私は小さな頃から本を読むことが大好きだった。家にあった絵本の類は何度も何度も読み返し、小学生の頃は月に一度くらいのペースでやって来る移動図書館が楽しみで仕方がなかった。バスで十五分ほどはかかる中央図書館へわざわざ通ったりもしていた。高校生の頃、学校のすぐ近くに市立図書館があったことは本当に恵まれていたと思う。そこまで大きな図書館ではなかったけれど、足繁く通い小説を中心に本を読み漁った。 物心つく前から、本は私の傍らに存在し続けている。やがてそれは自分の血となり肉となる。
そんな人物だと知っていましたので、彼女はすっかり動揺してしまいました。目は大きく左右に動き、口調はみるみるうちに速くなっていきます。 「三点で二,二五五円のお買い上げでございます」 金額を読み上げる際、彼女はもう一度その人の顔色をチラリと窺いました。眉間にはしわが寄り、口元は大きくへの字に歪んでいました。その表情は世界のあらゆる事物を断固拒否する、と語っていました。謝罪の時はもうとっくに過ぎていました。 「……しなさいよ」 その人はボソリと呟きました。前半部分を聞き取る
様々な判型の絵本を書棚に並べるのは書店員泣かせのことではありますが、それよりも絵柄やストーリーの個性に合わせて自在に判型を変えることに、著者や出版社の「良い作品を作りたい」という情熱がひしひしと伝わり、彼女はひっそりと胸を熱くさせるのでした。 彼女は本そのものの存在を愛し、またその本がぎっしりと並べられた書棚も愛しているのです。書店で働くことは彼女の最大限の喜びなのです。 彼女は出勤してから二時間ほどは商品の品出し、書棚の整理などをして過ごし、その後レジ業務へと移りまし
マワタは一年前に亡くなったこの家の猫です。十五歳でした。マワタはほとんど白猫でした。鼻先と、右前足と、右側のお尻らへんにある黒っぽい小さなぶちを除いては。その小さなぶちも、晩年は周りの白い毛に溶けていくかのように、すっかり色が薄くなっていました。 家族は皆マワタのことが大好きだったし、マワタもまた、家族のことが大好きでした。とりわけ彼女のことが好きだったようです。 彼女がリビングのソファやダイニングチェアに腰かけると、必ずと言って良いほどマワタは彼女の膝に飛び乗り、お尻
彼女は休みの日でも、決まって八時には起きるようにしています。朝の時間はとても貴重だし、午前中の早いうちに起きられるかどうか、それで一日の充実度が大いに変わってくることを、彼女は経験の上知っていたのでした。 その日も彼女は七時四十五分頃に目覚めました。スマホのアラームを八時に鳴るように設定していたけれど、平日はもっと早くに規則正しく起きているせいか、アラームが鳴るより先にベッドから起き上がることに成功したのでした。 彼女はベッドの上で大きく伸びをしました。そして窓のカーテ
彼はそれ以上のことは話さなかった。私も何も訊かなかった。訊けなかった。 私はその後、彼が用意してくれた朝食を残さず全て食べることが役目と思い、無言で口に運び続けた。 それから私達はもう一度セックスをした。私から誘ったのだが、彼に抱かれている間、すでにとてつもない虚無と孤独に襲われていた。私はこの人のことを何も知らない。知らないのにこんなことをしている。快楽のためだったろうか?違う気がする。 私達はまた会う約束を交わし、連絡先を交換した。 「僕の答えしだいでは、もう会え
彼は満足そうに頷いた。そしてカーテンを全開にした。常日頃からそうなのか、それともメイクが剥がれ落ちてしまった私に気を使ってのことなのか、彼は部屋の明かりを一切点けなかった。 外はまだまだ雨が降り続いている。窓から差し込むぼんやりとした灰色の光を眺めながらバゲットを齧る。聞こえるのは咀嚼音と雨の音だけだ。まるで水中を眺められる遊覧船に乗っているみたいに、不思議な静寂に包まれる。心がほどけていくようだ。 「今度はいつ会えますか?」 私は返事に躊躇した。彼がどういうつもりでそ
「…六時十四分」 私は答える。 「……。」 「……。」 部屋の中にいても、雨の音はしっかりと聞き取れた。ベランダの窓の隙間から、玄関の隙間から、ありとあらゆる外へとつながる隙間から湿気が忍び込んできているようだった。 「……早起きなんですね」 彼はまだベッドから起き上がれずにいた。 「目が覚めてしまったから」 「……。」 彼はまだまだ眠り足りないようだった。また眠りに落ちてしまったようだった。 「じゃあ」 カバンを手に取り玄関の方へ向かうと、ようやく彼は上体を起こ
彼はその店の常連客らしく、店主のバーテンダーとカウンター越しに時々談笑していた。彼は客だというのに店主の話に耳を傾け、忖度ある相槌を打ち続けていた。相槌を打つばかりで実際に言葉を発することは少なく、返事の代わりとばかりに頻繁にグラスを持ち上げ酒を飲み続けていた。 彼は一体何のためにこの店に訪れたのだろう?そう思うほど、傍目にはつまらなさそうに見えた。 店主との会話も途切れ、一人に戻った時、すかさず彼に話しかけた。 「お酒、強いんですね」 私に話しかけられたことがよほど
「ベランダで煙草を吸っても良い?」 私はベッドに横たわる男に訊ねた。彼は起きて返事をしているのか、寝言か分からないような短いうめき声を上げた。私はこれを了承と捉えた。 白いカーテンを開けベランダへと出た。雨雲のせいで分かりづらかったが、もう夜は明けているようだった。 夜中から激しい雨が降り続いている。ベランダに出た瞬間、蒸せ返るような湿気が全身を覆いつくした。思わずため息が出る。 通りを挟んですぐ向かい側に公園が見下ろせる。そんなに大きくはない公園だ。ブランコやすべり