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「出る杭は打たれるけど気にすんな!」を分解すると

なんか新しいことに挑戦しようとした時に、何かと否定してくる人って絶対的に存在するけど、
そういう人を見た時に「そういう奴って絶対いるけど、気にすんなよ!

とよく言われるのも間違えてないのは分かるけど、包含要素が多すぎてなんとなく頭でわかっても腑に落ちないというか、感情は反応してしまうというか。

もう少し分解して考えて見ても良いのかな、と。
自分なりに分解して見ました。

そもそも、出る杭ってどんな状態なのか、について。

そもそも人と人とのコミュニケーションに置いて、思考が完全一致することはないということを前提に、それでも「共通認識」という世界で相互理解をしているのが今自分の認識している世界だと私は思います。

共通認識」というのは、例えば常識とか、一般教養とか、文化とか。

「生の挙動」と「死回避行動」で言えば、「死回避行動」に近いような。

時間管理のマトリックスで言えば、「第一領域」や「第三領域」のような。

抽象度で言えば、割と具体性の高いお話。

ちなみに、この共通認識として範囲が広い方向を「常識理性」だとするとその対にあるのは「真理」だと思います。

常識の方向に向けば向くほど具体性が高くなり、真理に向けば向くほど抽象度が高くなる。いわゆる自由度が高いってことですかね。

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(good notesで殴り描きしたので多少の荒さはお許しを。)

「文化」「科学」「宗教」とかは適当に単語をピックアップして配置しただけなので特に場所や内容に重きはないです。実際にはもっと立体構造だと思うので。

これに対して、各個人が許容できる幸福なライン(価値観)というのを持っていると思います。例としてAさんとBさんがこんな価値観だとすると

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この二人のコミュニケーションに置いて価値観の重なる部分が「共通認識

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心地よくコミュニケーションが取れるのはこの共通認識内の話。

上記図から、
相手のコンフォートゾーンのうち共通認識ではない部分が「出る杭」(相手にとっての孤独)
自分のコンフォートゾーンのうち共通認識ではない部分が「孤独」(相手にとっての出る杭)
なんじゃないかなと。

「出る杭」は他者の問題。
「孤独」は自分の問題。

出る杭を打ちたくなる人は
相手のコンフォートゾーンのうち共通認識ではない部分(出る杭)まで自分の「孤独」と認識してしまう為、孤独を恐れて「置いてかないで・・」と思ってしまう現象が

「出る杭を打つ」

なんじゃないかなあ。

では逆に、打たれた時に、なんとなく諦めそうになってしまう気持ち。

それ、多分打ってる側と同じで
自己の問題(孤独)と他者の問題(未知)の識別がうまくついてない時だと思う。

例えば、一人が許容できる範囲に上限があるとして、
自分の孤独部分の代わりに共通認識の範囲を広げられるとしたら、

確かに、諦めた分相手との幸福が存在するわけだから迷うかもしれません。

でも実際は、

やりたいことを諦めようが、無視しようが、目に見えない自分の孤独の部分に相手が踏みこめることはないし、逆に自分が相手の孤独の部分に入り込むことも出来ない。

どこまでいっても、自分と他者は他人なんです。


カンボジアで戦う!と決めた時にメンターに言われました。

「あなた、これからどんどん友達減るよ。」

「????????」
いや、私に限って大丈夫。なんて思ってたけど、自分がアウェイでの挑戦が楽しいと思えば思うほどにSNSのフォロワーは減っていったし、日本を発つ前には仲よかったけど、今はなんとなく絡みづらい人も居て、その中には自分が唯一親友と思って居た子も含まれていて。

自分のやっていることって、本当に正しいのかな?
自分がやろうとしてることって、そういう人を失ってまでやりたいのかな?

なんて真剣に考えていた時もありました。

でも、現状を維持して「10年後も同じ話題で盛り上がってる私たち」の方が怖いと思った。

自分が自己実現のために動こうが動かなかろうが、時間はすぎるし年はとるし。
自分がそんな気持ちにしがみついていることで、相手の成長の邪魔をしている可能性だってあるんだもん。

「「It's not a GOOD BYE.
It's a SEE YOU LATER.」」


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