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『言葉の展望台』三木那由他著

表現の自由が保証されているはずの社会での「言葉によるコミュニケーション」にはさまざまな力学が働いている。

社会的に強い立場か弱い立場か、多くの語彙を使いこなせるか、論理的思考と表現ができるか、知識が豊富か、頭の回転が速いか、高圧的な態度を取るか受け身的か、声(声量)が大きいか小さいか、などの要因によって、言葉は武器にも薬にも(そしてほかのものにも)なる。

言葉は無色透明で中立的な「道具」ではない。

多数が「素晴らしい」と言っているものについて「全然よくなかった」と表明するにはエネルギーが要る。未熟だとか考えが浅いとかいった批判にさらされる恐れもある。実際にそうかどうかよりも、みんなと反対のことを言うことが「悪い」とされているために、そのような批判の仕方になるのではないか。

強い立場の者がそうでない立場の人に「(あなたは)頭が悪い/自分では何もできない」といったメッセージをことあるごとに言葉や態度で与え続けることで、そのメッセージを浴びせられた人は自分はそのとおりの人間なのだと思うようになってしまうこともある。そうした日常的な攻撃にあらがうことはとても大変だ。

そんな問題意識を改めて感じながら、この本を読んだ。雑誌『群像』の連載をまとめたもので、エッセイ風に書いた日常の気づきから、著者の専門である哲学を基にした考察へと発展していく形式を取る。

興味深い話がいくつかあったが、最近もやもやと「これは何なのだろう」と感じていたことについて「もしかしたらこれかも!」と思えた下記の文章に出会った。

きちんと反論をするためには、相手の主張をいったんは受け止め、吟味しなければならない。それは学術的には正しい作法なのだが、こと自分自身に向けられる差別発言にそうした方針を採用すると、「いったんは受け止め」に留まらず、かつて自分自身の存在を否定しようとしていたもうひとりの私が、心の奥のほうで息を吹き返すらしい。私が存在してはならないと思っているもうひとりの私。他人に存在を否定されたところで慣れたものというにすぎないが、「私は生きているべきではない」と考える私自身は、たとえシミュレーション的にほんのいっとき蘇っただけだとしても、手に負えない。生きることに絶望し、(中略)私を子どものように泣かせてしまう。

三木那由他『言葉の展望台』、講談社、2022年、pp. 79-80

自分が心地いいと思えるものや心地いい言動をする人だけに触れていられたら、楽で心が安らぐかもしれない。でもそれは同時に停滞を意味し、新しい次元へ進んでいきたい性分なら、変化する自分を求め、不愉快なものや苦しいこと、一緒にいるとつらい思いをすることもある人にも関わることになる。その中で自分や他者や社会を問い直し、考え続けていく。


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