正しい眉

女は、半分ほど減ったアイスコーヒーにはそれきり手をつけず、長いこと夢中になって喋り続けた。部屋の南向きの窓からは、午後二時の陽光が等質に差し込んでいる。

私は、先刻より、女のfoundationで過剰に白い額から目を離せずにいた。(もう少し正確に言えば、白い額の下の際、左の眉毛のすぐ上のあたり、はじめは青痣のようにも見えたその青みがかった皮膚の一部位から、である。)
まず、私は今時点で何か確信的な考えがあるわけではなかったし、相変わらず喋り続ける女の、その話の内容に興味がない訳ではなかった。だから、彼女の左の眉毛の青い剃り跡が、口の動きに合わせて芋虫のように運動する奇妙な光景に結果的に視線を奪われることになったのは、私の良からぬ企み、もしくはある種の強迫思想のなしたるゆえではなく、むしろよく晴れた秋の日の、午後二時の南向きの窓のすぐそばに腰掛けた、その偶然によるところが大きいのだろう。

眉毛には正しい生えかたというのがあって、彼女の眉毛はこの通りには生えて来ず、だから元の眉毛を剃り落として、茶色いペンで正しい眉毛のあるべき位置を塗りつぶしている。周囲の女性を観察していれば、眉毛をペンで引くという行為はごくありふれた行いであるし、彼女がそうしているのも、何も不思議なことでは無い。しかし、なぜかこの時のこの発見は、私に目の眩むほどの衝撃を与えた。
衝撃は次第に不安へ、そして絶望へと変わって行った。これは大変なことになったぞ、と私は思った。もう助からないような気さえしてくるのだった。先刻から、机上のアイスコーヒーはしきりに汗をかいていた。プラカップの中腹で凝集した水滴が、じわりと側壁を伝う。右の奥歯が鈍く痛む感覚があった。

そのあとの私はもう、茫然自失といった具合で、考えることといえば眉毛のことばかりだった。どれくらいの時間が経ったのか、いつの間にか夜が深まって、女は私の隣で静かに酒を飲んでいる。誤解を恐れずに断じれば、明らかに、彼女は私に抱かれたいと思っていた。私ははじめから彼女を抱くつもりはなかったが、あの眉毛の一件を経て、今は全く違った動機で、やはりこの女を抱くわけにはいかないと思っていた。
沈黙を拒むため、と言うより、最悪の状況を脱するために、この女から私の望んだ言葉を引き出そうとして、私は饒舌に幾つかの質問をした。女は、私の意図に気が付かないのか、少し困惑したように、ごくつまらない返答をして、また黙った。ついぞ、私の望んだ言葉は得られなかった。

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その夜私は、自分がある国のimperial familyの遠い血縁であると告げられる夢を見た。夢では、実在する一人の内親王殿下と、実在しない二人の親王殿下が私のところにいらして、私がこれからimperial familyの一員として暮らす旨をお伝えになって、ずいぶんと良くしてくださった。私はとても幸せな気持ちがした。
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翌朝は雨だったので、私は部屋に籠もって映画を二本見た。主人公の女優は正しい眉毛をしていた。美しい女性だった。ストーリーも悪くはなかった。どちらも小説が原作の映画であることに後から気がついた。
トーストを焼き、コーヒーを淹れながら、私は昨夜の出来事を思い返してみた。結局、0時を回った頃に家に帰らない娘を心配した父親から女に電話がかかってきて、私はあの重苦しい沈黙から解放されたのだった。父親の怒声はマイクを通して部屋にこだまするほどだった。彼女の父親のことは、以前に写真を見せられたので顔だけは知っていた。言うまでもないことだが、「あの」眉毛の形をしていた。朝になって、映画のこともあって幾分気が紛れていたので、私は彼の怒りに釣り上がった眉毛のことを思ってもたいして落ち込むことはなかった。むしろ、少し愉快な気さえしたが、それは長くは続かなかった。

他人を、本来的に他人として、対立する概念である自己の中にそのまま受容する、ということ、他人のありように解釈を与えることなく赦してやる、ということが、いかに困難な試みであるのかという発見、これが昨晩私を大いに苦しめた。
私は、私の憂鬱について考えてみた。それは、明らかに誰にも理解できぬ代物であった。誰にも理解のできぬ私の憂鬱と、昨日の女の青い眉毛の剃り跡が、奇妙に私の中で融和して、それで私はあんなにも動揺したのかもしれない。
「私が彼女を赦せないのとちょうど同じように、誰も私を赦さないのだろうか。」
考えるほどに、一人で宇宙に放り出されたようなうそ寒い心地がしてきた。私はずいぶんと弱ってしまっていた。

雨は午前中に上がり、昼からは青空が見えたが、午後二時の陽光はもう、昨日のようには部屋を照らさなかった。
椅子に腰掛けてテーブルの上をじっと見ていると、風が空気の密度をところどころ変え、屈折率を不均一にするのか、光の中に湯気のような揺らぎがあるのに気がついた。私は、Imperial familyの一員になったあの夢が、現実になれば良いのにと思った。


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