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「麦」Web版 Vol.4

こんにちは。同人詩誌 「麦」です。今回特別企画として文章修行を兼ね、連続webマガジンを配信して参りました。修行中とはいえとても貴重な時間でした!ラスト読んでいただけましたらありがたく思います。

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「 演じきれ、自分。」

今日も自分を演じた。
それは悪いことではなく、その事を私は日々楽しんでいる。
薄い皮を衣装のように思い、その下で静かに見ている。
怒られても、褒められても、そうしてきたつもりだ。その場所で私は私を演じている。そしてそれを重ねていく。

場の空気はいつも自分を演じる衣装であると思っている。それは素敵すぎてしまうか、かっこつけている言葉で、言っておきながらまだ扱いきれない。場をまとっている自分は訓練のない役者のように感じて、不安定で頼りないもの。私自身だ。
曖昧で、自分でない誰かのようで、なんとなく自分でいる。そんな遠くから見ている感じを、ふんわり感じるこの感覚を私は自分を演じていると思っている。

空気が一番肌の近くにある。衣服より先に、肌より詳細に肉体の表面を包む最初の外界に触れるものかもしれない。そしてそれを着たなら、その人の一日を生きれるのではないかと思っている。

過去の一瞬が長い時間を持っているように、その人その人の持っている空気は、色や重たさ、懐かしい匂い、くらむ光の残像を持っている気がする。それは時間とともにその人の体を包んで馴染み、その中にその人が生きてる感じがしてならない。自分自身に限らず人は皆そうやって、あらゆる過去と今との空気の層の衣装を着て、自分を演じ続け存在しているのかもしれない。

この1ヶ月ほど記事を書く機会を設けさせてもらい、なんとなくの想いを書くことをしてきた。私は自分の空気を経て演じることが出来ただろうか。ふんわりと天気の匂いのするような、そんなものを纏ってみたい憧れがある。そして書いて言葉にしている間にも声に出さない言葉は自分の呼吸であり。一番近い空気だと気づく。それが最も肉体に近いものかもしれない。

それらの自分から出てきた言葉。身体の一部。それを連ねることで衣装を纏って演じているように思えてならない。または踊ったこともないのに身体の隅々から湧き出てくる汗のような言葉に導かれてとんでもなく踊っているようにも思えるときがある。きっと裸体でも演じることはできるだろう。それが真っ裸の自分のコアだとしたら、熱そのものが起こす風かもしれない。しかしその周りにはやはり世界の空気が存在している。それと混ざりあう。

時にはとても強い者になりたくて、強い言葉をひゅうっと吹いて蹴り出してみる。けれど、しかし呼吸というものは突き詰めていくと思い通りにはならない。生きていることを無理をしたところで、壊れ折れてしまう。衣装になる空気にはほころびができてしまう。しかしそれも格好がいいと思うのだ。

私はこの1ヶ月ほどで、どれほど演じることが出来ただろう。ことばという空気を着て、自分から吐き出される呼吸を纏って演じることが出来ただろうか。それは楽しくて仕方なく、自分には生きていくうちで発見した一番興味のある表現だと思っている。偉そうな事を言っているけれど、いつかすべてを脱いでしまって、骨になって感じる刺激を表現する言葉に出会ってみたい。見たことのない世界に立っているように、その時の空気を直に自分の裸に感じたい。そこで感じた者を私は言葉にできない言葉として見せたいのだ。その足元をとらわれるような場で演じるように危うくてどこかに隠れているものを。

知識が足りないながらずっと、自分を生かしてくれた、立たせてくれた言葉と、それを連ねられたことに本当にありがたいと思う。言葉にならずにも誰かに届くこと。その繰り出す空気を紡ぎ続けて、どうしようもなく、見えないものを見て、生きている時に伝えたい。

1ヶ月あまりの、ほんの些細な、自分から発する呼吸を纏わせてくれてありがとうございました。私は期間中に演じきることが出来ただろうか。いや、これから、残った時間を自分として、または違う表情で、つめたく、あたたかく、ほころびた懐かしい風のように知らない誰かの呼吸に混ざって演じ続けたいと思っている。

立っている。座っている。体温が少し残る。やりかけた何かがある。書きかけたものも、ただそれだけで言葉かもしれない。空気が何かを言っている。そんな風に生きて、いつかはすべて脱ぎ落とし、踊り、演じて生ききってみたい。そう思う今日の少し肌寒い、ひりひりする風を遠慮しがちに羽織ってみては、今日も明日の自分を練習している。

演じきれ、自分。今日も、明日も、過去さえも。それは私の肌。最高の躍動と何も見えない衣装を求めて。演じきれ自分。何があっても、自分の言葉を呼吸に入り、知らない誰かの目の前をふっと過ぎ行く過去になれ。そうやって、日々の練習をつなぎ薄い皮のような自分を着て、やわく弱くて頼りなく、それが一番強いものとしてあるように。演じて楽しめ。そう言い聞かせるように、今日も明日も、日常に立つこと覚悟している。

1ヶ月あまりの自分の本当の肉体を支えてくれたこの場に改めて感謝し、この記事を音を立てずに、ふっと少し閉じてみたいと思う。自分に言い聞かせるように、または形になりすぎないように。少しだけ扉を開けたままで。そこから踏み出せるように。


                          北原裕理


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「 読書の系図 」

一応今回で最終回です。今まで読んでいただいた方、ありがとうございました。文章は多少成長したのでしょうか。また機会を無理やり設けてみようかな、とも思っています。今回は読書に関してグダグダと。

活字が苦手な子供でした。
野球とバラエティ番組が好きで文学なんぞいざ知らず図書館より放課後の教室が好きでほうきをギター代わりにして騒ぐアホな子供でした。読書感想文は本のあらすじをなぞり、おもしろかったの一言で締めるというセコいことをしていました。
なぜそんな子供がなぜ本と親しむようになったのかと問われるとエレファントカシマシの宮本浩次に憧れたからと答えるほかありません。
思春期ともなると自分がいかにフラフラ生きてきたか、ということに気づき何か自分だけの力を求めるものです。振り返るとぼくには何の力もないということに愕然としていました。ノイズミュージックや渋谷系を兄の趣味を受け継ぐまま聞いている少年は何か力強いものを求めていた。そういう状況に出会ったのがCMで流れていたエレファントカシマシの「悲しみの果て」です。ああまさにビビビと電光石火、打たれたぼくはその日から宮本信者となりました。CDを買いあさるのはもちろんのこと、自伝本も注文して(田舎だから店頭にはなかった)一言一句に震えていました。自伝本で宮本さんは太宰治のことに触れていて感化されやすい少年は太宰治を片っ端から読むようになりました。太宰の自意識過剰な少年期のエピソードを自分に重ねては悦に入ることで劣等感やモヤモヤする日常から逃避していました。お前たちとは中身がちがうんだと、同級生と親しむこともなく近代日本文学の名作を読破する日々。ふと気づくと友達は去り、部活も恋も青春も触れることはなく過ぎ去っていきました。
その後ヤワな音楽も聞くようになり宮本病は薄らいでいきました。本の趣味も変わり多様なものを読むようになりましたが読書の習慣を根付かせてくれた宮本さんには感謝しかありません。音楽番組などでいつものペースで話しているのをみると、相変わらずだなあと微笑んでしまいます。

本の話題となると実家の父親の本棚を思い出します。夏でも涼しい納戸部屋の窓際には様々な本が並んでいました。近代文学からSF、図鑑から科学書。太宰治ももちろんありました。本棚から筒井康隆を拝借してぼくの本の趣味は一気に広がっていきました。そう、父親は歌人にあこがれていたそう。短歌の作り方の本も並んでいたなあ。父親の知識にぼくは追いつけなかったけど誇れるのは同人誌を出したことかな。他人に自分の未熟な作品を堂々と公開する横柄さは父親にはなかったかもしれない。
なんだかんだで父親に憧れているだけかもしれません。宮本さんから太宰、現代詩といびつな系譜をたどってきましたが実のところ背景に見える父親を追い続けただけのような気がしてきます。
病気の関係で本棚は取っ払われ父親はテレビとウォーキングに明け暮れています。さあ、年末も帰って母親のいいなりになっている父親と麻雀ゲームをしてテレビに文句を言いまくるか。こんなことがいつまでできるのか、と思うと切なくもなるけど。あ、そうそう同人誌のことはそれとなく言っているけど堂々とは言えずじまい。こういうところも父親ゆずり、なのか。


                            坂元  斉


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さて今回で 「麦」web版 連続同人誌 エッセイ集 一幕をそっと閉じますがこれからもぜひお知らせ、または連載の時にはよろしくどうぞ。読んでいただいた皆様に心より感謝申し上げます。ありがとうございます。心から。

□お知らせ□ 11月22日(日)文学フリマ東京に 1ブース出展します!詳細は文フリウェブぺージをご参照ください。出展名は 「麦」です。文学フリマご参照ページ→https://bunfree.net/event/tokyo31/


2020年秋 企画、編集 同人詩誌「麦」mugi   

坂元  斉 / 北原裕理
https://note.com/bakusyuitaru


□各メンバー2人の個人ページへもGOGO!!







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