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誕生!? 金沢県 【第一章】

 一月二十六日、土曜日。
 佐々木修平は、石川県高等学校新人バスケットボール選手権大会が行われている輪島市立体育館に来ていた。さっきからずっと、目の前で行われている試合を見るとはなしに見ていた。まとまりに欠けるチームが目に付くのは、主力の三年生が二学期で引退したからだろう。一年生と二年生で行われる新人戦は、チームの選手層の差がはっきり出てしまう。
「悪いな、手伝いに来てもらって。顧問の先生が風邪をひいて、他に引率を頼める人もいないからさぁ」
 金沢東部高校の男子バスケットボール部監督、渡辺翔太はそう言ったが、表情を見る限り、申し訳なさなど微塵も感じられない。相変わらず癪に障る奴だと修平は思っていたが、ここで渡辺翔太とは仲違いする訳にはいかない。
 仕事の都合上、仕方がないんだから。
 四十代も後半、そのくらい割り切れるだろ。
 自分にそう言い聞かせて、修平は気持ちを抑えた。
「気にするな。俺もOBとして、東部高の試合には興味があったから」
 修平も口ではそう言いながら、そんな性格だから他に頼める人がいなくなったんじゃないのか、と心の中で呟いていた。
 館内では、四つのコートを使って第一試合が行われている。午前二試合、午後二試合が行われる予定だ。金沢東部高校の試合は、午前の第二試合目。始まるまで、まだ一時間ほどある。
「金沢県の話、ニュースで知った時には驚いたぞ。お前、忙しいんじゃないのか?」
「俺は下っ端だから、あんまり関係ないんだ」
 手前のコートで試合をしているチームが、スリーポイントシュートを決めた。その瞬間、応援していた観客席から歓声が上がる。おかげで、渡辺翔太が「下っ端」という言葉にあげた笑い声がかき消され、修平はイラつくこともく笑顔を崩さずに済んだ。
「選手たちは、まだマイクロバスの中か」
「ああ、ケータイでゲームしたり、音楽を聴いてる奴もいるし。呑気なものさ」
 呆れた表情をして、渡辺翔太は体育館を出ていった。修平もあとをついていく。近くの駐車場に、各学校の選手を乗せてきたマイクロバスが何台か止まっている。その中の一台に、金沢東部高校の男子バスケットボール部の部員が乗っていた。
 天気が良かったのは幸いだった。この時期なら、雪が積もるほど降っていてもおかしくない。晴天の下のバスの中は、まるでビニールハウスの中のように、暖房をつけなくても温かい。だからという訳ではないのだろうが、選手たちにはまったく緊張感がなかった。
「十時から試合だからな。ちゃんとウォーミングアップしておけよ」
 渡辺翔太の言葉に、選手たちは、うぃーす、と気のない返事を返すだけで、顔を上げようともしない。今日の試合に勝てば、明日の日曜日に行われる準決勝、決勝に進める。しかし、東部高は今年も一回戦で敗退しそうだ。
「石川県立より、金沢県立のほうが、なんかカッコいいよな」
 窓の外を眺めていた部員の一人が言った。隣に座っていた部員も、窓の外に目を移す。
 隣にとまっているマイクロバスに『石川県立河北高等学校バスケットボール部』とかかれていた。強豪校はマイクロバスも自前だ。弱小チームのようにレンタルじゃない。学校名がかかてれいるのは、一種の矜持と言えるかもしれない。
「来年度から、金沢県立に変わるのか。実感ないけど」
「俺、河北のバスケ部に中学の知ってる奴がいてさ。全国大会に言った時、よその県の選手に、石川県ってどこ? って訊かれるって言ってたな。金沢城があるところって言ったら、前田利家ってすぐ判るのにさ」
「金沢県立河北高校ってかいてあったほうが、絶対わかりやすいぞ」
 石川県、影うすーい。部員の一人がお道化てみせて、マイクロバスの車内が笑いで満ちた。
「まったく、どいつもこいつも……」
 頭を掻きながら、渡辺翔太はバスを降りた。監督としては歯がゆい思いをしているのだろうと思いながら、彼に気付かれないように修平も笑っていた。
 自分の持っているものを全て授けチームを強くしたい。渡辺翔太はそう思っているに違いない。
 彼はバスケが上手かった。明らかに他の選手より秀でたものがあった。本人もそれを自覚していた。だからまわりの者を、修平を見下していた。バスケは一人でプレーするものではない、ということを忘れて。
 
 佐々木修平が渡辺翔太と出会ったのは、東部高校バスケ部でだった。
 小学生の頃に読んだマンガの影響で、修平は中学に入学すると同時にバスケ部に入り、こうこうでも続けるつもりでいた。東部高校は、サッカー部こそ強豪として知られていたが、バスケ部の噂は聞いたことがなかった。インターハイには河北高校のバスケ部が出場常連校として知られていた。修平の学力なら河北高校に合格できたかもしれないが、もし河北高のバスケ部に修平が入っていたら、練習についていけず辞めていただろう。けれど、中学の時のような、負けてもみんな平気な顔をしているチームでいたくなかった。良い想い出を作って中学校を卒業した修平だったが、負けたら悔しい、勝ちたいという気持ちも、中学の三年間で強くなっていった。
 試合をするのであれば勝ちたい。そう思うのは渡辺翔太も同じだった。しかし、その手段は違っていた。修平は、選手の特性を活かすことでチーム全体を強くしようと考えた。渡辺翔太は、自分がチームを引っ張ることで勝利をつかもうとした。二人が三年生になり部の中心的な存在になった時、より多くの賛同を得られたのは修平のほうだった。自分を理解して長所を伸ばそうとしてくれる者がいたら、そちらに惹かれるのは当然だった。部活は学校教育の一つだからという理由で、顧問の先生も修平の考え方に沿った指導をした。それは、渡辺翔太の性格を判っていて、扱いにくい生徒だと顧問が思っていたからかもしれない。必然的に、修平が部長になった。
 渡辺翔太には、キャプテンという立場が与えられた。試合では要の選手であることに間違いはなかったし、誰もがそれを認めていた。弱小チームの顧問の先生だったから、技術的に教えることはなかったのだろう。それが渡辺翔太の独りよがりを日増しに助長させ、故に部員の皆が、キャプテンよりも自分の理解者である部長を慕った。その結果、キャプテンである渡辺翔太による、修平への嫌がらせが始まった。
 弱小チームである東部高バスケ部には、弱小チームに相応しいやり方があるはずだ。そして、そこは渡辺翔太のような技術力のある者が来るところではなかった。かと言って、渡辺翔太が強豪校でチームを引っ張っていく存在になるには、まだ努力が必要だったと言わざるを得ない。
 佐々木修平と渡辺翔太、二人が同じ高校に進路を決めたのは、バスケットボールではなく学力だった。学力が同等だったとしても、それが協調や調和を生む源にはならない。それを理解した修平は、夏休みを待たずに退部届を提出した。
 
「石川県だろうと、金沢県だろうと、ウチのチームには関係ないことですけどね」
 体操服の女子マネージャーが、そう言いながら荷物を持ってマイクロバスを降りていく。それをきっかけに他の部員も、おもむろに動き出す。試合の結果よりも、楽しい想い出を作ることを優先している部員たちが、女子マネージャーに尻を叩かれ練習している、そんな様子を修平はなんとなく想像していた。案外、それは大きく外れていないのかもしれないと、一回戦で敗退した試合を見ていて思った。相手チームとの実力の差は、そのまま点差に表れていた。
「三年生が引退して、一年と二年だけじゃなぁ」
 一人の部員が呟くと、皆が納得した素振りを見せる。それは他の学校も同じだとは、誰も言わない。
「松岡先輩、阪大を受けるらしいぜ。模試だとC判定だったのに、ダメでもともとで受けてみるって」
「ダメでもともとなら、ダメだろ。西脇先輩なんて、東大の文二がA判定なのに、東大卒だと嫌味になるからって、京大を受けるんだってさ。そっちの方が嫌味だよな」
「俺たちも、来年は受験生なんだぜ。他人事じゃないんだから」
 二年生の部員なのだろう。さっきまで試合をしていたことも、点差をつけられ負けたことも、まるで無かったように受験の話をしている。金沢東部高校は、県内では進学校として知られている。勉強のかたわら、息抜きのようなつもりで部活をしている生徒も少なくない。バスケットボール部もその一つと言えるだろう。
「監督、昼飯をおごって下さいよ」
 マイクロバスに乗り込んだ部員から、声が上がる。
「そういうことは、勝ってから言え」
 運転席に座った渡辺翔太が、振り向きもせず答え、乱暴な運転でマイクロバスを発進させる。昔も今も、ここはお前が来るところではなかったんだよ、と運転席の仏頂面を横目で見ながら、その斜め後ろの席に修平は小さくなって座っていた。
 学校に到着すると、部員の点呼と、部長、監督の短い挨拶があり、その後は解散となった。てんでに帰っていく部員たちを見送っている修平に、ちょっとお茶でも飲んでいかないか、と渡辺翔太が声をかけてきた。
「マイクロバスをレンタル会社に返さなくていいのか?」
「まだ時間はあるから、心配ないって」
 乗り気ではなさそうな素振りを見せた修平を、渡辺翔太が食いつき気味に引き留める。
 焦ってはいけない、と修平は気持ちを抑えた。魚釣りと同じだ。相手がしっかり食いつくまで待つ。でないと、会いたくもない奴の誘いに乗った意味がなくなってしまう。
 職員室の隅に、衝立で仕切られた応接室のようなところがある。テーブルを挟んで、ソファーが対に置かれている。その一つに修平はゆっくりと腰を下ろした。自分が在学していた頃、時おりここに呼び出されていた生徒がいた。それは、素行や学力に問題があった生徒ばかりで、向かい合っている教師の表情も、渋かった覚えがある。
 高校に通っていた三年間、修平がここに招かれることはなかったし、多くの生徒がそうだったはずだ。逆に、ここに呼び出された生徒は、話の内容を他人に聞かれたくはなかっただろう。ここにいるのを見られること自体、嫌っていたかもしれない。
「金沢県のことで、お金がかかって大変だって聞いたんだけど。そのわりに、金沢市の財政って余裕があるよな」
 ポットの湯を急須に注ぎながら、渡辺翔太は話し出した。
「金沢市って、能登地域の自治体と共同ファンドをやってるだろ。あれって、そんなに儲かるものなのか?」
 たどたどしい手付きで入れた茶を両手に持ち、一つを修平の前に置き、もう一つを口に運びながら渡辺翔太は向かいに座った。
「さあなぁ。言っただろ、俺は下っ端だから、難しいことには関わってないんだよ」
 小さく会釈して、修平も湯飲みに手を伸ばす。
 日本中、どこの自治体も財政的に余裕はない。だからと言って、指をくわえて待っていても、それが好転することもない。そこで、金沢市が音頭を取って、近隣の自治体と共同で資金を出し合い、それを運用する組合を設立した。
 景気が良かった頃なら、銀行に預金して得られた利息を歳入の一つにできたが、低金利の現在では得られるものなどたかが知れている。だったら、もっと積極的に資金を運用してはどうか、という発想から共同出資の組合が誕生した。もっとも、やっていることと言えば、国債や投資信託など、比較的リスクの低い金融商品の購入くらい。利率で言えば年利5%と言ったところだが、まとまった利益を得られるのは元手が大きいからで、個人で用意できる元金で同じ運用方法をとったとしても、たいした額は得られないだろう。
「もし何か知っているんなら、教えてくれよ。俺だって、役場の職員で一生を終わりたくないんだ。株式投資とか儲かるんなら、やってみたいんだよ。金沢市は財政的に潤ってるようだし、何か儲かるカラクリがあるんだろ?」
 徐々に荒くなっていく渡辺翔太の鼻息に、修平は辟易していた。
 豪邸を建て、高級車を乗り回し、クルーズ船で世界一周の旅をしてみたい。そんなことを言い出しそうな奴が入れたお茶が、出がらしなのは滑稽でしかない。いや、もしかしたら、誰かが淹れてそのままになっていた茶葉を、いつからあるのが判らないまま使ったのではないか。そう考えると修平は不安になり、湯飲みを口に運ぶのをためらってしまった。
「言ってるだろ、俺は下っ端だから関係ないんだって」
 修平を一瞥した渡辺翔太は、持っていた湯飲みを空にして、はぁー、と息を吐き、呆れた表情をして見せた。使えない奴、そんな言葉が今にも口から出てきそうだ。
 頃合いかな。修平はそう判断した。
「だったら、白山市も金沢県に入ってみればいいんじゃないか。そしたら、何か判るかもしれないぞ。市長は何か言ってないのか?」
 修平の言葉に、今度は渡辺翔太が、さあなぁ、と俯いた。
 石川県の真ん中あたりを、南から北に縦断するように白山市は存在している。渡辺翔太は、その市役所の職員である。彼が渋い反応を示した通り、白山市は金沢県について、現在あまり積極的に関わろうとはしていない。金沢市長・前田真利子も働きかけているが、どうも芳しい反応は返ってこない。過去に仲違いしたにもかかわらず、図々しくも声をかけてきた渡辺翔太の頼みを修平が受けたのは、彼を通して白山市の内情を探るためだ。
 金沢を県として独立させたい。前田真利子から初めて聞いた時、彼女が県知事となり、県名を変更するのかと修平は思った。しかし、よくよく話を聞いてみると、金沢市を中心に、他の市や町を取り込んで金沢県というものを作っていく、という構想だった。それはまるで、戦国時代の国盗り合戦のようなものを想像させた。金沢市が、他の自治体を篭絡して一つの国を作っていく、そんなイメージが修平の頭に浮かんだ。
 何故、そんな回りくどいことをするのか?
 修平は疑問に思ったが、彼女には彼女なりの考えがあるのだろう、と納得して尋ねることはしなかった。それに、彼女がそうしたいと言うのであれば、理屈抜きにその願いを叶えるだけだ。
「市役所のお偉いさんも、市議会の連中も、意見が割れているんだ。だから市長も頭を抱えていてな。お前んとこの市長は、財政的な支援を約束して金沢県に入るよう勧めてるらしいし、だったら入ったらいいんじゃないかって俺は思ってるけどさ。温泉やスキー場に向かう道路も傷んできているから、直して欲しいって要望はあるんだけど、お金がないんじゃなぁ」
 横柄で相手を見下しているところがある人間は、こちらが下手に出ていれば案外あっさり本音を話してくれる。余裕がそうさせるのではなく、相手に対して油断しているのだ。
「お前も知っての通り、今の白山市は、いくつかの町や村が集まって出来たんだ。平成の大合併ってヤツな。おかげでデカい市になったけど、もともとの町や村で力を持ってた連中が、金や利権の取り合いになっててな。そのせいで、なかなか意見がまとまらないんだわ。前田真利子がお金をくれるって言ったって、分け前をどうするかで揉めるし。そうかと思えば、女の持ってきた金になんかに手を付けられるか、って意地を張るジジイもいるし」
修平が疎い様子を見せると、渡辺翔太は頼みもしないのに、白山市に関することをいろいろと話してくれた。通っていたのは金沢市内の高校でも、渡辺翔太の自宅は白山市にある。生まれ育った土地だから、修平が知らない事情も、彼にとっては当たり前のことでしかない。
「そういや、お前は前田真利子と仲が良かったよな。もし会うことがあったら、財政支援を増額してくれないと話がまとまらない、って言っておいてくれよ。まぁ、それでも、まとまるかどうか判らんけどな」
「俺は下っ端だから、市長と会う機会なんてないんだって」
 土日は学校が休みなのに、職員室には何人か教員がいる。三年生を受け持っている教諭なのかもしれない。先週末に大学入学共通テストが行われた。それを皮切りに本格的に受験シーズンが幕を開ける。すでに推薦入試が始まっている大学もあるはず。頬を刺すような雰囲気が校舎内に漂っているのは、寒さのためだけではないのかもしれない。
 自分たちのやり取りをまわりに聞かれているのではないか、と修平は気になったが、在室している教員たちとは離れているし、パソコン作業や書き物をしているところを見ると、その心配はなさそうだった。
「白山市としては、金沢県に入ることを肯定的に捉えているんだよな?」
 改めて修平が尋ねると、それはまぁ、そうだな、と渡辺翔太は呟きうなだれた。
「もらえるものは、もらっておきたい。みんなそう思っているんだよ。特に役場の職員はな。財政的な厳しさを少しでも改善できるんなら、入ったほうがいいって思ってる奴が大勢だよ。でも、もらったものが他の地域より少なかったら、次の選挙で有権者にそっぽを向かれちまうから。そうなるくらいなら、話がまとまらなくて潰れたほうがいい、なんて言い出す奴までいるんだ、参るぜ……」
 大変だな、と修平は言い、それきり会話が途切れた。
 職員室のドアが開く音がした。制服を着た女子生徒が一人、大き目の封筒を持って入ってきて、向こうにいる教員と何か話している。入学願書の記入が間違っていないか、担任の先生に確認してもらっているようだ。
「お前、本当に共同ファンドについて、何も知らないのか? 知らないなら、誰か知ってる人を紹介してくれよ」
「だから、俺はそういうこととは無関係なんだって。それより、マイクロバスを返しにいかなくていいのか?」
 修平の言葉に、すっかり忘れてた、と渡辺翔太は立ち上がった。
「もし共同組合について知りたいんなら、金沢県に入るよう市議会議員たちを説得したほうがいいんじゃないか。そしたらお前も組合に出向して、運営に直接かかわることができるかもしれないぞ」
「頑固者の年寄りを相手に、ペコペコ頭を下げるなんてゴメンだぜ」
 渡辺翔太は苦笑いを浮かべ、職員室を出ていこうとして、修平のほうを振り返った。
「マイクロバスのレンタル料だって、市が出してくれてるんだろ。金沢市って、どんな金のなる木を持っているんだろうな」
 俺も見てみたいものだ。修平がそう言うと、本当に興味が尽きたと言わんばかりに冷めた表情を浮かべ、渡辺翔太は職員室を出て行った。
 テーブルに置かれたままの二つの湯飲みを、修平は隅にある小さな流しに置いた。職員室の窓から外を覗いていると、マイクロバスが校門を出ていくのが見えた。運転席に渡辺翔太が乗っているのを確認して、修平も職員室を後にした。
 
 校舎裏の駐車場にとめてある自分の車に乗り込み、佐々木修平は前田真利子に電話した。
「渡辺翔太から、白山市に関する話が聞けたよ」
「そう、何て言ってた?」
 それぞれの地域の有力者を、個別に篭絡していった方がいい。さっき聞いた事をかいつまんで話し、修平はそう告げた。
「お休みなのに、ありがとう。お疲れ様」
 修平が電話を切ろうとすると、真利子に呼び止められた。
「修平さん、これからウチに来ない? たいしたものは出せないけど、一緒にお夕飯をどうかしら?」
 その誘いに修平の心は揺れた。朝、能登の寒ブリをもらったから夕飯は腕を振るう、と妻が言っていた。だから、夕飯は自宅でとらないといけない。真利子は市議会議員になってから、実家を離れ市役所近くのマンションに住むようになった。市長になった今も変わらずそこで暮らしている。
「ごめん、真利ちゃん。今日はちょっと都合が悪いんだ」
 詫びとともに電話を切ったが、やはり心残りだった。でも、いつまでも口惜しんでばかりもいられない。修平は車を発進させた。
 結婚してから修平は、仕事以外で真利子と二人きりで会うことを避けていた。真利子からもそんな気配が感じられた。にもかかわらず真利子が誘ってきたのは、やはり不安だからだろうと修平は受け取った。二人だけで会うのは簡単だ。しかし、これから大仕事が待っている。そんな時期だからこそ、ケチがつきそうな言動は控えたほうがいい。
 校舎の裏から、横の通路を通って校門を出る。卒業式の日、真利子と最後に会ったのは、最後に言葉を交わしたのは、ここだった。そして、もう彼女と会うことはないだろうと修平は思っていた。自分は地元の国立大学へ、真利子は東京の大学へ、それぞれ違う道に進んだ。
 バスケットボール部を辞めた修平を気遣って、真利子は声を掛けてくれた。親しいというほどではなかったが、同じ中学から東部高に入った生徒が少なかったこともあって、入学した頃から、顔を合わせることがあれば何となく話をすることはあった。
 ただ、彼女は中学の頃とは変わった。その最たるものが成績だった。中学校では隣りに並ぶほど学力レベルが高かった二人だったが、進学校である東部高に入ってみれば、それも人並み程度のものだった。そこから真利子だけが抜け出した。修平が、渡辺翔太との確執に頭を悩ませているうちに。
 二年生になって、真利子は生徒会の仕事に関わるようになり、三年生になって生徒会長になった。
「もっと生徒が主体的になって、行事の運営をしていきたいの」
 そのために人材が必要になってくる。真利子に頼まれて、修平は何人かの生徒に声をかけた。バスケットボール部を辞めたとはいえ、渡辺翔太のやり方に反感を持っている部員はいた。彼らは修平に協力的だった。次第に学校全体の雰囲気が変わっていった。
 それまで生徒会長として壇上に立つ真利子を、修平は他の生徒とともに見ているだけだった。それが今では、彼女とともに新しい学校を作っている。そう思っていた修平だったが、それが自惚れだと学力の差が教えてくれた。二人の間には、はっきりと境界線があった。
 彼女が一生徒でしかなかったなら、何も意識しなかったのかもしれない。しかし修平にとって彼女は、他の女子生徒とは違う、特別な存在になっていた。
 真利子が東京の大学を受けると聞いて、受かって欲しいという気持ちと、落ちて地元の大学に進んでくれればという気持ちが、修平の中でいつもすれ違っていた。東大に合格したと聞いた時には、おめでとう、と心から言えなかった。好きな人の望みが叶えばいいと思いながら、それが自分と彼女を隔てていくことに苦悩した。彼女と同じ道を歩むことができない自分の力のなさを、修平はただ情けなく思っていた。
 あれから何年が経っただろう。
 今の修平にとって、それは昔のことでしかなくなっていた。
 彼女が望むのなら、自分は出来るだけのことをするだけだ。例えそれが、回りくどい方法だったとしても。
 金沢県を作りたい。
 真利子が話してくれた時、自分だけに打ち明けてくれた時、修平は覚悟を決めた。
 今度こそ、彼女と同じ道を歩むと。
 
「土曜日なのに、ご苦労様」
 高校時代の友人たちと出かけていた佐々木惠利子は、帰宅してすぐ、夫である修平に労いの言葉をかけたが、どこか冗談半分になってしまった。夫が午前中、馬の合わない相手と会う予定があることは、昨日から聞いていた。そのせいか、夫は疲れた表情のままリビングのソファに寝転がり、観る気もなさそうにテレビを眺めている。その姿が滑稽で、つい惠利子は茶化した口調になってしまった。
「お土産があるの。お夕飯の後に食べましょう」
 惠利子が店の名前がかかれている小さな紙袋を見せると、夫はソファから体を起こした。
 県立美術館の中にあるカフェは、金沢でも人気のスイーツ店だ。美術館という場所に合わせたからか、どの商品も彩り豊かで、細工が凝っている。眺めているだけでも楽しい。世界大会で優勝したこともあるパティシエが作る逸品は、夫の好物の一つでもある。
「ありがたいね。お昼を簡単に済ませたから、なおさら美味しく頂けるな」
 今日あったことを夫から聞かされ、惠利子はすぐに夕飯の支度に取りかかった。
「慌てなくていいよ。これも真利ちゃんのためなんだから」
「ありがとう。姉さんも喜ぶわ」
 君が礼を言うことでもないだろう、と夫は笑った。
 夫の修平が本当に愛しているのは自分じゃない。
 夫が本当に愛しているのは、姉の真利子だ。それを知っていて、惠利子は修平と結婚した。姉の真利子から紹介され、惠利子は自分から結婚を申し出た。それは、修平が自分と同じだと思ったから。姉の真利子を、修平も大事に思っていると確信したから。
「今日は楽しんで来られたかい?」
 夫に訊かれ、惠利子は大きく頷いた。
「私が姉さんに似ているって、今でもみんな言うのよ。最近、姉さんがテレビに出る機会が増えたせいで」
 惠利子が修平を初めて見たのは、高校に入学してしばらく経った頃だった。同じ中学校に通っていたから、もしかしたら初めてではないのかもしれないが、惠利子の目に映った彼は、全校集会で壇上に立つ姉を、憧れと絶望を宿した瞳で見つめていた。
 それは、まるで惠利子自身だった。
 姉の真利子に似ていると、子供の頃から惠利子はよく言われてきた。姉は成績が良かった。優しくて愛嬌もあり、人気があった。妹の惠利子にとっては自慢の姉だったし、自分の憧れでもあった。運動は恵理子のほうが得意だったが、それ以外はおしなべて姉のほうが優れていた。姉に追いつきたい、そう思って努力している間に、姉はさらに努力を積み、惠利子は姉との距離を縮めることができなかった。
 いつしか姉を見つめる惠利子の目には、憧れと同時に絶望が宿るようになっていった。それでも何かを諦め切れずにいた惠利子は、姉の背中を追って、金沢市の職員になることを選んだ。それほど姉は輝いて見えた。そして、再び佐々木修平を目にした。
 彼の瞳は、昔とは違っていた。強い輝きを宿していた。
「金沢県のことで、時の人みたいになってるからなぁ、真利ちゃんは」
「あなただって忙しいんでしょ。あんまり無理しないでね」
「俺は、真利ちゃんの仕事を手伝ってるだけだからさ」
 そう言いながらも、平日は修平の帰りがいつも遅いことを、惠利子は気にかけていた。
 姉さんは今、大きな夢を叶えようとしている。そのためにも、夫には頑張ってもらわないと。
 結婚を機に市の職員を辞めた惠利子は、夫の実家の定食屋を手伝うようになった。長男の嫁が店を手伝ってくれることを義父母はいたく喜び、惠利子に優しくしてくれる。二人の息子は、どちらもろくに包丁など握ったことがないとボヤき、将来は店を譲ってもいいとまで言ってくれるが、料理が好きな惠利子としては、経理など料理以外のことまで担う必要があると考えると、お店を引き継ぐ気にはなれずにいた。
 義父母が今朝とどけてくれた能登の寒ブリの切り身を、惠利子は冷蔵庫から出した。近江町市場に出入りしている知り合いの業者がわけてくれたのだと、義父が言っていた。寒ブリは富山県氷見市が有名だが、獲れる場所が違うだけで、ものに大きな違いはない。割高なブランドものより、地元産を美味しくいただくほうが、気分も高まる。
 ブリの切り身を、醤油、みりん、日本酒などで味付けした出汁で煮る。刻んだ梅干しと生姜を加えて弱火で煮込んでいると、酸味を含んだ湯気に、恵利子も食欲を抑えられなくなってくる。
「いいニオイだなぁ」
 惠利子が動き回るキッチンを、夫が覗き込んできた。
「つまみ食いしちゃダメよ」
 子供じゃないんだから、と夫が笑った。ブリと一緒に煮込んでいる大根をひとつ、小皿に乗せて惠利子が差し出すと、それを夫が口に放り込み、熱がりながら飲み込んで、旨い、と呟いた。
「修吾は、ちゃんと食べているかなぁ」
「大丈夫よ。大阪に行く前に、私がみっちり叩き込んだんだから」
 高校に入ってから演劇に興味を持つようになった息子の修吾は、芸術学部のある大阪の大学に通っている。姉の真利子には及ばないけれど、料理だけは自分のほうが勝っている、と惠利子は胸を張って言える。だから、息子の修吾が大阪の大学に行く前に、簡単に美味しく出来る料理レシピを書いたノートを渡し、実際に手ほどきした。以前に帰省した時に、修吾が食事の用意をしたことがあったが、包丁さばきといい、食材の扱いといい、惠利子が驚くほどに慣れたものだった。役者を目指すのはやめて、料理人を志したほうが良いのではないか、と先輩たちから言われていると苦笑する息子には悪いが、惠利子も同じことを言ってしまいそうになった。
「四月からは四年生か。卒業してからのことを、修吾はどう考えているんだろうなぁ」
 夫は、息子の将来を不安がっているところがある。修吾が舞台役者を目指したいと言った時、夫はあまり良い顔をしなかった。それでも望んだ進路を選べたのは、惠利子がそれを勧めたからだ。
 かつて惠利子も、進路に迷っていた時期があった。
 惠利子が高校一年生の時、三年生で生徒会長を務めてたことのある姉が、第一志望の東京大学、文科一類に合格した。担任教師はもちろんのこと、三年生を受け持っていた教師たちすべてが喜んだ。姉は華々しく、眩しい存在だった。その期待は二年後、惠利子にも向けられた。しかし惠利子は、姉ほど優秀な生徒ではなかった。
 姉と同じ大学を受けたい、という気持ちはあった。受かるかもしれない、けれど、もし受からなかったら……。惠利子は毎日、感情の境界線の上を心細いまま歩いていた。向こうに傾けば意欲的に勉強に励み、こっちに傾けば不安で何も手につかなくなる。自分自身の気持ちに振り回されるのが嫌になり、すべてを投げ出して、現実から逃げてしまいたいと思うこともしばしばあった。
 そんな時、姉の真利子に言われた。挑戦しないで後悔したことはある? と。
「小学生の頃、本当は野球をやりたかったんでしょ?」
 何を言い出すのかと最初は思ったが、姉の言うことは惠利子の心を揺すった。
「女の子が野球をやるなんて、みっともない。お姉ちゃんと同じピアノを習いなさいって母さんに言われて、仕方なく諦めたんでしょ。その後、私と一緒にピアノ教室に通ってたけど、恵利ちゃん、どれだけ上手くなっても、つまらなそうだったもの。コンクールで入賞して、父さんも母さんも恵利ちゃんを褒めてくれたけど、それでも嬉しそうじゃなかったわ。自分の希望と、まわりの期待との間で、恵利ちゃんはいつも迷っていて、きっと自分の希望を選ばなかったことを後悔しているんだって、私にはずっとそう見えていたの。違う?」
 図星だった。惠利子にも判っていた。望んでいたのに諦めてきたことが、今まで幾つあったことか。その後悔を、姉の背中を追うことで上書きしたつもりだったが、隠し切れていなかった。
「一年後二年後、もっと未来の恵利ちゃんは、今の自分を間違いなく後悔するわ。過去の自分の姿を思い出してみれば、それが判るでしょ?」
 本当に、姉は優しかった。態度も、表情も。しかし、その言葉に惠利子の心は羞恥にまみれた。次から次へと、自分の気持ちに背いた記憶がよみがえる。気が進まなかったクラス委員を断れなかったこと、吹奏楽部ではトロンボーンを吹きたかったのに先輩に譲ってしまったこと、両親から頼まれて父の知り合いのセールスマンから欲しくもない車を買ってしまったこと……。自分でも気付きたくなかったことに、姉は気付いていた。恥ずかしさに紅潮した顔を向けた先に、姉がいた。
 もし言ったのが姉でなかったら、惠利子はその言葉を受け入れることができなかったかもしれない。姉の顔が、未来の自分に思えた。今の自分に後悔している、未来の自分。
 姉と同じ道を歩もう、惠利子はそう決心した。そして、その望みを叶えた。そうして今、惠利子はここにいる。自分が望んだ姿で。後悔の埋め合わせのためじゃない、自分が拠り所とすべき道しるべとして姉の背中を追った、その結果として。
 だから息子にも後悔をさせたくない。修吾が望むなら、挑戦させてやりたい。惠利子のその気持ちが、夫を動かした。
「あの子は、私たちとは違うのよ。好きなことを、好きなように、やらせてあげればいいじゃない。分別のない子じゃないんだから、もし夢が叶わなかったとしても、その後のことだって、ちゃんと自分で決められるわ。もし定食屋を継いでくれたら、お義父さんもお義母さんも大喜びよ」
 恵利子の言葉に、それもそうか、と夫は苦笑した。
 休日は仕事らしいことは一切しない夫だが、平日は当たり前のように遅く帰ってくる。はっきりしたことは言わないが、金沢県のことに関わっているのは惠利子も勘付いていた。
 惠利子が修平との結婚を決心して、それを最初に話したのは姉の真利子だった。姉は喜んでくれた。そして修平が以前に、姉に想いを告げたことがあると聞かされた。姉がその好意を断ったことも。自分が断った好意を受けるのに、一番相応しいのは惠利子だと言ってくれた。
 前田真利子という存在によって、自分たちは結ばれている。
 夫もそう理解している、と惠利子は思っている。姉の夢の実現のために、夫を支えていきたい、それが自分の願いでもある。
 これから金沢県の誕生のため、夫は平日だけではなく、休日まで仕事に追われることになるかもしれない。今日のように。
「良一さんも、これから忙しくなるのかしら」
 リビングとつながるダイニングの椅子に腰かけ、テレビを眺めていた夫が、そうなるたへろうなぁ、と言いながら視線を惠利子のほうに向けた。
 石丸良一は、修吾より五つ年上の姉である奈緒子の夫だ。修平が管轄する部署の職員として働いているが、業務内容については二人とも惠利子には詳しい話をしてくれない。金沢県の誕生に深く関わっているらしいのだけれど。
「でも、まあ、金沢県が誕生するからと言って、良一君の仕事が、急に増える訳でもないからなぁ。彼は彼で、しっかり実績を上げてくれているし。俺は今まで通りの仕事ぶりでいいと思っているんだ」
 夫の言葉に、そうなの、と惠利子は答えるしかなかった。
 姉のために、自分が直接できることは何もない。夫を想い続けることしかできないのが、惠利子は時々もどかしくなる。訊きたいことは山ほどあるが、夫は話してくれないだろう。生まれた時から姉と一緒にいて、姉を慕うようになったきっかけを、惠利子が話さないままでいるように。
 寒ブリの煮込みが出来上がった。一緒に煮た大根とともに盛り付ける。鼻を突く香りが食欲を刺激し、焚けたご飯が心まで温かくしてくれる。夫と二人、向かい合って食べる夕飯は、幸せという言葉を体現しているようだ。この家が好きだし、笑顔があふれる食卓も好き。目の前にあるこの風景が、未来にもあり続けて欲しいと惠利子は願う。
 いつか、夫は話してくれる。そう信じて、今の幸福に心を満たそう。
 惠利子は、手を合わせてから箸を取った。
 
 月曜の朝。
 市民病院の職員用駐車場に車をとめ、寒さに身構えながら佐々木修平はドアを開けた。流れるように体を包み込んでくる冷気に体を強張らせながら、ドアを閉め施錠する。
 一月下旬の六時過ぎだと、外はまだ薄暗い。夏ならとっくに日が出ていて、近くの公園を散歩している高齢者や、犬を連れた人などを見かけるが、この時期はそれもない。街全体が凍っているように静かだ。
 職員証をスーツのポケットに入れ、修平は足早に通用口に向かった。首から下げていると医療関係者に間違えられ、ウチの爺さんの具合が悪いから診て欲しい、と近所の人に呼び止められたことがあった。それ以来、建物の外では、職員証を見える状態で身に付けるのを修平は控えている。病院の職員であるのは間違いないのだが。
 ICカードのおかげで、何も操作することなくロックが解除される。ドアを入り、警備員に挨拶する。早朝にも関わらず、すでに起きている入院患者がいる。たいていは高齢者だ。朝食の準備をしている気配もする。どこからともなく流れてくる湿気を含んだ温かい空気が、修平の冷えた頬をかすめていく。病院はとっくに動き始めている。いや、二十四時間眠らないと言ったほうが正確なのかもしれない。
 それらに背を向けて、修平は事務や経理のフロアに向かった。そこを抜け、途中、指紋認証と暗証番号を入力した。その奥にある部屋で、修平は総務二課の室長を担当している。
 金沢県を誕生させる。そのために必要な人選を、修平は任された。そして、選んだ職員を、市の本庁舎ではなく外郭団体に出向というかたちで異動させた。金沢県を作っていく中で、横槍が入ったり、重要な情報が漏れたり、どんな不都合が発生するか判ったものではない。だから金沢県の設立が本決まりになるまで、計画に直接かかわっている者を、行政とは無関係と思われる所に置いて、まわりの目を欺いておきたい。そのために存在するのが、市民病院の総務二課という部署である。もちろん、ここ以外にも同様の部署がいくつか存在する。
 そういう理由で職員を出向させたから、業務内容は勤務する施設のものとは違ってくる。修平が室長を務める市民病院の総務二課は、主に金沢市の財源を担っている。
 パソコンを起動して、修平は先週の収支を確認する。多少の増減はあるが、全体としては悪くない。この調子なら、新年度から金沢県を立ち上げても、多少の財政的な無理はきく。各職員の素行調査の報告も届いていた。特に問題はない。
 真利子からの連絡事項も確認する。修平が伝えたとおり、白山市は地域ごとに篭絡していくらしい。年寄りを相手にするのは面倒だろう。嫌な思いをすることだって出てくるはず。今までだってそうだったに違いない。真利子の心中を察すると、代わりに自分が頭を下げて回れたらと思ってしまうが、修平には修平のやるべき仕事がある。
「おはようございます、室長。今日はやけに早いですね」
 石丸良一だった。大学を卒業して金沢市の職員になった彼は、五年ほどずっとここで働いている。その間、病院の業務にかかわったことは一度もない。総務二課の職員はすべてそうだ。
「君のほうこそ、早いじゃないか」
 そう言った修平だったが、時計を見ると、もう七時半を過ぎていた。始業は八時だから、市の本庁舎の職員でも、この時間なら出勤している職員は少なくない。しばらくして、他の職員も出勤してきた。
 思ったより時間の経過が早いことに、修平は少し驚いた。年度末に向けて、もっと時間の経過が早く感じられるようになっていくのだろう。金沢県の誕生を、時間は待っていてくれない。
 世の中すべてがそうだ。チャンスは予期せずやってくる。それを逃すと、得られるものも得られない。人材も、利益も、将来も。
 渡辺翔太が知りたがっていた金沢市の財源。
 それは、言ってしまえば単純である。投資だ。他の市や町と共同出資している組合とは違う、さらなる積極的な運用を、金沢市が独自で行っている。株や日経225なども扱っているが、主に外国為替証拠金取引、いわゆるFXが収入の柱になっている。そのために修平は、石丸良一に白羽の矢を立てた。もっとも、彼にトレーダーとしての才能があるかと問われると、ない、と答えるだろう。
 修平が目を付けたのは、石丸良一の実直さである。その実直さを伸ばすために、修平をはじめ、まわりの職員は石丸良一よりも仕事ぶりが劣るふりをしている。石丸良一が作った自動売買のプログラムのおかげで、多くの利益を得ている、表面上はそうなっている。プログラマーとしての彼のセンスは優秀だから、投資家として実績のある者が導けば、おのずと結果はついてくる。石丸良一に悟られることなく、そうなるように促す。そうすることで、彼の実直さは堅牢なものになっていく。
「実直な人柄という才能を伸ばすことが、金沢県の発足のためにも、発展のためにも、最も大事なことだ」
 この部署を立ち上げた時、修平は皆にそう言った。石丸良一が職員として採用される前のことだ。
「彼のような人間を育てていくことが、金沢県の安定、発展につながる」
 それは裏を返せば、自治体の運営にはお金が必要だということを意味している。手ぶらで頭を下げたところで、政府もこちらに都合良く動いてくれない。それが現実であり、政治でもある。
 修平が石丸良一と出会ったのは、近隣の教育機関とのコネクションでだった。優秀な学生がいたら紹介して欲しい。大学の関係者と顔を合わせる機会があるたびに、修平はそう頼んでいた。学生向けの講演会を通して、何人かの若者と知り合った。その中に石丸良一もいた。金沢大学工学部・情報システム科の学生だった彼は、修平と出会った時、すでにFXの自動売買プログラムを、自分で作り上げる知識と技術を持っていた。投資の基本的な知識も身に付けていた。なのに、本気で投資家になろうとは思っていない、と彼は語った。デモトレード以外は、少額の元手で遊び半分でやっているだけだと。
「リスクがあるから、投資はやっぱり怖いですよ。低いリスクで大きな利益を得ることはできるけど、それだと元手も大きくしないといけない。年利20%くらいまでなら、理論上は大きなリスクを取らずに済みますし、元手が1000万円あれば、一年で200万円の利益が出ます。けど、僕が出せるのは、せいぜい100万円がいいとこ。それだと一年で20万円。バイトしたほうが確実に稼げますね。基本的に、僕は臆病者なので」
 そんな話をしながら、石丸良一は笑っていた。
「だったら、元手は俺が出すから、それを運用して利益を出してみないか?」
 修平はそう持ちかけてみた。石丸良一は、デモ口座で500万円の元手から、年平均100万円前後の利益を上げていた。彼が言っていた理屈と一致する。売買プログラムが安定しているということだ。もし元手が10倍の5000万円なら年平均1000万円の利益が、元手が1億円なら年平均2000万円の利益が得られる。
「それだけの利益が出れば、働かなくても余裕のある生活ができるはずだ。得られた利益を元手にプラスすれば、さらに大きな利益が得られる。マンションだって、スーパーカーだって買えるぞ」
 そう言う修平を、石丸良一はどこか嫌悪しているように見えた。僕はお金持ちになりたい訳じゃないんです。そんな言葉が、謙遜や建前を抜きに返ってきた。どこにでもいる俗物的な人間という枠にあてはめられるのを拒否するような、そんな表情とともに。
 すまない、悪気はないんだ。修平は気圧されて、反射的に詫びてしまった。
「だったら、プログラムを作る作業だけをやってみないか? それを使うかどうかは、すべてこちらで判断する。その結果についても、すべてこちらで負う」
 お金が必要みたいですね。石丸良一のその一言は、修平の核心をついていた。彼には、それなりの洞察力も備わっているようだ。年上を相手に、嫌味を言わずにはいられない譲れなさも。 
「ああ、その通りだよ。大切な人のために、その人の夢のために、お金が必要なんだ」
 彼は現実的、合理的、堅実なものの考え方をする。なのに、そんな自分を、自分の人生をつまらないとか退屈とか、そんなふうに思っているふうでもない。学校や会社では目立たないのに、それ以外の時間を充実させる何か、自分だけの秘めた何かを持っている。彼と何度か会い、話をして、修平の目に、石丸良一はそんなふうに映るようになっていった。
 修平が自分の思惑をちらつかせても、石丸良一はそれ以上、尋ねようとはしなかった。それは彼が、他人が秘めた何かに不用意に触れないことの表れなのかもしれないし、彼自身が秘めたものを不必要に他人に見せないことの表れかもしれない。
 ただ彼が、少し警戒しているように修平には見えた。
 それも当然だ。これは本来の就職活動とは違う。堅実な彼としては、躊躇するのも仕方がない。自分がスカウトされるに値する人間だと思ったこともないのだろう。本人が言うとおり、臆病だからというのもあるのかもしれない。
 自分が金沢市の職員であることは言ってあった。君を採用するために、公務員試験を受けて欲しい。修平は踏み込んだ話をしてみた。面倒事と嫌がられるかと思ったが、意外にも彼は納得してくれた。どこの自治体も財政難であることは、マスコミが折に触れ告げている。そんなふうに彼は受け取り、納得していた。それも間違いではない。
「僕は自分がやりたい仕事ができれば、それでいいんです。それが公務員であろうと、なかろうと」
 投資はリスクがあるから怖いと言いながら、なぜ石丸良一はFXの自動売買プログラムを作っているのか。その理由を修平は知らない。気にはなったが、それは訊いてはいけないことなのだろうと、ずっと問わないままでいる。それに触れようとすると彼は去ってしまいそうで、修平には憚られた。
 問う必要はない。彼のおかげで、金沢市の財政には余裕ができた。金沢県を誕生させるうえで、政府や関係省庁への働きかけにも利用できる。本来の目的は果たされているのだから、それで満足すべきじゃないか。石丸良一が、これからも実直に仕事をこなしてくれれば……。
 それでいい、と修平は思う……思っている。
 しかし、万が一にも間違いがあってはならない。今までの苦労が無に帰すことがないよう、微に入り細を穿つ必要がある。
「悪いけど、今日はこれから人と会わなきゃいけないんだ。後は頼むよ」
 午前八時の始業時間を過ぎ、皆、すでに仕事に取り掛かっている。修平の言葉にまで気が回らないらしく、誰からともなく、いってらっしゃい、と生返事が返ってくるだけだったが、それで構わないと修平は思っていた。石丸良一だけじゃない、他の職員の実直さにも感謝しながら。
 修平はホワイトボードに『直帰』と記し、職員の頭だけが並んで見える総務二課をあとにした。
 
正午を過ぎた。総務二課も昼休みに入る。
 昼食は皆それぞれだ。職場から離れて外食に出る者。弁当を持参してくる者。コンビニでサンドイッチやおにぎりを買ってくる者。各人の都合が反映されている。食べる場所もそうだ。
 石丸良一は、いつも病院内のレストランで昼食を取っている。建物の入り口近くにあるそこは、食堂というよりサロンのように明るく広々していて、あまり公立病院っぽくない。けれど、券売機で食券を買ってカウンターに持っていくスタイルは、一般的なファミリーレストランやファストフード店とは違い、どこか旧態依然とした公的な施設を思わせる。そのレトロさに惹かれて、石丸良一はつい通ってしまっている。
 今日はオムライスを選んだ。特別に凝った内容ではないが味は悪くないし、650円でオムライスに味噌汁とサラダが付くのだから、安いと言っていいだろう。子供の教育費のためにも節約するよう妻から言われている身にとって、値段もこの店を選ぶ主たる理由の一つになっている。
 ここは一般の人も利用できるが、いつも客の殆どは病院の職員か、外来患者と思われる人ばかり。だから客の中には、何度か目にした顔もいる。窓際の席で電話で話している若者も、その一人である。
 以前に見た時と同様、スーツ姿なのは病院の職員だからか。職場ではもっとも若い二十八歳の石丸良一から見ても、若いと思える顔立ちだった。そのわりに、いつもどこか冴えない印象が否めない。
 聞こえてくる内容から、知り合いと世間話をしているようだった。携帯電話で話しながら、食べかけのランチ定食を、食べるでもなく箸でつつき、時おり箸を置いてコーヒーをすする。中途半端な時間の使い方で、昼休みがつぶれることをいとわないらしい。
 そんな彼の姿を見ていて、過去に出会った何人かの顔が、石丸良一の頭に浮かんだ。レポートの提出期限が迫ると、誰かれ構わず助けを求める大学で同じゼミだった生徒。人当たりが良いだけで仕事を他人に押し付けたがる、やる気のないバイト先の同僚。その他にも思い浮ぶ顔のどれにも、良いイメージは付いてこない。そして、彼らのまわりには似たような者が集まっていた。
 人は社会の中で生きている。そこで安心を得るには、誰かとのつながりを得るのが手っ取り早い。コミュニケーションを尊ぶ声は、現代社会においては、山と積まれたワゴンセールの商品ほど存在する。それを間違っているとは思わない。ただ大量生産されたものは価値も下がる。
 多くの人は、自分より優れたものを持つ人を見習うことで、つながりを築こうとはしない。それは、自分より劣る者の至らない点を、笑顔で受け入れるほうが楽だから。そうして多くの人は仲間を得て、安寧を得て、そこから出ようとはしなくなる。その環境にあっさり適応して、順応して、それまで自分が努力によって積み重ねてきものを簡単に手放してしまう。 
 それを絆だとか、コミュニケーションだとか言うのなら、そんなものは要らないと石丸良一は思っている。
「さっさと企画書を出してくれ。午後の会議に間に合わないじゃないか」
 石丸良一がレストランを出ようとした時、スーツを着た中年男性が入ってきた。電話をしていた若者に怒鳴りつけんばかりの勢いで近寄る。愛想のいい言葉を矢継ぎ早に発して、若者はすぐに電話を切った。午前中に出してくれって言ってあっただろ、と言う中年男性の怒気をはらんだ言葉に蹴とばされるように立ち上がり、あまり手をつけていないランチ定食の乗ったトレーを急いでカウンターに返して、薄い笑顔を作って彼は店を出ていった。その後を追って、中年男性も店を出ていく。
 電話の相手も、きっとあんなふうなのだろう。
 白けた気分のまま店を出た石丸良一は、不意に背中に衝撃を受けた。とっさに振り向くと、マスクをつけた小さな女の子がいた。遅れて年配の女性が駆けてくる。
「どうもすみません。ミホちゃん、走っちゃだめでしょ」
 どうもすみません、と年配の女性はあらためて頭を下げ、女の子の手を引いて病院の受付に向かっていった。祖母と孫だろうか。風邪か何かで病院に来てみたが、女の子のほうはたいして具合も悪くなく、祖母とのお出かけが嬉しい様子。石丸良一が笑顔を向けると、女の子が手を振った。マスクの上から覗く目だけでも楽しげな表情が見えるようで、つい手を振り返してしまう。
 きっと皆、子供の頃はああだったのだ。心のままに無邪気に飛び回っていた。それが大人になるにつれ、徐々に広がっていく世界の中で、多くの人は自分を殺して、社会が認めた型に自分をはめ込もうとする。安心を得るために、身を守るために。石丸良一にだってそんな経験がなかった訳ではないし、今の自分自身が、型から抜け出せないでいるのを、もどかしく思ってしまうことだってある。
 病院のロビーの時計が、午後一時を指そうとしている。石丸良一はあわてて総務二課に向かった。
「今作ってるプログラム、いつごろ出来上がりそう?」
 午後の仕事を始めた石丸良一に、同僚が尋ねてきた。
「今週中には出来上がる予定です。メキシコペソにも対応できるように作ってます」
「自動車の電動化を考えると、今後はガソリンの需要も減っていくだろうからなぁ。メキシコペソは安いほうに動いていくかなぁ」
「だから、買いポジションを取る時には、スワップポイントもアテに出来るようなプログラムにしています。最近は、オーストラリアドルも金利が低いですから」
「石丸ちゃんは抜け目がないねぇ。もっとも、それも他の産油国の情勢次第だけど」
 石丸良一がFXに興味を持つようになったのは、たまたまインターネットで売買ソフトを知ったのがきっかけだった。外国の会社が作ったそれは、無料で利用できるのに、世界中の投資家が使っている秀逸なソフトだった。デモ口座を開設することで、世界各国の通貨の相場をリアルタイムで見ることができた。当時、まだ高校生だった石丸良一にとって、突然目の前に現れた世界はあまりに広すぎて、何もかもがチンプンカンプンだった。
 最初はただ、何となく値動きを見ていた。すると、何かの拍子に暴騰したり、暴落したり、不可解な動きをする。何故そうなるのか? 疑問に思い調べてみると、世界各国の政府や財務大臣、中央銀行総裁の発言や、経済指標の発表によって急激な値動きが起こるのだと判った。言い換えるなら、多くの人の思惑や感情、欲の表れだった。
 石丸良一はそれを嘲笑した。
 浅はかな多くの人間が感情的に行動し、その結果が値動きを決める。そんなものに影響されず、常に冷静でいれば負けない。
 そう思って始めたデモトレードで、石丸良一は惨敗した。現実に損益が出るわけではないデモトレードだと重々承知している。なのに売買を始めたとたん、常に心は何かに突かれるように揺れ動いていた。含み損が出たら出たで、これ以上のマイナスは嫌だと決済を急いでしまう。逆に含み益が出たら出たで、いつ減ってしまうのかと不安になり、決済を急いで利益を伸ばない。
 自分も、こんなものなのか……。
 焦燥しながらパソコンに向かっていた石丸良一の目に、『自動売買』という小さな文字が飛び込んできた。あらかじめ決めておいた条件が揃えば、自動で売買してくれる。これを使えば、感情に左右されることなく結果を出すことができる。次の日には、プログラムを作成するためのマニュアル本を買ってきて開いていた。自分で作ったプログラムに過去の値動きを当てはめて、利益が出るかどうかをテストした。
 こんなことに時間と手間を費やしている自分が、可笑しく思えた。投資家を志しているわけでもないのに、馬鹿げているとすら思った。なのに石丸良一は、地元にある金沢大学の工学部・情報システム科を第一志望の進学先に決めてしまった。
 世の中は、優秀な人が二割、残りの八割が普通の人。そんな話を聞いたことがある。
 自分は二割の中に入ることができるほど優秀ではない。でも、八割の凡庸な人でもいたくない。本当の自分は、多くの人と同じだと判っている。でも、自動売買という手段を手に入れて、自分は八割から脱することができたと石丸良一は思っている。
 とは言え、リスクが怖くてリアルな売買が出来ないという意味では、優秀な二割に入ることはできない。そこに入ることができるのは、佐々木修平室長や、彼が大切にしている前田真利子市長のような人だ。金沢を県として誕生させるなんて、八割の中にいたら発想すら沸いてこないだろう。
 プログラムの作成において、職場では中心的な存在になっているけれど、それはたぶん、二割と八割のボーダーラインの上にいるようなものだ。八割から脱することはできた、けれど二割に入ることが出来ない。
 もし二割に入りたいのなら、今まで通りのことをやっていてはダメだ。
 いつだったか、室長は言っていた。大切な人のために、その人の夢のために、お金が必要なんだと。それが前田真利子市長であることは、色恋に疎い石丸良一にも判る。
 室長が娘である佐々木奈緒子を紹介してくれた時、石丸良一は、二割の範疇に飛び込むいい機会だと思った。だから、彼女を妻とすることを迷わなかった。
「業務内容の特異上、職員の素行調査を実施することを事前に知らせておく。あくまで職務に関して問題のある行動はNGということであって、プライベートで何をしていようが咎めるつもりはない。それは安心してくれ」
 総務二課に配属になった時、室長からそう言われた。
「浮気だろうか、不倫だろうが、業務に支障のない範囲でなら好きにやっててくれ。まぁ、間違っても俺は、絶対に浮気なんか出来ないんだがな。市長の妹がカミさんだから、もし浮気なんてしてバレた日には、金沢に俺の居場所は無くなっちまうよ」
 新居を建てるにあたり、義父となった佐々木修平から書斎を作るよう勧められた。仕事関係の作業を自宅でする場合は、書斎でのみ行うようにと。さらに、その書斎に鍵をつけて欲しいと頼まれた。君は仕事のうえで重要な情報を扱っている。だからこの鍵は、絶対に誰にも渡さないように、とも。
 義父からの言いつけ通り、石丸良一は書斎の鍵を誰にも渡したことはない。それが秘密を守るために必要なことだという認識は、おそらく義父と一致している。
しかし、石丸良一にとってこの鍵は、自分が目指して越えるべき目標でもある。そういう意味では、義父と認識が違うのだけれど、それも守るべき秘密の一つだと石丸良一はずっと胸に秘めたままでいる。
 
 子供にはできるだけ教育の機会を与えてやりたい。そう思っている石丸奈緒子は、普段は弁当を作ってくるか、ファストフードなどで簡単に昼食を済ませている。夫婦とも市の職員で収入は安定しているが、節約するに越したことはない。
 でも、今日は父である佐々木修平がご馳走してくれるというので、迷わず市立美術館内にあるカフェのランチメニューを希望した。
 加賀野菜をつかった本格的なモダンフレンチを提供してくれるこの店は、金沢でも評判が高い。一面ガラス張りの店内は明るく、美術館のまわりには緑が広がり、季節ごとの風景を眺めながらのんびり食事を楽しむことができる。ランチなどの食事だけでなく、ケーキセットも充実しているから、美術館の展示を楽しんだ後に一息入れるのにも丁度いい。
 自腹を切らなくてもいいと判っている奈緒子だったが、遠慮して2200円のコースにした。ランチセットに、近江町市場から直送の魚料理がつく。普段の昼食を考えると、これで充分に贅沢だ。父は3000円の能登牛ステーキランチを選んだ。市の中枢をになう職に就く者と、美術館職員との立場の違いだなと奈緒子は思ってみたものの、父の肩にのしかかる責任と重圧をうまく想像できない。金沢を県として誕生させようなんて、戯言としか思えない。それをやろうとしている伯母の前田真利子市長。その片腕として父は働いている。
 犬の散歩をしている高齢の女性が、遊歩道を歩いている。芝生の上には、一緒に遊ぶ小さな子供と母親の笑顔がある。金沢県が誕生することを、多くの住民はどう思っているのだろう。少なくとも、その屋台骨を支える人物の一人が、こんなところで能登牛のステーキを頬張っているとは、誰も思うまい。
「良一君の様子はどうだい?」
 食事が一段落ついたところで、父が尋ねてきた。
「特におかしな所はないわ。これ、パソコンの中身のコピーね」
 奈緒子は、テーブルの上に置いたUSBメモリーを父の前に差し出した。いつも悪いね、と父は上着のポケットにそれを入れた。
 家を新築した時、父は、夫である石丸良一が仕事で使う書斎のドアに、鍵を取り付けさせた。夫はそれほど重要な仕事を担っているのだと思ったし、夫が上司である父に目を掛けてもらっていることは、結婚する前から判っていた。
 奈緒子も市の職員だが、勤め先は美術館だ。ずっと絵画に興味はあったけれど、美大を受験するほど本気で絵描きを志していた訳ではない。自分で描くよりも、鑑賞するほうが性に合っている。だから、今の職場は奈緒子にとって希望に叶っていた。同じ市の職員であっても、行政に関わる父や夫の仕事に関心はなかった。
 そんな奈緒子だったから、夫の書斎に鍵がつき、夫には内緒で父から合鍵を渡された時、父の思惑に乗せられて結婚してしまったのではないかと猜疑心を抱いた。
 誠実で将来性がある石丸良一は、結婚相手としては充分だった。しかし、父が彼との結婚をすすめた一番の理由は、夫の監視だった。
 それを知った瞬間、奈緒子は父に対して憎悪の感情が湧いた。
「同じ職場で働いているんだから、おかしな所があったら判るんじゃない?」
「職場では、あくまで上司と部下だから。義父と息子みたいな関係を持ち出さないようにしているんだよ。まわりから贔屓しているように思われたら、ちょっとね」
「市長の懐刀も、ご苦労なことで」
 真利子伯母様が、金沢県の誕生を模索している。その為には、財政的な基盤の強化が必要になる。夫である石丸良一を父が重用している理由を聞いて、奈緒子は父にからかわれているのかと思った。しかし、次第に父や夫の立場が変わっていくのを見て、冗談ではないらしいと奈緒子は悟っていった。
 伯母である前田真利子は、金沢市の市長であり、奈緒子は尊敬している。今まで何度も顔を合わせ、そのたびに凛としながら笑顔は優しく、品があり、立ち居振る舞いから垣間見える清楚な印象も、ずっと変わらなかった。人を惹きつける魅力を肌で知った。こんな女性になりたい、奈緒子はそう思い続けてきた。少女から女性になっていくにつれ、それが簡単に身に付くものではないことも知っていった。同じことを、伯母の妹である母も言っていた。
 その真利子伯母様が、とんでもない事をしでかそうとしている。
 その片棒を担いでみないか? 父が言っているのは、そういうことなのだ。夫には悪いが、奈緒子は好奇心が止められなかった。結婚したのは愛情からだ。それは夫も同じだろう。だが、こんな興奮までついてくるとは、さすがに思ってもみなかった。
 真利子伯母様のため、夫には頑張ってもらおう。少しの火遊びくらいは許してもいい。でも、資金運用を私的な欲のために優先して行うようなことがあったり、重要な情報を他人に漏らすようなことがあったら、私は絶対に許さない。
「で、金沢県は上手く生まれそう?」
「もう発表しちゃったからな。後には戻れんよ」
 何がなんでも、真利子伯母様には金沢県知事になってもらいたい。それは、奈緒子にとっても一つの夢であった。
「じゃあ、また連絡するから」
 腰を上げる父に、ご馳走様でした、と奈緒子は頭を下げた。
「判ってはいるだろうけど、良一君には絶対にバレないように頼むぞ」
「心配しないでったら」
 会うたびに、父の白髪が増えていく気がする。それは背負い込んだものが、心と体に重く伸し掛かっている表れに違いない。そんなことを思いながら奈緒子は、店を出ていく父の後ろ姿を見送った。
 父が本当に愛しているのは、母ではなく、真利子伯母様なのかもしれない。奈緒子はそう思っていた。それはきっと、母も判っているのかもしれないとも。
 両親は、真利子伯母様という太陽を中心に回る惑星のようなものだ。自分もその太陽に憧れ、触れようと願いながら叶わないでいる一人なのだ。テレビのニュースや新聞でその眩しい姿を目にするたび、奈緒子はそう自覚せずにはいられない。そして、その明るさに引き寄せられ、あるいは導かれ、その変わらぬ存在に魅せられている人は、自分だけではないはずだ。 
 そんな人たちのためにも、太陽が無くなるなんて絶対にあってはならない。
 自分のためにも。
 金沢のためにも。

 ↓(第二章につづく)


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