心はどこにあるか

敬愛する牧師先生のおひとり、大阪にある東住吉集会を牧会されている高原剛一郎先生のブログや動画は、私にとってよい学び、よいリマインダーになっています。今日、高原先生のブログのなかにこんなメッセージをみつけたのでシェアさせてください。

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(一部抜粋)

『どんな人の働きも、その人の内面生活以上にはなりません。内面が肉的だと、その働きも肉的なものに落ちていきます。内面が世俗的だと、その働きも世俗の匂いがプンプンします。 内面が貧弱であれば働きの実も貧しいです。だからもし良い働きをしたければ自分の内面を豊かにすることが何よりも最優先事項となるはずです』 

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まさに。これは主が私に示してくれたメッセージだと思う。目的を果たそうとするあまり、動機の部分が疎かになっていないか。空っぽの自分のまま走り続けていないか。本末転倒になっていないか。

この世に生きる私たちは、ともすると見えやすい結果や評価を求めてしまう。でも私たちの主は、動機をみてくださる方。そして、結果の優劣を私たちは杞憂する必要はない。そこは主が扱ってくださる領域。主の御心にかなうなら、自分が思う以上にうまく運ぶだろうし、壁にあたったとしたら、それは主が用意してくださった壁だろう。主はチャレンジを歓迎してくださる。私たちの主は、小さな存在を大きく用いてくださることが好き。それは主の栄光をこの世に顕すため。偉大な人間が大きなことを成し遂げても、さもありなん。でも小さな人間が偉大なことを成し遂げたら、それは凄いこと。偉業の背後に、神の存在を世間は感じるに違いない。

大きなことを成し遂げた時、私たちはしばしば、それは自分の手柄だと思ってしまう。そして傲慢な思いがやってくる。「私ってすごい」と。うーむ。嫌な人間の典型だな。。。だから主は、私たちを大きく用いるために、傲慢な私たちの心をいったん砕く必要がある。それは、私たちが鼻高々で高慢な人間に陥らないための主の愛。なんて大きな愛なんだろう。大きすぎる愛は、ときにわかりづらい。

いまどん底にいると思ったら、神がこれから私を大きく用いてくださる用意をされていると信じる。神様は、私たちを用いる前に、私たちがそれに足る器になっているかテストする時がある。神様がくださったチャンスに大きくジャンプできるように、私たちはいつも備えておこう。

。。とわかっていても、あたふたする自分がいる。成果を求める自分がいる。人からの評価を待ち構えてしまう自分がいる。

神様、私の肉的な心を扱ってください。成果や成功に目が眩んでしまう自分にならないように。

What should I do? よりも What should I be?

どうすればよいのか?よりも、私はどう在りたいか?で動ける人間になりたい。

私たちの宝は天に積む。私たちの心のあるところに。

"今、私は人々に取り入ろうとしているのでしょうか。神に取り入ろうとしているのでしょうか。あるいは、人々を喜ばせようと努めているのでしょうか。もし今なお人々を喜ばせようとしているのなら、私はキリストのしもべではありません。"
ガラテヤ人への手紙 1章 10節




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