物語を生きる

僕は今精神科のデイケアに通っている。鬱が中々治らないのでデイケアに通うことにしたのだ。デイケアは一応プログラムがあるが、それ以外の時間は暇なので本を読むことにしている。何もすることがない状況に置かれると読書が捗るのだ。というわけで、保坂和志の『プレーンソング』を読んだ。

保坂和志という作家を僕は全く知らなかった。ただ、最近読んでいる本にちらほらと名前が出てきたので興味をもって、この『プレーンソング』を買った。また、坂口恭平が読んでいると書いてあったので、『書きあぐねている人のための小説入門』も買って読んだ。こちらは、今僕が小説に興味をないからなのかあまりピンとこなかった。比べるものではないが、村上春樹の『職業としての小説家』の方が面白かった。それで『プレーンソング』も読んだのだが、あまり面白いとはおもえなかった。今の僕には刺さらなかった。何だか全体的にのっぺりとしていて、主人公や周りの人物、猫との日常生活が描かれていた。だからこれといって何も問題が起きない。ただ、保坂和志の小説の良さはそこにあるのだろう。

「ストーリー」のない何気ない日常を描くことを得意とし、静かな生活の中に自己や世界への問いかけを平明に記していく内省的な作風。主要な長編に『プレーンソング』『季節の記憶』『カンバセイション・ピース』『未明の闘争』がある。

保坂和志 wikipedia

とwikipediaにもこう書いてあった。僕は今うつ状態だからこの小説を楽しめなかったのかもしれない。また、保坂和志的な「何気ない日常」に今のところ興味がないだけなのかもしれなかった。ただ、刺さる人には刺さると思う。僕も鬱が治り、「何気ない日常」を取り戻せたら、もしかすると保坂和志の小説を楽しめるのかもしれない。とはいっても、まだ『プレーンソング』しか読んでいないので何とも言えない。

僕は読書家ではない。何でもかんでも本が読めるかというとそうではない。本当に興味をもったものしか読むことができない。そもそも読書が苦手なのだ。だからかなり偏食(読)家なのだ。今はうつ状態が相まって、小説を読みたいとは思わないのだ。それどころではないといった感覚がある。18歳頃から読書を始めて就職するまでが一番小説を楽しめたと思う。小説とは他人の物語を読むことだと思っている。他人の物語を読むことによってそこにロールモデルを探求することになる。僕はそういう小説の読み方をしてきた。18歳から就職するまでの期間に小説をよく読めたのは、やはりこの時期はこれから先どういう風に生きていけばいいか分からないから、小説を読めたのだろう。まだ何者でもないので、何にでもなれるという錯覚もしている。ただ、就職してからは小説が読めなくなった。なんとなく、今後自分がどういう風になるのか分かってくるのだ。それは職場の人や上司を見ればなんとなく分かった。また、就職することで自分の物語を歩み始めたのだと思う。自分で物語を作れる人は小説を読めないと思う。そういう人はそれでいいと思うが、だからといって小説をバカにするのは違うと思う。「文学なんて意味ない」という人がいるが、意味がない訳がない。意味がないことなんてないのだ。そういう人よりも、何か意味があるのではないかと思って探求している人の方が好きだ。

まあともかく、僕は小説を通じて、自分の人生や生活を客観視することができたし、また、ロールモデルを探すために小説を読んできた。ただ、今は鬱が辛くて中々小説が頭に入ってこない。まさに坂口恭平の『躁鬱大学』なんかは頭に入ってくる。こういう緩い自己啓発本みたいなものは鬱の時でも頭に入ってくるのだ。坂口恭平は『躁鬱大学』でこう書いている。

「鬱状態だから頭の回転が鈍くなるのではなく、ただ興味のないことを頭に入れようとは思わないだけだ。むしろ興味があることだけが、頭に入るようになっている」

坂口恭平『躁鬱大学』

そう。まさにこういう状態なのだ。僕はうつ状態にあるから、「どうしたら鬱が楽になるのか」ということだけに興味が割かれている。だから、保坂和志的な「何気ない日常」が頭に入ってこないのだと思う。ただ、僕はこの「何気ない日常」を求めている。それは鬱で失われてしまったものだからだ。僕は鬱を経験してこの「何気ない日常」がいかに素晴らしかったか痛感している。保坂和志も小説を書くにあたって、「もう暗い話はいいんだよ。事件も問題もいらない」ともしかすると思ったのかもしれない。

とにかく僕は、「何気ない日常」を取り戻したいと思っている。そのロールモデルを探すために、また保坂和志の小説を手に取るかもしれない。

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