正義について 哲学の先人達と近年のアニメ(ONE PIECE NARUTO BLEACH等)から引用して考えてみる
正しいとされるものが相対的でしかないこと
常識は普遍的ではないこと
理屈は全て突き詰めると屁理屈だということ
自分は正しい選択を求め続けていたけど、
その正しさも相対的でしかなく、
統計的な正しさは証明できることがあっても、全ては暫定的だということ
そしてそこまで正しいと思えたとしたとて、
必ずしも行動の結果に満足できるわけではないこと
正しさと言うものを語る上で外せないのは、
そこにすでに議論を重ねてきた先人達の知恵。
語り尽くすと文学か哲学オタク以外は読む気をなくすと思うので、控えめに書きます。
うん。不毛。
ここ数年のアニメからも、
正義対するセリフを抜き出して見ましょう!
結局どれも同じような意味を語っていますよね。
人間の語り出す正義なんてのはあくまでも、相対的で視点による。
だから、正義なんて、正しさになんて、拘る必要がない。
↓
というわけにもいかない。
前述したように、
どんな理屈も所詮は屁理屈で
どんな正義も悪になり得り、
常識も普遍的ではない。
資本主義と社会主義でもお互いの主張する正義は大きく異なる。
もちろん、そんな大きなスケールで考えなくても、
この記事を書いている僕と、
読んでいるあなたとでも、
とあることに対する正しさの認識は一致し、
とあることに対する正しい考え主張が一致しないと思う。
でも僕らはこの呪いから逃れることはできないんじゃないかと思う。
「ただしいなんて、考える必要がない」
と思っていることが
「正しい」
と無意識で思ってしまっているから。
こんな事実が分かっても、
人は正しくありたいんだと思う。
僕もその1人かもしれない。
そして、正しいとは何か追求した人達は、
大抵同じ所に辿り着く。
これもアニメからの引用ですが、
法を守るのは言わずもがなだけど、
それ以外に正しいかどうかに拘わることはそんなに重要なことではないと思った。
何が正しいのか。
これは相対的なもので絶対的なものではないと、理解した上で、相手の正義にも目を向けることが多分大切なんだろうなと。
そういう意味で、宗教が発展した意味も理解にそう難しくないと思う。
宗教は絶対的な正しさを提供してくれる。
だから同じ宗教の国同士だと、理解が難しくないことがある。
それはもちろん宗教よる文化的な背景による影響もあるかもしれないが。
この記事が正しいと主張したい事は、
正義同士がぶつかるのは論争に留めておこうよと言う事と、
相手の正義を理解できなくても認めるという努力はできる事はある。
ただし、憎しみが介在しない限り。
愚かしいけど、どうしようもないけど、醜いけど、
どこか愛らしく、
愛さずにはいられない。
それが人間なんだなーとか、
ぼんやり考えてました。
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