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これからのメディアと働き方

今、自粛生活も板につき、それぞれがそれぞれの立場で働き方、仕事、暮らし方、生き方について考え直しているときだと思う。今日は元雑誌編集者という目線で振り返りつつ、これからのファッション系メディアの発展とフリーランスの関わり方について少し考えてみたい。

徹夜上等の月刊誌戦国時代

ときは2001年。編集部の忙しさは想像通りで、特に小規模な編集部の場合担当する割合も多く、駆け出しの自分は抱えきれないほどの企画の数と要領の悪さで締切を守れず1週間編集部に泊まる、なんてこともザラだった。(今ではありえないよね、あるんでしょうか?)。よりよい環境を求めて転職し、どんどん大人になり、肩書をもらえるようになるうちに心地よいワークバランスを探してきた。とりわけ忙しくしていた編集部時代に行いたかったことのひとつに働き方改革があって、育休明けは特にリモートでの作業やフレックスの導入を強く推奨していた。念願叶わずいろいろあって退社してから5年経った今、時間と場所の制限から開放され、より効率的な働き方の選択肢がひろがった。緊急事態のおかげでこじ開けられた扉は今後どのように変わるのだろう。そして私達フリーランサーには何ができるのだろう。

個人メディアが力を持ちはじめたとき

小規模だったけれど副編集長としてチームを運営していた頃は、正直誰よりもタフな働き方をしていた。スポ根的で、今考えると少々独裁的なところもあったかもしれない。一人ひとりの働きやすさ、形にする楽しさ、能力を伸ばすことの応援については、とりわけ重要視してやっていたけれども、基本やベースが出来ていることが第一条件。その「基本やベース」にはメディア人としての視点の持ち方や心構えも含まれる。言葉遣いや原稿が常識レベルを超えるという名目のもと「アシスタント」という「お弟子さん」状態でこき使われる時期がどんな編集部でも必ずある。勿論そのアシスタント時代に学ぶことは、スキルはもちろん人脈などそこでしか手に入らないものが数多くある。しかしながら「プラダを着た悪魔」の世界は遠からず。あれほど大規模ではないにせよ、こき使われた挙句の果てに正社員になれず辞めるも、専属ライターに転身する者のなんと多いことか。

それでも、やりますか?

言い尽くされた「一億総メディア」時代。ひとりひとりが発信力を持ち、発信することで広がりつながっていき、都市部集約型である必要を見直される、と言われている。すでにたくさんのアセットを誇る大きなメディアの場合、高いブランド力によって他メディアを凌駕し続けることはそんなに難しいことではないのかもしれない。でも「自分で企画を持つことすらできない」ようなお弟子さんスタイルの編集部形態が続いた場合、企画力のある人間は、働きたがらないのは明白だ。ブランド力にすがったところで甘い蜜にありつけるのは所詮ごく一部。個人で発信できる時代の編集部には、やりたいことが明確なアーティストタイプではなく、業界の仕組みを学んだり人脈を増やしたい人や、何らかの甘い蜜(と思えるなにか)を受けられる人、その立場を生かせる人のみが残っていくのかもしれない。

A面至上主義からの離脱

雑誌編集者とは研究人であり営業人であり経営的な視点とクリエイティブな発想を持つ人であり、淡々とデスク作業を行う労働者でもある。たくさんの顔を持ち、たくさんの人と関わる。そして大なり小なり組織の枠にいるうちは、パワフルできらびやか。いわゆる「A面」的だ。ポップで多くの人に受け入れられ、ちやほやされる。大きな数を動かす。メジャーな雑誌に関わる作り手側も取引先も、対価を払って組織が導き出すパワーの恩恵を受けている。今後も、高いブランド力を持つ「A面タイトル」はより磨き上げられたアセットを武器に情報を提供し続けていくのだろう。より狭き門になり本質を極めたものだけが取り扱うことができるようなもっともっと特別なものになっていくのかもしれない。

それと同時にこれまで時代を作る立場であったA面を無視するものも現れる。進化の遅いファッション業界(これは西洋の階級制度を根底に従えているためというのが持論です)では、「ファッションとはこういうもの」という見えないルールにかなり縛られている。こういった見えない呪縛から解き放たれる。A面タイトルは、階級制度を正しく時に革命的に、守り壊しながら支え合って生きていく。この潮流を手放した(A面以外の)彗星達は新しい惑星となってそれぞれ輝き始める。それはメジャーとマイナー、A面とB面という表裏ではなく、A面と星と光と風と・・・というように、輝きが点在する。例えるならテレビとNETFLIXやAMAZONといったサブスクリプションサービスのプログラムが同等もしくはそれ以上のちからを持ちはじめたように、良質なコンテンツそのものが価値を得る時代になってきている。

個人でありつつも、チームである

しかし、あなたのメディアがA面タイトルでない場合どんなに良質なコンテンツを作ってもブーストしないとほとんど見てもらえない。簡単にブーストさせるために「モーニングルーティン」や「すっぴんチャレンジ」など流行りのものに乗っかる人も多いけれど、瞬間的なものでコンテンツを埋めていくうちにメディア自体の価値が下がっていくのは想像に難くない。(もちろんそこにオリジナリティや個人の魅力や仕掛けがある人は生き残れるのだけれど)。そこで見えてくるのがチームである意味なのかなと思う。個人は個人のちからを高めながら、ユーザーにアクセシブルな仕組みを搭載した親和性のあるアウトプットを軸にチームアップすることで、そのアウトプットと個人がともに広がり上昇することができる。「個人でありつつチーム」。メディアの中にもそんな距離感がこれからもっと広がっていくと思うし、A面タイトルに依存しないで同等の発信力や経済力を持つパワフルな光が増えていくと思う。大勢を重んじ一部が甘い蜜を吸い、疲弊した兵隊をとっかひっかえしていくことで自らの価値を守る、そんな上から目線なパワハラメディアは淘汰されていく。反面、働き手やコントリビューター全員が同等の恩恵を受け、読む人に真摯な美しくもバランスの取れたメディアのみが残っていく。本来あるべき仕組みに変わっていくときなのではないだろうか。

個人が価値を上げるためにやるべきこと

欲しいものを買うため、素敵な暮らしをするために仕事をがむしゃらに頑張る。これまでのやり方は終焉をむかえ、好きや情熱が仕事になっていく時代になった、と占星術師は言う。自分がやりたいなと思ってたけれど、こころも含めて状況がそうさせなかったことが、本来やるべきことの方向へなんだか変わっていく機運のようだ。つくりたい、広げたい、出会いたい、楽しみたい、挑戦したい、輝きたいなら怖気づかずそれをやればいいらしい。誰かのためになるような好意を持って、伝わる方法で行えば、それがしっかりと価値となる。素晴らしい時代になったものだ。その素晴らしい世界を継続させるためには、個人が個人を応援し続けることが大切だと思う。それはスーパーの野菜売り場よりも商店街の八百屋を選ぶように、大量生産の格安商品ではなく造り手がわかる丁寧で純粋で安全な商品を買うことと一緒だ。つまり、新しくチャレンジする人たちにポジティブに散財して、見極めて、これらのサポートシステムそのものを総ブラッシュアップし続けることだ。noteでいいなと思ったらサポートする、個人の作り手からものを買う、小規模商店をサポートする、いいねと思った個人にはきちんとイイねする。個人をサポートし、しっかりと還元させる仕組みを作ることが、個人の価値を上げることにつながっていく。

理想の生活に犠牲はいらない

以前のやり方を振り返りながら、次の扉を開く時が来たのだなと心から感じる。無駄なルールは見て見ぬふりでいいのだ。前に進んだ人には望んだものがやってくる。じっくりと振り返るチャンスを有益なものにするかどうかは、これからの私達の選び方・過ごし方・生き方にかかっているのかもしれない。私達が理想とする生き方をするために必要なことは何かを犠牲にすることではなく、理想の生活を実践しつづけることそのものなのだ。そこそこのキャリアを経験した大人にとって一番たいへんなのは、コレまでの常識や優劣・損得といった色眼鏡を外すことかもしれない。コレまで絶対だった価値が覆されている今、それを外すことが輝ける未来を手に入れるかどうかの鍵になる気がする。


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