雨(4)

 彼は満足そうに頷いた。そしてカーテンを全開にした。常日頃からそうなのか、それともメイクが剥がれ落ちてしまった私に気を使ってのことなのか、彼は部屋の明かりを一切点けなかった。
 外はまだまだ雨が降り続いている。窓から差し込むぼんやりとした灰色の光を眺めながらバゲットを齧る。聞こえるのは咀嚼音と雨の音だけだ。まるで水中を眺められる遊覧船に乗っているみたいに、不思議な静寂に包まれる。心がほどけていくようだ。
「今度はいつ会えますか?」
 私は返事に躊躇した。彼がどういうつもりでその質問を投げかけたのか、はかりかねたからだ。
「どうしてまた私に会いたいと思うの?昨夜のがそんなに良かった?」
 彼は一瞬目をまんまるにさせた。
「随分率直ですね」
「疑問点は残しておきたくないから」
「単純にまた会いたいと思っただけですよ。駄目ですか?」
「……。」
 男性のこういった類の言葉を素直に受け止められるほど、私は純粋ではなくなった。
「あなた、どうしてあのバーに通っているの?」
 もう一つの疑問を潰しにかかる。
 彼は少し首を傾げた。質問の意図を汲み取りかねたらしい。
「全然お酒を楽しんでいるようには見えなかったから」
「そう見えましたか?」
「少なくとも私にはそう見えた」
「お酒を飲むのは好きな方なんですがね。あそこで飲むのは正直、とても緊張します。確かに楽しんではいないですね」
 彼はためらいがちに話し始めた。コーヒーを一口すする。
「人を探していて。でもほとんど手掛かりは無くて。その人物と出会ったのがあのバーだったんです」
 彼はしばらく無言で窓の外を眺め続けた。まるでそこに誰かが立っていて、対話するかのように。そして小刻みに足を揺すり始めた。
 私は彼が再び話し始めるのを待つことにした。カリカリのベーコンを口に運ぶ。
「…殺そうと思って。次に会ったら殺そうと決めているんです」
 とても意外な答えだった。想定していたものとはかけ離れていたので、私は一瞬ひるんでしまった。
「…どうしてほとんど手掛かりも無い人物がそんなに憎いわけ?」
「とんでもない侮辱を受けたんです。死ぬことを考えるほどの。あれ以来、自分は復讐のことしか考えていません」
 薄暗い部屋の中、かれの頬を伝う涙が光った。彼は慌てて手の平でぬぐう。鼻水をすする音が響く。
 彼の言う「とんでもない侮辱」とは何だろう?私はそれほどまでに誰かを恨んだことがない。憎くて恨むほど他者と距離を縮めたりしないし、また、関心が無い。誰かが私を攻撃しようとするならば、極限まで離れるし、無関心を装うのだ。それで大抵の人間は離れていく。

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