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ぷりんぐす、かかろった、だるいずむ、絶倫卵、メトロポリタン歌劇場、猥褻ゴリラ、気鬱、

十一月十六日

もはや書くことでさえ、魅力を失ってしまった。感じたことを表現しようとすることだけでなく、文章を練りあげようとすることすら、まったく平凡なことになってしまい、まるで飲んだり食べたりするのと同じように、ろくすっぽ注意もせずに、私は書いている。なかば狂気に駆られつつ無関心に、熱中も情熱もなく、ただこつこつと。

フェルナンド・ペソア『(新編)不穏の書、断章』(澤田直・訳 平凡社)

午後十二時三八分起床。紅茶、柿ピー。休読日。夕方から天気崩れるかしら。TSUTAYAかBOOKOFF行きたいのだけど。ICOCAで本を買いたい。フルトヴェングラー&ベルリンフィルによるシューマン交響曲第一番。重厚にして清澄。感極まってひれ伏したくなる瞬間も少なくない。フルグラの虜になりそう。って朝のシリアルじゃねえよ! さくやはダイス氏と南砺市の温泉。音楽やキャッシュレス決済の話をしながら一時間半ほど湯に浸かる。さいごの三〇分はほぼ貸切状態。このストリーミングサービスの時代にアナログレコードが売れているとのこと。わけがわからん。この電子書籍の時代にまいしゅう古書漁りしてる俺が言うのも変だけどね。モノとコンテンツを切り離して考えること。人の「所有へのこだわり」を過少評価してはいけない。俺は枕の近くにあるていど本が積み重なっていないと心許なさのために眠れなくなる。部屋に本を一冊も置かない人間がこの世にいるなんて信じられない。人間はどんな極限環境にでも生きられるものらしい。私にとって本はなによりもまずブツ(物、仏)なのである。ブツとしてそこにあるだけで「魂」に平安がもたらされるのだ。

いつも手の届くところに
俺が寝ている間は本たちも寝る

辻潤『癡人の独語』(オリオン出版社)を読む。
もうこのごろ夜は辻潤ばっかりなんだけど。「ダメ人間」の見本のような人。マックス・シュティルナーの翻訳とかもしていて、いちおう「インテリ」ではあるんだけど、理想や「べき論」を理路整然と語ることはほとんどない。放浪、ダダ、アルコール依存症、デカダン、気違い、無責任、労働嫌い。あらゆる面で「善良な市民」の真逆を行く人。

生きていることの面倒くさいことは今に始まったことではない。それがイヤなら死ぬよりほかに名案はない。

のっどる・ぬうどる

問題は死ぬのも面倒くさいことだ。生きるのも死ぬのも面倒くさい。俺なんかはむかしからこの問題の重大性に気がついていて、よくそんな話もしていたが、周りの人たちはピンときていないようだった。「ひょっとして全部が面倒くさいのは俺だけ?」とずいぶん落ち込んだものだよ。「不条理を不条理と感じることの出来ない感性」を羨ましいと思ったのは一度や二度ではない。

あまりに倫理的な人間はダラクするより生きる道を見出すことが出来なくなる。

ぺるめるDROPS

私にとっては現実を肯定するということは厚顔無恥に生きるということの別名に過ぎない。――厚顔無恥も度々繰返している間には無邪気に思われるようにさえなって来る。

惰眠洞妄語

いずれも至言なんだけど、その真意はたぶん書いた本人によってさえじゅうぶんに「理解」されていないだろう。しょせん彼は「親になる誘惑」に抗えなかった人間であり、「子作りという普遍的暴力」と真剣に向き合うことを生涯しなかった人間だ。その点では救いがたいほどの凡庸人であり、だからとうぜん僕は彼のことを「ただしく」軽蔑できているつもりだ。でもそれでいいんだよ。人間なんて、「倫理的」であろうとなかろうと、みんな「クソ」なんだから。我が身が可愛くてしかたないんだから。「生命のつながり」のなかで安住したんだよ、きっと。「まともな人間」をなにがなんでも演じたいんだ。おお麗しき不潔さ。人間万歳。オッケーグーグル、金沢のこれからの降水確率おしえて。

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