働きまくった日々
序文
ぼくは大学生のとき就職を舐めていた。就職する意味を見いだせなかった。だから就職活動をしなかった(それはいづれ転職活動で仇になった。自業自得)。企業説明会にも行ったことがない。社会の歯車になり、毎日働き疲れて酒のんで愚痴言って人生終わるのはまっぴらごめんだと思っていた。卒業したら、アルバイトして好きな本読んで好きな音楽聞いて、すげぇ小説書いてお金もらうぞと考えていた(想いや計画も中途半端だった)。むちゃくちゃ偏ったお気楽道中まっしぐらな考えを持っていた。歯車になって初めて知ることがあるんだよと伝えたいけどもう遅い。タイムマシンあっても言いには行かない。その代わり、以下の無様な人間の記録ができました。ぼくにとっての働いて感じたことです。どうぞ、よろしくです!
大学を卒業してから、知的障害入所施設にて、支援員(正職員)として働き始めた。
大学では、地域活性化や観光についての勉強が主だったので、知的障害に関しての知識はほぼゼロ。選択の理由は、元恋人がその職場を教えてくれて、ホームページを見たら良い感じだったから。あとは直感(薦められてる時点で直感作動してねぇ)。自分にもできるんじゃないかという根拠なしの自信(情けないったりゃありゃしない)。
大学時代に付き合っていた恋人とは就職の件で、意見が合わず4回生になりすぐに別れた(約2 年強の付き合い)。悪いのは全てぼくだった。ぼくは恋人に、「就職しない!バイトして小説書く」 と宣言した。それを曲げなかった。恋人の気持ちをもっと聞き、僕自身選択肢の幅を広げるべきだったと、今なら思うが、そのときの自分なんて所詮器の小さな薄情頑固野郎だった。話は平行線を辿り、恋人は遠くの故郷に帰り、就職することになった。激しい諍いもなく、静かな別れだった。別れてからも時折連絡をとった。
ぼくは小説をひたすら書いたが、所詮中途半端な気持ちだった。文学賞を取って、作家デビューなんて都合のいいこと考えてた。本当に書きたいことが定まっていなかった。自分の殻に閉じこもって自慰行為さながらの小説を書いていたようなものだった。親にも就職しないことを告げた。何も言われなかったが、その日から気まずくなった。これから何のバイトをするとか、生活はどうするかとか考えず、宙ぶらりんな日々を過ごした。ただ、未来にビビってた。自分の可能性を過大評価していた。なんとかなるさの楽観性が行き過ぎてた。小説家を目指す自分にただ酔ってた。1人で藻掻いて勝手に迷路に入って彷徨ったようなもの。
そんなとき、元恋人からラインが来た。自身の就活の話(主に愚痴)だった。そのとき、或る職場を教えてもらった。というより、会話の中でサラッと聞いた。こんなところあるんだって!みたいなノリだった。その職場のホームページを確認すると、知的障害者の利用者が支援員と共に就労に取り組む様子や写真がたくさん載っていた。良い雰囲気を感じたり。根拠もなく、自分にもできるかもしれない、誰かの役に立ってみたいなど唐突に思い、親との気まずさにも耐えられず、これからの収入や生活のことまじめに考えて焦りだし、未来にビビってんなら今がんばれよバカと内側から声がして、面接に行くことにした。ぼくは単純だ。
元恋人が何を意図して話してくれたのか真意はわからない。雑談がしたかっただけなのか、憐れな人間に就活の何たるかを伝えたかったのか。何にせよ、感謝してる。もらってばかりだ。ぼくはその人と付き合ってるとき、何を与えてあげたんだろうと思うときがある。もっと気持ちを伝えて、まめにプレゼント渡して、喜ばせてあげたかったなと心底思う。戻れない日々なので、後悔や未練で終わらせず、この先の人生で、いや、今このときから活かしていくしかないと思った。
面接はうまくいき、就職は決まった。未経験者歓迎で、資格も特に必要なかったのが大きかった(が、後々苦労することになる。この世に容易い仕事はない)。4月から仕事が始まるが、それまでにいくつかのイベントにボランティアに参加した。
ぼくにとっては練習だった。今まで知的障害者の方々と接したことがないのだから。存在はもちろん知っているし、学校の授業で学んだこともある、街中で会ったこともある。ただ、密に接したことがまるでない。
初めて行ったボランティアは、一泊二日のイベントだった。入所施設にいる約100人の利用者が国立の宿泊施設(体育館があり、近くに高原がある自然豊かな場所)に泊まり、体育館でレクリエーションをしたり、高原を歩くという内容だった。大変なことになることはある程度予想していた。しかし、味わってみると、予想を遥かに超える大変さだった。大いに戸惑った。怒涛の時間だった。大した決意や志を持たずにこの仕事を選んだことを後悔した。
そのときのぼくは何も知らなかった。自閉症スペクトラム障害、アスペルガー症候群、ADHD 、LDなど、様々な発達障害があることを、そしてそれらが併存し、利用者によって独自の障害特性があることを。初めて利用者の方々と過ごす中で、利用者の行動言動が全く理解できず、理解しようとしても理解できなさすぎて、観察することに割り切った。それが、ぼくという支援員の始まりだった。知識ほぼゼロはリスキー過ぎたが、その分客観的に感じれた。が、感情は揺れに揺れた。日常生活で味わうことがないことばかりが起きた。突発的に感情を表現する利用者、他傷行為・物損行為に至る利用者、他にも予想だにしない出来事があった。もちろん、楽しいこともあった。利用者の純粋な眼差しや素直に出てくる言葉にほっこりした。一緒に高原を歩き、食事を楽しむ利用者の姿は活き活きしており、イベントを楽しんでいた。何にせよ、濃厚な初ボランティアだった。他にも、利用者に並走するかたちで、マラソン大会に出場するボランティアにも参加した。一緒に汗だくで走った。
4月に無事入職した。この入所施設は利用者約100名が入所しており、フロアが6つあった。ぼくが、初めて所属するフロアは利用者20名が住むところだった。そこで担当利用者4〜5名を持ち、夜勤をして、フロア運営に取り組んだ。日中は利用者の作業(外作業と室内作業)の支援に当たった。
歓喜と怒涛の日々が始まった。まず、所属するフロアの利用者の名前を覚えないといけない。そして、いづれ全入所利用者の名前も覚えないといけない。1番大切なのは、それぞれの利用者と信頼関係を築くことだ。言うのは簡単だ。それが1番難しく時間がかかることも承知の上だった。
ボランティアで、利用者と接したものの経験はまだまだ。手探りの日々が続いた。日中は、利用者と共に農作業に励んだ。他様々な仕事を覚えていった。食事介助、入浴介助、汚物処理、利用者間トラブルの対応、ヒヤリハットシート提出(トラブルの内容、今後の対策を記録する用紙)、にやりほっとシート提出(利用者とのほっこりしたエピソードや感動したエピソードを記録する用紙)、利用者の活動の記録の打ち込み、個別支援計画の作成。順番に書いたが、どれもこれも、慣れるのに相当時間を要した。頭が何度もパンクしそうになった。上記の業務を行なった上で、利用者との時間を過ごし、ひとりひとりの利用者の性格や趣味や障害特性を知っていった。利用者それぞれの生育歴ファイルがあり、スキマ時間に読みこんだ。
難関だったのは夜勤業務だった。3回目までは先輩職員と一緒に、業務内容を教えてもらいながら夜勤をした。そこまで問題はなかった。問題は、初めて1人で夜勤をしたときだった。
利用者たちにとって、ぼくは新人だ。まだ頼りない新人と、利用者たちもまだどう接したらいいのかわからない。利用者たちも手探りなわけだ。或る利用者は突然泣き出したり、或る利用者は寝られずフロアを徘徊し続けたり、或る利用者はトラブルをわざと起こしてぼくの対応や反応を試したりとてんやわんやだった。利用者それぞれをまだ知り尽くしていないぼくは戸惑いつつ、徐々に利用者たちのことを知っていく。利用者の突発的な問題行動や過激な言動にはほぼ全て、理由があり、そこに気づくのが支援員だと、先輩職員から聞いた時は目から鱗だった。夜勤をする中で、利用者それぞれのライフスタイルを知った。それぞれの障害特性を理解したうえで、こちらから接することもできるようになったいった。
利用者によっては発語がない方や発語はあるが文章にならない方もいた。そんな中でもコミュニケーションをとることはできた。その利用者がぼくに身振りや声で何かを伝えようとしているが、最初はもちろんわからない。過ごす時間を重ねていくと、どんどんわかっていった。わかりたい!という気持ちが前提にあった。利用者の表情や目の動きが如実に要求を語っていた。利用者によっては指を指して教えてくれたりもした。夜勤をする中で、利用者との信頼関係を少しずつ築いていった。
イベントの際の利用者の楽しみっぷりは見ていて爽快だ。
野外音楽イベント(職員バンド演奏)では、屋外の芝生の広場で歌い踊りはっちゃけ、車椅子の利用者は鳴子を鳴らし良い表情で過ごし、職員バンドもノリノリ。
夏祭りになると、利用者は支援員と一緒に屋台を周り、飲食を存分に楽しむ(食べ過ぎる方には細心の注意が払われた)、盆踊りやソーラン節に大勢が参加して盛り上がり、市販の打ち上げ花火を職員がステージでどんどん上げていく。
旅行企画もあり、県外に観光に行き、ホテルで一泊する。普段見れない景色に、普段食べられない絶品グルメに、利用者の表情は笑顔で満ち満ちている。
やっぱり生活には楽しみがないといけないんだと思った。利用者は入所施設にいると、どうしても閉鎖的になってしまう。基本的に毎日、同じ流れだ。利用者それぞれで楽しみを盛ってる人もいる。主にテレビだ。音楽を聴く人もいるし、雑誌をみる日ともいる。どれも他者を介さない。1人で楽しめる。フロアにあるテレビをみんなで盛り上がるケースもあるが。
夏祭りや旅行はみんなでわいわいできる楽しみだ。そういったビッグイベントがあることで楽しみが増えて、日々の生活をする中での気持ちが潤うと思う。ただ、利用者によっては1人の時間を好む方もいるので、その方には、その方のニーズに答える必要がある。
この仕事をしていて本当に思ったのは、知的障害者とか健常者とかないよってこと、生きていて好きな人がいて好きなことがあって、楽しみをもって日々働いて風呂入って食べて疲れて眠る。一緒だよ。ただし、知的障害者の方々はどうしても自身で生活を管理できないケースがある。だから入所施設があるんだと思う。そこで円滑に人生を謳歌していただく。その円滑さ(身体的なサポート、コミュニケーション面でのサポート、親代り的な存在として見守る)を整えるのが支援員だと思う。あとは一緒。生きていて好きな人がいて好きなことがあって、楽しみをもって日々働いて風呂入って食べて疲れて眠る。まず、知的障害者という呼び名をなんとかできないものか。時代は進んでるのに、この呼び名は変わらない。おかしいよ。害なんていう否定的な言葉が入り、普通に使われていることに違和感がある。どうしても、「知的障害者を支援員が支援する」っていう文章には、支援員の優位性が目立つけど、それは違う。むしろ支援されてるのは支援員。たくさんのことに気付かされるのは学びを得るのは支援員の方だ。利用者の生活を円滑にする支援員とそこから仕事の賃金や学びを得る支援員。だから、両者はイコールの関係だ。不等号は必要ない。
年数が経つ毎に、支援員としてのやり甲斐を感じ、利用者との関係性もできつつあった。施設の入所利用者の名前を全員把握し、それぞれの障害特性を理解していった。所属フロアが何度か変わった。その度に、戸惑い、なんとか利用者と向き合い、新たな関係性を作っていった。日々はどんどん過ぎていった。それに平行して、任される仕事も増えていった。残業が増え始めた。勤務内でなかなか仕事が終わらなくなった。夜勤の退勤時間が押すようになった。
現場での歓喜と怒涛の日々の中、事務作業やイベント企画の仕事もある。夜勤中に眠い目擦ってパソコンに向かい、企画書作りや利用者の記録打ち込みや個別支援計画(定期的に作成する利用者の具体的な支援方法)作成をおこなう。それらの事務作業は夜勤でないとできなかった。日中は作業現場で利用者の支援にあたり、作業が終われば入浴介助、そのまま食事把握、歯磨き支援となる。夜勤の真夜中は事務作業のゴールデンタイムということだ。3年目までは、ゴールデンタイムで事務作業を完結できた。夜勤が月に6〜7回あったので、その6〜7 回の真夜中は事務作業に充てられた。4年目あたりから、ゴールデンタイムでは事務作業が終わらなくなってきた。そうなると、夜勤明けでちょこちょこ残業して行うようになった。それが失敗だった。上司に相談して、日中作業を抜けて行うべきだった。自分で、自分を勝手に追い込んでしまっていた。
ぼくは仕事を別の職員に任せることにした。抱えきれなくなっていた。最初からそうしたらよかったと思う。なにかととろいやつだ。6年目になると1つのフロアのリーダーを任せられるようになった。そこでも仕事を所属職員に、無理なく振れるだけ振った。自分1人で抱え込む必要ないなと思った。
リーダーを任されたフロアでも、最初は手探りの日々だった。フロアによって全く色が違う。リーダーを任されたフロアは、10人で人数は少なかったが、全員着替えや歯磨きや洗体ができず、職員の支援が必要だった。発語のない方がほとんどで、転倒してしまう利用者もおられ、見守りが重要なポイントだった。また、トイレ問題も深刻で、なぜ廊下に、部屋の床に、アレがあるのか!?なんてこともザラだった。徐々に慣れていった。と同時に自分の中の何かがすり減っていた。これは仕事だと割り切って取り組んで来たが、事務作業の多さからくるストレスと現場での突発的トラブルに辟易している自分がいた。感情労働なのは分かっている。自身でコントロールして、利用者に心から接したいが、内面の暗さを抑え、無理に笑顔を作ることが増えた。実際それでなんとかなった。
こんな最中にコロナ禍を迎えた。世の中にある普通が変わった。入所施設の普通も変わった。コロナ感染を防ぐため、利用者の最大の楽しみである帰省がなくなり、イベントの規模は縮小し、食堂のテーブルには飛沫感染を防ぐパーテーションが置かれた。実際、何度も施設からコロナ感染者が出た。そのたび、利用者はフロアから出られず、職員も同様にフロアで過ごした。環境の変化に戸惑う利用者は後を絶たなかった。今まであったものがないのだ、しかも理由が理解できないのだから。苦しいに決まっている。利用者によってはコロナを理解されている方もいたが、ほとんどの利用者は理解できていなかったと思う。
その中で、職員は利用者にとっての楽しみを作っていった。YouTubeの活用や、イベントをフロア入れ替え制で行うなど工夫して行ったりした。外出もできないので、利用者が食べたいものをテイクアウトで取り寄せることも行なっていた。状況によっては利用者の帰省ができた日もあったし、作業がみんなでできた日もあった。が、コロナ感染者が出てしまうと、状況が変わってしまうといった流れが常だった。職員にもコロナ感染者が出た。ぼくも感染したことがある。感染している利用者がフロアに多くいる中で、支援に当たっていて感染した。防護服やフェイスシールドは付けていたがダメだった。慌ただしい日々だった。イベント企画では、例年行っているイベントをコロナ感染対応バージョンに変えることで四苦八苦した。コロナが5類になるあたりまで、閉鎖的な対応が取られた。
コロナが5類になると、利用者の生活リズムも戻りつつあった。今まであったものが戻ってきた。定期的な帰省、普段通りのイベント開催、全員での作業。ぼくは利用者の笑顔が増えていくことに喜びを感じた。働いていてよかったと思った。
その一方で疲れ果ててもいた。良い意味で言うなら、この仕事はぼくにとって、仕事ではなく使命に捉えられた。悪い意味で言うなら、この仕事を惰性で続けているようにも捉えられた。その狭間で揺れた。働いていて目標がなくなっていた。福祉系の資格を取る意思もなく、利用者支援においても新たな発想ではなく、過去の事例からの使い回しを多用した。フロアリーダーの責任は感じていたが、安全な道を選び、革新的なものを、新しい風を巻き起こす気持ちが皆無だった。働いてきた年数を重ね、妙に器用になっていく自分を自覚した。やらなければいけないことを確実にこなし、上司から言われたことに的確に答える。これで、毎月給料が貰える。ありがたい。けど、その姿勢で生きてて楽しいのか。と思った。
この仕事を若さと勢いでしてきたのかもしれない。全く知らない世界で手探りで働き、たくさんのことを得た。それらは本当にかけがえのないものだ。貴重すぎる。この仕事で出会えた利用者・職員には感謝の気持ちしかない。今も働いているが、転職を考えているのが現実だ。新たな道を行きたいと燃えている。この世に容易い仕事はないけれど、やってみたい!に則り挑みたい。汗かいて働いて風呂入ってうまい飯食って大切な人と笑い合いたい。これからは働きまくらない。程良く力を抜き、働きまくる。
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