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論理トレーニング『コーヒー哲学序説』

 難易度 ★★★★☆

 今回は寺田虎彦『哲学コーヒー序説』を使用した論理トレーニングの問題です。ちなみに、『哲学コーヒー序説』は、物理学者の寺田虎彦が昭和8年の月刊総合雑誌『経済往来』に寄稿したエッセイです。また、難易度は東大理系の現代文とほぼ同レベルです。

*添削して欲しい方は、是非、コメント欄にお気軽にご解答下さい。

 以下の文章を読み、設問に答えよ。

①コーヒーが興奮剤であるとは知ってはいたがほんとうにその意味を体験したことはただ一度ある。病気のために一年以上全くコーヒーを口にしないでいて、そうしてある秋の日の午後久しぶりで銀座《ぎんざ》へ行ってそのただ一杯を味わった。そうしてぶらぶら歩いて日比谷《ひびや》へんまで来るとなんだかそのへんの様子が平時とはちがうような気がした。公園の木立ちも行きかう電車もすべての常住的なものがひどく美しく明るく愉快なもののように思われ、歩いている人間がみんな頼もしく見え、要するにこの世の中全体がすべて祝福と希望に満ち輝いているように思われた。気がついてみると両方の手のひらにあぶら汗のようなものがいっぱいににじんでいた。なるほどこれは恐ろしい毒薬であると感心もし、また人間というものが実にわずかな薬物によって勝手に支配されるあわれな存在であるとも思ったことである。
②スポーツの好きな人がスポーツを見ているとやはり同様な興奮状態に入るものらしい。宗教に熱中した人がこれと似よった恍惚《こうこつ》状態を経験することもあるのではないか。これが何々術と称する心理的療法などに利用されるのではないかと思われる。
③酒やコーヒーのようなものはいわゆる禁欲主義者などの目から見れば真に有害無益の長物かもしれない。しかし、芸術でも哲学でも宗教でも実はこれらの物質とよく似た効果を人間の肉体と精神に及ぼすもののように見える。禁欲主義者自身の中でさえその禁欲主義哲学に陶酔の結果年の若いに自殺したローマの詩人哲学者もあるくらいである。映画や小説の芸術に酔うて盗賊や放火をする少年もあれば、外来哲学思想に酩酊《めいてい》して世を騒がせ生命を捨てるものも少なくない。宗教類似の信仰に夢中になって家族を泣かせるおやじもあれば、あるいは干戈《かんか》を動かして悔いない王者もあったようである。
④芸術でも哲学でも宗教でも、それが人間の人間としての顕在的実践的な活動の原動力としてはたらくときにはじめて現実的の意義があり価値があるのではないかと思うが、そういう意味から言えば自分にとってはマーブルの卓上におかれた一杯のコーヒーは自分のための哲学であり宗教であり芸術であると言ってもいいかもしれない。これによって自分の本然の仕事がいくぶんでも能率を上げることができれば、少なくも自身にとっては下手《へた》な芸術や半熟の哲学や生ぬるい宗教よりもプラグマティックなものである。ただあまりに安価で外聞の悪い意地のきたない原動力ではないかと言われればそのとおりである。しかしこういうものもあってもいいかもしれないというまでなのである。
⑤宗教は往々人を酩酊《めいてい》させ官能と理性を麻痺《まひ》させる点で酒に似ている。そうして、コーヒーの効果は官能を鋭敏にし洞察《どうさつ》と認識を透明にする点でいくらか哲学に似ているとも考えられる。酒や宗教で人を殺すものは多いがコーヒーや哲学に酔うて犯罪をあえてするものはまれである。前者は信仰的主観的であるが、後者は懐疑的客観的だからかもしれない。
⑥芸術という料理の美味も時に人を酔わす、その酔わせる成分には前記の酒もあり、ニコチン、アトロピン、コカイン、モルフィンいろいろのものがあるようである。この成分によって芸術の分類ができるかもしれない。コカイン芸術やモルフィン文学があまりに多きを悲しむ次第である。
⑦コーヒー漫筆がついついコーヒー哲学序説のようなものになってしまった。これも今しがた飲んだ一杯のコーヒーの酔いの効果であるかもしれない。

(寺田寅彦『コーヒー哲学序説』による)


 【設問】
 本文中の太字文「これも今しがた飲んだ一杯のコーヒーの酔いの効果であるかもしれない」とは、一体どういうことか。簡潔に説明せよ。

回答は下から。

 【模範解答】
 コーヒー漫筆がコーヒー哲学序説になった理由は、様々な嗜好品や文化がそれぞれ人間を酔わす効果を持つのと同様に、著者は人間の感覚器官を鋭敏にし洞察と認識を直接的にする一杯のコーヒーの効果によって、本来はコーヒーに対する単なる所感を述べるだけのはずが、コーヒーの効果に対して懐疑的客観的な態度で向き合うことで、様々な嗜好品や文化とコーヒーの間に共通する人間を酔わす効果という本質を分析してしまったからだ。

 【解説】

 まず、文章の全体を主題ごとに分析しましょう。
 文章の全体の主題は「コーヒーについて」です。
 第1段落の主題は「コーヒーと興奮剤の類似点について」です。
 第2段落の主題は「コーヒーとスポーツ、宗教の類似点について」です。
 第3段落の主題は「様々な嗜好品と様々な文化の類似点について」です。
 第4段落の主題は「コーヒーと様々な文化の一般的な類似点について」です。
 第5段落の主題は「コーヒーと哲学、酒と宗教の具体的な類似点について」です。
 第6段落の主題は「様々な嗜好品の成分と芸術の類似点について」です。
 第7段落の主題は「コーヒー哲学序説について」です。

 次に、設問を分析しましょう。

 【設問】
 本文中の太字文「これも今しがた飲んだ一杯のコーヒーの酔いの効果であるかもしれない」とは、一体どういうことか。簡潔に説明せよ。

 今回の設問は内容説明問題です。なぜなら、一般的に「一体どういうことか」と聞かれた場合、それはその文の意味を問われているからです。実際に、今回の場合だと、第7段落の「これも今しがた飲んだ一杯のコーヒーの酔いの効果であるかもしれない」という文の意味が問われているということになります。
 しかし、今回の設問、実は内容説明問題でありながら、同時に理由説明問題でもあります。なぜなら、今回、問われている文は前の文の理由に該当するからです。実際に、今回の場合だと、第7段落の「これも今しがた飲んだ一杯のコーヒーの酔いの効果であるかもしれない」という文は、第7段落の「コーヒー漫筆がついついコーヒー哲学序説のようなものになってしまった」という前の文の理由に該当しています。その理由は、第7段落の「これも今しがた飲んだ一杯のコーヒーの酔いの効果であるかもしれない」の「これ」という指示語が直前の「コーヒー漫筆がついついコーヒー哲学序説のようなものになってしまった」を指しているからです。

 なので、上記のこと踏まえて、今回の設問を書き換えると、以下のようになります。

 【設問】
 「コーヒー漫筆がついついコーヒー哲学序説のようなものになってしまったのも今しがた飲んだ一杯のコーヒーの酔いの効果であるかもしれない」とは、一体どういうことか。簡潔に説明せよ。

 では、設問の解答すべきポイントを分析しましょう。
 今回、解答すべきポイントは2つあります。

 1つ目は、主張と根拠をつなぐ論拠の説明。
 主張と根拠をつなぐ論拠の説明をします。実際に、今回の設問の場合、「コーヒー漫筆がついついコーヒー哲学序説のようなものになってしまった」という主張と「今しがた飲んだ一杯のコーヒーの酔いの効果であるかもしれない」という根拠の間には飛躍があります。そのため、なぜ、一杯のコーヒーの効果によって、コーヒー漫筆がコーヒー哲学序説になったのかという論拠を説明する必要があります。なぜなら、今回は理由説明問題なので、主張と根拠の飛躍をつなぐ論拠が説明すべきポイントになるからです。

 2つ目は、副助詞の「も」の説明。
 副助詞の「も」は同類の説明をします。実際に、今回の設問の場合、「コーヒー漫筆がついついコーヒー哲学序説のようなものになってしまったの【も】今しがた飲んだ一杯のコーヒーの酔いの効果であるかもしれない」というように、他の何かと同様に、「コーヒー漫筆がついついコーヒー哲学序説のようなものになってしまった」のも「今しがた飲んだ一杯のコーヒーの酔いの効果であるかもしれない」ということになります。そのため、コーヒー漫筆をコーヒー哲学序説にさせるコーヒーと同様の他の何かを説明する必要があります。なぜなら、今回は理由説明問題なので、その理由に含まれる副助詞の「も」も説明するべきポイントになるからです。

 最後に、設問に対して解答しましょう。

 まず、1点目の解答ポイントである「主張と根拠をつなぐ論拠の説明」を説明します。
 なぜ、著者は「今しがた飲んだ一杯のコーヒーの酔いの効果」によって、「コーヒー漫筆がついついコーヒー哲学序説のようなものになってしまった」のでしょうか?
 それは、①著者は人間の感覚器官を鋭敏にし洞察と認識を直接的にする一杯のコーヒーの効果によって、本来はコーヒーに対する単なる所感を述べるだけのはずが、②コーヒー対して懐疑的客観的な態度で向き合うことで、③様々な嗜好品や文化とコーヒーの間に共通する人間を酔わす効果という本質を分析してしまったからです。
 以下、それぞれ3つの論拠について順番に解説します。
 まず、コーヒーの酔いの効果とは何でしょうか?それは、人間の感覚器官を鋭敏にし洞察と認識を直接的にする効果です。実際に、第5段落に「コーヒーの効果は官能を鋭敏にし洞察《どうさつ》と認識を透明にする点でいくらか哲学に似ているとも考えられる」と明記されています。そのため、コーヒーの酔いの効果は、人間の感覚器官を鋭敏にし洞察と認識を直接的にする効果と分かります。
 ちなみに、なぜ「官能」と「洞察と認識を透明にする」という部分をそれぞれ「感覚器官」と「洞察と認識を直接的にする」という表現に言い換えたかというと、今回の設問は理由説明問題なので、一般的ではない言葉遣いや比喩表現を分かり易い言葉で説明する必要があるからです。そのため、「官能」を辞書通りの意味で「感覚器官」という表現に言い換えて、「洞察と認識を透明にする」を主体の対象に対する洞察と認識が透明である=主体の対象に対する洞察と認識に余計な考えが入っていない=直接的という表現に言い換えました。なぜ、透明=余計な考えが入っていない、になるかというと、透明ならば邪魔なものに隠されていない状態であり、加えて、著者は第五段落でコーヒーの効果によって、「客観的」になると述べているので、その両者を組み合わせると、透明=余計な考えが入っていないというように言い換えられるからです。
 次に、人間の感覚器官を鋭敏にし洞察と認識を直接的するコーヒーの効果によって導き出される筆者はどのような姿でしょうか?それは、コーヒーの効果に対して懐疑的客観的な態度で向き合う姿です。実際に、第5段落に「酒や宗教で人を殺すものは多いがコーヒーや哲学に酔うて犯罪をあえてするものはまれである。前者は信仰的主観的であるが、後者は懐疑的客観的だからかもしれない」と書かれています。そのため、人間の感覚器官を鋭敏にし洞察と認識を直接的にするコーヒーの効果によって導き出される筆者の姿は、コーヒーの効果に対して懐疑的客観的な態度で向き合う姿と分かります。ちなみに、なぜ、「コーヒーの効果に対して懐疑的客観的な態度で向き合っている」といえるのかというと、コーヒーに対して、第1段落で「なるほどこれは恐ろしい毒薬であると感心」、第5段落で「ただあまりに安価で外聞の悪い意地のきたない原動力ではないか」というように、コーヒーの効果に対して懐疑的客観的な態度で向き合っているからです。
 最後に、なぜ、筆者はコーヒーに対して懐疑的客観的な態度で向き合った結果、コーヒー漫筆がコーヒー哲学序説になってしまったのでしょうか?それは、筆者は様々な嗜好品や文化の本質を分析してしまったからです。実際に、筆者は第1段落で「コーヒーと興奮剤の類似点について」というコーヒーの分析から始めて、徐々に第3段落で「様々な嗜好品と様々な文化の類似点について」という嗜好品一般の分析に至り、最終的に第4段落で「コーヒーと様々な文化の一般的な類似点について」という文化一般の分析に行き着きます。そして、そこでコーヒーと様々な嗜好品と文化に共通する点は、人間を酔わす効果があるということです。そのため、著者はコーヒーについての分析がいつの間にか嗜好品や文化に共通する人間を酔わす性質、すなわち、本質を考えていたことになります。
 以上の3つの論拠をすべてつなげると、①著者は人間の感覚器官を鋭敏にし洞察と認識を直接的にする一杯のコーヒーの効果によって、本来はコーヒーについて単なる所感を述べるだけのはずが、②コーヒーの効果に対して懐疑的客観的な態度で向き合うことで、③様々な嗜好品や文化とコーヒーの間に共通する人間を酔わす効果という本質を分析してしまったからだ、となります。

 次に、副助詞の「も」を説明します。
 設問「コーヒー漫筆がついついコーヒー哲学序説のようなものになってしまったのも今しがた飲んだ一杯のコーヒーの酔いの効果であるかもしれない」という文の「も」は、様々な嗜好品や文化が人間の行動を様々に変化させることと同様に、コーヒー漫筆がコーヒー哲学序説になったのも一杯のコーヒーの効果という意味です。実際に、第3段落「様々な嗜好品と様々な文化の類似点について」の中では、様々な嗜好品と文化は人間を酔わせることで人間の行動に様々な変化をもたらしました。そのため、様々な嗜好品や文化がそれぞれ人間を酔わす効果を持つのと同様に、著者は人間の感覚器官を鋭敏にし洞察と認識を直接的にする一杯のコーヒーの効果によって、本来はコーヒーに対する単なる所感を述べるだけのはずが、コーヒーの効果に対して懐疑的客観的な態度で向き合うことで、様々な嗜好品や文化とコーヒーの間に共通する人間を酔わす効果という本質を分析してしまったとなります。

 以上が寺田虎彦『コーヒー哲学序説』の解説でした。いかがでしたでしょうか。
 おそらく、読者の方々の中には、寺田虎彦の文章は非常に論理的に書かれているので、問題文を読んでいて「なんだ、簡単じゃん」と思われた方も多いと思います。しかし、それらの文章を設問で問われている内容に沿って上手い具合にまとめて解答文を作ることは難しかったと思います。実際に、このレベルの文章全体の要約を含めた筆記問題は、東大理系の現代文の問題に匹敵するレベルだと筆者は考えています。

 では、論理的に物事を読解して、表現するコツは何でしょうか?
 それは、文章中の文意を恣意的に解釈せずに読解して、設問の答えるべきポイントを抑えた後、文章中から必要な情報と不必要な情報を取捨選択して、その本を読んでいない人でも理解できるような形で分かり易く解答を作成することです。
 しかし、そのスキルは論理的思考の方法を学んだ上で、何回も実地のトレーニング積んで、徐々に論理的に考える思考習慣を身に着けることでしかなしえません。ですので、今後も論理的思考の方法について紹介しつつ、論理トレーニングの問題を出題したいと思いますので、興味ある方は是非、フォローのほどよろしくお願いします。

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