最近の記事

野辺に花 植込みに花、庭に花 店先に花、人の手に花

野辺に花 植込みに花、庭に花 店先に花、人の手に花

    "はかり"屋の話

    (5年前に別媒体に書いた文章の再投稿) ・・・・・ 友人の家へ向かう道すがら、わたしは奇妙な専門店の前で立ち止まった。 (”はかり”屋というものがあるらしい。) 街角の、狭い路地の、小さな店のショウケースには、皿に乗せると針の動く──”はかり”といえばまず人々が連想するであろう──古い”はかり”から、電池で動く精密な”はかり”まで たくさんの”はかり”が並べられていた。 掃除のされていない 埃の積層したガラス窓が、晩冬のやわらかい陽をうけて ビロウドのように上品に光沢してい

    "はかり"屋の話

    湧くような こぼれるような 新緑に  わなないて立つ わなないて立つ

    湧くような こぼれるような 新緑に  わなないて立つ わなないて立つ

    遠く山並みはうすら日に浴し 春の日の思い出はわけもなくかなし

    遠く山並みはうすら日に浴し 春の日の思い出はわけもなくかなし

    柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺

    表題の俳句が夏目漱石の「鐘つけば銀杏散るなり建長寺」という俳句への返歌である、という言説を見かけた。 子規の最高傑作と名高いこの俳句がなぜこれほどまでに人の心を掴むのか、今まで深く考えたことがなかったが、漱石の歌との対比により自分の中である程度言語化できたのでここに書き残しておく。 まず文法的な解釈であるが、「柿食え_ば_鐘が鳴る」が因果ではなく独立な事象を並列させているというのはよく言われることである。 「鐘が鳴る_なり」の「なり」は「めり」や「らし」と同じ推定の助動詞で

    柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺

    肉体の悪魔

    自分についての秘密を告白することが、誰かと親密な関係を結ぶのに役立つ時がある。 秘密を告白されたことで、相手はあなたに特別な連帯を感じるようになるだろう。あるいは、一つの告白がより多くの謎を呼び、相手はあなたをもっと知りたいと思うようになるかもしれない。 だが、秘密は容易に偽ることができる。そして、あなたが持つ秘密がいったいいくつあるのかを、他人が知るすべはない。 つまり、告白される秘密などほとんど嘘と不可分であって、人間関係に色を添えるイミテーションに過ぎない。 --

    肉体の悪魔

    垂直に落下してくる運命をあきらめにも似た感情で受け止めなさいよ!

    垂直に落下してくる運命をあきらめにも似た感情で受け止めなさいよ!

    習作(2019~2021)

    2019年~2021年の間にSNSにアップロードした短歌・自由律・散文詩・随筆風・小説風の習作をまとめた。 短歌 青いのだ/空、森、標識。庭、車。/青しかないのか、五月というのは 陽のあたる 部屋はしづかに君のほか 思い出したる ことなどもなく 春風の かくもしづかに 凪ぐ昼よ いとどな吹きそ 酔いもぞ覚める 自由律 花ざかりの木々の向こうにまた木々がある 春のしののめに鎚音は遠く 花の季節だ雲が飛ぶ 散文詩 日がな一にち/陽光を浴びながら/地球とともに/

    習作(2019~2021)

    駒とめて袖うちはらふかげもなし佐野のわたりの雪の夕暮

    サントリー美術館の「歌枕」展に行った。 「歌枕」とは、ある特定の土地が和歌を通じて抽象され、記号化されるプロセスを繰り返し経ることで、いつしか人々の脳内で特定の土地と抽象的な記号群が一意に紐づけられるようになった状態を示す言葉である。 最もわかりやすい例はおそらく龍田であって、人は紅葉、川、衣などの一般的な単語の羅列(これは本来日本の無数の土地に当てはまりうる概念)から一意に龍田川を連想する。この連想を助けるのは在原業平「ちはやぶる...」に代表される龍田川に関して書かれた一

    駒とめて袖うちはらふかげもなし佐野のわたりの雪の夕暮

    物語

    むかし、小さな国があった。 その国は、他の国にはあるいくつかのものがなく、他の国にはないいくつかのものがある点で、他の国とは違っていた。 ******* 北方の小さな村に、ある青年が住んでいた。青年は、牛飼いだった。ただ、この国には数がないので、牛が何頭いたのか、その正確なところはわからない。 他方、青年の住む村のずっと向こうの、これまた小さな村に、男が家族と暮らしていた。男は、牛飼いだった。男は、春が来ると、この牛たちを、隣の村に住む老人のところに引いて行く。老人は、牛

    正しい眉

    女は、半分ほど減ったアイスコーヒーにはそれきり手をつけず、長いこと夢中になって喋り続けた。部屋の南向きの窓からは、午後二時の陽光が等質に差し込んでいる。 私は、先刻より、女のfoundationで過剰に白い額から目を離せずにいた。(もう少し正確に言えば、白い額の下の際、左の眉毛のすぐ上のあたり、はじめは青痣のようにも見えたその青みがかった皮膚の一部位から、である。) まず、私は今時点で何か確信的な考えがあるわけではなかったし、相変わらず喋り続ける女の、その話の内容に興味がな

    正しい眉

    The Life of Henry the Fifth

    映画「グッド・ウィル・ハンティング」の日本語字幕版では、シェイクスピアによるヘンリー五世の「Once more unto the breach, dear friends」という一節が「もう一度突撃を、友よ」と訳されている。 戦争という極限状態で、兵士たちの間には強い絆が生まれるという。それは身分の差をも超えるのだろう。つまり、王は実際に兵卒たちを戦友だと思っている。そんな中で兵卒たちに「祖国、ひいては自分のために死ね」と命令する国王が、「国王」としてではなく、「友」としての

    The Life of Henry the Fifth

    美について

     美には物質の美と観念の美とがあり、前者は常に後者に先行する。より正確に言えば、「観念の美」という仮定はかろうじて可能であるが、それはやはり限りなく物質的な美である。物質の美より少しばかり物質的でない美を観念の美と呼ぶことができる、という程度である。 測定器たる人間は、比較によってしか対象を知覚し得ない。ここで、比較は物質の領分である。観念の美が限りなく物質的であると言ったのはこのためである。すなわちあらゆる種類の美は、それがidealに物質的であるか観念的であるかに関わらず

    美について