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『紅の豚』の結末をずっと勘違いしていた!幼いときに一度見て以来、初めて見返したら・・・

マルコ(ポルコ)はジーナとフィオのどちらと結ばれたのか?

1992年公開のジブリアニメ映画『紅の豚』。幼い頃に一度だけ見たきりだったが、大人になって見返したら、ラストについて、子どものときからずっと思い違いをしていたことに気付いて、頭が混乱した・・・。

幼かった当時の私の映画への感想は、「結局若い女を取る(選ぶ)のか、男は」だった。そう、マルコ(ポルコ)が幼なじみのジーナではなく知り合ったばかりの17歳のフィオと最後で結ばれると「勘違い」していたのだ。

しかも、マルコがフィオのキスによって人間に(永久的に)戻って(←『美女と野獣』設定)、2人で飛行機に乗って並んで写っている写真をジーナがマルコからの手紙と一緒に受け取って、寂しげに切なげに眺める、というシーンがなぜか自分の記憶に残っていた・・・。その映像は私の妄想?捏造?!謎だ。

エンディングについてはいろいろ言われているようだ。宮崎駿監督がかつて述べたこと、書いたことについては私では裏付けを取れないので置いておくとして、映画で描かれていることのみを根拠に考えるとしよう。

エンディングでジーナのプライベートな島の屋敷のそばにマルコの赤い飛行艇が停留している画像が登場するので、ジーナが「マルコが日中にこの屋敷の庭に来てくれたら彼を愛する、という賭けをしている」と言っていた賭けに勝ったのだ、だからマルコはジーナと結ばれた(結婚した)という解釈があるらしい。

ジーナが愛すると(伝えると?)誓ったからといって、マルコがそれに応えるとは限らないではないか?と思ったのだが、ラストのフィオによるナレーションで「ジーナさんが賭けに勝ったかどうかは私たちだけの秘密」というようにわざわざ言っているので、賭けに勝ったのならマルコと結ばれた、ということになるのかなとも思った。

一方、マルコがフィオとカップルとして結ばれたということはないと思う。当時フィオは17歳で、さすがに当時彼女と結ばれるのはまずいし(昔だから若くして結婚することもあったかもしれないとはいえ)、マルコはフィオについて「堅気の世界へ戻してやってくれ」と言ってジーナにフィオを預けるし、フィオのナレーションによると、フィオがミラノに帰る日になってもマルコは会いに来てくれなかった。

また、マルコはカーティスと殴り合いで勝負をしている最中に、カーティスからジーナの「賭け」の話を聞かされ、真っ赤になっていた。その後、マルコとカーティスのうち先に立ち上がった方が勝ち、という状況になって、マルコが立ち上がったのは、ジーナがマルコに「また女の子を泣かせるつもり?」というふうに声を掛けたからだ。これは、勝負に負けるとカーティスがフィオと結婚することになっていたので、フィオをカーティスには渡せないと奮起したとも考えられるし、それも確かにそうなのだが、それは親心みたいなものに近いのであって、フィオの声ではなくジーナの声で立ち上がったことが重要なのだろう。

というわけで、「結婚」という形に至ったのかや、打ち明け合ったかはわからないが、マルコとジーナはずっと相思相愛で生きたと思われる。

子どもの頃の私は、いったい何をどう勘違いしたのだろうか?(笑)

そもそも映画のビジュアルがマルコ(豚になってからはポルコなのだが、ジーナはマルコと呼ぶ)とジーナのツーショットなわけだし!

マルコとジーナはなぜ結婚しなかったのか?

マルコとジーナが少年と少女の頃(たぶん十代)に一緒に飛行機に乗っている回想シーンが出てくる。そのときのマルコはもちろんまだ人間だ。2人は幼なじみだった。

ジーナは3人の飛行艇乗りとそれぞれ結婚し、つまり3回結婚したのだが、全員飛行機に乗っているときに戦争(や事故?)で死んだという話が出てくる。初婚の相手は、マルコの同僚で友人だった。マルコはその結婚式に立ち会ったという(結婚式の直後に友人は戦闘で死亡)。

のちに、マルコが自分も飛行艇乗りだから万が一死んでしまったらジーナを悲しませてしまうし、亡くなった友人たちにも悪い(ジーナの結婚相手はおそらく全員マルコの知り合い)、と思うのはあり得るが、そうなる前に若いときにジーナと結婚することは考えなかったのか?

若いときから自分は死ぬかもしれないと思っていた?でもジーナが結婚した相手も結局飛行艇乗りだし、マルコは「いいやつはみんな死ぬ(おれは悪いやつだから死なない)」みたいなことを言っていて、じゃあ死なないじゃん、ジーナと結ばれてもよくない?と思ったが、そもそもジーナを常に心配させることになるのが嫌なのかな。

友人や仲間を失った昔の戦闘の際、この世とあの世の境をさまよって自分だけ生還したという話をフィオに語ったときに、「ずっと一人で空を飛んでいろと言われた気分だった」というようなことを言うが、そのときから特に、一生身を固めないと決意したのか?

もしかしたら映画のラストで、とうとう気が変わってジーナと結ばれたのかもしれないが・・・。そうだとしたら、結ばれるまでの歳月は必要だったということなのかな。

映画の冒頭でジーナの(3番目の)夫が3年も行方不明で、やっと最近遺体が見つかったという知らせを受け取り、死んだことがはっきりした、という場面があって、これも子どもの頃に見たときの記憶からはすっぽり抜け落ちていた。そういう状況がその前の夫も含めてずっと続いていたのなら、マルコは「手を出せない」状態ではあったのかも。そんなこんなで数十年がたってしまったのかもしれない。

もし、カーティスに賭けのことを聞いて初めて、ジーナが自分を好きだと気付いたのなら、マルコ鈍過ぎ・・・。そして、ジーナもなぜそんな賭けを自分に課して、ブレーキをかけていたのだ?3人もの男と結婚したから、おいそれとは、という意識?自信がなかった?なぜ待ってしまったのだろう?

大人になってからも理解が難しい、『紅の豚』で描かれる大人の恋よ・・・。

豚から人間に戻るとき

子どもの頃の私の勘違いの原因の一つは、マルコが人間に戻る2つのシーンが両方とも、フィオがきっかけとなっていることだったのではないか。

1回目は、夜にフィオがマルコを見ると人間の顔をしていて、でも次の瞬間には豚の顔になったので、フィオは気のせい?と思った。2回目は別れ際にフィオがマルコの口にキスをして、その直後にマルコの顔を見たカーティスが、マルコが人間になっているのに気付いた。

しかし、2回目も永久的なものではなく、一時的なものだったのだろう。子どもの私は、ジーナも「マルコはどうしたら人間に戻れるのかしらねえ」というふうに言っていたし、「人間に戻ることがよいこと」だときっと思い込んでしまっていた。だから、「マルコを人間に戻すことのできたフィオと、マルコは結ばれた」というふうに自分でストーリーを作ってしまったのかもしれない。

そういうことではなく、マルコが飛行艇で頭角を現したのが17歳のときで、今のフィオと同じ年のときだったので、フィオの飛行機への情熱に触れて、昔の自分を思い出して一瞬人間になってしまった、とか、そういうことなのかな?

映画の冒頭でマルコはジーナに「この店(ジーナのバーみたいな店)で唯一嫌いなところは人間だったときの俺の写真が飾ってあること」のように言っている。これは、マルコはもう人間に戻れないから、人間だったときの写真を見るとつらくなる、という意味かとその時点では思ってしまいそうになるが、本当はたぶん人間に戻ろうと思えばできる。でもマルコはそうせず、豚の姿のままがいいと思っている。

ジーナは人間のマルコの写真を飾り続けているので、マルコは、ジーナは人間の俺がよいのだろう、と思ってしまっているのかも?だから自分は豚のままでいて、豚の俺なんか嫌だろう、というていでジーナとは結婚せずにいるのか。

でもジーナは、豚の姿のマルコも愛そうと思っている。もちろん人間の姿のマルコも好きだと思うが、豚の姿でもやはり愛しているのだ。

好きなせりふ、その他あれこれ

ジーナがマルコとの電話で言う「マルコ、今にローストポークになっちゃうから。私いやよ、そんなお葬式」というせりふが傑作。

映画の曲も歌っているジーナ役(声を担当)で歌手の加藤登紀子さんの声が低く、子どものときの私は、「すてきな女性が、こんなに声が低くてもいいんだ!」となんか励まされた。当時も今も、日本の女性は声が高い方がいいみたいな風潮があり、私は声が低いので。

男同士の勝負で「女」(フィオ)を賭ける、というのが古くさい!まあ、映画公開が1992年と30年前だし(!)、舞台設定はもっと昔だしね(笑)。

飛行中、用を足すのはどうするの?特に、マルコと飛行艇に2人乗りしていたとき、フィオはどうしていた?と、燃料供給中にごくごくと水分を取っていたフィオを見て、疑問が湧いてしまった(笑)。

2013年のジブリアニメ映画『風立ちぬ』も飛行機の話だが、宮崎駿監督は飛行機が好きなのか?(ファンにとっては常識、な話?)

映画公開30年後に加藤登紀子さんがマルコ(ポルコ)役だった方の追悼でエンディング曲を歌った動画。この渋い深い声、映画のエンディングで聞いたときは泣かなかったのに、この歌声で泣いてしまった。

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