柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺

表題の俳句が夏目漱石の「鐘つけば銀杏散るなり建長寺」という俳句への返歌である、という言説を見かけた。
子規の最高傑作と名高いこの俳句がなぜこれほどまでに人の心を掴むのか、今まで深く考えたことがなかったが、漱石の歌との対比により自分の中である程度言語化できたのでここに書き残しておく。

まず文法的な解釈であるが、「柿食え_ば_鐘が鳴る」が因果ではなく独立な事象を並列させているというのはよく言われることである。
「鐘が鳴る_なり」の「なり」は「めり」や「らし」と同じ推定の助動詞で、「鐘が鳴るなり」は「鐘が鳴っているようだ (鐘が鳴っている音がする) 」と解釈できる。つまり子規は法隆寺で鐘が鳴っているのを目で見たのではなく耳で聞いたことになる。 (あるいは目でも見ていたのかもしれないが、あくまで優先されるのは聴覚情報である。)
他方、「鐘つけ_ば_銀杏散る」はより因果に近いだろう。そして、「銀杏散る_なり」の「なり」は断定の「なり」である。漱石は実際に「鐘をつくと銀杏が散る」のを見たうえで、この歌を詠んでいる。
二つの歌は、構造的には類似しているが、モチーフ (寺) に対する詠み手の臨場感が異なっていることがわかる。

そして、モチーフに対する詠み手の臨場感は、歌の中でそこに付与される情報量にも反映されている。
「鐘つけば…」では「建長寺」に対して「鐘の音」「銀杏」の二つの情報が付与されているのに対し、「柿食へば…」の「法隆寺」には「鐘の音」しかない。
そもそも十七文字しかない俳句の中で、モチーフに対して付与できる情報は多くて二つだろう。その貴重な二つのうちの一つを、子規は「柿」という、法隆寺になんら関係ない情報に使ってしまった。このため、法隆寺に対する詠み手の臨場感は一層希薄になり、歌の中で法隆寺は「鐘が鳴る」だけの漠然とした存在になる。子規にしてみれば、「柿を食っていると、突然鐘の音がして、あれはきっと法隆寺の鐘だろう」と、その程度の認識なのだ。

幼少の頃に教科書で法隆寺の写真を見たことのない人というのはいないだろうし、修学旅行や何かで奈良を訪れたことのある人も多いだろう。だから、実際に法隆寺の敷地に立って鐘の音を聞いた経験がなくとも、幸いにして我々はその美しい情景を空想することができる。
というより、「鐘が鳴るなり法隆寺」という具体を排したフレーズからは、(どんなに法隆寺に通い慣れた人であれ) 実体験に基づいたリアルな情景を想起することは難しく、脳内で精一杯時間帯や天候の情報を補完しながら情景を空想することしかできない、と言った方が正確かもしれない。
だが、それゆえに「柿食へば…」を聞いた人が脳内に浮かべる法隆寺は、各人が想像力を働かせて自由に思い描く、idealな法隆寺なのである。そしてこのidealな法隆寺は、idealであるからこそ、「各人が想像しうる最も美しい状態の」法隆寺でもある。

では、モチーフを最も美しい状態で聞き手に想起させるためにとにかく具体を排除すれば良いのかといえば、勿論そんなことはない。具体を排除していけば、聞き手は簡単に抽象の穴に落ち、モチーフはより曖昧な、つかみどころのない、記憶に残らないものになってしまう。
この事態を避けるためには、なんらかの方法で聞き手を「こちら側=現象側」に留めて置く必要があって、「柿食へば…」の冒頭に登場する「柿」はまさにこの役割、聞き手を現象側に留めるために打ち込まれた具体性の楔の役割を果たしている。
秋になれば人は柿を食う。毎年食う。ここには確かな臨場感がある。この具体性の楔にしっかりと掴まってはじめて、人は抽象の穴を覗き込むことができる。純粋で美しい法隆寺を直視することができる。

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「柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺」における「柿食へば」という出だしは、「法隆寺」に付与できる情報量を奪って「法隆寺」をより抽象的な存在へと追いやると同時にその抽象的な「法隆寺」を聞き手が観賞するためのよすがとなっており、これが子規の最高傑作に巧妙に設計された「からくり」なのではないか、というのが今回の私の考察の総括である。

毎度自分への備忘録じみた投稿で恐縮だが、面白く読んでくれている人がいればさいわである。

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