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発達障害とその他の鑑別方法

 こんにちは、とまよこ りゃんシーです。
 前回の記事で、「発達障害とは何か」についてご説明しましたが、おそらくそれだけでは実際の現場で参考にするためには不十分だと思います。
 なぜ不十分かと言うと、実際の現場では発達障害ではない別の精神疾患と見分けなければならないからです。特に診断を受けていないけど「アスペ疑い」のある人などが周りにいる場合、あなた自ら独断で「診断」し、理解・支援しなければならない場面も出てくると思います(もちろん、そんな事をせず思考停止で糾弾・否定したって良いですけど)。精神疾患を持っていない人でも、明らかに性格のおかしい人もいます。あなたも、無自覚にちょっと偏った性格を持っているかもしれません(そもそも、発達障害を理解するためにこんな場所まで読んでいるのも少々異常のような気もしますが)。では実生活において、そのような「性格」の問題と、「神経発達症」の鑑別は、どのようにしていけば良いのでしょうか? 例えばその症状、「甘え」なのか「障害」なのか? 「発達障害」と自称している人が本当に発達障害なのか、判断しなければならないこともあると思います(まあその場合は病院行けって感じですが)。それから、例え発達障害と病院で診断を受けている人でも、他の精神疾患を持っている可能性については充分考えなくてはなりません。人間にはさまざまな性格があります。どこまでなら許し、どこまでは叱るべきか? どこまでは批判するべきで、どこまでは配慮するべきなのか? あなたの価値観は、本当に正しいのか?
 発達障害者にとって、障害ゆえに出来ないことを叱られるのはとても苦痛です。出来ればそれは避けてほしい。だけど、何でもかんでも障害のせいにされて、すべて取り上げられたくはない。自分も社会に参加したいし、友達だって欲しいし、人間らしく暮らしたいと考えています。

神経発達症を見分ける方法

 僕が神経発達症かどうかを簡単に見分けようとするとき、まず最初に「頭の良さ」を参考にします。自閉症の人は、「言われたこと」しか理解できません。ですから、色々と察したり、言われたこと以上のことを返してきたり(「寒い」「暖房つけようか?」とか)、突発的なアクシデントを楽しめる人はほぼ自閉症ではないと言っていいでしょう。特に口頭での会話を積極的に楽しむ人はほぼ自閉症ではありません。

僕は「まずは会ってお話ししませんか?」とか言ってくる人とは絶対話が合いません。会って何を喋ろって言うんだ。

 ほかにも、趣味の話やひとつの軸がある人の場合、又は他人のそういったものを尊重できる人、話題を自ら作っていける人は、自閉症ではないかもしれません。
 自閉症は、言われたこと以上のことを想像するのが苦手なので、どうしても思考が論理的・シミュレーション的、あるいは受け身的になります。ですので、

  • 何から何までがんじがらめでルールや決まり(システム)を作ろうとする人

  • その作ったルールに自分で溺れてどつぼにはまり込む人

  • 何から何まで細かく決めたり、質問してくる人

  • 変化を嫌い、合理性より規律を重視する人

  • 無視ができない人(「無視」「冗談」という発想ができない人)

  • 生産・利益からズレたことばかりしている人

  • 他人に流されやすかったり、言いなりになったり、「結局何がしたいんだろ?」と思うような捉えどころのない人や、後から文句を言ったり、嫌味っぼい人

  • 自分と他人の区別がつかず、プライバシーがない、相手を尊重できない人

  • その場にいる人の顔色や意思に呑まれることができず、決まりや前例に固執する人

  • 感情論が理解できず、「どうして?」を連呼する人

  • 自分の意見に信念や意思が薄弱で、自信がない人

  • 優柔不断な人

  • 共産主義的な人

 の場合は、自閉症の可能性を考えたほうがいいかもしれません。ただ、日本人に多いと言われる「流されやすい人」や「周りに合わせるだけで何も考えてない人」との区別はむずかしいところです。僕も子供のころは「シャイ」とか「内気」とか散々言われてきて、自分でもそんな気がしていましたが、今考えると全く内気ではなかったですね。ただ、自分の気持ちを伝えられなかっただけです。

「発達障害はオタク」という話は有名ですから、発達障害=ひとつのものにこだわる人、と考えているかたもいるかも知れません。自閉症の「こだわり」は、想像できないことからくる「思考のどつぼ」と考えればよいと思います。または、不安感といった二次的な感情から来るものです。例えば僕はポケモンオタクですが、それはポケモンが本当に好きなわけではなく、「ポケモン以外のことが理解できなかったため、自分とポケモンを同一化していた」と言うほうが正しい。そしてそこに「思考のどつぼ」があり、どんどんポケモンのこと以外は考えられなくなっていった。それらは一般的な「アイデンティティによる"こだわり"(自分はこう生きるというひとつの信念や軸のようなもの)」とはまったく異なり、説明を受け、「想像」することさえ出来れば脱出できるのが特徴です。

統合失調症と発達障害の違い

 発達障害と対照的な性格を持つと言われているのが、「統合失調症」です。自閉症やAD/HDとは逆で、ドーパミンが過剰になってしまう病気です。

ちなみに統合失調症には「陽性型統合失調症」と「陰性型統合失調症」と「統合失調症型気質」と言うものがあります。「陽性型統合失調症」と言うのはいわゆる一般的な統合失調症、つまりドーパミン過剰による幻覚や幻聴といったものです。「陰性型統合失調症」はその逆でドーパミンの分泌が減ってしまい、自閉症と似た症状が現れます。「統合失調症型気質」と言うのは、生まれつきドーパミンが多い性質で、生まれつき統合失調症になりやすいと言われている人たちの共通の性格のことです。生まれつきドーパミンが多い人は「頭の回転が速い」のが特徴です。つまり統合失調症は賢い人がなりやすい病気なんですね。頭が良すぎるのも考え物です。

 ところで、統合失調症とはどんな病気でしょうか。幻覚や幻聴のほかにも、被害妄想などの症状があります。高学歴の人が陰謀論めいたことを唱えだすと思わず信じそうになりますが、統合失調症の可能性もありますね。例えるならこうです。もしも井戸の中に閉じ込められていたとするならば、その井戸の中しか想像できないのが自閉症、井戸から出たがるのがAD/HD、井戸の外を想像して出た気になっているのが統合失調症という感じです。あとは、他人の気持ちに寄り添えないといった症状も起こります。自らの脳から分泌されるドーパミンに影響されるあまり、他者に合わせる余裕がないといった感じです。「生理的に無理」という発言を聞いたことがある方もいると思いますが、これは典型的な統合失調症状です。ドーパミンの過剰が生理的にしんどいんですね。

統合失調症の「こだわり」

こういった場合も、「こだわり」を呈する場合が多いです。例えばある一定の刺激やモチーフを妙に意識したり、全身を一色でまとめるコーディネートをしたりすることもあります。いわゆる「感覚派」といった手合いでしょうか。彼らは発達障害のように、想像力がなくてこだわっているのではなく、こだわらないと気が済まないといった感じなので、説得は通じない場合が多いです。この「こだわり」と発達障害の「こだわり」を混同している一般の方はけっこう多いのではないでしょうか。ふたつはまったく逆のもので、自閉症のこだわりは「ルールに合わせるこだわり」、統合失調症気質のこだわりは「自分に合わせるこだわり」です。自閉症はルールのために生きているのに対し、統合失調症気質はルールより自分自身の希望を優先します。誰もいない車道で、赤信号を無視するかどうか、などは分かりやすい例えでしょう。自閉症の人の場合はどんなに車の通りが少なくても信号無視することはありません。一方、統合失調症気質の場合、自己責任で信号無視しても構わないと考えます。このズレが、社会生活のうえで大きな溝となるわけです。これは脳の「側坐核」という場所の大きさも関係していると言われています。自閉症患者は側坐核が小さく、統合失調症患者は側坐核が大きすぎる傾向があるようです。

 但し感覚障害(特に鈍感症状)のある発達障害のなかには、特定の刺激を好む人はいます。僕は味覚が鈍いほうらしく、カレーとか刺激が強いので好きです。

「うつ」と発達障害の関係


 先ほども書いたように、「発達障害」と言うのは「想像力」があんまりありません。すると、思考のどつぼにはまり込んでしまい、自力で脱出できなくなってしまうことが多々あります。こういった思考形態の人は、うつ病になりやすい傾向があります。つまり発達障害は、二次障害(発達障害とは関係なく連鎖的に起きてしまう障害)ではなく本質的にうつ病を起こしやすい人なのです。さらに発達障害の影響で人間関係や進路が狭まり、納得いかない環境で生活を強いられている(そういうものと諦めている)人も多い。そうなってくると、二次障害としてもうつ病になりやすくなってきます。逆に、うつ病の症状にも、「こだわり」や「気持ちの切り替えができない」と言うものがあります。発達障害のように見えて実はうつ病という場合も考えられるので注意が必要です。
 なお、「発達障害」と言っても、「AD/HD」を併発している場合は自閉症の「想像力の欠如」とは別に「発想力」と言うものを持ちます。この場合は相殺(?)されてうつ病になりにくいといったメリット(?)がありますが、そのぶん「こだわる」わ「段取りができない」わ「忘れっぽい」わでメチャクチャな人生になっていることもあります。メリットはうつ病になりにくいというそれだけですね。
 ちなみに、こういった自閉症特有の鬱々とした考え方(思考のどつぼ)を辛いと思っている当事者もけっこう多いです。そこから脱却するために、あえて刺激的な生活をしたり、睡眠を嫌ったりする人もけっこういます。コーヒーが手放せないと言うのも、自閉症の人によくある特徴です。脳を興奮状態にすることで、自閉症状を緩和させようとしているのですね。自閉症の人がぴょんぴょん飛び跳ねるのも、そのあたりから来ているんじゃないでしょうか。しかも、そこに多動のAD/HDが加わってしまうと(しかも、ワーキングメモリを上げるためにカフェインを摂る)、もうたいへんにはちゃめちゃな生活(おもに胃とかが)になっている場合もあります。そのわりには結果が伴わないので、早めに誰かが止めてあげてくださいね。

 そもそも、元々、「自閉」という言葉は統合失調症の陰性症状を示す言葉だったそうです。自閉症が「発見」された時、統合失調症の陰性症状(自閉)に似ているということから「自閉症」と名付けられたのだから、自閉症が統合失調症の陰性症状と似ているのは有名な話なんですね(もちろん、両方発症している人もいます)。

発達障害と慢心

 では、「慢心」の鑑別についてはどうでしょうか。発達障害と「慢心」は、素人ではなかなか鑑別しにくいと言われています。ただ「できない」と言われるだけでは、なかなか判断できませんし、その「理由」も正しく伝達できない。相手としては「理由も言わないしやりもしない傲慢な奴」と、きっと思うことでしょう。
「慢心」を見定めるのはわりと簡単です。口調に現れます。特に「謝る」回数で見てしまうのが早いでしょう。よく謝る人は自己肯定感が低い。びくびくしたり、人の話をよく聞く人も自己肯定感は低い。例え謝らなくても、行動で責任を取ろうとする人も同じく自己肯定感が低いです。逆に、ろくに謝りもせずミスばかりする人は、単純に慢心しているだけの可能性もありますし、発達障害を併発している可能性もありますし、もっと言うと発達障害を隠そうとしてわざとそういう態度を取っている場合もあります(詳細は後述)。
 慢心と発達障害は、非常に見分けにくいものです。「とりあえず叱ってみて、相手が深く傷ついたら発達障害」みたいな調べ方は絶対にやめて下さい。もし発達障害だった場合、下手すると自殺されます(そもそも、心理学的には楽観的な人を叱ることで反省するという記述はなく、ただ意地を張られるだけと書いてありますが…)。最近では、自分の努力不足やずぼらの言い訳に「HSP」を自称する人も増えてきたので余計厄介ですよね。但し神経発達症は40人に1人はいるとされているので、多少の神経発達症+甘えというパターンが最も多いのではないかと思いますが。
 逆に、真面目すぎる人が発達障害のように見えることもあります。特に現代日本では生真面目な人は少ないので、発達障害と誤診されるケースも少なくないとか…。

サイコパスとの関係

 「発達障害=サイコパス」という間違った噂をよく聞きます。これについては前回の記事でも触れましたが、間違いです。そもそもここで言う「サイコパス」は、「冷酷な性格の人」という定義で使っていますが、優しくできないから冷酷だ、サイコパスだと言うのは少々横暴でしょう。
 但し、発達障害に「サイコパス」が多いのは確かです。何故ならば、いじめられて育つから。また、意思の伝達ができないため、支え合うようなコミュニティが築けない。相手からは冷たい人だと思われ、何もしていない(つもりな)のに喧嘩を売られたり、冷たい態度を取られる。それに、両親も発達障害で、「愛情」をじゅうぶんに受けて育っていない人が多い。そうすると必然的に人生がハードモード化しますので、「弱みを見せたら終わり」「他人を蹴散らさなければ生きていけない」「信じられる者などいない」「他人は裏切るもの」「勝った方が正義という価値観を身につけていく人は多いと思います(「犯行挑戦性障害」とも呼ばれます)。僕もそうでしたし。ただ、それは育ち方の問題なので、「発達障害=サイコパス」と言うことではありません。逆に、発達障害でも天使のような性格の人も沢山います。むしろ発達障害は自我が欠落しているので、利他的、共産的といった思想の人は多いです。但し、コミュニケーションは苦手なのでサイコパスと誤解されがちです。
 僕らを苦しめる呪いの言葉のひとつに「人にされて嫌なことは人にするな」というものがあります。小学生の頃、先生に教えられたという人も多いでしょう。この道徳の基本とも言える標語ですが、発達障害には役に立ちません。だって、「自分がされて嫌かどうか」が分からないからです。つまり、自分がされて嫌なことをしてしまう。そして嫌われるのです。そのくせ、同じことをされるとやっぱり機嫌が悪くなるのですから、そりゃあ我儘だと思うでしょうね。
 特に発達障害と相性の悪い人たちとして、こういった「心のふれあいを大切にする人たち」が挙げられます。彼らはちょっと冷たくされただけでサイコパスだと糾弾したり、いじめだと騒ぎ立てたりします。とは言え、どちらが悪いというわけでもないのです。彼らは自分が傷つけられたので怒っているだけですからね。でも、そうされることで傷ついてる人(発達障害)がいることに気付いてもらえたらな~といつも思います。

性格を「隠している」人たち
 さて、人間の性格にはさまざまありますが、「性格を隠している人」と言うのもいます。そこまで書いてしまうと発達障害の話から逸脱してしまうので詳しくは書きませんが、先ほどのように「発達障害を隠そうとして逆に飄々とした態度を取っている人」などは、「重ね着症候群」と呼ばれ、二次障害の二次障害みたいな状態になり、感情が複雑に絡み合って本人の頭もごちゃごちゃになっている状態です。もちろん発達障害が無い人でもそのようになる人はいます。心身症(自律神経症)を発症したり、単純に「隠し(=反対の性格を演じ)」たり、「解離性同一性障害」、すなわち多重人格になってしまう人もいます。全ては「ストレス」が原因で起きるもので、上記の例でいえば発達障害で叱られることが多すぎて、謝ったり罰を受けたりしすぎて心身が限界になってしまい、それを避けようと過度におちゃらけた態度を取ってしまうようになってしまったわけですね。ここまで来るとパッと見では本人の本心なんて言うものは誰にも分かりません。特に発達障害は催眠療法が効きにくいので、催眠療法も受けられません。
例:
・発達障害のせいで自己肯定感が下がりすぎ、自分で自分を傷つけてしまうのを恐れて現実から故意に目を背ける
・発達障害のせいで叱られたり、笑われたりすることでプライドがボロボロになり、これ以上他人にプライドを傷つけられないようにするためにわざと自己卑下ばかりする
等々々

発達障害の診断を受けたがらない人たち

 さて、ここまでは「発達障害と、それ以外の人の見分け方」を書いてきました。しかし、当然ですが、発達障害者にもそれぞれ性格があります。発達障害を利用して最大限ラクをしようとする人、この世のすべてを憎んでいる人、あまり深く考えていない人、何でもすぐ人に頼ろうとする人、おどおどしている人、とにかく他人の顔色を気にする人などなど。障害を持つがゆえに、強い性格の偏りを持つ人も少なくありません。しかも、発達障害は「自我」がないので、自分を正しく評価することが苦手です。つまり自分がどれだけ偏っていてもそれを訂正できないことがあるし、他人の意見に物凄く流されたりもします。但し、具体的な性格は本人の育ち方によって変わります。発達障害でもぼっちゃん育ち(≒楽観的)になることもありますし、まあ普通はいじめられ過ぎて自分を過小評価していることが多いでしょう。とくに、自分を過小評価している割にミスばかりしている人は発達障害の可能性が大きいですね。ここからは、そういった個性的な性格を持つ発達障害の、どの部分が障害で、どの部分が性格なのかを解説していきたいと思います。特に、明らかな生きづらさを抱えているのに、頑なに診断を受けてくれない人たちについてご紹介したいと思います。

発達障害を開き直ってる人たち

 「発達障害は障害ではない」と言っている発達障害(神経発達症)たちがいます。そういう人たちは、「発達障害」という呼び名をやめて、「発達凸凹」とか「神経発達症」とか、「HSP」という言葉を使おうと主張し、果てはレオナルド・ダ・ヴィンチトーマス・エジソンなどの著名人を引き合いに出して、自分たちを「ギフテッド」と讃えたり、「選ばれた人たち」と言ったり、「天才型」と言ったりしている人たちもいます。確かに発達障害は、時に発想力、時に記憶力等で常人離れした技量を持ち、それを生かして社会で称賛された人もいますが、それらは時代背景も含めて運が良かっただけのことです。そういった「天才型」で生きられるならそれはそれで問題ないのですが、己の障害から目を背け、良い所だけに目を向けていても、たいてい現実の生活をすることはできません。現実はライトノベルではないのです。また、そういった思想が広まり、「発達障害に支援など不要」と考えてしまう人々や、ともすればそれを鵜呑みにし「発達障害」を嫉妬の対象にする人さえいます。もちろん「神経発達症」や「HSP」という言葉を使ってはいけないわけではありませんが、「発達障害は天才」という考え方は、「発達障害はサイコパス」と同じくらい横暴です。
 こういう人たちは、例え社会から評価されても、それしか取り柄がないことを逆手に取られて使い潰されることが多く、早死にしていく人も多いです。
 但し、「発達障害は障害者なので何もできない」と考えて引きこもるのもまた誤りでしょう(僕は10年くらいずっとそんな感じでした)。
 ちなみに、本当の「天才」は神経発達症とは別物で、何をしてもそつなくこなせるような人のことだと僕は思ってます。

健常者に頼っている人たち

「発達障害は障害ではない」と主張している人たちには、もう一種類います。さきほど、発達障害にはサイコパスが多いと書きましたが、そうではない人もけっこういます。彼らは診断を受けていないにもかかわらず、親や周囲の人に助けてもらいながら幸運にも問題なく生きてきた人たちです。頼って生きるのが当たり前になっているんですね。だけど、たいていそういう生活が成り立つのは、親が元気な時までです。発達障害だと知らなければ周りからは「怠け者」だと言われるし、できないと伝えるだけでは、一般の世の中はそこまで優しくはしてやれないんですよね、福祉サービスを受けるならまだしも。場合によっては「発達障害を言い訳に怠けているクズ」という最悪のレッテルを貼られてしまう場合もあります。
 しかも、そういうズレた生き方をどこで訂正していくかと言うと、周りにひどく媚びたり、甘えたり、嘘を重ねたりして、うまく他人に頼ってやっていこうとします。そして結局うまくいかず、うつ病心身症ヒステリー(解離性健忘)などになったりします。

学歴主義と発達障害

 現状の「学歴」は、正確な頭の良さを測れていないということは一般的にも知られるようになってきました。確かに「賢さ」と「学歴」には、少々のズレがあります。しかしそのズレを利用しているのが「高機能自閉症」と呼ばれる知的障害や学習障害のない神経発達症の人たちです。彼らは「繰り返しを好む」「記憶力がいい」「こだわる」「感情ではなくデータで判断する」など、現代の「試験」と呼ばれる系統のものと相性が良いのです。ですから発達障害者の中には、「学歴」に固執し、学歴至上主義になる人もいます(僕の父もそうでした)。その世界でなら、自分は正しいと証明できるからですね。もちろん学歴が高いことは悪いことではありませんが、それが世界のすべてだと思ってしまうのは、今後「学歴」の判断方法が変わっていく際にほころびが出てきてしまいます。
 学歴主義は発達障害にとってはとても有り難いものなので、発達障害の子供の中にはそれに賭けている人もいます。あなたの周りにいた「がり勉君」は、もしかしたらそんな動機で勉強していたのかも知れませんね。

ひょっとすると「学歴主義」は、発達障害者のための救済処置なんじゃないかと思うまであります。

 また、こういった「高機能自閉症」の人は、理論を文章化することに長けているので、それと高学歴が相まってものすごく頭が良さそうに見えるのが特徴です。しかしそれは本当に頭が良いのではなく、「理論しか分からないだけ」ということに注意してほしいです。

その他 発達障害と発達障害

「発達障害同士なら、変人同士意見も合うだろう」とお思いの方もいるかもしれません。実際、神経発達症同士でも、こだわっているものが同じであれば分かり合えることもありますが、たいていは許容範囲が狭いので理解し合うことができません。話が嚙み合わないまま永遠にすれ違います。
「のび太的発達障害」と「ジャイアン的発達障害」という呼び方をご存じでしょうか。『ドラえもん』の登場人物であるのび太が発達障害なのはなんとなく分かりますが、ジャイアンのようないじめっ子タイプも発達障害だという意見です。あのふたりが「仲良し」かというと、そうでないことは分かりますよね。実際もあんなふうに、いじめになったり喧嘩し合ったりすることが多いのではないでしょうか。

「発達障害者」の持つ障害は、「発達障害」だけではない

 さきほども書きましたが、同じ特性を持つ神経発達症患者でも、「発達障害かどうか」はこういった性格によっても変わってきます。特に神経発達症の診断が遅れたは強い孤独感や自己否定感を持ちながら育った人も多い。そうなると、どうかするとそれよりも強く顕著な神経発達症を持つ人たちよりも社会適合が困難になる場合があります。ですから、「発達障害」という病気は、その人の持つ性格なども含めたものになっているため、一般の人では分かりづらくなっているのです。

まとめ

 いかがでしたでしょうか。今回は「神経発達症とその他の精神疾患の見分け方」と「神経発達症のそれぞれの性格の違い」をそれぞれ解説してみました。しかし、神経発達症にまつわるトラブルと言うものはたいてい、あなた自身の価値観と、相手の価値観と、神経発達症そのものの要素が複雑に絡み合っていますので、それらをすべて正しく分析して対応するというのはまぁどう考えても現実的には無理な話です。それでも、付き合いと言うのは長ければ長い方が良いというのは確かだとは思います。一生同じ会社に就職することについては懐疑的な意見も多いですが、ある程度理解してもらえるまで長く付き合うというのは大切なことかもしれません。石の上にも三年と言いますし、変な人だと思っても自分の経験で決めつけたりせず、三年くらいは頑張って観察してみても良いかもしれませんね。本当の仲間と言うのは、そういった苦難を経て構築されるのではないでしょうか。もちろんそれでもお互い人間なので、理解し合えないということはあるかもしれませんが・・・。
 神経発達症の人は、その理解のされづらさから、人と深く付き合うことを避ける傾向があるので、そこを少しだけ耐えて理解されようとすることも場合によっては大切なことかもしれません(もちろん、相手に発達障害を理解する気があればですが)。そういったときに、この文章が役に立てればなと思います。
 色々書きましたが、自閉症の良い所はその「懐の広さ」です。どんな情報もスポンジのように吸収できる柔軟さと、すべてに平等で多角的な視点を生かせば、きっと活躍できる場はあると思います。これは人工知能にもできない、「人間」だからこそできる特技なのです。

※この文章は当事者の主観であり、科学的根拠を示すものではありません。

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