子が駆け寄ってきた。さっき廊下に落としたミネラルウォーターのペットボトルを、両手で握っていた。
「これ飲んで、元気出して」
 夜は九時までには布団に入る、ごはんは残さず食べる、好き嫌いをしてはいけない、パパやママの言うことはちゃんと聞く、保育園の友達とケンカしてはいけない、他人に迷惑をかけない、嘘をつかない……その他にも、息子に言い含めてきたことは数知れない。
 子供を躾けるのは親の義務、社会生活において常識は必要、そんな言い訳をしながら、そんな言い訳からすら目を背けながら、子供と向き合ってきた。
 しかし、佐々木室長のもとにいたら……もう、子供と向き合うことすら出来なくなってしまうのではないか。そんな不安が、中西俊彦の中に芽生えてくる。
「ありがとう。お風呂から上がったら、パパもご飯を食べるから」
 息子の差し出したペットボトルを受け取る。中西俊彦が微笑みかけると、息子もつられるように笑顔になり、ママー、と叫びながらダイニングのほうに駆けていく。
 異動を願い出よう。市の行政において、佐々木修平室長は大きな柱と言える存在であり、中西俊彦も憧れていた。でも、家族の顔を見ていたら、もう総務二課にはいられない。金沢県が間もなく誕生する。その忙しさの中で、異動を申し出るのは気が引けるが、このままでいたら自分自身が崩壊する。家族もいつか崩壊する。
 シャワーを浴びて体を洗い、湯船につかる。ペットボトルに残っていたミネラルウォーターを空にして、中西俊彦はようやく人心地ついた気がした。
 
 本田恵は、金沢駅前でずっと佐々木修次が来るのを待っていた。迎えの時間はとっくに過ぎている。何度か携帯電話にかけてみたが、全然つながらない。午後から小雪がちらついていて、路面の状態も良くない。知っている警察官に会ったらバツが悪いから、安全運転するようにしている。佐々木修次は言っていたが、他の車が起こした事故に巻き込まれないとも限らない。
 兄に紹介したい。
 プロポーズされ、それを承諾した時に、佐々木修次に言われた。心をくすぐられるような嬉しさが込み上げてきた。ずいぶん長いこと忘れていた感覚、人生でそう何度も沸いてくることはない感情に、本田恵は無意識に顔がほころんだ。
 あの時のことを思い出して、マフラーにうずまるように笑顔を浮かべた。まわりから変な人と思われないように、本田恵はマフラーを巻きなおした。
 コートのポケットから携帯電話を取り出してみるが、着信はない。待ち合わせの時間を、もう三十分以上過ぎている。佐々木修次にもう一度かけてみるが、やはりつながらない。カイロ代わりに自販機で買った缶コーヒーは、もう冷たくなってきている。
 どこからかサイレンが聞こえてきて、次第に大きくなってくる。その音が弾かれたように耳に突き刺さった瞬間、駅前の交差点に赤色灯をつけたパトカーが表れた。小雪で濡れた街に、赤い点滅が反射する。
 何事かと、人も車も動きを止めた。誰もがパトカーのほうを振り向くが、通り過ぎて見えなくなると、皆またもとの状態に戻っていく。ただ一人、不安を膨らませてたたずむ本田恵を残して。
 この間まで『石川県警察』とかかれていたパトカーの文字が『金沢県警察』に替わっていても、もう誰も話題にしなくなっていた。
 
 中西俊彦は、月曜日の朝一番で、異動したい旨を佐々木室長に伝えようと決心した。夜のテレビのニュースで、佐々木修次が交通事故で亡くなったと報じていたのを見て、その意思を固めた。先延ばしにしても、何のメリットもない。どう思われようと構わないと覚悟を決めた。
 しかし、いざ出勤してみると、佐々木修平はいなかった。弟の通夜のために欠勤していると聞いて、中西俊彦は拍子抜けしてしまったが、当然といえば当然だ。
 明日にしようか?
 そう思った中西俊彦だったが、面倒事を先延ばしにするな、と自分に活を入れる。
 通夜に行こう、そこで佐々木室長に伝える。場違いかもしれないし、拒否される可能性だってある。その時はその時だ、いざとなったら市役所を辞めて、別の仕事を探したっていい。そのくらいの気持ちでいないと、家族は守れない。
 終業時刻までに必死で仕事を終わらせ、中西俊彦は通夜に向かった。佐々木室長の実家が、定食屋を営んでいるのは知っていた。以前に寄ったこともあったから、場所は判っていた。定食屋には『臨時休業』の札が出ていた。その隣の住居に、鯨幕がはられ花輪が並んでいた。定食屋の駐車場に、中西俊彦は車を止めた。
 職場の誰もが、いつもと変わらず仕事をし、終業時刻を過ぎれば帰宅したり、残業したり、通夜に赴く気配すらなかった。もしかしたら、佐々木室長から何か聞かされているのかもしれない。
「わざわざ来てくれたのか。すまないな」
 佐々木室長とはすぐに会えた。実の弟が亡くなったというのに、悲しい素振りひとつ見せずにいることを、親類縁者は不思議に思わないのだろうか。それとも、室長の弟は身内から疎まれる存在だったのか。どこか腑に落ちないが、今はそんなことを気にしている場合じゃない。ここに来た目的を果たさないと。
「室長、ちょっといいですか?」
 通夜の参列者はあまり多くない。人が途切れたところを見計らって、中西俊彦は佐々木室長に声をかけた。
「何もできないが、茶でも飲んでいってくれ」
 他人の耳に入らないところで話したいと思っていた中西俊彦だったが、意外にも佐々木室長のほうから場を改めてくれた。隣りの定食屋の勝手口を入り、すすめられるままカウンターの内側の隅にある椅子に腰かけた。
「こんなところで悪いけど」
 昨日のうちに葬儀を済ませてしまいたかったんだが、急なことで葬儀屋の手配がつかなくてなぁ。余計なことに手間をかけていられないんだけど。佐々木室長は言いながら、ポットからお湯を急須に注いでいる。弟の死が、余計な手間とは……。
 あまり広くない店内には、喪服姿が何人かいて、世間話をしたり茶を飲んだりしている。ここは来客用に使っているらしい。
「あの、室長。こんな時に、何なんですけど……」
 中西俊彦は口を開いた。言いにくいことではあるが、言わないと先に進めない。何も考えずに、ただ言うべきことを言う。その行為にのみ今は集中する。そう自分に言い聞かせて中西俊彦が異動を願い出ようとすると、それより先に、佐々木室長が話し出した。
「土曜日は申し訳なかった。君の実直さに甘えていたところがあった。君の具合が良くないと木村君から聞いて、心配してたんだ。本当に悪いことをした」
 そう言って、佐々木室長は頭を下げた。意外な成り行きに戸惑いながらも、中西俊彦は少し気が軽くなり、異動の話をすんなり口にすることができた。
「君は、以前は建設課にいたんだったな。建設課も金沢県の誕生で忙しいらしいんだ。県名の表示もすべて書き換えなきゃいけないから、それだけでも大変だと建設課の課長が嘆いていたよ。君が建設課に戻れば、課長も喜ぶはずだ」
 中西俊彦は胸をなでおろした。とりあえず、ハードルを一つ越えた。異動は四月一日付になる、それまでの辛抱だ。
 そう思っていたが、明日から行って欲しいと佐々木室長は言う。
「人事部と建設課の課長には、俺から言っておくから。急な話になってしまうけど。それとも、君に何か予定があるのなら、それに合わせてもいいよ」
 いえ、明日からでも構いません。中西俊彦は承諾した。冷めないうちに、と促され湯飲みに手を伸ばす。都合よく話が進んだことと、いい具合にお茶がぬるくなっていたおかげで、中西俊彦は落ち着くことができた。佐々木室長に気付かれないようにそっと息を吐きながら、肩の力を抜く。
「ところで、ちょっと聞きたいんだが」
 湯飲みの半分ほどまでお茶を飲んだところで、佐々木室長が尋ねてきた。
「君の目から見て、木村君はどんな印象だった?」
 中西俊彦は、反射的に土曜日のことを思い出した。握った湯飲みの中に、爆発して炎が広がる様が浮かぶ。中西俊彦はそれを一気に喉に流し込み、ゆっくりと湯飲みを調理台の上に置いた。再び戻ってきた緊張を、意識して抑え込む。
「あの人は、木村という人は、ガサツな性格のようで、ちゃんとまわりを見ている人だと思います。ああいう事に慣れているみたいだし、用意周到って言うか、油断ならないと言うか……」
 まあ、そんなところです。中西俊彦は、曖昧に言葉を結んだ。あまり他人を悪く言うのは気が進まないし、土曜日のことは思い出したくない。だから、どうしても言葉が出てこなくなる。
 そうか、いろいろ苦労をかけたね。佐々木室長はそう言って立ち上がった。
「わざわざ弟のために来てくれて、ありがとう」
 中西俊彦もつられるように立ち上がり、いえ、と小さく会釈してその場を後にした。
 車に乗り込み、大きく息を吐いた。わざわざ場を改めて、他人の目がなさそうなところに連れていかれた理由に、中西俊彦は一人になってようやく気付いた。
 金沢県の誕生を日本政府がすんなり受け入れるかどうか、恐らく佐々木室長はまだ疑っている。だから、焼き肉店で会った木村から、何か情報を得られないかと考えていた。木村がどんな人間なのか探っていた。彼と接した唯一の者からも情報を得られないかと考えた。そのために、こちらの要望を先取りして、話しやすい雰囲気を作ろうとした。
 佐々木室長はたいした人だと、中西俊彦は改めて思った。自分はそこまで相手の腹を探れる人間にはなれない。建設課のほうが向いている。
 駐車場を出ようとすると、入れ違いに黒のクラウンが入ってきた。市長の公用車だとすぐに判った。佐々木室長の奥さんが市長の妹であることを、中西俊彦は思い出した。故人の両親は悲しんでいるようだったが、室長と奥さんは体裁を保つためにそこにいる、そんなふうに中西俊彦の目には映っていた。
 
 木村リョータは、小松空港に向かっていた。空港近くのレンタカー店に車を返すために。偽造した免許証を使って、金沢市内で借りるつもりでいたが、どこから足がつかないとも限らない。福井県で借りると、県外ナンバーになってしまう。それでは不自然だ。
 平凡を絵に描いたようなシルバーのカローラ、この車は実に良い。とにかく目立たない、誰も気に留めない、見向きもしない。だから、佐々木修平の家の近所をうろついても、不審に思う者はいなかったはず。
 ここのところずっと、リョータは佐々木修平を探っていた。彼を金沢の財政を支えている中心的人物ではないかと、ハセガワは睨んでいた。汚れ仕事が得意な者がいる、もし必要だったら使って欲しい。そんなエサまで撒いて、彼と接点を持とうとした。佐々木修平を、金沢の資金の出所を、どうにか探って欲しい。そうハセガワに頼まれた。
 弟を消す段取りをつける前から、佐々木修平の家を観察していたリョータは、いつも思っていた。まるで、新聞の折り込み広告に載っているモデルハウスのようだと。
 人が住んでいる家は、大なり小なり住人の生活感がにじみ出てくるものだ。新築だからと大事に扱っていても、徐々に住人の色に染まっていく。小さな子供がいれば、遊び道具が玄関先に置いてあったり、その子が成長するにしたがい、それが自転車に替わり、趣味の道具に替わっていったりする。年月が経てば朽ちる部分も出てくるし、リフォームには住人のニーズや流行が反映される。そうして家は変わっていく。
 なのに、佐々木家にはそんな生活感や住人の色が何もない。時間の経過を感じさせる部分もない。しっかり維持管理されているのに住む者がいない家、リョータにはそんなふうにしか見えなかった。確かに佐々木夫妻が住んでいるというのに。
 もし、意識的に住人の気配を、生活感を出さないようにしているのだとしたら……。
 佐々木修平は相当な食わせ者かもしれない、とリョータは思った。焼き肉店で会った彼は、朗らかでお喋り好きな、どこにでもいる中年オヤジだった。ビールを何杯か飲んで軽くなった口から、冗談交じりに仕事の愚痴をこぼすような、平凡なサラリーマンと言ったふうの男だった。金沢県の誕生も間近で、残業や休日出勤が増えたとボヤいていた。案外、それも作った人物像だったのかもしれない。
 一度は家に忍び込んでみるかと考えたリョータだったが、躊躇った末にやめた。家屋に入らずとも、敷地にすら一歩でも踏み込んだ日には、絶対にそれがバレる。そのために真っ新な状態を保っているのかもしないし、返り討ちにあう可能性だってないとは言えない。
「あの男には、ちょっかいを出さないほうがいい。もし出すんなら、アンタが自分でやるか、他の奴に頼んでくれ。俺は御免被る」
 ハセガワにはそう伝えた。文句でも言われるかと思ったが、ハセガワは納得しているようだった。そんな結果を、すでに予想していたということか。ハセガワの手のひらの上で転がされているようで面白くなかったが、所詮、自分は飼い犬でしかない。
 四月になれば、また日本を離れることになる。それまでの一週間ほどは骨休めでもしていてくれ。ハセガワにそう言われると、素直に休みを過ごす気になれないのが憎らしい。
 小松市から少し足を伸ばせば、福井県に入る。温泉街の近くにボートレース場があったはずだ。車を返したリョータが福井駅で尋ねてみると、年配の駅員から、芦原温泉とボートレース三国という名前が出てきた。交通手段を教えてもらい、電車に乗り込む。
 一発当ててやろう、なんて微塵も思っていなかった。ギャンブルは大儲けするより、パーッと散財するほうが気晴らしになるとことを、木村リョータは知っていた。
 
 やはり、思い切った手を使うしかない。
 金沢市内のホテルに滞在していたハセガワは、木村リョータから電話をもらった後、小松空港に向かうことにした。でも、木村リョータとは行き先が違う。
 ハセガワが向かうのは、航空自衛隊小松基地。民間の航空機と滑走路を共用しているため、空港と基地が隣接している。日本海側では唯一、戦闘機を配備している部隊がおり、領空侵犯機へのスクランブル発進も行っている。
 ここを舞台に一芝居打つ。
 白山市と野々市市が金沢県に入ることを表明した今、残る小松市と加賀市も、金沢県に加わるのは時間の問題だ。そうなれば石川県は廃止され、金沢県が誕生してしまう。もし金沢県の誕生を許してしまえば、まず名古屋や神戸が二匹目のドジョウを狙ってくるだろう。北海道や九州にも、金沢に倣おうと様子を窺っている自治体がある。新しい県の誕生を許す訳にはいかない。そうはっきりと示す必要がある。
 一方で、金沢の財源、金脈には捨てがたい魅力があるのも確かだ。もし無理なら、金沢県の誕生を阻止するほうを優先するように、と官房長官から言われていたが、それで幕を引いてしまっては面白くない。
 ホテルの正面にとまっている黒のクラウンに乗り込み、ハセガワは運転手に目的地までの時間を尋ねた。一時間もかかりません、そう答えが返ってきて、ハセガワは上着のポケットから携帯電話を取り出した。何人かの与党議員を介して、防衛大臣につながった。
「小松基地の司令と小松市長には、私から連絡しておく。上手くやってくれ」
 防衛大臣の言葉に、了解しました、と短く答えてハセガワは電話を切った。
 ハセガワを乗せた車は、国道8号線を西に向かい、金沢西インターチェンジから北陸自動車道にのった。しばらく経ち、小松インターチェンジから一般道におりたところで、ハセガワは再び上着のポケットから携帯電話を取り出した。かける相手は、前田真利子の伯父、前田利久雄。
「これから、姪御さんの立場が非常に悪くなります。しかし、それを回避する手段はあります。貴方から姪御さんに尋ねていただきたい、金沢の資金の出所を。もしそれが判れば、姪御さんの窮地を救うことができます」
「何をする気だ? 真利子の立場が悪くなるとは、どういうことだ?」
 前田利久雄が困惑するのも無理はない。藪から棒にそんなことを言われれば、誰だって狼狽する。
 以前にもハセガワは、同じことを前田利久雄に頼んだことがあった。去年の年末だったか。あの時は、前田利久雄もまだ事態をよく理解していなかったようだった。ただ姪の無茶を止めたい、その程度の気持ちしかなかったのだろう。それもハセガワの予測の範疇だった。
 でも今は状況が違う。金沢県が誕生する、それをメディアで見て、聞いて、前田利久雄も少しは切実さを持ったはずだ。
 そして、これから起こることを見れば、姪を本気で心配するに違いない。世間を騒がす一大事によって、前田真利子の立場が大きく変わってしまうのだから。
 彼女は再び、注目を浴びる存在になる。

 ↓(第五章につづく)


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