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「究極のモテ」に到達した話

「モテたい」と思ったことはあるだろうか?僕は死ぬほど憧れて、そして同時に自分は絶対に「そうではない世界の住人」であることを悟って、絶望に陥り、さらにはそれが当たり前すぎて、世界観の前提になり、それに対して何も心が動かないほど、通り過ぎる空気のように、ただ吐いて吸ってが自然と起こり続けるような毎日を過ごしていた。

ただ、ある時思ったのだ。

ー 自分がモテモテの設定だったらどんな人生なのだろう?

そして、ありとあらゆる人が僕のことを「好きになって堪らなくなって、その気持ちを抑えられなくなり、強引に口説いてきてレイプされてしまう」という前提で1日を過ごしてみることにした。

最初に感じたのは、恥ずかしさ。自分のことをみんなが見ている。それも、「想いを込めて」見つめている。

女性も、男性も、若者も、子供も、老人も、美女もイケメンも、ブッサイクも痩せもデブも、健康な人も病気な人も、臭い人も、頭がイカれている人も。

全くモテないという世界にいた僕は、この「行」を始めた時、一瞬、なんてセクシーで素晴らしくてウットリして、高揚するんだろうと興奮した。

誰彼構わず自分を求めてくる世界!

……が、喜びやエクスタシー以上に、あっという間に訪れたのは、息が詰まる感覚。どこにいても、自分を狙う人がいる。

道を歩いていても、仕事関係で打ち合わせをする相手が僕を口説いてくる。それも、強引に。どれだけ断ろうが、嫌がろうが、相手はそんな僕にお構いなく迫ってくる。その場からなんとか逃げて、「この人なら大丈夫だろう」という人と話していると、その相手ですら、様子がおかしくなる。正気でなくなるのだ。

SNSのメッセンジャーを見ると、「未読」が溜まり、開くのが怖くなる。勇気を出して開いてみると、あの人も、この人も、どの人も熱烈な愛のメッセージ。それも、僕を独占したくて、強迫的なエネルギーと意志を感じるばかりのものだ。

どこにいようが、何をしていようが、逃げる事は出来ない。

生活している以上、他者と触れることがない世界など、どこにも存在していないのだ。

結局のところ、僕にとっては「モテ」というのを究極にした世界になど、住みたくなどなかったのだ。

が、続けていて、ふと、思ったのだ。

ー みんなの愛を受け入れてみよう

これまた、もの凄い抵抗が生まれた。オレって何様なんだ!!!

単なるイメージプレイなんだけど、恥ずかしい。宝塚のトップスター、福山雅治、Roland、ジャニーズアイドルなどなど……舞台やモニターの向こう側でスポットライトを浴びて笑顔と手を振りまいている、あの、人類でも0.00何%かだけ選ばれた民にだけ許される行為ではないのか?

が、いまの僕は、あらゆる人から求愛され、少しでも存在をものにしたいと思われる対象なのだ。

よし、皆んなの愛をシャワーのように注いでご覧。

ー 怖い。

一瞬そう感じたが、その次訪れた、「理解」に全身を貫かれたのだ。

僕は、「公共物」なのだ。

皆んなにとって、好きで好きで堪らない存在。見るだけでときめき、少しの時間だけでも触れていたい人間。それが、僕なのだ。

何という、尊い存在なのだ!僕は!

この世界にいるあらゆる人間が僕のことを好きで愛おしいと感じるのであれば、人類共有の財産のようなものだ。

これが分かったとき、自分をもっと大切にしたい、自然とそのように感じた。

そんな自分の目から映し出された世界は限りなく優しく見えた。そう、僕は愛されていたのだ。

道ですれ違う人、人、人……全てが僕を好きで、スマホを開いてSNSを見たら、あの人もこの人も皆、僕のことが好き。

どうぞ、自由に僕のことをどれだけ愛してもいいんだよ。

他者が自分のことを愛することを許可する世界はどれだけ軽くて、楽なんだろう!

……と、思えたのは、ほんの少しの間だった。FacebookやTwitterで、昔からの友人や知り合い、それから他人を攻撃する傾向のある炎上系の方が目に飛び込んだ時、彼ら彼女らが一斉に「お前、何調子こいてんの!?」と言ってくる声が聞こえたのだ。

あ、だよね……と思いかけた刹那、とんでもない声が僕の中に響いたのだ。

ー お前らが、おかしい。狂ってるんじゃねえの。

お前らが本来の状態で自然なのであれば、オレのことを好きなはず。それを感じられない、気づいてないということは、意識が歪んでいるか、素直になれないか、あまりに自己卑下してしまって、僕のように人から好きになられる前提の人間を見ると信じられなくて、僕を変えようとするのだ。

そうして、再び手の中にある画面を見ていたら、確かに、僕を素直に好きだと受け取れていない、この人たちの回路か思考パターンか、感覚の歪みがあると感じられるようになった。

これは、僕の中で小さな衝撃だった。自分のことを好きではない人が、正常ではない。

僕は、hydeでも、及川光博でも、福士蒼汰でも、吉沢亮でもない。

なのに「彼ら」と同じ場所にいる。

え、え、え!?

次の瞬間、世界がグニャリと歪んだ。唐突に、頭がかち割られて「わかる」という感覚そのものに僕はなったのだ。

身体という「入れ物」は、関係ない。僕のこの、髪の毛、鼻、目、口、輪郭、それらがどのような形であろうが、入れ物は入れ物に過ぎない。

これまでの僕は、木村拓哉や竹内豊を見る時、自分と彼らの「入れ物」の違いに捉われていたのだ。

相手の目から見たとき、「入れ物」によって評価や、好きや愛の表現は変わる。

だが、その奥にある「好き」という根元のエネルギーは同じ。

僕の内側にある本質的な魅力とは、全人類が備えているものであり、入れ物がどのような形であれ、ヒビが入っていようが、汚れがついていようが、年代を重ねてくすみが加わろうが、揺るぎなく存在していて、永久に変わらない。

それは、僕に触れる全ての人が、その内なる大元において、同じように起きている。

人間は、五感を通じて、目の前にある対象を視覚的、聴覚的、体性感覚的に「情報」として受け取り、さらにはこれまで積み重ねた人生経験、価値観、世界観といった「フィルター」で僕のことを捉えて意味をつけていて、あれこれ頭では思う。

すなわち、「好き」は「じぶんという存在」が、先にあり、相手の中で先に起きていて、もし、僕の入れ物が、伊勢谷友介であれば、彼が受けている他者の反応を全く同じように受けることになるだろう。

この世界とは、入れ物によって好きという感情が生まれるのではなく、「先に好きが生まれ」て、入れ物によって反応が引き出されるのだ。

かつて、「モテ」に対して執着して、そして諦めきってしまっていた僕は「反応」に捉われていただけだったのだ。

確かに、僕に向けられる「反応」は、自分という入れ物によって変わるのだろう。それは、バリエーションというだけで、根源の僕という存在は一ミリも揺らぐことはないのだ。

「彼女」や「彼」とは違う、「種類の違う、好きを表現した反応」を、僕は日々受けているのだ。

人間の価値観の中にある美醜の優劣の範囲などを超えて、僕という入れ物を通してしかえられない「宇宙に唯一の好きの反応」を、僕はこの瞬間も受け取っているのだ。

僕が日常体験している「モテ」とは、誰も体験したことがない、唯一、究極のモテであり、それは年齢を重ねて入れ物が変化し続けようと、「その瞬間にしか訪れない好きの反応」を受け取り続けることができる。

僕が僕であって、よかった。そう感じた体験になった。

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