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他人の弱さが許せない人々

お酒のみます、今宵は。飲酒ライティングです、今晩は。
もうホロ酔いなんて倒置法つかっちゃいます。一日千秋の思いでこの日を待っていました、なんてことはないんだけど、明日は休みなんで今宵は構わんかなと。自分に甘くて他人にも甘い、そんな世捨て人に、わたしはなりたい。

ほんじつ佐藤卓己『青年の主張』を読み終えました。戦後日本の「理想的青年像」の変遷をたどるのにひじょうに便利な一冊といえるだろうね。昭和時代の「青年の主張」に特有の身振り口振りを模倣したタモリのネタは有名。
ところで、「おわりに」のなかに、同じ問題を扱うにしてもそのフレーミングによって視聴者の受け取り方が違うというアメリカの社会学者の研究が紹介されていたが、これはたいへん示唆深い。エピソード型フレームは具体的な個別事例を取り上げるもので、たとえばホームレス当事者や引きこもり当事者の姿や語りを伝えたりするもの。テーマ型フレームはそのおのおのの個別性の背景をなす文脈を取り上げるもので、たとえば失業率の悪化や政府の福祉予算削減といったマクロな問題を伝えるもの。前者では受け手は個人にその責任を帰属させる傾向があり、後者では政府や官庁やその責任を帰属させる傾向があるという。NHKによる「青年の主張」にありふれる苦労話や理不尽話が政治的な抗議性を帯びなかったのはそれらがエピソード型フレームによるものだったからと著者はいう。
さっこん生活保護受給者や不法残留者にやたら厳しい「愛国者」が目立つのは、テーマ的フレームによる良質の社会報道が相対的に少ないからだろうか。「貧困にあえぐ社会的弱者」に「自業自得だから同情に値しないよ」なんて言いたがる人達のすべてに社会批判的観点がごっそり抜け落ちているとは思わない。彼彼女らもまた「貧困」と紙一重であり、他者を気遣う余裕などないのだ。
それにしても「自己責任」という言葉を無邪気に使えるほど「自己」の独立性を私は認めることができない。個人の「固有性」は時代や環境や遺伝等の複合要素群によってある程度条件付けられており、そこから結果するさまざまの「不都合の責任」をその個人のみに帰属させることには学問的にも現実的にもやはり無理がある。
男性学者・内田雅克によるウィークネス・フォビア(弱者嫌悪)という造語を思い出す。この種の嫌悪を抱きがちの人すべてがかならずしも「強者」ではない点にこそこの問題の根深さがある。ここには自己嫌悪の他者投影がある。じぶんを弱いと認めたくないしそう思われたくもない人は、弱い他者を嫌い遠ざけることで、自分の弱さの直視を回避することができる。ここで弱い者同士が傷をなめ合い連帯すればたいていの問題は解決しそうなものだけど、なかなかそうはならない。私は「雑魚はもっと連帯しようぜ」とこのごろ方々で叫び続けている。ウィークネス・フォビアは幼児からの教育産物でもあるので一朝一夕に解消できるようなものではない。この「心の悪性腫瘍」に由来する問題はじつに幅広く、そして根深い。
残りの閉館までの時間はデヴィッド・グレーバー『負債論』を読む。明後日からも引き続き読むつもりです。このひとの著作は読んでいるうちに知の活力がみなぎる。いい読書は知湧き肉躍るもんだ。ルワンダ内戦のルポみたいな血の凍るような読書もそれはそれで「有益」なんだけど。今後もお節介婆さんよろしく何度も繰り返すが、読書しないとマジで知的に劣化しますよ。
あ、そういえば橘玲『〈日本人〉』も読了(音声データだから聴了か)。つぎ何にしようか考え中。

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