やがて逆転する時が来ます
[列王記 第二 10:15,16,17]
彼がそこを去って行くと、彼を迎えに来たレカブの子ヨナダブに出会った。エフーは彼にあいさつして言った。「あなたの心は、私の心があなたの心に対してそうであるように、真っ直ぐですか。」ヨナダブは、「そうです」と答えた。「そうなら、こちらに手を伸ばしなさい。」ヨナダブが手を差し出すと、エフーは彼を戦車の上に引き上げて、「私と一緒に来て、主に対する私の熱心さを見なさい」と言った。エフーは彼を自分の戦車に乗せて、サマリアに行った。エフーは、アハブに属する者でサマリアに残っていた者を皆殺しにし、その一族を根絶やしにした。主がエリヤにお告げになったことばのとおりであった。
今日の聖書箇所
II列王10:12〜27
今日も列王記から恵みをいただいていきたいと思います。
エフーは神の裁きを遂行するという使命を熱心に果たしていきます。
北イスラエルの首都であるサマリアでもアハブに属する者たちを根絶やしにしていきます。
またその途中で南ユダのアハズヤ王の親族と出会うのですが、その者たちまで根絶やしにしてしまうのですが、アハズヤ王の一族を滅ぼすことはエフーの語られた使命ではありませんでした。
[列王記 第二 10:13,14]
エフーはユダの王アハズヤの身内の者たちに出会った。彼が「おまえたちはだれか」と聞くと、彼らは、「私たちはアハズヤの身内の者です。王の子どもたちと、王母の子どもたちの安否を尋ねに下って来ました」と答えた。エフーが「彼らを生け捕りにせよ」と言ったので、人々は彼らを生け捕りにした。そして、ベテ・エケデの水溜め場で彼ら四十二人を殺し、一人も残さなかった。
エフーは熱心のあまり主に語られていないことまでしてしまっているのです。熱心であることは良いことなのですが、熱心さはこのように過激主義ともなってしまうので熱心であることと共に慎重さと知恵も祈り求めていかなければなりません。エフーのこのような行動は罪であると記録されています。
[ホセア書 1:4]
主は彼に言われた。「その子をイズレエルと名づけよ。しばらくすれば、わたしがイズレエルでの流血のゆえにエフーの家を罰し、イスラエルの家の王国を終わらせるからだ。
エフーは続けてバアル信者をその知恵を持って根絶やしにしていきます。その前にレカブのヨナダブがエフーを迎えに来たのでエフーはヨナダブを自分の戦車に乗せてバアル信者への裁きに向かうのです。
レカブ一族はバアル礼拝を拒み、遊牧生活を選んだ人たちでした。定住地も家もない遊牧生活はとても厳しい生活でした。この世での富や繁栄を捨てて信仰を守り通すことを決断してそのような生活をあえて選んだ人たちだったのです。
一方のバアル信者たちはアハブとイゼベルの保護のもとで豊かで安定していた生活を享受していたものと思われます。元々バアル宗教は豊作と多産というご利益を目的とした典型的なご利益宗教であったので、バアル信者たちは自分たちの繁栄をバアルのお陰だとますますバアルを崇めていたのではないかと思います。
しかしエフーが登場し、神の裁きが下されるとそのような状況は一変してしまうのです。主に忠誠を尽くしたレカブ人たちが王のそば近くでバアル信者たちへの裁きを見届けることになるのです。
レカブ人たちはこの世での繁栄を捨てて主に忠誠を尽くすことを選びその忠誠に報いが与えられることとなり、バアル信者たちはこの世での繁栄を追い求めて熱心に偶像を礼拝していたのですが、その全てを失って滅亡することとなってしまいました。
このように神の裁きの時が来る時に全ては逆転していくことになるのです。エフーによる裁きはやがて起こって来る世の終わりに下される最後の審判の予告編のようなものです。
この世の目に見えるものはどれほど華やかで美しく永遠に続くように見えても神の裁きの時が来るならば一瞬のうちに消えてなくなってしまうものだということです。
[ヨハネの黙示録 18:16,17,18,19]
「わざわいだ、わざわいだ、大きな都よ。亜麻布、紫布、緋色の布をまとい、金、宝石、真珠で身を飾っていたが、あれほどの富が、一瞬にして荒廃に帰してしまった。」また、すべての船長、その場所を航海するすべての者たち、水夫たち、海で働く者たちもみな、遠く離れて立ち、彼女が焼かれる煙を見て、「これほどの大きな都がほかにあっただろうか」と叫んだ。彼らは頭にちりをかぶり、泣き悲しんで叫んだ。「わざわいだ、わざわいだ、大きな都よ。海に船を持つ者たちはみな、ここでその繁栄から富を得ていたのに、その都が一瞬にして荒れ果ててしまうとは。」
しかしこの世のもの全てが消えてなくなっても永遠に失われないものがあるのです。それが信仰と希望と愛です。
[コリント人への手紙 第一 13:13]
こういうわけで、いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です。
私たちがこの世の目に見えるご利益を得ることを目的に信仰生活をしているなら信仰を最後まで保つことはできなくなります。悪魔の揺るがしによってイエスを信じても何も良いことはないとその信仰は挫折してしまうからです。
しかし永遠の御国での報いと冠を目的にして信仰生活をしているならあらゆる誘惑に打ち勝って信仰を守り通すことができ、神の裁きの時には王の王であるイエス様から栄光と誉れを与えられることになるのです。
それを本気で信じている者をクリスチャンと言うのです。あなたがイエスを信じていると言うなら何を目的にイエスを信じているかを考えてみることも必要ではないでしょうか?
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