物語

むかし、小さな国があった。
その国は、他の国にはあるいくつかのものがなく、他の国にはないいくつかのものがある点で、他の国とは違っていた。

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北方の小さな村に、ある青年が住んでいた。青年は、牛飼いだった。ただ、この国には数がないので、牛が何頭いたのか、その正確なところはわからない。
他方、青年の住む村のずっと向こうの、これまた小さな村に、男が家族と暮らしていた。男は、牛飼いだった。男は、春が来ると、この牛たちを、隣の村に住む老人のところに引いて行く。老人は、牛たちを受け取って、その見返りとして、男と男の家族がその年暮らせるだけの食料と、それから牛を何頭か、男に与える。男は、牛を村まで連れ帰り、また、次の春まで暮らすのだ。
他方、老人は、受け取った牛たちを、そのまた隣の村に住む少女のところに引いていく。少女は、牛たちを受け取って、その見返りとして、男と男の家族が次の年暮らせるだけの食料と、老人がその年暮らせるだけの食料と、それから牛を何頭か、老人に与える。老人は、牛を村まで連れ帰り、また、次の春まで暮らすのだ。
他方、少女は、受け取った牛たちを、そのまた隣の、北方の小さな村に住む青年のところに引いていく。青年は、牛たちを受け取って、その見返りとして、男と男の家族が次の次の年暮らせるだけの食料と、老人が次の年暮らせるだけの食料と、少女がその年暮らせるだけの食料と、それから牛を何頭か、少女に与える。少女は、牛を村まで連れ帰り、また、次の春まで暮らすのだ。
他方、青年は、受け取った牛たちを、そのまた隣の村に住む夫婦のところに引いていく。ところが、道中、何頭かの牛が崖から落ちてしまった。昨日の雨で地盤が緩んでいたのだろう。牛を何頭か夫婦に引き渡し、その見返りとして、男と男の家族が次の次の次の年暮らせるだけの食料と、老人が次の次の年暮らせるだけの食料と、少女が次の年暮らせるだけの食料と、青年がその年暮らせるだけの食料と、それから牛を何頭か、夫婦から受け取るはずだったのに、これでは取引が成り立たない。
青年は絶望し、残った何頭かの牛を連れて、元来た道を引き返した。これからどうすればいいのだろう。声を上げて泣きたいような気もちになったが、ますます虚しいだけなので、やめにした。
夜になって、少し気持ちが落ち着いたので、青年は村の酒場へ足を運んだ。「嫌なことは忘れよう。」青年は、大いに酒を飲んだ。

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ああ、随分と酔っぱらった。なんともいい気持ちだ。牛のことは、もう、綺麗さっぱり諦めた。明日になったら、別の仕事を見つければいいではないか。そう自らに言い聞かせながら、とぼとぼと帰路につく。
それにしても、今夜は実に良い夜だ。空を見上げれば、天上には無数の星々が等間隔に瞬いている。青年は、先刻にも増していい気分がしてきたので、鼻ムタをムタい始めた。(訳者注:ムタはこの国にしかない概念。)
すると、どこかで彼の鼻ムタを聞きつけたのか、森の中から野うさぎが飛び出してきた。

野うさぎ「やあ、旦那。いい夜だね。」
青年「アリャ、コイツは仰天。うさぎが喋っていやがらあ。」
野うさぎ「喋るうさぎは初めてかい?」
青年「そりゃ、初めてだとも。」
野うさぎ「じゃあ、旦那は、今夜初めて、喋る野うさぎと、喋らない野うさぎとがいることを知ったわけだ。」
青年「いかにも、オイラは今夜初めて、喋る野うさぎと、喋らない野うさぎとがいることを知ったことになる。」
喋る野うさぎ「それにしても、牛の件は残念だったね。」
青年「なんだい、お前さん、見てたのかい?」
喋る野うさぎ「見てやしないけど、風の噂でね。」
青年「風の噂?するってーと、何かい。風にも、喋る風と、喋らない風とがいるってことかい?」
喋る野うさぎ「そりゃ、そうさ。風だもの。」
青年「そういうもんかね。」
喋る野うさぎ「そういうもんさ。」
青年「ところで、その、お前さんは、風の噂ってのを、他にも知っているのかい?」
青年「つまり、オイラの今日の失敗談みたいなヤツを、他にもさ。」
喋る野うさぎ「風とは旧い仲だからね、いくつかは知ってるさ。なんだい旦那、風の噂を聞きたいのかい?」
青年「今、ようやくいい気分になってきたんだ。物語でも聞けば、もっと気が晴れる。」
喋る野うさぎ「御所望とあらば、お聞かせしよう。ちょっと待っていて下さいね。今、思い出すからさ。」

野うさぎは、そう言うと目を閉じ腕を組んだ。青年は近くの切り株に腰を下ろして、野うさぎがふたたび口を開くのを待った。
足元に置いたランプの光が、かれの来た道と、これから行く道を、ぼんやりと照らしている。空は星でいくらか明るいから、その中間、道の両側にせりだした森の木々が、ひときわ黒々と沈黙して、恐ろしい。

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喋る野うさぎが、おもむろに口を開いた。

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こんな話がある。
むかし、南方の漁村で、殺人があった。酒場で男たちが揉み合いになり、挙句、片方が片方を殺したのだという。殺した方はずいぶんな乱心具合で、殺された方の身体中をナイフで滅多刺しにしたらしい。村の警官が事情を聞いたところによると、殺人に至った経緯は次の通りである。
その日、殺した方の男はずいぶんと悪酔いして、周囲の客に冷やかしを言ったり怒鳴ったりしたあげく、給仕の女の身体を触って嫌がらせをし始めた。殺された方の男はそこに居合わせた別の客で、はじめは黙って見ていたが、給仕の困惑ぶりを見てさすがに耐えかね、仲裁に入った。殺した方の男は殺された方の男の「良い恰好」が気に食わなかったのか、急に烈火の如く怒ってナイフを取り出した。こうなると周囲も止めに入ることができず、ただおろおろとしているうちに、衆目の前で今回の悲痛な事件は起こった。
その後の調べて、殺した方の男の余罪が次々と明らかになった。男は、過去に、盗み、強請り、殺し、強姦、犯罪と名のつくものはなんでもやっていた。男は裁判にかけられ、死刑となった。

さて、この国では、人々は死ぬと神殿に住む神のところへ行き、そこで毎年行われる神の裁きを受けて、天国か地獄に旅立つ。
神の裁きというのは、神殿を入った先の中央広間で行われるのであるが、裁定の結果はその場では告げられず、その回の参加者全員分を終えたあとで、神殿を入った右手、悔恨の間と呼ばれる広間に、死者たちの名と、各人への裁定の書かれた大きな紙が張り出されるのが慣例である。
平時は粛々と行われるこの行事であるが、珍しいことに、この度は少しざわつく事態となった。というのも、件の事件で死刑となった例の悪漢の進路について、皆が非常に興味を示したのである。その悪漢は、名をKと言うのだが、Kの裁定文は以下のようなものであった。

氏名:K
死因:絞首刑による縊死
裁定:Kは、生前、きわめて粗暴で、横柄なる人物であった。彼の死刑が決まった裁判での記録にある通り、殺人、強姦、窃盗、詐欺等、過去の悪行は枚挙にいとまがない。中でも、青年期に、数年にわたって複数の少年少女を強姦したのち殺して海に沈めた事件は、この国の犯罪史に類を見ないほどに凶悪で、成り行きを見守っていたわたくし自身非常に心の痛む思いがした。幼年の頃、蜻蛉の羽を千切って遊んでいた際、路傍に張られた蜘蛛の巣に蜻蛉を貼り付け、蜘蛛を飢えから救った善行を加味した上で、今回の裁定を行った。
悪行は、するかしないか、どちらかである。善行は、するかしないか、どちらかである。どちらもしたのであれば、その人は、悪の人でもあって、善の人でもある。悪の人でもあって、善の人でもあるなら、それはすなわち善の人でもあるから、天国に行くのが相応しい。
進路:天国

ところで、殺された方の男はどうなったのだろう。以下に裁定文を写す。

氏名:U
死因:刺突による失血死
裁定:Uは、生前、まことに実直で、まめなる人物であった。中でも、病がちの母の面倒を長きに渡り看続けたことは、特筆に値する。また、以前、自らの命も顧みず、大雨で氾濫する川に飛び込み、溺れていた少年を助けた善行についても、称揚したい。最後に、死の間際、酒場で悪漢と給仕との間に入った際に、給仕の運んでいた麦酒(これは隣卓の男が注文したものである)を床に落下させた悪行を加味した上で、今回の裁定を行った。
悪行は、するかしないか、どちらかである。善行は、するかしないか、どちらかである。どちらもしたのであれば、その人は、悪の人でもあって、善の人でもある。悪の人でもあって、善の人でもあるなら、それはすなわち悪の人でもあるから、地獄に行くのが相応しい。
進路:地獄

これは、ほとんど信じられないことではあるが、真実の話である。

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また、こんな話もある。
この国の東方、隣国Pとの国境付近に、奇妙な村があった。奇妙というのも、その村の住民は、全員が元は隣国Pの国民なのである。彼らは、祖国Pの家族や友人によりこの村へと連れてこられ、そうしてここで暮らし始めた。なぜ彼らは祖国Pを出ることになったのか。それは次のような理由ゆえである。
この国、つまりこの物語の舞台の国には、病というものがない。だから、隣国Pで病を発症した患者を、国境を超えてこの国に連れていくと、その患者は、病ではないということになる。これは、たとえば、次のような例を考えてみれば、明らかな話である。

今からずっと先の未来に、最後の人類が、死ぬか、あるいは宇宙船に乗って飛び去るかして、この地球上から「人類」と呼べる生き物が全くいなくなるとする。そのとき、時刻は夕方で、ちょうど「真っ赤」な夕焼けが西方に燃えていたとする。そうして人類がこの地球を去り、少しだけ寂しくなった地球に夜が来て、また日が昇り、沈む。
さて、日が沈むということは、天気さえ許せばまた夕焼けが見られるということであるが、しかし、人類最後の日の次の日の夕焼けは、果たして、これまで通りに「真っ赤」なのだろうか。
おそらく答えは「真っ赤ではない」だろう。大気中ではこれまで通りにレイリー散乱が起き、これまで通りの波長の、これまで通りの光が地表へ届く。それでも、夕焼けはもう「真っ赤ではない」。
なぜか?それは、「真っ赤」というのは、あくまで人類が特定の波長域の光につけた名前、たんなる言葉(記号)であって、人類なき今、あるは、特定の波長域の光を「真っ赤」という記号を通して認識する個体が地球上からいなくなった今、この地球から見える夕焼けは、もはや「真っ赤ではない」し、さらに言えば、それは夕焼けですらない。観測なくして現象は現象たりえない。

では、話を戻して、病という概念、病に関する言葉のない国に、病に罹った患者を連れ込むと、何が起きるか。夕焼けの場合と全く同様に、その患者は、「病ではない」ことになる。当人のわずらっている身体、あるいは精神の不調が恢復するわけではないが、それでも、当人は「病ではない」ことになるのである。
こういうわけで、村の住人は、今日も健康に暮らすのだった。皆どこかに不調を抱え、平均寿命も非常に短いが、それでも健康に暮らすのである。

これは、ほとんど信じられないことではあるが、真実の話である。

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また、こんな話もある。
西方の深山に、永遠に生きる老人が住んでいた。
永遠に生きる老人は、この国のできるずっと前、地球や宇宙のできるさらに前からこの山に住んでいると言われていた。

ある時、少年が老人のところを訪ねて、人生の意味について問うた。老人は、黙って少年の話を聞いていたが、突然立ち上がって近くの川辺まで歩き、魚を眺めはじめた。少年はあとをついて、老人が答えるのを待った。老人はしばらくそうしていたが、再び立ち上がると、今度は森に入って小鳥たちの囀るのを眺めはじめた。少年は、またあとをついて行った。それから何日経っても老人は黙って、ただ生き物たちを眺めるのだった。少年は待った。ひたすらに待った。
長い年月が過ぎて、少年は青年となり、壮年となった。老人は、まだ答えなかった。ところが、年老いた少年には、もはや焦りはなかった。彼は、とても穏やかな気持ちで、老人の答えるのを待っていた。いや、もはや答えなど欲していなかったかもしれない。故郷の両親は死に、友人たちは皆家庭を持っているだろう。過ぎてしまった時間は、どうやっても取り返しがつかない。今の彼にできるのは、待つこと以外にないのだ。

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どのくらいの年月が経ったのだろう。ある寒い冬の夜、すっかり凍って生き物の気配のなくなった川辺で火に当たりながら、老人が突然隣の老人、つまり少年に向かって初めて口を開いた。

永遠に生きる老人「あのう、すいません、非常に申し上げづらいのですが、あなたはどちら様でしょうか。」

それを聞いた少年(老人)はたちどころに解悟して山を降り、宗教を開いて教えを広めた。

またある時、少女が老人の元を訪ねて、恋の相談をした。少女には愛し合う男がいたが、彼はこの国の王族の跡取りで、他方の少女は城の掃除係。身分の差を考えれば、これは到底成就しないだろう。さらに問題なのは、この王子には許婚がいるのだ。許婚は隣国の別の王族の娘で、この結婚は過去何度も戦争を繰り返してきた両国の関係を修復するための、非常に重要な政略であるらしい。つまり、少女と王子の恋は決して許されざる恋で、両者の関係が外に漏れれば、少女は間違いなく殺されてしまう。
王子は駆け落ちしてでも彼女と添い遂げたいと考えているが、少女は、王子に自分と自分以外のすべてを天秤にかけさせる勇気がない。駆け落ちの誘いを受けるべきか、断るべきか。相談しながら泣き出してしまうほど、少女は思い詰めていた。
老人は、黙って話を聞いていたが、少女が泣きだしても、慰めるでもなく、諭すでもなく、ただ少女の泣き止むのを待ち続けた。結局少女は一晩泣き続け、山に朝が来て草木に露のつく頃に、ようやく泣き止んだ。それを見て老人は、ただ一言、こう言った。

永遠に生きる老人「あー、いいと思います。」

それを聞いた少女はたちどころに解悟すると山を降りて王子と駆け落ちし、他国の農村で夫婦となって誰よりも幸福に暮らした。

これは、ほとんど信じられないことではあるが、真実の話である。

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喋る野うさぎが話し終えた時、青年は、こっくりこっくりと船を漕いでいた。気づけば、夜は白んで日の出の時間が近づいている。
野うさぎははじめその場に佇んでいたが、しばらくしてぴょんと跳ねるとたちまち森の中に姿を消した。

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......
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静かさの中に、青年だけが残された。
彼はまだ若者で、森には風が吹いていた。


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