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著者が語る:『反オカルト論』<矢作直樹氏のスピリチュアリズム>!

『反オカルト論』は、「非論理・反科学・無責任」な妄信を「欺瞞=オカルト」とみなす一方で、その対極に位置する「論理的・科学的・倫理的」な人類の築き上げてきた成果を「学問=反オカルト」とみなすという「広義」のスタンスに拠っている。

21世紀の現代においてさえ、「オカルト」は生き続けている。社会には「血液型占い」や「六曜」や「十干十二支」のような迷信が溢れ、「占星術」や「祈祷治療」や「霊感商法」のような妄信が跋扈している。さらに、「生まれ変わり」を煽る<医師>、「研究不正」を行う<科学者>、「江戸しぐさ」を広める<教育者>が存在する。その背景には、金儲けや権威主義が絡んでいるケースも多い。

本書では、「騙されない・妄信しない・不正を行わない・自己欺瞞に陥らない・嘘をつかない・因習に拘らない・運に任せない・迷信に縛られない」ために、自分自身の力で考え、状況を客観的に分析し、物事を道徳的に判断する方法を、わかりやすく対話形式で提示したつもりである。

その「第6章:なぜ因習に拘るのか」の「矢作直樹氏の『見えない光』」には、次のような問題が登場する(pp. 206-216)。

助手 昨夜、時間をかけて話し合った結果、母が父の霊を気にしている理由がわかりました。矢作直樹著『人は死なない』に、人間の肉体は滅びても霊は生き続ける、つまり「人は死なない」と書いてあって、それに影響を受けているんです!
 この本の表紙には、出版当時の矢作氏の肩書が「東京大学大学院医学系研究科・医学部救急医学分野教授、医学部附属病院救急部・集中治療部部長」と大きく宣伝されていて、母は、この肩書で信用したらしくて……。
教授 矢作氏といえば、新聞記事のインタビューで、立派な意見を述べていたよ。「危険な宗教には近寄ってはいけません。見分けるのは簡単です。心身を追いつめる、金品を要求する、本人の自由意志に干渉する、他者や他の宗教をけなす、そんな宗教は危険です」(『読売新聞』二〇一三年二月十五日付)とね。この「危険な宗教」の見分け方は核心を突いていて、一般読者にも有益なのではないかな。
助手 でも、最近の矢作氏は、まさに自分が批判している「金品を要求する」スピリチュアリズムに加担しているらしいんですよ。
 「告発スクープ・大ベストセラー『人は死なない』著者・東大病院矢作直樹救急部長・大学内で無断〝霊感セミナー〟」(『週刊文春』二〇一五年四月十六日号)によると、矢作氏は、都内マンションの「ヒーリングサロン」に現れては「手かざし」を行っているそうです。
 「矢作氏はひとりの女性に近づき、掌をかざして頷きながら目を瞑る。約三分続けた後、こう語りかけた。『いま見えない光を送り込みました。うん、見えない光をね』」と……。
教授 「見えない光」だって? 一般に、電磁波の中で、視覚で認識できる波長を「可視光線」つまり「光」と呼び、それ以外の紫外線や赤外線のような「不可視光線」は「光」とは呼ばない。だから「見えない光」という言葉自体、矛盾しているんじゃないかな。
助手 ですよね。それで私も矢作氏の本を読んでみたら、その類の科学用語のオカルト的流用や飛躍が多くて、ビックリしたんです。
 たとえば矢作氏は「人知を超えた大きな力の存在」を「摂理」と呼びながら、その存在の根拠には触れていません。それどころか「そもそも摂理や霊魂の概念は、自然科学の領域とは次元を異にする領域の概念であり、その科学的証明をする必要はないのではないでしょうか」と述べています。
 この論法を認めると、自然科学と「次元を異にする」と開き直れば、どんな概念でも「科学的証明」なしで使えることになってしまいます。
 評論家の立花隆氏は、矢作氏の著作について、次のように評価しています。「文章は低レベルで『この人ほんとに東大の教授なの?』と耳を疑うような非科学的な話(たとえば、百年以上前にヨーロッパで流行った霊媒がどうしたこうしたといった今では誰も信じない話)が随所に出てくる。これは東大の恥としかいいようがない本だ」(『文藝春秋』二〇一四年十月号)
教授 それで、「金品を要求する」スピリチュアリズムとは、どういうことなの?
助手 『週刊文春』の記事によると、矢作氏が「手かざし」を行っているサロンの経営者は、一度の「ヒーリング」で三万円、さらに「不健康を避けるためには先祖供養が必要」と十万円の追加料金を徴収することもあるそうです。
 矢作氏は、その経営者と同じ部屋に居るわけですから、「患者」からすれば、東大教授がお墨付きを与えているように映るのではないでしょうか?
教授 もし現役の医師が治療と称して「手かざし」を行ったり、先祖供養に金品を要求する「霊感商法」に関わっていれば、「医師法」に抵触する可能性がある。
 そもそも矢作氏は、自分の書いた書籍が一般読者に及ぼす影響力を、どのように認識しているのかな……。
 東大教授で附属病院医師といえば、何よりも理性的な判断が求められるはずだ。なぜ矢作直樹氏は、スピリチュアリズムに傾倒するようになったのか……。
助手 矢作氏は、次のように書いています。「大学で医学を学び、臨床医として医療に従事するようになると、間近に接する人の生と死を通して生命の神秘に触れ、それまでの医学の常識では説明がつかないことを経験するようになり、様々なことを考えさせられました。そうした経験のせいもあって、私は極限の体験をした人たちの報告、臨死に関するレポート、科学者たちが残した近代スピリチュアリズム関係の文献を読むようになりました」(前掲書)
教授 たしかに、多種多様な人間の「死」と日々直面しなければならない臨床・救急医療の従事者には、我々に計り知れない心労があるのかもしれない。
 とはいえ、必ずしもそこから「スピリチュアリズム」に飛躍する必然性もないわけだがね。それで、どんな文献を参照したんだろう?
助手 驚いたことに、矢作氏は、フォックス姉妹のイタズラだった「ラップ現象」を「近代スピリチュアリズム史上初の他界との交信、すなわち人間の死後存続を証明する事例」と認めています。さらに、ウィリアム・クルックスを「イギリス科学界の重鎮」、シャルル・リシェを「ノーベル生理学・医学賞を受賞した第一級の科学者」と紹介し、彼らの心霊研究を学界で認められた既成事実であるかのように引用しています。
教授 矢作氏は、その二人の著名な科学者が、霊媒師アンナ・フェイやミナ・クランドンに騙されたことも、調査していないんじゃないか。もちろん、フォックス姉妹についても、まったく理解していないようだ。
 スピリチュアリズム関係の文献には、平気で嘘を真実のように並べたものもある。しかし、彼も研究者である以上、文献を安易に受け入れてはならず、批判的文献を比較検討して信憑性を明らかにしなければならないことなど、重々承知しているはずだが……。
助手 二〇〇七年五月、矢作氏の母親が入浴中に孤独死しました。遺体は死後三日間、発見されず、矢作氏が検視に立ち会った際、「遺体の傷み方がひどく、水没した顔は皮膚が弾けんばかりに膨れて、本人の確認ができないほど」だったそうです。
 「私は、生前の母に対して親孝行らしきこともせず、また晩年の母にも十分な対応をしてやれなかったことがひどく心残りで、毎晩寝る前にそうした悔悟の念を込めて手を合わせていました」(前掲書)
 この事件が矢作氏の大きな「自責の念」に繋がり、その後「交霊」によって「母と再会」したことによって、肉体は滅びても霊魂は生き続けると「確信」するようになったそうです。
教授 すでに触れたコナン・ドイルや浅野和三郎をはじめ、家族の死をきっかけにスピリチュアリズムに没頭するようになる事例は多い。
助手 だから、交通事故で突然、無残な姿になった父を看取った私の母も、矢作氏の本を読んで共感したみたいです。父の霊魂が別世界で生きていると思う方が、母も精神的に安定できるらしくて。その気持ちは、娘の私もよくわかるのですが……。
教授 もし人間の本質が「霊魂」であれば、「死」そのものが存在しなくなり、いわば「生きる世界」が変わるだけの話になる。これは、何も目新しい発想ではなく、世界各地の古代社会から散見される信仰形態の一つだからね。
助手 でも、いくら気が楽になるからといって、母には「来世」ばかりに執着してほしくないのです。
 そもそも、どうして矢作氏のように立派な肩書の科学者が、霊媒師を疑うことも追及することもなく、「母と再会」したという「交霊」をナイーブに事実として受け入れ、それを根拠に「霊魂」の存在を「確信」し、さらに「人は死なない」と断言できるのでしょうか。
教授 人間は、見たいものを見て、信じたいものを信じるという顕著な一例だね。
助手 矢作直樹氏は、二〇一一年の『人は死なない』に続けて、二〇一四年には『おかげさまで生きる』というベストセラー書籍を生み出しました。
 こちらの本の表紙は、青い医療用ウエアを着た矢作氏の写真。帯には「死を心配する必要はない・救急医療の第一線で命と向き合い、たどりついた、『人はなぜ生きるのか』の答え」とあります。
教授 いかにも多くの読者を惹きつけそうなタイトルだが、なぜ「死を心配する必要はない」のかな?
助手 その理由は、「そもそも私たちの本質は肉体ではなく魂ですから、病気も加齢も本当は何も怖がる必要はないのです」ということで、一貫していますね。
 さらにこの本には「肉体の死は誰にも等しくやって来ますが、死後の世界はいつも私たちの身近にある別世界であり、再会したい人とも会えます」と書いてあります。
教授 どうしてそこまで断定できるんだろう……。
助手 矢作氏が「死後の世界」を信じるのは自由でしょうが、それを既成事実であるかのように本に書くことには大きな問題があると思います。とくに本の表紙に「東京大学大学院医学系研究科・医学部救急医学分野教授、医学部附属病院救急部・集中治療部部長」と記載されている場合は……。
 矢作氏の著作では、「現実」と「非現実」が区別されないまま同じ文体で語られていくため、いつの間にか読者はスピリチュアルな世界に引き込まれる仕組みになっています。
教授 まさにそれは、科学者というよりも宗教者の執筆スタイルだなあ……。
助手 たとえば「救急には毎日のように、重篤な患者さんが運ばれてきます。……大半は意識がなく、場合によっては心肺停止状態で担架に乗せられてやって来ます。交通事故、殺傷事件、自殺未遂、脳卒中、心筋梗塞」というのは、明らかに「現実世界」の話。
 ところが同じ本の後半には、私たちが「競技場で動くプレーヤーのような存在」で、現実世界における苦難を「乗り越え、課題をクリアし、人生という競技を学ばなければならない」とも書いてあります。
 比喩的に道徳を語るのかと読み進めていくと、「観客席には他界した方々がいて、声援を送りながら私たちを見守ってくれています」と、すでに話は「非現実世界」に飛んでいるんです。
 「私たちが疲れ果て、へとへとになり、悩んでいるそんな時でも、観客席からは『負けるな』という声援が飛んでいます。そして、何らかの難しい局面を無事に乗り切った時は、『よくやった』とご先祖さまたちは拍手喝采です」(前掲書)
教授 すると、難しい局面を乗り切れなかったときには、「ご先祖さまたち」が「観客席」でブーイングするのかな。まるで、おとぎ話かマンガのような世界観だね。
助手 私が『週刊文春』のスクープ記事を読んで一番驚いたのは、「手かざし」について記者から尋ねられた矢作氏が、次のように答えていることです。
 「普通の治療で治らない時にそういうものを成仏させる。誰にも憑いている守護霊団というのがあるんですが、(記者を見つめて)あなた様方のところにも、こう重なって我々には見えるわけですね。エネルギーを出す力はたぶん私が一番強い。先祖の名前くらい言ってくれれば五秒くらいでアクセスできますよ」
教授 その記事によれば、矢作氏は、他人の「守護霊」が「見える」と同時に「先祖霊」に「アクセス」でき、医学的治療で治らない患者に対して、「そういうものを成仏させる」こと、すなわち「除霊」を目的として「手かざし」を行っていることを認めているわけか。
 もしかして矢作氏は、東大病院に救急で運ばれてきた末期患者にも「手かざし」しているのかな?
助手 正直言って私、スピリチュアリストが「救急部・集中治療部部長」を務める病院に救急車で運ばれるのは怖いんのは怖いんですが……。
 『週刊文春』の取材に対して、「東大病院パブリック・リレーションセンター」は、すべての質問に対してノー・コメント、「理由を含めコメントいたしません」と回答したそうです。ちょっと、無責任すぎるんじゃないかしら?

読者は、矢作直樹氏の行動や責任について、どのような感想をお持ちだろうか? なぜ彼のような立場にある人物が、いとも簡単に「スピリチュアリズム」に傾倒してしまうのか? 「文章は低レベルで『この人ほんとに東大の教授なの?』と耳を疑うような非科学的な話」とまで酷評される書籍を彼が平気で世に問うことができるのは、なぜだろうか?

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