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【雑記】社会人でも万年中二病

この頃PCのデータを整理してたら懐かしいもん見つけちゃった。

ずばり1度目の転職後に課題で書いた自分の死生観についての作文!

とりあえず改めて読み返してみたんだけど……あんまり今と変わってなくて呆れたような安心したような。

まぁ人間、日々少しずつ変化しながらも何となくのこだわりみたいなモンはそんなに変わんないのかなと(入った職場はドブラックで超絶影響受けたけどね)。

思ったより感慨浅かったケド、ここで目に付いたのも何かの縁。

せっかくなんで、自作のポエムをみだりに晒すような挑戦マインドで当時の気持ちをネット上に書き残しておこうと思う(未成年の主張的な)。

駄文が嫌いな方は回れ右、戯言を聞きたい方はウェルカム。

では行ってみましょう!


『私の死生観』

 私にとって、死は長らく強い恐怖の対象であったように思う。小学3年生から4年生の間に親族が続けて3人亡くなり、初めて人の死というものを考えるようになった。それまでニュースで何となく見聞きしていた他人の死と、親しい間柄の人間の死では抱く印象や感想が全く違い、死の恐怖をある種のトラウマのように抱えてしまったことを覚えている。それは、亡くなった親族の1人が、自分の慕う年近い従兄弟のお兄さんであったことも無関係ではないと思う。自分の大切な人に2度と会えなくなる恐怖、それがいつ訪れるともわからないという不安は漠然と自分の中に残り、思春期も相まって精神的に不安定になる時期が中学以降もしばらく続いた。そんな時は、睡眠すら恐怖の対象で、自己(意識)の連続性が絶たれるという側面においては死と相違ないなどと考えていたし、高齢者を見ただけでも死の恐怖が想起された。電車や車に乗る時はいつも死の想定と覚悟をし、誰かと言い争った時には喧嘩別れにならないようにその日の内に仲直りすることを心掛けた。傍から見て馬鹿げたとしか言いようのない思考も当時の自分にとってはそれなりに深刻で、「死ぬ時はなるべく後悔がないように」が座右の銘と言っても良いほどに詮無き死の準備に勤しんでいたと思う。しかし、死の恐怖については1度も他人に相談しようとは思わなかった。死については1人で悩んで解決すべきなのだと意味もなくこだわりを持っていたからだ。元々孤独癖のあった自分にとって、人間は支え合いながらも最終的には1人で立たなければならないという思考に違和感はなかった。結局、そんな症状が高校3年ぐらいまで続いた。

 それまで散々私を振り回してきた死の恐怖が突如として薄れたのは、受験を通しての精神的な変化が原因ではないかと思う。高校時代の自分はお世辞にも成績が良いとは言えず、志望校や自分の方向性に関しても明確に定めることが出来ていなかった。母に医療の道を勧められてからそれなりに努力したが、付け焼刃に過ぎず大学に落ちて浪人することとなった。貧すれば鈍するとは良く言ったもので、そんな状況の中で死がどうとか考えるエネルギーは次第に無くなっていった。ある意味、自分に大した価値を見出せなくなったことで、死に対して素直に諦念し鈍感になっていったのだと思う。それが良いことか悪いことかは別として、死に対してあれこれ考えることをやめてから精神的にはそれなりに安定した実感があった。死を単純に全ての人に訪れる機会において平等なものと捉えることで、人生を得られたこと自体に幸運を感じられるようになった。しかし死の恐怖と共に自分の生に対する執着も薄れたように感じた。

 そんな自分の死生観は、就職して仕事の勉強を始めるに従ってまた変化することとなった。長らく勉強嫌いであった私は必要に迫られた最低限のことしか学ぼうとしなかった。仕事への自信もこだわりもなく、誇れるものがなかった私は、それがどこかで負い目になっていることを自覚していた。国家試験を経て得た資格は、その実素人に毛が生えたような知識で業務がまかり通り、学習意欲には繋がらなかった。そんな自分が勉強を始めるきっかけとなったのは、自分と同年齢の患者のリハビリを担当したことだった。訓練の中で患者の頑張りと自分の取り組みに大きな隔たりを感じたことが無性に恥ずかしくなり、臨床に出て初めて主体的に学ばなければと思った。それから知識や治療技術を高めていくにつれ、勉強によって自分自身への誇りを育んでいくことが喜びや充実感に繋がることを学んだ。また同時に久しく忘れていた死への恐怖が再燃していることに気がついた。その理由を考えるに、恐らく自分の人生に対してこだわりができたことでそれが途中で終わってしまうことへの未練が生まれたのではないかと思う。しかし、再び自覚した死への恐怖は以前とは少しニュアンスが違うように感じた。具体的には、以前はただ漠然と死ぬこと自体が怖く、受け入れ難いという受動的な姿勢だったのに対して、現在は自分の理想や目標が基準にあって、自己実現の半ばで道を絶たれるという理不尽を出来る限り回避したいという能動的な姿勢に変わったことだ。また単に死に対して恐怖のみを感じるのではなく、必ず終わりが来るからこそ今の瞬間を大事にしなければならないという肯定的な気持ちが湧いてくるようになったのも大きな変化だ。以前とは違い、死を意識するからこそ逆に生への強いモチベーションが生まれるのだということを実感できた。

 以上の変遷を通して、現在の私にとっての死生観は「人生の質を高めるために必要な感情の原動力」という認識になっている。それは即ち、死を前提とした生を如何に肯定できるか、その過程でどのようなこだわりを持って努力するのかという命題とも言える。私は自らの経験から、生と死に対する適切な距離感――過剰な死への恐怖や生への希薄な認識の中間にある偏りのない意識の置き方こそが、そういった命題に答えていくために重要であると強く考えている。


みたいな?

う~ん、我ながら中々の中二っぷり!

『生と死の狭間で中庸な間合いを見極めることが肝要』とか言ってみたかっただけ感が半端ないけどホンネだから仕方ない♪

こういう子供心をこれからも忘れないでいきたいね。

ではの。



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