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ノイズキャンセラー 第十一章

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第十一章

 芹沢とは業務以外の交流もなく、フォローアップ期間の最終日になった。
 来週からは席も離れる。芹沢は次の期間はブラザーをせず、ヘルプラインに入るらしい。ヘルプラインは、全担当者が、わからないことを訊ねるチームだ。権限を超えるクーポンを発行する時にも連絡を入れる。
「ヘルプラインは人数が少ないから、僕につながるかもよ」
 フォローアップ期間が終わるのは寂しかったが、同じ会社にいればまた顔を合わす機会はある。亜沙美は、独り立ちした後も続けられるように頑張ろうと思った。
 数日前のミーティングの時に、フォローアップが終わった翌日から九連休に入ると聞いていた。旅に出る予定らしい。芹沢はどんな旅をするのだろう。亜沙美は知りたかった。
 短大時代に仲の良かった友達と女子旅をしたことがある。九州の温泉地へ行った。友達はそれぞれ遠方に就職したので、なかなか会えない。今は、たまにメッセージのやり取りをする程度の仲だった。
 夕方になり、後数件電話を取れば、今日の業務が終わる時間になっていた。
 コール音が聞こえた。亜沙美はマウスを操作し、通話を開始した。挨拶をし、顧客の本人確認をした。新山と名乗った顧客は、落ち着いて優しげな声をしていた。住所が、亜沙美の実家の近くだった。もしかしたら、すれ違ったことがあるかもしれない。住所で、どんな場所に住んでいるのかがわかる顧客とつながるのは初めてだった。亜沙美は不思議な感覚になった。
「どのようなことで、お困りでしょうか?」
〈先日、釣りの道具を購入いたしまして、本日、竿の方が自宅に届きました〉
 亜沙美は注文履歴を確認した。『メバリングロッド』というものが竿らしい。
〈実は、急いでいたのは仕掛けの方でして、どちらも同じ頃の配達予定だったと記憶していたので、注文履歴を確認したところ、仕掛けも配達完了となっていました。ただ、私は受け取っていません。一人暮らしなので、家族が受け取ったという可能性もありません〉
 同じ日に『ハヤブサ サヨリ仕掛け』という商品を注文してある。亜沙美は「ご確認いたします。少々お待ちください」と、告げ、注文の詳細を確認した。確かに、配達完了と表示されている。原因は何かと、配送状況の変更履歴を開いた。
〈私が確認したところ、竿と、仕掛けは同一の配送番号でした。ですから、見落としたのかと思い、竿の入っていた箱を確認しました〉
 顧客に指摘され、亜沙美は配送の伝票番号を確認した。確かに同じだった。
「情報をありがとうございます。お客様にて十分梱包内を確認していただいた状況で見つからないということは、梱包漏れが起きた可能性がございます。詳しく確認しますので、1-2分ほど、保留にさせていただきます。このままでお待ちください」
 梱包漏れは初めてだった。発送前に、梱包後の重量が記録されている。場合によってはその重量を確認しなければいけない。亜沙美は今回がそのケースに当たるかを思い出そうとしていた。仕掛けは、千円ほどで、高額ではない。
『梱包漏れだよね』
 画面の端に芹沢からのメッセージが表示された。隣からタイピング音が聞こえてくる。
『この人、梱包漏れの問い合わせが初めてだし、高額でもないから重量確認は対象外。それに、こういう軽いものは調べても確定できない』
 梱包漏れの申告をして味をしめた顧客が、同じ問い合わせを繰り返すこともある。梱包漏れは頻繁に起こることではないので、すぐに特定されアカウントを停止される。
『ありがとうございます。』
 打ち込みながら、保留を解除した。
「新山様、お待たせいたしました。大変申し訳ございません。梱包漏れですので、ご返金でご対応させていただきます。お手数をおかけしますが、再注文をお願いいたします。今お手続きいたしますのでしばらくお待ちください」
 返金処理は保留にしなくてもすぐにできる。亜沙美は、返金の画面を開いた。
〈返金は結構です〉
 ヘッドホンから、新山の声が聞こえてきた。
「発送時に決済されております。お届けできなかったため、返金させていただきます」
〈返金ではなく、届けていただきたいです〉
 注文履歴がそれほど多くないので、ネットショップでの買い物になれていないのかもしれない。
「お客様が、商品の再送をご希望されるお気持ちはごもっともかとは存じますが、当サイトでは、梱包漏れの際にはご返金をさせていただいています」
〈待ってください。私はそちらで注文をし、クレジットカードで商品代金も支払いました。何かこちらに落ち度はありますか? 商品代金を徴収しておきながら、そちらが発送の時に商品を入れなかったのではありませんか?〉
 確かに顧客のいう通りだった。
「おっしゃる通り、新山様に、問題があったわけではございません。しかしながら、サイトとしてできる対応がご返金となっております。申し訳ございません」
〈それはおかしくありませんか?〉
 新山という客は、あくまでも穏やかな口調のままで続ける。
〈竿が、どのような梱包で届いたかわかりますか? 竿の形はご存じかと思います。非常に細く、そして長い。私が購入したものは二本継なので、半分の長さにはなっていますが、それでも一メートル以上あります。仕掛けは小さい物でした。しかし、パッケージサイズをサイトで確認すると、一辺だけですが、二十センチ以上ありました〉
 亜沙美はどう返せば良いかわからず、新山の話を聞いていた。
『長引いてる?』
 芹沢が心配して訊いてきた。『返金不承です』と返した。
〈そちらはサイトに梱包サイズを明記しておられますね。今、二つの商品の梱包サイズを確認してみてください〉
「かしこまりました」
 亜沙美は商品ページを開いた。新山の指摘通り、竿がかなり特殊な形状の梱包になっている。細長い。一方で仕掛けは、厚みはそれほどでもないが、パッケージの分幅がある。
「確認いたしました」
〈同じ箱に入ると思いますか?〉
「難しいかと思われます」
 新山の言っていることは正しかった。一部だけ横に広くなったシャベルのような形をした箱がなければ一緒には入れられない。
〈明らかに同梱ができない商品を、さも送ったように見せかけ、商品代金を引き落とす。詐欺といわれても仕方ないことをしていると思いませんか? なぜ、このようなことが起こったのか、発送を管轄する部署からの説明を求めます〉
 配送センターで明らかなミスがあった。しかし、梱包漏れは原因調査の対象外だ。そして、顧客対応をするのはあくまでもコールセンターに所属している社員だ。
「恐れ入りますが、梱包漏れについては調査依頼の対象外となっております。また、お客様のご対応は、私共コールセンターにてさせていただいています」
〈あなたがおっしゃったのは、ミスした人は迷惑をかけた相手に謝りもしない。それだけでなく、自分がミスをしたことも知らないままに終わるという意味ですか?〉
 亜沙美は言葉につまった。調査依頼をしないということは、そういうことなのだろうか。実際、どうなのかを知らなかった。新山は続けた。
〈届かなかった商品の代金を返すのは当然です。商品はまだそちらの倉庫にあるのでしょうから。お金を返さなければそれこそ詐取です。発送を担当する誰かがミスしたことの損害を顧客に負わせたまま、代金を返せば何もなかったことにできると、御社は考えているのですね?〉
 おっしゃる通りですとは言えない。亜沙美はどうにか、「申し訳ございません」とだけ、言葉にした。
『わたくしの説明が不足しており、お客様に誤解を与えたことをお詫びいたします。今回、発送を担当した担当者には、関係部署内にてフィードバックが行われます。しかしながら、お客様へのご対応は、コールセンターのみで行っております。お客様のご要望にお応えできず申し訳ございません』
 亜沙美は、いったん呼吸を整えて、芹沢が送ってきてくれた文章をできるだけ自然に聞こえるように読み上げた。
〈フィードバックとは、指導が入るという意味ですか?〉
 芹沢から送られた『yes』の文字が見えた。
 亜沙美は頷きながら「さようでございます」と言った。
〈その点については承知しました。どのような指導が行われたか、私にあなたから書面で報告をしていただけますか?〉
 また、亜沙美はすぐに応えられなかった。
『結果報告はできない社内規定、書面発行も一切しない』
「恐れ入ります」
 クッション言葉を発したものの、言葉がなかなか出てこない。怒鳴られてはいない。相手はいたって冷静だった。亜沙美が何かを言えばすぐに、次の質問や要求をしてくる。次は何をいわれるだろうかと思うと怖かった。
「大変、申し訳ございません。社内の規定により、担当者への指導内容の報告、および、書面の発行はいたしかねます」
 途中、少し詰まりながらもなんとか伝えた。
〈倉庫から商品を出しもせずに、クレジットカード会社に請求をし、顧客のページに平然と配達を終えたと表示させる会社が、ミスをした担当者を指導すると言ったとして、信じられると思いますか? コールセンターの一担当者の口約束だけで、納得できるわけがないでしょう〉
「新山様に大変なご迷惑をおかけしておりますことは、重々承知しております」
 謝るしかなかった。
〈最初に説明しましたね。仕掛けの方は急いでいると〉
「はい」
〈あなたは、たかだか千円ほどの釣り道具が届かなかっただけで、何をそれほどまでにごねているのだろうと思ってはいませんか?〉
「そのようなことは、思っておりません」
 亜沙美は、すぐに否定した。釣りのことはよくわからないが、必要だから頼んだことは理解できている。
〈私は普段忙しいのです。やっと、ゆっくり釣りに出かけられそうな日ができたので、その日に間に合うようにあなたが勤めている会社に道具を注文しました。ただ、仕掛けが届かなかったので、明日の予定がなくなりました。準備をするはずだった時間で、納得いくまであなたにお話を伺います。よろしいですね〉
 亜沙美は「かしこまりました」と言った。マウスを持つ手が震えていた。新山は声を荒げはしない。しかし、言葉にいちいちとげがある。強い怒りを感じているのがわかる。よほど、釣りに行くのを楽しみにしていたのだろう。気の毒だとは思う。しかし、亜沙美にはどうすることもできない。
〈これは憶測ではありますが、御社ほどの規模であれば、同梱するかどうかは、システムで自動選定しているのではありませんか?〉 
 配送センターのだいたいの仕組みは、研修で習った。亜沙美は、非公開情報ではなかったかと、心配になり答えられなかった。
〈このくらいの質問をしてくる人は私以外にもいるでしょう? あなたはもしかして、新人ですか?〉
 所属年数については答えないように言われていた。
「私の対応がいたらず、申し訳ございません」
〈当然、新人さんだからと言って、こちらが折れるいわれはありません〉
 亜沙美も、それはわかっている。
「お答えできる内容かを確認しておりました。お客様のおっしゃる通り、自動選定でございます」
 芹沢が答える内容を指示してくれたので、亜沙美は伝えた。
『上席対応を持ち出して』
 芹沢が電話を代わってくれるという。亜沙美は心の底からホッとした。
「大変恐れ入ります。新山様。私では十分なご案内ができないため、上席にて対応いたします」
 亜沙美は、転送の間保留にすることを説明しようとした。
〈代わらなくていいです〉
「しかしながら、私では力不足のため」
 亜沙美の言葉は遮られた。
〈上の人から、心にもない完璧な謝罪をされて、あなたはその後でクレーマーに当たって大変だったねと労われるんですよね〉
「新山様を、クレーマーとは思っておりません」
〈わかってますよ。あなたは、経験が浅い印象はありますが、私の話を聞こうと努力しているのは伝わってきています。だから、軽くあしらおうとしている上の人に代わってもらわなくて良いです〉
 今になって「さっさと怒らせて代わってもらった方が早い」という、琴美の言葉が心に響いた。できもしないくせに、自分でどうにかしようと無理をしなければよかった。
『大丈夫、永遠に終わらない対応はない』
 芹沢が励ましてくれた。
『誠意は認めてくれている。満足するまで質問に答えて』
 フォローアップ期間中で本当に良かった。一人だったら、何も答えられなかったに違いない。
 新山はいくつか細かい質問をしてきた。芹沢に指示されながら、亜沙美は一つ一つ回答していく。どの質問も、「非公開情報のためお答えできません」か「ご対応いたしかねます」のどちらかで返さなければならなかった。
『多分、対応できないことをわざわざ選んで要求してきている』と、書き込んできた。
〈御社はなかなかの規模がありますが、ネット通販の中では中堅ですよね。世界を支配している最大手に及ばないのはもちろん、国内大手にもまだまだ追いついていない。それなのに、すでに大企業病にかかっているのではありませんか?〉
『ご指摘の通りかもしれません。申し訳ございません』
 読み上げる声がつい小さくなってしまう。
〈あなたの上司の方はお近くにいますか?〉
『おります』
 芹沢の指示通り返す。
〈それならば、いったん代わってください。最後にあなたに言いたいことがあるので、必ず、逃げずに、そのままそこにいてくださいね〉
 すでに定時退社の時間を過ぎている。残っていいのかも自分では判断できなかった。
『OK』芹沢から許可が下りた。
「承知いたしました。上席よりお話させていただいた後、私も再度、新山様のお話をお伺いします」
 亜沙美はいったん保留にし、芹沢を指定して電話を転送した。隣からコール音が聞こえてきた。
「お待たせいたしました。芹沢と申します。よろしくお願いいたします」
 亜沙美は、モニタリングに入っているわけではないので、芹沢の声しか聞こえない。
「この度は、非常にご迷惑をおかけしております。まずはその点についてお詫びいたします」
 芹沢の声が、いつもと違う。少し低く響く。新山は、芹沢が亜沙美との会話をずっと聞いていたとは知らないため、また、一から要求を説明しているらしい。相槌をいれながら新山の話を聞いたあとに、芹沢から質問を投げかけた。
「次には、いつお休みを取られるのでしょうか?」
 新山に質問の意図を尋ねられたのだろう。
「何か、お役に立てることはないかと思いお尋ねいたしました」
 芹沢が相槌を打っている。
「さようでございますか。常に、いつ商談が入るかわからないということですね」
 新山はさっき言っていたように、滅多に休みが取れないようだ。亜沙美は、せっかくの休みを台無しにされた新山の憤りも理解ができていた。芹沢が、普段の在宅時間などの聞き取りを始めた。
「お一人でお住まいなので、お受けとりもなかなか難しいということですね」
 明日の釣りに間に合わないとしても、できる限り早く受け取ってもらえるよう方法を模索している。職場へのお届け先の変更を提案した。新山から、直行直帰もよくある営業職だと説明されたようだ。
「そうですね。釣りとなりますと天候も重要ですね」
 新山から具体的になぜ、届けられなかった仕掛けが急ぎであるかを説明されているらしい。
「季節によって、釣れる魚には違いがあるのですか」
 芹沢が、適度に相手の言葉を復唱しながら傾聴しているのがわかる。しばらく、新山と芹沢のやり取りは続いた。
「新山様のご事情は、重々承知しております。当サイトとしてできる限りのご提案をさせていただきます」
 芹沢は、届けられなかった商品の代金の返金に加え、商品代金とほぼ同等の千円分のクーポンの発行を提案した。
「もちろん、金額の問題ではないこと、承知しております。お問い合わせいただくにあたりお使いいただいているお時間、また、商品が到着しなかったために、ご予定の変更を余儀なくされてしまった新山様へのご迷惑を考えれば、千円のクーポンでそのすべてを補えるとは思っておりません」
 新山は、納得してくれていないようだ。
「新山様は、あくまで商品を受け取りたいとお考えであり、金銭の要求をされているわけではないこと、承知しております。しかしながら、明日の早朝までに商品をお届けできる状況にございません。ご希望に添えないお詫びとして、心ばかりではございますが、お受け取りいただけないでしょうか」
 しばらく、芹沢が相槌を打ちながら、相手の話を聞いている状態が続いた。
「当サイトとして可能な限りのご提案をさせていただいております。これ以上の対応をご要望の場合、第三者機関へのご相談をお願いいたします」
 第三者機関は、『消費者生活センター』や『警察』を指す。
 亜沙美は感じた。自分にはまだ逃げ場があるから、中途半端な対応になったのだ。芹沢には自分が最後の砦であることを自覚しその役割を全うしようという覚悟がある。自信なげな言葉は相手に隙を与えてしまう。だから、芹沢は、丁寧でありながら毅然としている。
「ご理解いただき、ありがとうございます。かしこまりました。先ほどの担当者へ電話を戻します。このままで少々お待ちください」
 亜沙美のPCから、コール音がなった。一度空気を吸い込んで、電話に出た。
「お待たせしました」
〈あなたは、佐藤さんでしたね〉
 出た途端に訊かれた。「はい、佐藤でございます」と返す。
〈近くにいたのですから、聞こえていましたね。あなたの上司の方の応対〉
「はい」
〈どうでした?〉
 上手かったとは言えない。
〈わかっているとは思いますが、私はあなたの上司の提案を受け入れました〉
「はい」
 亜沙美は、適切な言葉が思いつかず、ただ、返事をした。
〈なぜだかわかりますか?〉
「ご納得いただけたのでしょうか……」
 電話の向こうで新山が笑った。
〈これ以上何を言っても無駄だと思っただけです〉
「ご期待に添えず申し訳ございません」
 新山に、最初から、何も期待していませんよと言われた。
〈私は馬鹿じゃない。たった千円ほどの商品を売って、どのくらいの利益が出るかだいたい予想できます〉
 亜沙美の方は、利益に関して考えたことがなかった。
〈御社の配送センターは多分、大阪の茨木あたりにありますね。いますぐ、商品を持ってこいと要求して、物理的にそれが可能であったとしても、たった、数百円の利益しかうまないもののために、荷物を一つだけ持って、舞鶴くんだりまで来るはずがない。そして、コールセンターの人件費もおおよそ見当は付きます〉
 亜沙美の給与は時間当たり千百円で計算されていた。芹沢は基本給も当然、亜沙美より多く、役職手当もついている。
〈あなたは一時間以上私の応対をしている。上司の方はつきっきりではないにしろ、いつでもあなたと代われるように待機していたことでしょう。御社にも費用が発生していることは、わかっています。しかし、私には何も落ち度がない。ミスをしたのがあなたでなくても、御社の誰かがその尻ぬぐいをするのは当然です〉
「おっしゃるとおりです」
 芹沢の応対で、もう終わるのかと思っていたので、亜沙美はさきほど以上に気持ちが沈んでいた。
〈わかっていないと思うので伝えますが、この問い合わせを長引かせているのは、あなたです、佐藤さん〉
 亜沙美は、ショックだった。新山の立場になって、一生懸命対応したつもりだった。
「私が、いたらないばかりに、申し訳ございません」
 泣いてしまいそうなのを、亜沙美は堪えた。
〈苦情に対しては、共感と傾聴ですかね。研修で習ったんではありませんか?〉 
 亜沙美は何も言えなかった。
〈顧客に寄り添う。あなたはその意味を取り違えている〉
 芹沢も何も指示をくれない。亜沙美はどうしていいかわからずただ「申し訳ございません」と口にした。
〈私が言っていることも含めて、あなたは真に受けすぎです。私がこうむった迷惑について、心から詫びてくれていることはわかりました。あなた自身は何も悪くないというのにね。だから、あなたに教えてさしあげたくなったんです〉
 新山がいったん言葉を切った。亜沙美は、何も言えずに言葉を待った。
〈あなたはこの仕事に向いていない〉
「はい……」
 声が震えた。
〈こういうことは、誰かにはっきり言ってもらった方が良い。この職種は、その場その場で、顧客に寄り添うふりが上手にできるタイプだけが向いている。できるだけはやく別の職種に移ることをお薦めします。でないと、あなたの心が壊れますよ〉
 新山は「以上です。長時間お付き合いいただき、ありがとうございました」と言って、電話を切った。
 亜沙美は泣いていた。たった一時間ほど話しただけの新山に、今までのすべてを見透かされた気がした。地元を離れて、一人で生活していくために、どうにか見つけた仕事だった。慣れさえすれば何とかなると言い聞かせながら頑張ってきた。
 新山の注文履歴の画面が涙のせいでぼやけている。芹沢が席を立ち、亜沙美のそばに来た。亜沙美の手に、手を重ねてマウスを操作し、システムの設定を『ミーティング』に変更した。立ったままでキーボードをたたき新山の対応の完了処理をしている。
 それから、亜沙美の肩を軽く掌で叩いた。亜沙美は声が漏れそうになり、手で口を押さえた。
 芹沢がミーティングルームへ移動するように言っているのはわかっている。亜沙美は俯いたまま立ち上がった。
 ミーティングルームに入るなり亜沙美は芹沢に謝った。コール室で泣くなどもっての他だ。今もまだ涙が止まらない。ポケットからハンカチを出して拭った。
「気にしないで」
 泣いていることに対してか、新山から言われた言葉に対してか、わからなかった。亜沙美は、長時間責められたせいか、感情が上手くコントロールできなくなっていた。
「今日で、芹沢さんにサポートしていただけるのも最後で、この先どうすればいいかわかりません。仕事を、続けていく自信がありません」
 おさまりかけていた涙がまた溢れた。
「今日は、定時も過ぎているし、疲れているだろうから……」
 芹沢が深く息を吐いた。
「佐藤さん、明日の休みに予定はある?」
 琴美と会うのは明後日だった。「特にありません」と返した。
「少し、時間貰えるかな。そうだ、毛先をそろえてあげる。その時に話をしよう」
 芹沢から電話番号を訊かれた。亜沙美は答えた。しかし、筆記用具がない。亜沙美が心配していると「大丈夫、もう覚えたから」と芹沢が笑った。
 芹沢は、この後、報告があるのでしばらく残ると言った。
「僕の家の場所は電話で知らせる。それじゃ、PCを落としにコール室にいったん戻ろうか」
 亜沙美は頷いた。
 明日、芹沢の家に行くことになった。嬉しいはずなのに、亜沙美の心は沈んだままだった。芹沢は明日から九連休を取っている。旅行へ行くと言っていた。明日は準備をする予定なのかもしれない。どちらにしても忙しいはずだ。亜沙美を励ましてくれるつもりでいる。親身になってくれているのに、それもすぐに無駄になる。
〈あなたはこの仕事に向いていない〉
 亜沙美にとっては、呪いの言葉だった。

 亜沙美は落ち込んだまま家に帰った。琴美も、亜沙美が時間になっても帰れなかったことに気づいたらしく、心配のメッセージが届いていた。やり取りをする気力もなかった。
『今度会った時に話すね』と返した。
 すぐ反応があり『今、電話できる?』と、訊かれたけれど、芹沢から電話がかかってくるかもしれないので、『ごめん、疲れてるから』と断った。
 クレームの対応から時間が空いてきたので、少しずつ亜沙美も落ち着いた。途端に、明日、芹沢の家に行くことに緊張し始めた。
 夕食時になったが何も食べる気が起きない。
 十九時過ぎに電話が鳴った。登録していない番号なので、芹沢だと思った。
〈お疲れ様〉
 声を聞いただけで、苦しくなるほどに鼓動が速くなった。挨拶を返す声が上ずった。
〈今日は本当に、大変だったね〉
 落ち着いたかを訊ねられた。少しは引きずっているものの、直後よりはだいぶ落ち着いている。
 芹沢から、お昼前に来られるかを訊かれた。せっかくだからお昼ご飯を一緒にどうかと誘われた。亜沙美がひどく落ち込んだところを目の当たりにしたため、なんとか励まそうとしてくれているのはわかっている。それでも亜沙美は嬉しかった。
 芹沢との電話の後、亜沙美はクローゼットを開けて、しばらく悩んだ。あまり気合を入れたら変に思われるかもしれない。さりげなく、可愛く見える服の組み合わせはないか。元カレとデートに行くときでさえ、こんなに服装で迷ったことはなかった。
 迷いに迷った末に、亜沙美は普段通りの服で行くことにした。
 結局、夕食は喉を通りそうにないので作らなかった。髪を切ってもらうので、直前に洗髪をすることにした。亜沙美は早めにベッドに入ったけれど、なかなか寝付けなかった。
 翌朝は、いつもより丁寧に髪を洗った。芹沢がもし美容院を経営したら、髪も洗って貰える。背もたれを完全に倒して仰向けに寝て、タオルを顔に載せられ、「力加減いかがですか?」と、芹沢の声で問われる。勝手な空想で、亜沙美は心を躍らせた。
 髪を丁寧に乾かし、芹沢の家に向かう。前に琴美が芹沢を見かけたこと言っていたコンビニまで迎えに来てもらえる。
 もうすぐ十二月になる。それでも、バス停二つ分の距離を歩けば汗をかきそうだ。亜沙美は頑張ってバスで移動した。
 コンビニに着いた。入り口近くに、クリスマスケーキの予約を促すポスターが貼ってある。
 亜沙美は、芹沢に電話をかけた。
 五分もせずに芹沢が来た。
「先にごはんを食べに行こう」
 言われて、亜沙美は頷いた。浮かれてしまっている自覚はあった。ただもう抑えられそうになかった。 芹沢は民家の一部を改装した隠れ家風のカフェに連れて行ってくれた。京野菜をふんだんに使ったパスタランチが売りらしい。今週は『聖護院かぶらナーラ』がお薦めメニューになっていた。聖護院かぶらをクリーム仕立てにしてある。芹沢がそれにすると言うので、亜沙美もならった。
 芹沢がフォークを回す指につい見惚れた。亜沙美は緊張して、パスタを上手く口に運べず、その辺りにスープをはねさせた。恥ずかしくて仕方なかった。
 芹沢が笑いながら、ペーパーナプキンを渡してくれた。
「すごく意外。佐藤さん、器用そうなのに」
「ごめんなさい」
 亜沙美は、耳が熱くなるのを感じながら俯いた。
「いや、なんか可愛くって」
 芹沢の言葉に驚いて顔をあげた。微笑みかけられた。
 亜沙美は、心臓が口から飛び出しそうだと思った。
 食事を終え、芹沢の家に向かう。パスタは美味しかったはずなのに、味をほとんど覚えていなかった。
 芹沢の家は、カフェのすぐ近くにあった。二階建ての軽量鉄骨のアパートだ。鉄製の階段を上がっていく。一番奥が芹沢の部屋だった。
 玄関から入ってすぐに水場と簡易キッチンがあった。短い廊下をすすむと、六畳ほどのリビングになっていた。もう一つ部屋があるので、寝室だろう。
 物が少なくて、亜沙美は驚いた。二人掛けの食卓がおいてあり、上にタオルやケープが用意してある。トレーにハサミが並べてある。霧吹きもあった。
 壁に、姿見が立てかけてある。
 芹沢は、食卓から椅子を引き出して、姿見の前に置いた。
「かけて」
 亜沙美は背筋を伸ばして座った。真正面に鏡があって、亜沙美の後ろで、芹沢が準備をすすめているのが映る。
 芹沢が「先に、クロスをつけるね」と言った。タオルを首に巻いてから、亜沙美にケープを着せた。よく美容院で見る本格的な物だった。
 それから、髪を梳かしてくれる。優しい手つきだった。
「そろえるだけで良い?」
 今は肩にかかる程度だった。亜沙美は少し考えたあと、「少し短めにしてもらえますか?」と言った。
「ショート?」
 芹沢が少し驚いている。
「ショートまでは……あごの少し下くらいのイメージです」
 芹沢がサイドの髪を、あごの高さでつまんで「このくらい?」と訊いてきた。頬に、冷たい指が触れた。
「お願いします」
 鏡に映る芹沢と目があった。微笑んで頷いた。
 芹沢は亜沙美の髪を霧吹きで濡らした。それから髪をいくつかにわけてクリップでとめた。
「腕は心配ないよ。時々、ヘルプで呼ばれて切ってるから」
 実家が美容院をしているらしい。
「お店を継がないんですか?」
「うーん、ダメなんだよ。ハサミを持つと、なんていうのかな、何もかもを切り刻みたくなる衝動が起こってしまって」
 芹沢はそう言った後に、ハサミを手に取った。亜沙美は鏡の中の芹沢の表情を窺った。
「冗談だよ。兄も美容師だから、実家は心配ない。僕が働いていたのは、別のお店だったしね」
 芹沢が髪を切り始めた。耳の後ろ辺りで刃のこすれあう音が聞こえる。
「僕は美容師に向いてなかったんだ。皮膚が弱くて、手荒れがひどくてさ。専門学校の実習くらいは耐えられたんだけど、実際に修行に入ったら、大変な状態になってしまって」
 時々、実家を手伝うのがちょうど良いと言って、芹沢が笑った。
「やっぱり、普通の椅子だと高さが足りないなあ」
 よく見ると、芹沢が中腰になって高さを合わせている。
「最近、スクワットをさぼり気味だったからちょうどいいや」
 亜沙美は笑ってしまった。
「佐藤さんも、適度に運動を取り入れたほうがいいよ。デスクワークだから、すぐ足腰が弱ってくる」
 芹沢は、雑談をしながら、手際よく髪をカットしていく。本当に美容師だったんだなあと、亜沙美は思った。何度も想像した美容師としての芹沢が今、そばにいる。憧れていたことが実現した。
 亜沙美は、気になっていたことを芹沢に訊いた。
「旅行は明日からなんですか?」
 芹沢が「そのつもり」と言った。
「いつもね、スマホを家に置いて、アナログ旅をしてるんだ。駅の券売機で切符を買って、電車に乗って、着いた先でふらっと立ち寄った宿に泊まる。今回は、行き先を急遽変更することにした。準備不足ではあるけど、それでもどうしても行っておきたくて」
 亜沙美はどこに行くのかが気になった。琴美が、絶対に教えてくれないらしいと言っていたのを思い出す。
 一応は「どこに行くんですか?」と、訊いてみた。
「海の近く」
 地名は教えてもらえなかった。
「良いですね。私の地元は海に近いので、時々海が見たくなります」
「佐藤さんも舞鶴だったね」
 ほかにも、舞鶴出身の人がいるらしい。亜沙美は、同僚の出身地をほとんど把握していなかった。
「最寄りは、西舞鶴? 東舞鶴?」
 亜沙美は、西と答えた。
「実家に戻る予定はあるの?」
 髪を切っている間の雑談だとわかっている。それでも、芹沢から興味を持たれているようで嬉しかった。
「しばらくは、帰らないです」
 芹沢が「意外に近そうだから」と言った。
「昨日の人には、もう当たらないから安心して」
 芹沢が気にしていたのは、昨日の新山と言う客のことだったようだ。もともと、ヘビーユーザーでもなかった。それに、いちゃもんをつけてくるタイプでもない。梱包漏れ自体が、そう頻繁に起こるトラブルでないことも知っている。
 芹沢は舞鶴市に思っていた以上に詳しいらしい。たまたま対応した客と実家の住所が近いからと言って、会ったことがあるわけでもない。亜沙美は、もう新山の家の町名しか覚えていない。顔も知らないのだから、里帰りした際にすれ違ったとしても気づくことはない。芹沢は、仕事を辞めて地元へ戻るつもりがあるのかを訊いてきたのかもしれない。確かに、実家で暮らしていれば、どこかで出会う可能性はある。
「仕事は、頑張って続けます」
 不安はもちろんある。しかし、亜沙美は今の職場で頑張るしかないのだ。 
 鏡に映る芹沢が目を細めた。
 教育係の芹沢にとって、育てた人材がすぐに辞めてしまうことがマイナスなのもわかっている。亜沙美は芹沢が、それだけでなく心配してくれていると感じた。 
 「旅行から帰ってきたら、しばらくはヘルプラインだ。僕はブラザーの仕事が結構好きなんだよ。来年早々から、業務拡大の三か年計画が始まって、コールセンターも大幅増員される。今みたいなマンツーマンのブラザー制度はゆくゆく廃止になる方向みたいなんだよね。どうなっていくんだろうね」
 研修制度が変更になる前の入社で良かったと思った。
 髪を切り終わった後に、軽くブローもしてもらった。普段より短めにしたので、印象がだいぶ変わった。
「どう?」
「すごく、気に入りました」
 亜沙美は、これ以上ないというくらいの笑顔でお礼を言った。
 旅行の準備を邪魔しないよう、亜沙美は帰ることにした。
 芹沢は、バス停まで送ってくれた。バスを待っている間で、「旅行にはスマホを持っていかないから出られないけど、なんかまた辛いことがあったら、いつでも電話をしてきていいよ」と、言われた。
 それから「あと、髪を切ったことも、電話番号を教えたことも、会社の人には内緒にしてもらえる?」と、口止めをされた。
 何か特別な約束をしたような気がして、亜沙美は嬉しかった。 
 翌日は琴美の家へ料理を習いに行った。
 会って最初に、亜沙美の髪型をみて「ボブ、似合うね」と、褒めてくれた。
「どの美容院で切ったの? 近く?」と、訊かれ焦った。駅の近くの店にふらっと入って揃えてもらったと嘘をついた。
「お店の名前教えて。私もそこで切りたい」
 亜沙美は「ごめん、お店の名前忘れた」と、誤魔化した。琴美が「思い出したら教えてね」と、諦めてくれた。
 揚げ出し豆腐とぶりの照り焼き、根菜のお味噌汁の三品を一緒に作った。琴美は和食も上手に作れる。亜沙美ももっとレパートリーを増やしたかった。

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