見出し画像

主体と客体、集団と個があやふやになる、私たちの不気味でありふれた社会:『むらさきのスカートの女』今村夏子著

芥川賞を受賞した小説『むらさきのスカートの女』今村夏子著は、淡々とした日常を描いているようで、あり得ない展開を見せ、あり得ないながら、私たちが嫌というほどよく知っている社会を描き出す。

地域で、いつも紫色のスカートをはいているから「むらさきのスカートの女」として知られている、住民の誰もが知っている有名な女がいる、と語り手は語る。語り手は、自称「黄色いカーディガンの女(として有名になりたい女)」だ。

紫の女も黄色い女も、ちゃんと名前がある。しかし語り手は、たとえ「むらさきのスカートの女」がもはや紫色のスカートをはかなくなっても、記号化された「むらさきのスカート」として認識し続けることに執着する。

黄色は紫を観察するが、紫は黄色を知らない。黄色は紫を、直接関わることなしに誘導し、自分と同じ職場で働くよう仕向ける。紫は職場で記号ではなく生身の人間としての姿を現していく。一方、黄色はそこにいるのに、まるでその場にいないかのように、周囲の人間に認識されていない。あたかも幽霊のようだ。

こう書いているうちに、「ブルー」「ホワイト」「ブラック」という3人の男が登場する、アメリカのポール・オースターの小説『幽霊たち』を思い出した。私立探偵ブルーは、明らかに変装して現れた依頼者ホワイトから、ブラックを見張って報告書を定期的に送るよう指示される。ブルーはブラックの観察者となるが、次第に自分が見張られているような気がしてくる。

黄色も、紫の行動をつぶさにメモして記録をつけている。最後、紫が消えると、今度は黄色が人間として姿を現す。ようやく他の人の目に黄色が映り、黄色は心の声ではない、人に向けての声を出す。

だが、黄色の「正体」は、本人の語りによって、物語の最初から少しずつヒントとして明かされていく。

伏線は分かりやすく、これまでに著者の他の本を読んでいたせいか、芥川賞受賞時に報道で触れた情報のせいか、本書に大きな意外性は感じなかった。

いや、やはり「ラストの手前」はなかなか衝撃的だったかもしれない。ラストは予想されたものだったかもしれない。私はあなたで、あなたは私。本書の表紙の絵のように。

黄色が紫に抱く感情は、憧れ?同一化を望んでいるのか?

かわいそうな変人として接していたのに、実は感じのいい人だったと周囲の受け止め方が変わった、ところが今度は一段上にいると思われて、けなされ、排除されるようになる。これが、近所の人や職場の人の紫に対する態度の変化だ。少なくとも、黄色はそのような見方をした。では、黄色の紫に対する気持ちはどうだろうか?ずっと変わらず、「友達になりたい」存在なのだろうか?

職場の人たちの態度の変化は凡庸に思えるが、よく考えると怖い。集団においては、新参者を警戒してばかにし、ちょっと見直したらかわいがり、自分たちより少しでも「上」だと感じたら憎み排除しようとする。集団が変質しないように。自分たちがこれまでと同じように安泰でいられるように。自分たちがおびやかされないように。そうすることで自分たちを守るために。

そして職場は同じように続いていき、地域では消えた紫の座に黄色が収まる。記号化された人間たちがパズルのピースを埋めていき、相も変わらずそこにいて同じことをしている。

気付かないうちに忍び寄ってくるような恐怖と、ユーモアが合体している、奇妙で独特な味わいのある小説だ。

▼短編集『父と私の桜尾通り商店街』今村夏子著の書評はこちら↓


この記事が参加している募集

推薦図書

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?