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「人工の島、人造の魂」第8話(全11話)

    ★

 私はプラスチックのお椀を両手で隠すように持ちながら、A棟の三階へつながる渡り廊下を走っていました。
 途中ですれ違った一年生たちは、みんなホウキやちりとりを持っていました。
「なに、あれ」
「いーけないんだ、いーけないんだー。ろうかはしったら、いけないんだー」
 と、こちらを指さしながら笑っています。
 だけど私は、そんなことに構っていられません。
 給食を食べ残してしまい、それをいんぺいしようとしているだけではなく、掃除当番までサボってしまっているのです。
 だけどそれをさせているのは、他でもない担任の先生なのでした。
 そうでなくても、手の中にはナメクジの群れみたいな、ぬめぬめした食べ残しの玉ねぎが這い回っているのです。
 それを想像しただけで、私はオエッと吐いてしまいそうになるのでした。
 何度も転びそうになりながら、慌てて階段を駆け上がりました。
 A棟の四階は、人影もなくひっそりとしていました。
 音楽室や理科室、家庭科室など、特別教室が集まっている階なのです。そういう授業がない時は、誰もやってこないので、まるで廃墟みたいに静まり返っていました。
 廊下の突き当たりにあるのは、視聴覚室でした。
 私は息を弾ませながら、鉄みたいな味のする唾を飲み込みました。
 片手にお椀を持ったまま、横すべりのドアに手をかけました。
 するとその奥は、まるで内側と外側がひっくり返ったみたいに、ひどく明るかったのです。
 視聴覚室といえば、分厚い遮光カーテンに覆われた、たまにしか連れていってもらえない、秘密の場所という感じでした。
 だけど今は、カーテンも窓も開け放たれ、外からお昼の陽射しがさんさんと降り注いでいました。
 潮風が吹き込み、窓の端に寄せられたカーテンを膨らませていました。
 恐る恐る中へ足を踏み入れ、ぐるぐる見回してみたのですが、先生はどこにもいませんでした。
 私は何となしに、大きく開いた窓の方へ歩み寄ってゆきました。
 太い鉄の手すりが、ちょうど目の高さを遮っています。だけどその下から、ビルの向こうの港が眺められました。
 錆びたコンテナが、ゲームオーバー寸前のテトリスみたいに積み上がっています。それをかばうように、何頭もの赤いキリンがすっくと立ち並んでいました。
「はるちゃん」
 いきなり言葉をかけられ、私は「ヒッ」と声を上げてしまいました。
 驚いた勢いで、手の中のお椀を放り出してしまいました。それは尖った山なりの線を描き、床にひっくり返って、やきそばの残りをまき散らしてしまいました。
「ああっ」
 私は振り返ろうとしましたが、うまくいきませんでした。背後に男の人がぴったりと立ち、こちらの肩の上に大きな手を載せていたからです。
「山ン本先生」
「よく来たね、はるちゃん」
 耳の後ろにかかる先生の息は、やっぱりちょっとタバコのにおいがしました。
「でも、玉ねぎが」
「玉ねぎ? ああ」
 先生はそちらを見やりもせず、丸眼鏡の向こうの目を見開いているのです。
「そんなことは、もうどうでもいいんだよ。もっともっと大切なことが、ぼくたちにはあるんだからね。それはもう、絶対に避けられないことなんだよ。そこから目を背けることは、決してできないんだよ」
「ええっ?」
「それはね、《未来戦争》だよ」
 私には、何とも答えることができませんでした。何か言葉を発することもできませんでした。先生の言っていることが、少しもわからなかったからです。
「よく見ていなさい、はるちゃん」
 先生は太くて茶色い指を伸ばし、窓の向こうをまっすぐに差してみせました。
 するとどうでしょう。
 分厚い黒雲が、海のかなたから吹き寄せられてきて、たちまち太陽を遮ってしまいました。あれだけ晴れ渡っていた空がかき曇り、憂鬱な夜明けみたいに薄暗くなってきました。
 ゴロゴロと、遠い雷の音さえ聞こえてきました。かと思っていると、空一面が血を流したように赤くなってゆきました。夕焼けの色とも違う、解剖されたカエルのような、もっと生々しい赤です。
 ピカッ、と稲光がひらめきました。そうしてお習字の墨で描いたような黒い雨が、人工の島一面に降り注いできました。森中の蝉が鳴いているような、うるさい音がしてきました。
 目の前が、すり切れたフィルムに映る、一枚の油絵みたいになっていました。
「先生」
「どうしたの、はるちゃん」
「あれは一体なんですか」
 私はやっとの思いで、それだけを尋ねていました。
「あれは《暗闇の雲》だよ」
 山ン本先生は、何でもないことのように答えてみせるのです。
「ぼくたちは、あの《暗闇の雲》と戦わないといけないんだよ。この人工の島を守るためにね」

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