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エッセイ「鉄道員の子育て日記 ⑧給料日」

 子供も小学校に入学する頃になると、自然とお金に興味を持ち始める。実家に帰省したときに、祖父母からもらう正月のお年玉やお小遣いを心待ちにし、自分の貯金が「いくらになった」と自慢げに話すようになる。他人からは、いっぱい貰いたいと思う反面、本人は守銭奴と化し自分のお金は使いたがらない。自分たちもそうであったように、みんなお金が好きである。

 今日は給料日。我が社の場合、正確にいうと約五日前の給与明細の配布日。最近は、文明の発達により現金で給与が支払われることは多くの会社で無くなった。我が輩たちは入社して以来ずっとそうである。明細は入社当時は一枚の長い緑色の帳票の様であったが、最近では、葉書タイプのものに変わり、うすく糊付された用紙を開いて、中を見るようになった。毎月、大して金額が変わるはずは当然ないのだが、超勤が少し多かったり、引かれ物が少なかったりして手取りが多いと、やはり嬉しい気持ちになる。せっかくクジのようにめくるのだから、たまには「当たり」とか「ハズレ」とか中に書いてあって、当たると副賞がもらえるようなユーモアがあっても面白いと思うが、給料日はサラリーマンの一番のイベントであることに間違いない。
 
 そのために我が輩はポリシーとして、原則として明細をめくらずに家に持ち帰り、かみさんに開けさせるということにしている。職場には、いまだかつて給与明細など奥様に渡したことがないという大物の先輩が数名いらっしゃるが、我が輩はそこまで肝が太くない。給料の渡し方は各家庭で様々であり、そこで多くのドラマが存在するのである。

 我が輩の頭にも、まだ小さい頃に親父が給与を家に持ち帰った時の光景が残っている。

 当時、国鉄に勤めていた親父は表紙に明細が印刷された「給与袋」というものを持ち帰っていた。記憶もあまり確かではないが、色の薄い茶封筒であったと思う。毎月、見たという訳ではないが、親父は家に帰ると、着替えもしないうちにカバンから給与袋をおもむろに取り出し、おふくろに手渡していた。もしかすると、子供だった我が輩の目の前でわざと渡していたのかもしれない。
 封がすでに開いていたかどうかも定かではないが、袋の中には聖徳太子や伊藤博文が描かれた当時のお札がたくさん入っていた。子供心にも、分厚いお金の束を見ると嬉しかった。さらに年に二度のボーナスになると、額も増し、親父の大きさをその厚みで感じていた。そして後日、家族で近くの焼肉屋に行くのである。酒の飲めない親父でもあり、外食する機会は少なかったが外で食べる焼肉はとても美味しかった。



 さて、時は流れて現代の我が家。ハガキになった明細を携え、家に戻る前に少しだけ作戦を考える。「今日は少し威張った態度で行ってみようか」。ドアを開けると、玄関でまだ開けていない明細ハガキをカバンから取り出し、まるで水戸黄門の印籠のように高くふりかざし、「控えおろう。この明細が目に入らぬか。」と、芝居がかって大げさに渡す。
 そんな、我が輩のわがままを、かみさんも最近はちゃんと心得ており、「またか」と思いながらも「ははぁ」と言った後、「おかばんをお持ちします。」とか「お風呂になさいますか、お夕飯になさいますか。」とこの日ばかりは、まるで橋田壽賀子のテレビドラマのようなくさいセリフで対応をする。おとなの「おままごと」である。「馬鹿なことを!」と思われるかもしれないが、亭主としての晴れ舞台である。出来るなら、この日だけは少しだけ威張ってもいいと思っている。

 こうやって毎月の給料日を楽しんではいるが、昔に比べると少し残念なことも感じている。それはやはり薄っぺらなハガキでは「お金の重み」が薄れてしまっている」と感じることである。

 ある日、子供たちに「お金を大切にしなさい。」と説教をしたことがあった。六歳になる息子が「お金が無くなったら銀行にいけばたくさんあるやん!」と反論した。かみさんと一緒に銀行などに行ったときに母親がお金を引き出すところを見ているのであろう。お金が銀行に入っていることをちゃんと知っている。

 かみさんは我が輩が会社で働くことで、会社から銀行にお金が振り込まれるという仕組みを子供たちに説明をしてくれてはいる。息子も、また三歳の娘も、ある程度の理解は出来ているだろう。しかし、もしかすると、現金を持ち帰っていた親父の場合と比べると、我が輩の給与は子供たちにしてみれば、もしかすると単なる数字だけの幽霊のような存在なのかもしれない。よもすれば、お金は「お母さんが持っているもの」と思われてしまいがちである。

 最近は、正月のお年玉が小さいうちから高額化しており、小さな子どもに対しても五千円、一万円と渡すようになっている。自由に使えるお金ということで考えれば、こどもたちの方がたくさん持っている場合もあるだろう。お金を得るために大人がどれほど苦労をしているかをきちんと教えないといけないと思っている。また、子供からみると、お父さんがお母さんに小遣いをもらっている場面の方がよく目につくに違いない。世の中の技術が進み、給与はすべて自動振込みの時代へと移った。給与泥棒などの犯罪によるトラブルは当然減ったのであろうが、便利になることの反対側で目に見えぬ弊害が生まれているケースは給与以外のことにおいても少なくない。

 現代社会において父親の威厳が喪失しているという。仕事において男の得意技であった「力」が必要だった時代には、女性が家を守ることが当たり前であった。しかし、男女の平等が叫ばれ、社会が機械化されその力が必要なくなるとともに、女性が徐々に社会に進出し、今ではあたりまえの光景となった。この傾向は今後も続き、欧米社会のようになるのであろう。
 男だけが外で金を稼ぐことが出来る環境は失われ、またせっかく稼いだ金の代わりにハガキにかかれた数字のみを持ち帰っているのであれば、女にとっての男、また子どもにとって父親の威厳が無くなっていくことは不思議ではない。人間の誕生以来、ずっと続いてきた生活スタイルが、技術の進歩とともに変わっていくことは、短いスパンでは良い方向に進んで行っている様でも、長い目で見れば、とんでもないおかしな方向に進んで行っているのではないのかとも考えられる。女性も、ある意味で強い男を望んでいるのではなかろうか。頑固ものかと思われるかもしれないが、「男よ男たれ、女よ女たれ」と思う我が輩である。

 最近元気が無いと言われる日本経済であるが、現金支給にすれば働く意欲が沸き、日本経済復活なんて簡単にいくのではないかとも思う。事実、給料から小遣いをもらったゆたかな懐具合の時には、気が大きくなっておみやげなど家に良く買って帰る我が輩である。いっそ、今度の給料日には全額を引き出して、分厚い現金の束でも持って帰ってみようかな。きっと社長のように出迎えてくれるに違いない。父親の威厳も少しは取り返せるかもしれないと思う。

頑張りましょう、日本全国のお父さん。 

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 最近はお金の支払い方法については、ICカード、クレジットカード、スマホ決済など、全てが把握できないほど多種多様な方法が増えてきました。給料袋どころか、いつかは硬貨、紙幣の現金そのものも必要なくなり、キャッシュレスの世界が実現するのかもしれません。
 しかし、便利なものには絶対落とし穴があると思います。大人たちが「便利だから」と「儲かるから」と、自然発生した貨幣をないがしろにすると、子供たちが、幼い頃からスマホに接するように、何かしらの影響がおよぶことになるかもしれないと思うのです。昭和生まれのおじさんがIT技術についていけないことからの単なるやっかみであるかもしれませんが・・・。

ローカル線も現金と同じでおわコンのように扱われている場合もありますが、私にとっては失ってはいけない存在だと思われてしかたありません。どうすれば、状況を改善できるかも分かりませんが、色々と考えてみたいものです。


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