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【書評】星野智幸氏 「何も表さない私を求めて」 -グカ・ハン『砂漠が街に入りこんだ日』に寄せて

何も表さない私を求めて
                   星野智幸

 伝染病が世界中を覆い尽くし、続々と死者が増えても勢いは衰えず、まるで絶滅に向かっているかのような日々を送っているなんて、映画の中の出来事であり、まさか自分が体験するなんて思わなかった、今現在が悪夢か空想のようだ。
 コロナ禍を必死にやり過ごしながら、ふと我に返るとそんな架空感を覚える人は、私だけではないだろう。
 悪夢のようなのにれっきとした現実でありその中に自分がいて逃れられない、というこの感覚が、内田百閒ばりの幻想性をたたえて立ち上がるのが、グカ・ハンの『砂漠が街に入りこんだ日』だ。このタイトルがすでに、なじみ深い現実感をまとった悪夢を表しているだろう。
 八つの短編の最初、「ルオエス」は次のような印象的な言葉から始まる。

「砂漠がどうやって街に入りこんだのか誰も知らない。とにかく、以前その街は砂漠ではなかった」。

 砂漠がいつやって来たのかと人に尋ねれば、「川に蜃気楼が現れるようになった後」だとか、「一番有名な記念碑が建つ前」だとか、「人は決まって何かのだと答え、それを聞くたびに私は途方に暮れてしまう」。  「私」にとって砂漠は前でも後でもなく、現在なのだ。「私」は因果関係で物事を考えることから取り残されており、人々の言うことが理解できない。因果から疎外されている、つまり時間がなく、「私」にはただ目の前の現在が続くのみなのである。
 『砂漠が街に入りこんだ日』は全編、この時間のなさに支配されている。過去の記憶を語る作品も多いにもかかわらず、記憶は現在の自分と関係してこない。友人であれ親であれただの知り合いであれ見知らぬ他人であれ、自分とは関係しない。親しくしていても、「混じり合うことなくただ隣り合っている」(「雪」)。
 「私」は「ルオエス」という名の都市をさまよう。街の人々は生気を欠き、皆そっくりで生きていないかのよう。街はガラス張りの高層ビルが見渡す限り広がっており、砂はガラスを作るための主な成分の一つであり、すなわち砂はガラスとなって街を覆い砂漠を形成している。
 「私」が人と関係しない状態なのは、「私」自身が積極的な主体であることを欠いているからだ。なぜなら、この「私」は何かを表現しないことでのみ、存在しているから。
 この小説はフランス語で書かれている。韓国で生まれ育った韓国語ネイティブのグカ・ハンは、二十六歳でそれまで無関係だったフランスに渡ってからフランス語を習得し、六年後にこの小説を刊行したという。
 母語ではない言語で小説を書くことの困難は、二人羽織で絵を描くようなものだ。その最大の特徴は、自分の体が自動的には表現をしない、という点にあると私は思う。
 無意識の奥底までに染み渡り脳の言語を司っている母語は、私が考えなくても自動的に何かを表現してしまう。例えば、信号の緑を見れば、「青信号」と自動的に思う。けれど、それを英語で言い換えろと言われれば、ブルーなのかグリーンなのか、考えても戸惑う。汚職を言い逃れする政治家を見て「男らしくない」という言葉を口にしたら、言った人の無意識の価値観や記憶などを図らずも自動的に表現していることになる。不自由にしか使いこなせない母語以外の言語であれば、「卑怯だ」という言葉を文字通りに使うしかない。
 母語である韓国語ではなくフランス語で書くことは、黙っていると何も表現しない状態から、意識で考えて言葉を見つけ拾っていく作業ではないかと思う。二十代後半でメキシコに住み、その間に多和田葉子がデビューしてその作品に衝撃を受け、自分もできないスペイン語で小説を書いてみようと日記を書いたけれどそこで終わった身として、私はそのように想像する。
 『砂漠が街に入りこんだ日』の「私」あるいは語り手は、自動的に表現してしまうことから逃れようとしている。母語をシャットアウトすることで、記憶まで封じる。フランス語で構築し直された記憶は、より相対化されたものとなるだろう。
 砂や雪や熱に覆われ、荒涼としたモノトーンの無時間に閉じ込められたようなグカ・ハンの小説が、息詰まるような印象なのに、読後にとてつもない解放感を与えてくれるのは、勝手に表現してしまう自分から、また、それを勝手に解釈して断罪するような人々から、何としてでも逃走し、表現しないことで自分であることを保持しようとするからだ。
 そっけない悪夢こそが解放になるグカ・ハンの世界は、今の息苦しさから読む者を救ってくれるだろう。


星野 智幸
小説家。1965年米国ロサンゼルス生まれ。早稲田大学卒業後、新聞社勤務を経て、メキシコへ留学。97年『最後の吐息』で文藝賞を受賞してデビュー。2000年『目覚めよと人魚は歌う』で三島由紀夫賞、03年『ファンタジスタ』で野間文芸新人賞、11年『俺俺』で大江健三郎賞、15年『夜は終わらない』で読売文学賞、2018年『焰』で谷崎潤一郎賞を受賞。他の著書に『呪文』、『星野智幸コレクション』、エッセイ集『のこった もう相撲ファンを引退しない』『未来の記憶は蘭のなかで作られる』など。


書影帯付き

『砂漠が街に入りこんだ日』 グカ・ハン 著  原正人 訳
164頁/四六変形/並製/リトルモアより、2020年8月1日発売。
全国の書店およびネット書店、LittleMore オンラインSHOPにて好評発売中。

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