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伊藤亜紗『記憶する体』:障害や病気のある人が編み出した知恵とは

伊藤亜紗著『記憶する体』は、それぞれ異なる障害や病気のある人たちが試行錯誤や創意工夫を経て身に付けた、身体の「ローカル・ルール」を、インタビューから浮かび上がらせた本。

■p. 46
「ものを作るという作業をしていくと、自分が何を求めているのか、何を知りたいのか、ということの基盤が、・・・具体化していくんです」

全盲になってからも、メモを取る人の言葉。書くことで、思考が整理される。絵も描く。手を動かして書く・描くことで、社会的な他者からの介入がない状態で、自分で考えたり判断したりする領域を取り戻せるのだそう。これは、晴眼者にとっても参考にできそうな「自分を取り戻す」方法だ。

■p. 62
「学習とは結局、あるものを獲得するために、それ以外のものを大量に捨てる作業だと言えます。これが『抽象化』です」

学習も、仕事における業務も、抽象化を伴う。勉強や仕事を効率よくこなすことが不得手な人は、抽象化が苦手なように見える。具体的な事例から普遍的なルールや手順を抽出して、それを別な具体的事例に当てはめたりすることが苦手なのだ。それはそれで特性なのだが、通常の仕事をする上ではネックになる。どうしたら抽象化ができるようになるのか、何らかの訓練法があるのか、あったら知りたい。

■p. 87
「興味深いのは、こうした『幻の指を動かす』経験を積み重ねた結果、物理的にも、大前さんの体が鍛えられているということです」

ダンサーの大前光市さんの話。「体をこう動かすというイメージすることにより、実際に体の動かし方、体の筋肉のつき方などが変わってくる」のは、幻肢のない人にも起こる。バレエやダンスのレッスンで、解剖学的な骨や筋肉の知識を説明してもらって、それを意識しながら動くと、体や動きが変わってくるのだ。

■pp. 91-92
「大前さんは、・・・あえていびつな義足を開発し、舞台上で使っています。短すぎて立つとつま先がつかない義足や、逆に長すぎる義足。・・・器用さというと、『効率よく成し遂げる能力』だと思われがちです。けれどもそれが必ずしも、『一般的な成果に向かって効率よく進むこと』を意味するとは限らない。『ふつうの人になるだけ近づこうというのが義足のコンセプトだと思うんですが、アートに限ってはそれをやる必要はない』と大前さんは言います」

アートとは普通ではないこと、ということなのだろう。

■p. 120「席数という情報を手がかりに、目が見える人は、店舗の空間的な広さやタイプ、料理の価格帯、想定されるコミュニケーションなどについてのイメージをふくらませます。では全盲の方がレストランに行くとき、彼らはこうした店の規模に関する情報を得ていないかというと、必ずしもそういうわけではないでしょう。お客さんの会話のトーン、BGMや環境音が反響する具合、あるいは頬にあたる空気の流れを手がかりに、彼らは瞬時に『規模』を把握しているはずです」

晴眼者と全盲の人がそれぞれ、場所の様子をどう把握するか、という仕方の違いが興味深い。

■p. 121
「本の描写では、椅子が何脚で机が何脚で、ということは書いてあるんですが、材質や座り心地はあんまり書いていない。テーブルも、四角いか丸いかはあんまり書いていない。触覚とか匂いとか、そういうものは見える人の書く本からは落ちている気がします」

小説を書く練習においては、五感を使って描写しようということが推奨されるのだが、全盲の人からすると、触覚や嗅覚など、視覚以外の感覚を使った描写は少ないということのようだ。全盲の小説家が書く小説は、どんなだろうか。もちろん、小説家によってそれぞれ違うのは、晴眼者の小説家と同じだと思うが。それにしても、「全盲の小説家」として誰も浮かばないのは、単に私が知らないだけだろうか?

■p. 131
「つまり、生理的な意味での器官は持たなくとも、小説や映画などを通じて文化的に構築される器官もあるのではないか、と考えたくなります。『耳』を、木下さんは後天的に獲得したかのようです」

「文化的に構築される」感覚は、生まれ育った場所以外の、外国などのことについても生じるかもしれない。小説や映画で海外の文化や習慣、社会に触れているうちに、「懐かしい」と思ったり、なじみのことに思えてきたりすることがあるのではないだろうか。

■p. 216
「痛みの経験は、本質的に個人的なものです。どんなに言葉を費やしたとしても、その体の外に出すことはできない」

これは、体の痛みだけでなく、心の痛みも同じかもしれない。

■p. 217
「この思い通りにならない体を、自分の体だと認めることができなかったのです。それは言いかえれば、かつての健康な自分、記憶のなかの自分の体の方こそを、本当の自分の体だと思っていたということを示しています」

過去の体・自分や、理想の体・自分こそが「自分」なのだ、と思い込んでしまうと、そのギャップに苦しまされる。体でも性格でも能力でも、「現在の自分」を受け入れられるといい。

■p. 222
「『私の痛み』から『私たちの痛み』へ。注意すべきなのは、これが『共有』ではなく『分有』だということでしょう。家族は決して、チョンさんの痛みを自分のこととして理解したわけではない。あくまでチョンさんの病気との関連で自分に起こった痛みを、それぞれが生きている」

自分の痛みは誰にも理解されないが、周囲の人は、その痛みを別の形で、自分の受け止め方としての痛みとして感じている、と気付くことで、痛みが和らいだという。自分が苦しいときに回りに当たってしまいそうなときなどに、思い出したいことだ。

■p. 224
「『体と向き合う』とは、要するに、過去の体を生きるのではなく、今の体を生きるということを意味します」

■p. 235
「吃音と演技は深い関係があります。私たちは日々の生活のなかで、上司、同僚、父親、などさまざまなキャラクターを演じ分けています。多くの当事者が口にするのは、演じるキャラクターによっては吃音が出にくくなる、ということです」

人前で堂々とすらすらと話すことができるキャラクターを意識することで、吃音が出にくくなったりするらしい。その方法がなじむ人もいるだろうし、慣れない人もいるかもしれない。吃音がなくても、社会で生きる上でキャラクターの創出や使い分けは必要になるが、なかなかうまくいかない場合もある。

■pp. 236-237
「柳川さんにとって、吃音とつきあうには『身体が起点』です。だから、体の状態の変化には常に敏感でありたい。運動は、体の声を聴くための必須の手段だと言います」

体を意識的に動かすことが、体の声を聞くきっかけになる。吃音がない人にとっても大事なことだと思う。だからダンスなどをするのは大切。

■p. 263
「大城さんは、出来事が客観的にしか感じられないことに、いつまでも固執したりはしません。出来事を思い出そうとムキになったりはしないのです。『客観』と『実感』のギャップをどうやって埋めるか。大城さんはそれを、とても創造的な仕方で埋めています。大城さんは、ウェブ上に開設したブログに日記を書き込んでいます。その際、このメモリーノートの記録を手がかりにするのですが、そこで『きっとこうだったんだろうな』と想像しながら書くというのです」

若年性アルツハイマー型認知症の人の、とても興味深い工夫。俳優で介護福祉士の菅原直樹さんが主宰する劇団「老いと演劇  OiBokkeShi(オイボッケシ)」の活動とも通じるように思う。自分の体験を覚えていないから、したことのメモを基に、想像して、ストーリーをでっちあげて、ブログに書いている。作家だ!!自分も覚えていられなくなったらこういう「楽しみ方」をするよう心掛けたい。

■p. 269
「生まれつき耳が聞こえない人の中には、幼いころから手話で育ち、手話ならではの感じ方や情報の整理の仕方を発達させてきた人がいます。そのような人は、健聴者が使う言葉では十分に自分の思いを伝えることができない、と言います。なぜならその人は、手話という言語を通して世界の見方を学び、手話を前提とした文化の中で自分を形成してきたからです」

■p. 273
「筋電義手以外にも、VR技術や、人工内耳、遺伝子治療、出生前診断など、私たちの体をとりまく科学技術は日々進歩しています。そして、それに伴って、私たちが自分や家族の体に対して介入しうる『人為』の領域は増大しています。もっとも、技術があるといつしか使うことが当たり前になり、『使わない』という選択をすることがかえって難しくなるのも世の常です。人間の体に徹底的に介入して、その能力をエンハンスし、体をサイボーグ化していくことが、結果として本人の幸福につながるのかどうかは、また別の問題として考えなくてはなりません。いずれにせよ、どの時代、どの社会状況にも、それに応じた選択肢の幅があり、それぞれの人がそこから何らかの選択をして、自らの体を作り上げていく。この事実は、いかに科学技術が発達したとしても、変わりません。

▼手話言語によって世界を捉えていることや、人工内耳の問題についての参考記事


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