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その程度で「変態」だと思っているの?

三月十六日

午前十時十五分起床。ねむい。不機嫌。鼻づまり。母親がコメ(五キログラム)を持ってくる。一時間ほど買い物。「一日一回で効く」という鼻炎薬コンタックを買う。箱の表を見ると「眠くなりにくい」とブランドキャラクターに言わせているのに、裏には「寝る前に飲んで、24時間効果が持続」と書いてある。十六日分で千五百円程度。一日分で約百円。花粉症の不快を抑える代償は安くない。花粉症がなくても厭世気分に浸りがちだというのに。

角南圭祐『ヘイトスピーチと対抗報道』(集英社)を読む。著者は共同通信社の記者。辺見庸の勤め先だったところ。最後の方で明らかにされるが、著者はもともとウヨク的な差別主義者だった。現役の記者でありながらそんな黒歴史をわざわざ告白をする人も珍しい。ふつうだいたい記者なんてものは、人権意識なんて生まれた時から備わってましたよ、といわんばかりの「お利口さん」を演じてみせるものなのだけど(その「リベラル的偽善性」こそ「ウヨク」「自称保守」の面々を苛立たせているものなのだろうが)。いずれにせよヘイトクライムに至る「思考経路」を経験上知っている記者は強い。世のヘイト活動を分析したり、それに対抗したりする上で、有効に作用しうるだろう。年季の入った排外的差別思想の持ち主はともかく、このごろではそのへんの「ふつうの人々」までが「中国人はこれだから」とか「反日は日本から出ていけ」なんて放言して憚らない。たいして読んでもいないくせに「朝日新聞の偏向報道はけしからん」とか「マスコミは本当のことを隠している」なんて馬鹿の一つ覚えのように叫んだりしている。じっさい私の周りにも、民族蔑視的な言辞や粗悪な陰謀論を吐き散らかすのが、少なからずいる。喧嘩になるのが嫌なので「ふーん」と右から左に受け流しながら話題を変えることが多いが、ほんらいは「そういう下劣なことは言うな」と激しく反論すべきだろう。そうでないと相手は「知的成熟」の機会を逸することになるし、なによりその暴力的言説に私も加担したことになってしまう。いまの私はそんな「主義主張ごっこ」を、頑是ない子供のタワゴトだと聞き流すことは出来ない。このごろでは無知な熊公八公のみならず、一定の社会的影響力のある人間までもが、そうしたタワゴトを「意識的」に拡散している。人品や言説の悪性劣化が甚だしいそんな愚衆時代の只中で「両論併記の原則」を貫き通すのには自ずと限界がある。特定の人々の社会的排除を露骨直接に主張するヘイトスピーチは紛うことなき暴力であり、これを「公平中立」に報じて能事畢れりとしてはいけない。報道機関だろうが行政機関だろうが個人だろうが、眼前の暴力には誰もが躊躇なく介入すべきであり、そうしないのは倫理的主体としての背信行為である。本書には「官製ヘイト」という、慎重な検証を必要としそうな概念も出て来るが、既存の暴力的言説に対して政府(上位権力)が「お墨付き」を与えているように思われることは実に多々ある。政府が朝鮮学校を高校授業料無償化の対象から外すように決定したのは、その一例だ。私はしばしば、「北朝鮮ロケット問題」や「拉致問題」が<愛国心高揚>のために利用されている印象を受けるが、この話は一旦やりだすと延々と続きそうなので、また別の日に。

会田誠『青春と変態』(筑摩書房)を読む。著者は、数年間に大学の公開講座で「ゴキブリとのセックス画」を受講者に見せ吐き気を催させた芸術家(これは学校を相手取った訴訟にまで発展した)。本書は彼が若いころに書いた小説。「変態性欲」を描いたものとしてはごく凡庸な部類に入るものだが(そもそも基本的な性欲対象が「異性の肉体」だから)、とちゅうで開陳される「覗き哲学」は示唆に富んでいて面白い。概要としてまとめるのは面倒くさいので、そのまま引用する。

それは、「覗き」とはある極端な人間観のことだ、ということだ。中間をすっ飛ばして、両極の間を目まぐるしく往復する高速運動のことなのだ。つまり、人間を人間として当たり前に見るのではなく、ある時は虫ケラと見、ある時は神様と見るのだ。虫ケラと見る時僕は神様になっており、神様と見る時僕は虫ケラとなっている。完全優位な視点と、完全劣位な視点。だからこうして「覗き」を目的に対岸を見ていると、それは普通の温泉街の明かりには見えなくなってくる。「神々の住まう神秘の御殿」と「ムシケラどもの蠢く巣」という二つの視線が、同時に存在しながら分化してゆくのだ。

さあ卵かけ御飯(raw egg over rice)を食って、図書館に行こう。

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