マワタの夢(4)

 そんな人物だと知っていましたので、彼女はすっかり動揺してしまいました。目は大きく左右に動き、口調はみるみるうちに速くなっていきます。
「三点で二,二五五円のお買い上げでございます」
 金額を読み上げる際、彼女はもう一度その人の顔色をチラリと窺いました。眉間にはしわが寄り、口元は大きくへの字に歪んでいました。その表情は世界のあらゆる事物を断固拒否する、と語っていました。謝罪の時はもうとっくに過ぎていました。
「……しなさいよ」
 その人はボソリと呟きました。前半部分を聞き取ることはできませんでしたが彼女は謝罪を求められたに違いない、と思いました。
彼女はすかさず「申し訳ございません」と詫びを入れたのです。
「女はねえ、外に出る時は化粧をして綺麗に着飾らなくちゃ駄目なんだ!特にあんたみたいな地味な顔のヤツは!」
 その人はカウンターの上に千円札を三枚、投げ捨てるように置きながらそう叫びました。
「申し訳ございません」
 彼女は動揺のあまり、もう一度謝ることしかできませんでした。震える手で三千円を回収し、おつりを用意します。訊ねる勇気など到底ありませんでしたので、彼女は無言でブックカバーを取り付けにかかります。
「いらないわよ、早くよこしなさいよ!」
 その人は半ば奪いとるように文庫本三冊を受け取り、足早に去っていきました。
「申し訳ございませんでした」
 彼女の言葉が届いたかは分かりません。少なくともその人は一度も振り返ることなく店内から出ていきました。
 店長が慌てて「大丈夫?」と駆け寄ってきた時には、もう何もかもが終わった後でした。彼女の手は依然震えていました。何とか平静を保とうと店長にゆっくりと事情を話し始めた時、だんだんと自分の状況を客観的に捉えることができました。俯瞰しているカメラから自分の姿を見つめているようです。
 店長に話し終えた時、彼女はもうすっかり落ち着いています。改めて店長に詫びを入れ、反省点と今後の対策までをも伝えました。店長は日頃から彼女を信頼していましたし、相手があのお客様でしたので「気にすることはない、さほど大きなミスではない。それより貴方の心情の方が心配だ」とフォローの言葉を投げかけたのでした。彼女は店長の配慮に改めて感謝しました。
 その後はいつも通りの彼女です。終業までの残りの時間、彼女はそつなく仕事をこなし、同僚達と閉店作業を終えたのち、帰路につくのでした。
 一人夜道を歩いていると、あの人が投げ捨てた一言が頭をよぎります。彼女はふと立ち止まり、うつむきます。
 確かに彼女は化粧をしていません。普段からそうです。自分にはまだ早いと思っていたし、就職などをして社会に出てからでもそう遅くはないだろうと思っていました。彼女は人目を引くような華やかな顔立ちではありませんが、毎日のスキンケアは怠らなかったし、その若さゆえ肌はいつもキメ細かく清潔で、整っていました。ニキビひとつありません。今はその肌の美しささえあれば充分だ、と自負していました。両親ともにそんな自分を肯定し続け、認めてくれますのでその自信は揺るがないのでした。
 彼女は目をつむり、深く息を吸い込みます。心の中で呟きます。「私は大丈夫だ」と。
 彼女は前を向き歩き始めます。
 今宵もまた、夢の中でマワタに出会えると良い。そう願いながら。

おわり

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