美について

 美には物質の美と観念の美とがあり、前者は常に後者に先行する。より正確に言えば、「観念の美」という仮定はかろうじて可能であるが、それはやはり限りなく物質的な美である。物質の美より少しばかり物質的でない美を観念の美と呼ぶことができる、という程度である。
測定器たる人間は、比較によってしか対象を知覚し得ない。ここで、比較は物質の領分である。観念の美が限りなく物質的であると言ったのはこのためである。すなわちあらゆる種類の美は、それがidealに物質的であるか観念的であるかに関わらず、人間に知覚される際に必ず物質のカプセルで被覆される。
観念の美というのを信奉する人は多いが、彼・彼女らは観念の美を物質の被覆から(いとも簡単に)取り出せると勘違いしているのではないかと思う。無論、そのようなことは決してできない。純粋な観念の美の抽出という試みの先にあるのは、「もうそこにはない」観念の美を必死に「まだそこにある」ように思い込む自己欺瞞のみである。

 物質の美は骨の美、皮の美、肉の美の三つに分類でき、この順に重要である。肉は骨に添い、皮は肉に沿う。三つの根本となる骨が第一に重要となる。なぜ皮が骨に続くのか。皮は最表層であって、それは印象を与える。印象とは美の型式である。人間にとっての美は比較によってのみ成立するのであったから、型式、すなわち皮は美の前提になるのである。肉は容易に形を変えるから他二つに比してさして重要ではない。
そして、観念の美も同じように骨の美、皮の美、肉の美の三つに分類できるのではないかと私は考える。骨は観念の美のidealな部分である。骨だけを取り出すことはできないし、もし取り出せばその美はもう「死んで」いる。観念の美の皮は、先に述べた物質の被覆である。皮は観念の美を人間の認識の中で生かす役割を担う。肉は骨と皮の間を満たすものである。これも幾分物質的であろう。観念の美についてもやはり、骨、皮、肉の順に重要である。

 観念の美の例としては、やはり精神の美を考えてみるのが適切であろう。精神の美の骨はその人の信念、哲学である。肉は信念に沿って行動した結果の具体的なエピソード、それによって獲得された趣味や嗜好である。皮はその人がその人自身について、あるいは他の何かについて語る際の言葉である。趣味や嗜好、短期的な傾向はとるに足らないものである。我々は酒を飲むのが趣味だという人間二人に対して正反対の印象を抱くことがよくある。一方、言葉は表層だが、その人の精神を他者が知覚する上では不可欠なものである。
ここまで考えた精神の美というものは、言葉という物質(言葉は物質である!)に被覆された個別の概念だが、精神が言葉のみに被覆されるのは特殊な場合に限った話であって、実際にはさらに物質的なもの、すなわち肉体の美がこれに先行する。既に議論した通り、肉体の美=物質の美がさらに骨の美、肉の美、皮の美という包含関係に支配されることを考えれば、精神というものが何重もの物質のカプセルにより人間の内奥に封じ込められていることが改めて実感されるのである。

単独の精神というものはない。単独の精神の美というものは、あるいはより一般に、単独の観念の美というものは絶対にない。誰もがこの事実を認め、受け入れなければならない。受け入れなければ、その先に待つのは自己欺瞞のみである。


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