世界はここにある⑪ 三佳篇㈣
ウォルフ・ヘンドリッヒに案内され、三佳とサツキはスランデント森林公園の中を歩いていた。ヨーロッパ・ブナとオークが原生のままに並ぶその光景を初めて見る三佳は、昨日まで未来の事ばかりを話題にしてきたシンポジウムでの期待も、樹々の静かで崇高にも感じるその存在の前には大した進歩ではないような気がしていた。それらの木は三佳とサツキが二人で腕を回しても手が届かないであろう太さと、20m以上はあろうかと思われるまっすぐ伸びる幹にはそれに沿った細めの枝が空を受ける網のように伸び、真新しい緑の葉が陽の光を取りこぼさぬよう付いている。
「先輩! 見て、凄い!」
サツキが目を輝かせ指さす先には、樹々の合間にまるで青天が降りてきたかのような花色一色の絨毯が敷き詰められていた。そのあまりの美しさに二人が続ける言葉をなくす様子をウォルフは察したのか『ブルーベル(ヒヤシンス)ですよ。この時期になると野生のブルーベルが群生するのです』と教えてくれた。三佳には森を抜けていく小道が、樹々の合間から差す柔らかい日光に照らされた青と樹々の色が誘う神聖な場所への道程にも思えた。
青の間をささと動く何ものかが見える。リスなのか、または違う小動物なのかいずれにせよ彼らにとってここは生きる場所だ。ブナが落とす種子の恵をもって何百年もであろうここに命を伝えてきた。自分たちが何を持っていようと、何を欲していようとも、この神秘的ともいえる景色と生態系は変えてはならない。変える権利など誰も持ってはならない。三佳は幾枚かの写真を撮りながら強く思った。
青の絨毯を抜けると大きな湖が現れた。小波がたつも湖面は穏やかで森の命をつなぐ潤沢な水がやはり静かに佇まう。小さな手漕ぎのボートが2艘ほどつけられるだろう桟橋が数メートルほど湖面にせり出しており、そこに皇太子夫妻と思しき二人と小さな男の子が釣りを楽しんでいる様子が見て取れた。周囲には護衛が少し距離を取り見張っているようだ。何かを釣り上げたのか三人が歓声を上げる。同じように釣りをする人が幾人かいるが、彼らが皇太子家族であることなど構うことなくそれぞれが糸を垂れている。森の散策の小休止に腰を下ろすかのような老夫婦の姿も見えた。
「タチバナさん、今日、皇太子はプライベートです。取材は叶いません。この辺からご家族が楽しまれている様子の写真を撮っていただくだけになります。ご紹介も致しませんし、皇太子から声をかけることも致しません。宜しいですね?」
ウォルフは念を押すように三佳とサツキに言った。
「結構です。こちらもご家族や他の皆さんにご迷惑がかからないようにいたします」
三佳はサツキにも注意を促すように答えた。
「では、我々の目の届く範囲でお願いします。それと撮った写真はこの場で確認したあと、データを御社からエージェントを通じてお送りください。いいですね」
ウォルフはそう言い三佳たちから離れ、どこから現れたのか部下らしき3名の男に指示を出しながら、皇太子らの様子と周囲を注意深く監視しだした。
「ねぇ三佳先輩、あのウォルフさんって結構偉い人なんですかね?」
サツキは背伸びをしたあと、自分もスマホで皇太子らが映らないように注意をしながら辺りの景色を撮りだした。
「そうね。SPの責任者でしょ?側近と言ってもいいんじゃないのかな?よくわからないけど、映画とかでのSPって大体、大統領とも友人とか、そんなでしょ。信頼関係は厚いんじゃない?」
三佳もカメラで皇太子らの様子を覗きながらサツキに答える。
「あー、だけどここ、ステキ~!こんなところに別荘でも建てられるほどの余裕があったらなー」
サツキはまた両手をあげて伸びをしてからひとつ息を吐く。
「私らには一生無理だろうね、今だって偶然の幸運なひと時だよ。私らを待ってるのは仕事。会社のデスクだけ」
「あー、芸術家らしくない一言、いいんですか?三佳先輩。そんな現実主義者で」
「私は芸術家なんかじゃないよ。科学者からカメラマンに鞍替えした超絶、現実描写切り取り主義者よ。嘘の世界を表現する想像力もないし」
三佳はシャッターを切りながら自分を確かめるように言った。
「うぇ、先輩にはこの森も原子の集合体にしか見えないんですかね~」
サツキは不満そうに言った。
「私だってこの森の幻想的な美しさには感動してるわよ。かけがえのないもの。簡単に足を踏み入れちゃいけない所だって。だから私はこの光景を正確に切り取るの。そして出版を通じて、ネットを通じて、科学だけでは人間が幸せになれないことを、最先端のものを紹介しながらも真実を併せて伝えたいのよ。先を見ても後がなくなるわけじゃない。過去から未来はつながってるし、過去や現在をつぶして成り立つ未来に意味なんかないのよ」
三佳はもう一度自分に言い聞かせるように言った。
「ふ~ん」
サツキはカメラを覗く三佳を見つめ、この人に憧れを抱いたことが間違っていなかったと思った。
休憩を終えたのか、先ほど見かけた老婦人がバスケットを持ち、木製の杖を突きながら皇太子家族に何やら声をかけ近づいていく。
SPが即座に駆け寄り制しようとするが、皇太子が『構わない』というような手振りをし、自分からも笑顔で老婦人に挨拶をしている。バスケットの中身はどうやら果物のようで、SPのチェックを受けてから『これは自分の家の山で採れたものです』と皇太子夫妻に見せているようだ。
三佳はカメラのズームをあげ、何の果物だろう?と確認しようとした。皇太子家族と住民のふれあいのシーンだ。良い一枚になるだろう。
老婦人がその手にある果物を皇太子夫人に手渡そうとした時、空にブーンという機械音が聞こえた。いいショットを逃すまいと集中していた三佳以外の誰もがその音の方向を探す。高いブナのまた上に二機のドローンが現れたのを護衛が見つける。それとほぼ同時に老婦人は持っていた杖の柄を抜き取り、中に仕込んだ鋭い刃物で皇太子夫人の傍らで果物を覗き込んでいた息子の頭蓋を貫通させた。
一瞬の出来事だった。
三佳は反射的に連写でその光景を収めてしまった。
倒れる息子を抱きかかえる皇太子夫人。さらに切りかかろうとする老婦人と後ろから銃のようなものを皇太子に向かって構えるその夫。
次の瞬間、大きな銃声が何発も響き老夫婦は射殺された。釣りをしていた他の幾人かが逃げ出す。樹々の合間から鳥たちが一斉に羽ばたき飛び去る。
森の中で控えていた軍人らが釣り人達を制したが、聞かずに逃げようとするのを軍人は容赦なく背後から撃った。
サツキはあまりの惨劇に声が出ずその場にへたり込む。三佳はカメラではなくスマホで幾枚かその様子を撮り、データを即座にクラウドへ転送し自身もサツキを庇うようにしてしゃがみ込んだ。全身が恐怖で小刻みに震えていたのがわかった。
「立て、二人とも、立つんだ。今のを写真に撮ったか?」
いつの間にか背後にいたウォルフが三佳とサツキに問いただす。
「これを…… 」
三佳は震える手でカメラをウォルフに差し出した。
画像を確認したウォルフは「これは預かる」と短く言い放ち、「一緒にきてもらおう」とも言った。
さらに銃声は背後で鳴り響いていた。
三佳とサツキは警官に同行するように命じられた。先ほどまでの美しい神秘的な森は起こってはいけない惨劇の舞台になってしまった。来た道を戻る途中、三佳は隙をみてスマホを森の青い絨毯の中に放り込む。がさっという音に気付いた二人を連行していた警官が銃を抜き音のした方向に構えるが同時にテンが驚いたように飛び出して走り去った。
「チッ!」と舌打ちをした警官は手振りで早く歩けと二人を促す。
公園の入り口に戻った二人は警察車両ではなくSP達の車に乗るように命じられた。サツキは恐怖からか一言も発しない。三佳は彼女だけは守らなければならないと強く拳を握った。
★この作品はフィクションであり登場する人物、団体、国家は実在のものと 一切関係がありません。
エンディング曲
Bob Dylan - All Along the Watchtower | 見張塔からずっと (日本語字幕ver)
Sony Music Japan
世界はここにある①
世界はここにある②
世界はここにある③
世界はここにある④
世界はここにある⑤
世界はここにある⑥
世界はここにある⑦
世界はここにある⑧
世界はここにある➈
世界はここにある⑩