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使命に生きるならどんなことでもできます

[列王記 第二 23:15,16,17,18]

さらに彼は、ベテルにある祭壇と、イスラエルに罪を犯させたネバテの子ヤロブアムが造った高き所、すなわち、その祭壇も高き所も打ち壊し、さらに高き所を焼いて粉々に砕いて灰にし、アシェラ像も焼いた。ヨシヤが振り向くと、山の中に墓があるのが見えた。そこで彼は人を遣わしてその墓から骨を取り出し、それを祭壇の上で焼き、祭壇を汚れたものとした。かつて、神の人がこのことを預言して叫んだ主のことばのとおりであった。ヨシヤは言った。「あそこに見える石碑は何か。」すると、町の人々は彼に答えた。「ユダから出て来て、あなたがベテルの祭壇に対してされたこれらのことを預言した神の人の墓です。」王は言った。「そのままにしておけ。だれも彼の骨を移してはならない。」そこで人々は彼の骨を、サマリアから出て来たあの預言者の骨と一緒にそのままにしておいた。

今日の聖書箇所
II列王23:10〜20

今日も列王記から恵みをいただいていきたいと思います。

ヨシヤ王は南ユダからさらには北イスラエルまで徹底的に偶像崇拝を取り除き,混合宗教を根絶していきます。

ヨシヤ王はモレクに子どもを捧げるという人身御供を取り除き,また天体礼拝,天の万象を拝む偶像崇拝も取り除きます。さらにはイスラエルを最も繁栄させたソロモン,そして北イスラエルの建国の父であるヤロブアムが作った偶像まで取り除き,歴史の最初にさかのぼって偶像崇拝の根を取り除いていくのです。

[列王記 第二 23:10,11,12,13,14,15]

彼はベン・ヒノムの谷にあるトフェトを汚し、だれも、自分の息子や娘に火の中を通らせてモレクに献げることのないようにした。それから、ユダの王たちが太陽に献納した馬を、主の宮の入り口、前庭にある宦ネタン・メレクの部屋のそばから取り除き、太陽の車を火で焼いた。王は、ユダの王たちがアハズの屋上の部屋の上に造った祭壇と、マナセが主の宮の二つの庭に造った祭壇を、そこから外して打ち壊し、砕いた。そうして、その灰をキデロンの谷に投げ捨てた。王は、エルサレムの東、破壊の山の南にあった高き所を汚れたものとした。これは、イスラエルの王ソロモンが、シドン人の忌むべき女神アシュタロテ、モアブの忌むべき神ケモシュ、アンモン人の忌み嫌うべき神ミルコムのために築いたものであった。また、石の柱を打ち砕き、アシェラ像を切り倒し、その場所を人の骨で満たした。さらに彼は、ベテルにある祭壇と、イスラエルに罪を犯させたネバテの子ヤロブアムが造った高き所、すなわち、その祭壇も高き所も打ち壊し、さらに高き所を焼いて粉々に砕いて灰にし、アシェラ像も焼いた。

ヨシヤ王は驚くべきスピードで徹底的に改革を進めていくのです。南ユダ,北イスラエルに続いて偶像崇拝と混合宗教は既に何百年も続いており,それは国と民の生活の隅々にまで浸透していました。

日本で言えば盆に行われる先祖崇拝が人々の生活にすっかり染み付いてそれなしの生活を考えることができなくなっているのと同じです。しかしヨシヤはそのような偶像文化と混合宗教を根絶し,一掃していくのです。

そこにはもちろんヨシヤ王の主なる神に対する献身と改革に対する燃えるような熱情と揺るぎない意志があったのです。しかし人間がどんなに決心,決断したからと言ってそのような改革を成し遂げることができるわけではありません。

そこにはヨシヤ王の意志や情熱を遥かに超えた神の恵みの御手があったのです。実はこのようなヨシヤ王の改革を何百年も前に預言した預言者がいました。

[列王記 第一 13:1,2]

一人の神の人が、主の命令によってユダからベテルにやって来た。ちょうどそのとき、ヤロブアムは香をたくために祭壇のそばに立っていた。すると、この人は主の命令によって祭壇に向かい、これに呼びかけて言った。「祭壇よ、祭壇よ、主はこう言われる。『見よ、一人の男の子がダビデの家に生まれる。その名はヨシヤ。彼は、おまえの上で香をたく高き所の祭司たちを、いけにえとしておまえの上に献げ、人の骨がおまえの上で焼かれる。』」

ヨシヤ王が登場する約400年も前の預言です。ヨシヤ王がこれだけの改革を実現できたのは神に定められていた使命を果たしていたからだということが分かります。神が定められた使命を信仰によって果たすなら,神があらゆる恵みをもってそれを助け導いてくださるからです。

神は全能だから私たちはどんなことでもできると言われることがありますが,それは誤解を招きやすい言葉です。私たちにはそれぞれ定められた使命,召しと賜物があるのです。その使命を知り,その使命を信仰によって果たしていく時,神はその全能の力をもって不可能を可能にして助けてくださり,眠っていた賜物,可能性も最大限に引き出して用いてくださるのです。

私たち一人一人にもこの時代と置かれている場所での使命があります。私たち一人一人にも例外なくそれぞれ召しと賜物があるのです。それを祈りを通して教えていただき,それを信仰をもって果たしていくなら本来の私たちにはとても不可能だと思えることも成し遂げていくことができるのです。

主が与えてくださっている使命をしっかりと握り,その使命を祈りと信仰によって果たしていきたいと思います。その時,私たちを通して多くの人々が生かされていくことになるからです。

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