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幽体離脱と『存在論』

金縛りに合う人は結構多いみたいだけど、幽体離脱を経験する人も意外とよくいるみたいですね。
中には、魂が自分の体から抜け出していく様子をはっきり覚えているとか、自分の体に戻っていくときのコツを知っているとか、幽体離脱している間に身体は冷えているとか、結構リアルに話してくれる人たちもいる。

私自身も受験勉強してる頃に、時々プチ幽体離脱的な経験をしたことがあります。ふと気がつくと、デスクに向かってお勉強している自分自身を、天井あたりから自分が見下ろしてる、みたいな。
多分、瞬間的な居眠りというか、マイクロスリープなんかの時なんだと思うけど 、結構普通に起きることだったりする。

これと似た現象に、フルボディ・イリュージョンという現象がある。
ビデオゲームとかのアバターを見てる時に自分の意識と同期して、そのアバターの身体が自分のもので、自分自身の意思で動くって言う錯覚を起こす、あの感覚ね。

このイリュージョンには、1人称視点の場合と3人称視点の場合があるんだけど、ゲームとかで見てる場合には3人称視点のフルボディ・イリュージョンの方がリアリティーがあるらしい。
その点、現実世界とは逆転してるんですね。

たとえば戦闘系のRPGなんかだと、後方からの自分(のアバター)を見てるわけでしょう。
これを上方からの視点なんかにすると、ちょうど幽体離脱とよく似た感じになるかもしれない。
(*この辺のことについては例えば明治大学の小鷹 研理先生の研究室からの情報が詳しい。)

人間はこういう風に拡張された形で自分を認知している。
つまり、普通に思われてるように、自分の主観というのが全身をコントロールしてるわけではなくて、拡張された《自己》がいて、無意識のうちに見事にコントロールされていたりする。

例えば車に乗ってる時もそうだけど、車体全体が自分の体として拡張されてる感覚があるでしょう。
隅々のところまで自分の体として感じてて、ギリギリ接触したりしないように運転できたりする。(東京の下町なんかでよく見かける車の駐車テクニックとか、すごいよね。わずか数センチどころか1センチぐらいの隙間を開けてビシッと駐車してあったりする。まさに神業。)
その感覚は人によって、あるいは経験や訓練による程度差はあるにしても、大体の人はそういう認知の仕方をしている。

認知っていうのは今では一般に「認知症」と言う形で使わることが多いけれども、科学の世界では認知現象についてはものすごい広い範囲で研究されてている。
そして、人間が「存在する」と言うことと「認知する」ということとの関係にはかなりギャップやねじれ構造があるんじゃないかっていうことがわかってきてる。(先ほどのアバター感覚の話もその一つですね。)

哲学の世界でも、大昔から「認識論」という分野があって、人間は世界をどのようにして認識していくかについて色々と考えられてきた。
それに対して「存在論」という分野では、私たちが日常生活で見聞きしたり触れたりするものだけじゃなく、神とか魂とか精神、心なんかまで問題として、存在全般が共通して持つ本質を解明しようとしてきた。

ただ、ちょっと考えてみればわかるように、そもそも人間の認識力には限りがあるのだから、そこのところを無視して存在論を云々したって意味ないでしょう。
そのことを批判的に考えていくことが先決だと主張したのがカント(の『純粋理性批判』)なんだけど、ヘーゲルも言ったように、「認識の限界を認識しろ」なんていうのはあまりに矛盾した主張(循環論法)だよね。
はっきり言って、それは無理。

              To be continued

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